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伸六行状記(抄)

   

 

 山下さんはことし五十六歳である。体重は十九貫。背のたかさは五尺六寸余。もちろん体格は堂堂としてゐる。

 前総理大臣の某氏に、容貌が似てゐると、知人のあひだでいはれてゐるが、なるほど、くちびるの少し厚ぼつたい、大きめの口を、遠慮なしにあけて笑ふときの、ゑくぼでも出来さうな好好爺然(かうかうやぜん)たる淡白な無邪気さは、新聞の写真でよくみる前総理大臣のそれに、似てゐるといへばいへぬこともない。その笑ふときに、眼鏡の奥の眼が、いとのやうにほそく、とろりとなるやうなところも、そつくりだといへるかも知れぬ。きれいに刈りこんだ髭だけは、山下さんのはうが、白毛が目にたつて多いやうではあるが。

 日比谷公園の西側の、並木道をへだてたところに、鳶色(とびいろ)のペンキもきたならしく、ところまだらにはげた旧式のビルがある。その三階の、西陽のあたるかどの一室を事務所にして、十数年このかた、山下さんは精密機械類のブローカーを商売にしてゐるのだ。

 この山下さんに、さすがの三田伸六が兜をぬいだといふのは、山下さんの酒をのんだうへでの、底ぬけともいふべき放浪性の発揮ぶりである。酔つてしまへば前後不覚に、往来の軒下であらうと、どこの邸宅の芝生であらうと、ところきらはず寝こんでしまふ伸六とは、これはまた全然対蹠的な行きかたで、一例をあげるなら、夜なかに京橋の橋ぎはから歩きだし、夜のしらしらあけには、千住のさきの千葉街道をあるいてゐたこともあるといふのだから、伸六が兜をぬぐのも無理ではない。伸六のはその場にねむつてしまふのだし、山下さんのはうは一ト晩中やすまずのあるきづめだ。労力をつひやす点では、大変なちがひである。もつとも山下さんにしてみれば、そんな労力をつひやすことなど、ちつとも苦にはしてゐないのであらう。

 山下さんの事務所の窓から、すぐ裏にみえるのが、二流どころといつて然るべき××ホテルで、そのホテルの常連に、毎月神戸から上京して、月の半分ほど東京で商売をする高木浩吉といふのがゐる。この高木浩吉と山下さんとは、昔からの知合で、高木が上京中は、山下さんの事務所を自分の事務所同様につかふことにしてゐるのだが、山下さんは、ふだんに酒をのむといふのではなく、高木が東京に来てゐるあひだ、高木のからだの都合のよいときだけ、二人でのむといふのが年来の習慣になつてゐた。のみに行くにしても、京橋の橋ぎはの、道路の関係で三角形の家構へを余儀なくされた、ちつぽけなのみやと、この節ではきまつてゐる。不思議といへば不思議だが、その腰掛のみやでだんだんと飲みすすんでゐるうち、やがてかんばんちかくなつて、そろそろおみこしをあげようかと、高木が酔眼でそこらを見まはすころには、いまのさきまで隣席にゐたはずの山下さんの腰掛は、いつだつてからつぽになつてゐるといふ。おさきにといつて、なんだか声をかけて出て行つたやうな気のすることもあるし、さうでなく、小用にでもたつたのかと思つてゐると、それなりにもう席にはもどつて来ないといふやうな場合もある。なにしろ高木自身も、たいがいは酔つてゐるので、その辺の消息はいつも判然しないのだが、とにかく、なにかしら刻限とでもいふやうなものがあつて、そいつがやつて来ると、山下さんはついふらふらと立ちあがつて、放浪癖の第一歩をふみだすことになるらしいのだ。

 吉祥寺の駅前の通りをずつと行つて、左にまがつたあたりが、山下さんの住居にあたつてゐる。それなのに、或る朝の、まだ夜もあけきらぬ五時ごろ、ホテルの部屋に熟睡中の高木浩吉は、山下さんの電話によびおこされて、この時刻に何事かと、ききみみをたててみれば、ゆうべ京橋ぎはから歩きだして、どう方角をあやまつたものか、行けども行けども、それとおぼしきところへはたどりつかぬといふのである。街の灯もだんだんまばらなところへ出て、なんでも、ながいながいコンクリートの橋をわたつたやうな気がしたが、かまはず、ずんずんさきへと歩きつづけてゐるうちに、夜目にもうつすらと見えてきたのは、左も右も野原か畑かと思はれる、そのなかを、舗装道路がたんたんとどこまでも、暗闇の奧へのびて行つてゐるらしいといふだけで、方角など皆目わかつたものではない。をりよく、あかりをつけて来る自転車のひとを呼びとめてきくと、おどろいたことには、千葉へ行く街道だといふ。ひつかへして来ると、ながい橋と思つたのも道理、荒川の千住新橋をわたつてゐたのである。

 ——吉祥寺へ帰るといふに、そんなながいながい橋をわたりますかい。あほらしい。

 ——わしもね、不思議でたまらなかつたんだけど、まつすぐ行つたら、どうにかなりやせんかと思うてね。

 ——それでいまどこですか。

 ——そいつがまたわからんので。

 ——わからんいうて、いつたいどこで電話かけてますか。自分で電話をかけてゐながら、その場所がわからんといふ法がありますか。

 ——あんた。それア無理ですせ。道ばたの公衆電話やつたらどうします。知らん国の。

 ——あほなこといひなさんな。東京が知らん国ですかい。町名札ぐらゐ、うすぐらいなかでも読めるやろに。

 ——なんでもさつき、蚕絲学校とかいふ学校の看板を、とほりすがりに見たやうに覚えとるんだけど、……

 ——へえ。蚕絲学校ね。そらたいへんな方角ちがひや。蚕絲学校なら、あんた、西ヶ原とちがひますか。駒込のさきの。なんでまた千住へんから西ヶ原へなんぞ。狐にでもつままれてをりやせんのですか。あきれかへつてものもいへん。眉へよう唾なとつけて、今度こそしかと方角をさだめてから、まつすぐこつちへ帰つていらつしやい。待つてますわ。

 …………

この話をどうして三田伸六が知るやうなことになつたかといふに、それはつぎのやうな次第である。

 伸六のつとめてゐる九段の出版社の社長といふのが、多少の蒐集癖をもつてゐる人物なので、それがさる集会の席でちらと聞きこんで来たところによると、乃木大将が自作の漢詩を書いた半折(はんせつ)と、誰とかにあてた真筆の書簡が一通、これこれのホテルに止宿してゐる神戸の貿易商の、高木なにがしといふひとが持つてゐて、よりより買手をさがしてゐるとのことである。そこで伸六は、つまり社長の使として××ホテルに出向くことになつたのだが、品物は事務所にあるといふので、つれられて行つたさきの、山下さんの事務所で、伸六ははじめて山下正太郎氏の風貌に接したわけである。といつて、伸六はなにも、山下さんの風貌について、とかくの批判をくださうなどと、そんな余裕を心にもつてゐたといふのではない。事務所といつても、応接間もなにもない一ト部屋きりで、その中央へんに、(たばこ)の焼跡や汚染(しみ)だらけの、おまけに継目のところで両方の木のへりがたがひにそりあがつた粗末な円テーブルが据ゑてあつて、それに、籐張りの曲木(まげき)の椅子がまた、伸六が背をもたせかけると、ぐんにやりうしろに潰れさうな危険な代物(しろもの)と来てゐる。にもかかはらず、さういふ家具調度の貧弱さに軽侮の念をおこす余裕もないほど、伸六は緊張しきつてゐた。

 入口の戸を背にしてゐる伸六からすれば、正面にあたる窓と窓とのあひだにすゑつけた金庫のなかから、いましも山下さんは、ほそながい木箱をとりだして、さきほどホテルからここまで自分と同道してきた高木浩吉といふ人物に、手渡してゐるところである。はたしてどういふものが、あの箱のなかから出て来るのか。社長の命をうけて来るには来たものの、書の鑑定などは、伸六には全然できるわけのものではない。ひきうけたのは、まつたく迂闊(うくわつ)な話だが、こいつは困つたぞ、社長にうまく復命が出来るか出来ないか、それはまああとのこととして、いまこの場で、その半折(はんせつ)とか書簡とかを、眼の前にひろげられたら、いつたいどんなふうに、鑑定家づらをしてみせたらよいものだらう、へたをすると、売手のがはにあまく見られて、贋物をつかまされる結果になるかも知れないぞと、伸六は腋の下からつめたい汗をながしてばかりゐたのである。

 ところでいよいよ、箱からとりだしたくるくるまきの半折を、横手の壁に、うへのはうから高木が画鋲でとめるといふ段になると、

「あんた、失礼ですが、……」

 例の白毛まじりの口髭をのせた厚ぼつたい唇を、すこしのわるぎもなささうにあけひろげて、山下さんは伸六に笑ひかけたものである。

「……腹をすゑて、ようツく御覧にならんといけませんですよ。近頃はとんと、贋物が跋扈しとりますさうでしてね。なにを掴まされるか、わかりやしませんや。」    

「これこれ。なにをいふですか。」

 半折の上の片隅を画鋲でとめた高木は、肩ごしに首をふりむけて、うしろに立つ山下さんと、その山下さんの横手へ、椅子から立つて来かかつてゐる伸六とに、きよろツきよろツ、とした眼を二度つかつてみせて、また向ふへ向きなほると、別の片隅を画鋲でとめようとしてゐる、その後姿に伸六は鋭い視線をそそぎながら、きりきりと、錐で頭の髄をさしとほされるやうな気持で、いまの山下さんのいつた言葉を吟味してみたのである。これは本物ですと最初から、おしかぶせるやうにいふのとは反対に、ちかごろは贋物ばやりだから、うつかりだまされないやうにと、逆手で行つたはうが、かへつて鑑定するがはの心證をよくするといふ効果がありさうではないか、さうだとすれば、あらかじめこの二人は、そこのところを呼吸たくみにしめしあはせておいて、たがひに牽制しあひながら、結局はおれを陥穽におとしいれようとしてゐるのかも知れないぞ、こいつはますます、油断のならぬことになつたわいと、外側はなにくそと気おつたやうに見せかけつつも、伸六は内心いささか参つてゐたのである。

 それはしかし、いらざる猜疑心でしかなかつたことを、まもなく伸六は知らされて、ほつとしたり、また忸怩(ぢくぢ)たるものも感じたりした。

 高木浩吉といふのは、支那事変前には、年にすくなくも一度は、商用で巴里に行つてゐたのである。映画の撮影機のやうなものを製作する巴里の会社の代理店など、神戸でやつてゐる関係からでもあるが、ずつと以前、まだ父親存命の頃に、四年か五年、むかふにをつたこともあるので、その交際の範囲もかなりにひろかつたし、青年時代から、多少は文学美術に嗜好をもつてゐただけに、ながい航路もいとはず、商用にかこつけては、年に一度でも二度でも、好んででかけて行くといつた工合で、人をおとしいれようのどうのといふ、そんな悪辣ながさがさした商人根性はまづないはうである。あまり濃くもないうつすらとした口髭を、しりつぽのところで短くちよんぎつて、形だけはどこかの独裁者のそれに似てゐるやうなところもあるが、人を見る眼はなつツこく、きよろつとして、いかにもお坊つちやん育ちのやうな、鷹揚で、親しみやすい人柄を思はせる。さういふ人間が、なんにせよ贋物と知りつつ、だまして人に売りつけるといふやうなことは、よつぽどの場合でなければ出来るはずのものではない。

 さかんな時代、ひとのよさにつけこまれて、ろくでもない書画骨董をつかまされたのを、いつとなく逼塞(ひつそく)して、けふこのごろはぼつぼつと、さういふ書画骨董類のうりぐひをするやうになつてゐる親戚のものに、じつは高木はたのまれて、荷厄介にしてゐる品物だつたのである。高木自身も鑑定眼をもつてゐるわけではなかつた。それにしても、薄茶色の巻紙にかかれた書簡のはうは、真筆かとも思はれたが、半折のはうになると、素人目にさへどうやら怪しいぞといふ疑惑をおこさせる。書簡の日附は日露戦争の翌年の日附になつてゐて、その内容は、第七師団の師団司令部付の某中尉にあてた、べつだん軍機などに関係のない、私事にわたる簡単な文面ではあるが、その書簡の希典(まれすけ)といふ署名と、半折のそれとをくらべてみるのに、筆力といひ墨色といひ、そこにあきらかな相違がみとめられるのだ。山下さんも、半折のはうは、これは贋物だらうといふ。二三のひとに見せてみても、書簡のはうなら、いただいてもよろしい。半折のはうはまあ、……といつた工合に、誰もみな申しあはせたやうな煮えきらなさである。ところが、この二タ品は最初いつしよに(もと)めたもので、手放すときもいつしよでなければ、といふのが持主側の意向なのだが、そもそもその点に、あやしいからくりのあることを、高木自身もにらんでゐる。ひとに見せるのにも、実際は気がひけてならないのだが、これはまつかな贋物だと、誰か明確な鑑定をくだしてくれればよいと、それを高木はまちのぞんでゐるやうなものである。贋物ときまれば、あづかつた親戚のものに、はつきりとした挨拶もできるといふものだ。

 東西南北山又河。春夏秋冬月又花。この対句をなす起と承とは、だれしも覚えやすいとみえ、伸六も一見しただけで、すぐすらすらと頭のなかに刻みつけられたのだが、つづく転と結とは、おもひださうとしても、文字どほりには、なかなか頭にうかんでは来なかつた。

 京橋の橋ぎはの、例の三角なりをしたのみやで、山下さん、高木、伸六と、つくりつけの丸木の台に腰をおろして、早速いつぱいやつてゐるところである。自分たちの商売とは方面のちがふ出版事業に、高木はそれほど興味をよせてゐるわけではないが、文学とか美術とかに、まんざら嗜好をもたぬでもない高木としては、伸六がその商売柄で、文壇や文士の消息にも自然つうじてゐるでもあらうし、一夕さういふ話題にしたしみながら、盃をくみかはすのも、なにかしらそこに新鮮な魅力がありさうな気がして、初対面の伸六を、ここまでさそひこんで来たものである。半折のことも書簡のことも、高木の頭からは、すでに全然きえてしまつてゐる。詩の文句を伸六にきかれても、どう度忘れをしたものか、てんでうかんでは来ないのだ。   

 それでも三番目の転のところは、向隣りの山下さんの智慧をかりて、征戦歳余人馬老イタリとまではいへたものの、最後の結句になると、山下さんでももうまにあはない。

「いちばんおしまひだけは覚えとるぞ。不思家。」

「それそれ。山下さんの心境とおなじこつちや。酔後蹣跚家を思はず。こいつはうまい即興や。」

 高木は上機嫌にわらひはやしてから、

「ねえ、三田さん、きいてくださいよ。」

 かういふと、伸六のはうへ顎をのばして、いくぶんとろりとしかかつた眼を、さも真剣らしくぐいと見ひらきながら、

「山下さんといふひとはですね、お酒に酔ふてふらふらツと歩きだしたが最後、方角もなにも考へんで、ただもうどこまでもどこまでも、あるきづめに歩いてばかり行くといふ、さういふ途方もないことをやらかすですよ。せんだつても、あんた、この京橋ぎはから歩きだして、おどろくではないですか。行きも行つたり、千住のさきの千葉街道を、……」

 そこで伸六は、山下さんの底ぬけな、放浪癖の発揮ぶりを、はじめてきかされたわけである。よつぱらふと往来の軒下でも、よその邸宅の芝生のなかでも、ところきらはず寝こんでしまふ自分の悪癖とおもひあはせて、なるほどさういふ行きかたもあるのだなと、自分とは対蹠的ながら、おなじ酒のみとしての共通の心理から、山下さんの放浪癖が、伸六には実感さながらわがことのやうに感ぜられるのだ。

「もうひとつ。これはまた、すばらしい傑作の部類に属すると思ふんですがね。」

 ますます口のすべるやうになつてゐる高木は、あひまあひまに、やたらと手のひらで唇をこすりつけては、しやべりつづけるのである。

「いいですか、あんた。去年のね、そろそろもう秋にはひりかけるといふ季節で、夜あるきをするには、あつからず寒からず、もつてこいといふ、つまり山下さんにとつては、じつに恵まれた、といつたやうな季節の、或る夜のことですよ。先生その夜は、わりかた早いひきあげでしてね、まづまづ日頃の放浪癖もでる余地がなかつたものと見えて、ともかく無事に、吉祥寺の駅におりたと想像していただきませうか。ところが、時刻のはやかつたのが、わざはひのもとだつたんですよ。吉祥寺の駅前をまつすぐ行つたところに、白蛾といふのがありましてね、ついふらふらツと、山下さんそこへはひつたもんです。飲むほどに、酔ふほどに、さあいよいよ、日頃の病がでてきました。かんばんもとうにすぎてしまつて、帰り支度をした女給さんは、チップの催促をするといつた工合で、先生もおみこしをあげる。おもてにでると、方角も何も見さだめんうちに、足はひとりでにもう歩きだしてゐる。それが、あんた、駅のはうに向つてゐるんですよ。すると、うしろから足ばやにやつて来たのが、さいぜんの女給さんです。——どうだ、いつしよに行かんか。——ええ、行くわ。あつさりしたもんです。女給さんにしてみれば、こいつはいい鴨だと思つたんでせう。ところでこちらは山下先生、どこまでもとぼーりとぼりと歩いて行く。井ノ頭の公園のなかですよ。まつくらがりの林をぬけ、池をまはり、丘をのぼつては、またひろオい林の暗闇を、とぼーりとぼりと歩いて行く。片ツぱうの腕には、あんた、女給さんをぶらさげてですよ。おしまひの幕にたうとう、女給さん鼻声をだして、うごかんことになつたといひますわ。しかもですよ、その鼻声でいうたことが、とてもふるつてるぢやないですか。——ねえ、小父さん。いつまで歩いてんのよ。どつかに早う連れてつて。……」

 鼻へかけた女のつくり声を無理にしたせゐで、高木はそこで自分でも笑ひだしたとたんに、むせかへつて、咳きこみながら涙をぽろぽろながす始末である。

「山下さんのおかげで、こんなせつない思ひせんならん。あほらしい話や。」

 手の甲で涙をこすつたとおもふと、高木はまたも伸六に顎をさしのべてきた。

「そのまた幕切れいふのが、かはつてますわ。その女給さんをですよ。自分のうちの案内役にたのんだもんです。方角がわからんもんですから。おさつを一枚にぎらせてね。それからといふもん駅前あたりでひよつこり会つたりしようもんなら、とつても丁寧にお辞儀をしましてね。——先生、こんにちは。これからおでかけでございますか。お大事に行つてらつしやいませ。……どうです、あんた。世の常の男とはちがふ、これは大人格者だと、すつかりもうあがめ奉られてしまつて、先生たいへんな御自慢なんですがね、それは表面の痩せ我慢で、内心おほいに不服なんぢやないかと思ふんです。ちがひますか、山下さん。」

 急角度に向ふ側にむきなほつて、詰めよるやうな様子をみせると、山下さんはただにやにや笑ひながら、高木に盃をさしつけた。

「飲めいふなら、なんぼうでも飲みますがね。どだいあんたは、聖人ですか、君子ですか。聖人でも、君子でも、よしんばまた大人格者でも、それはもうなんでも結構や。おすきなやうに。ただねえあんた、夜の夜なかを、めくら滅法界にあるきまはるのだけは、こいつは絶対におやめなさいよ。千葉街道なら無事でもすむやろが、あすこらへんの鉄道線路でもぶらついてみなさい。暗闇でどかあん。それなりお陀仏や。方角がわからんなら、どこへなりととまりこむですよ。女房子供があるではなしさ、誰も咎めるもんはないやないですか。」

「ですから、あんた、ゆんべはあんなとこへ、……」

「それそれ。」

 大仰にうなづいて、手をひとつ打つと、高木はまたその話を、伸六のはうへもつてきた。

「ゆんべはです、用件の都合もあつて、烏森のおでんやで帰りにいつぱいやつて、先生とわかれましてね。新橋の駅までおくつて行くいふのに、——なあによろしい、大丈夫。えばりくさつて、ひとりでてくてく行きますやろ。僕はホテルヘ帰つて寝ましたよ。するといふと、かれこれ一時間もたちましたか。——高木さんいうて、ドアをたたくもんがある。寝いりばなですよ。——どうしました、いふと、どこまで行つても、新橋の駅へは行きつかん。どうですか。目と鼻の新橋の駅へですよ。それどころか、あんた、どう歩いたもんやら、なんでも日比谷へんらしいお濠端へ出たもんで、やつとのことで交番にきいて、ホテルまでたどりついたなんて。まつたく、五里霧中ならまだ話がわかる、ね、さうでせう。一里にもたらん半里霧中も同然やないですか。ゆんべはわしも、ひとりだつたからいいやうなもんの、これがあんた、……」

 咽喉のおくをひしめかすやうな奇声で、ひとり笑ひをしながら、高木はそこで銚子をとりあげたが、すると今度は、右隣りと左隣りへ、まがな隙がな、たがひちがひに、お酌のしづめである。

 おしやべりにはくたびれたものか、高木はしばらくさうして、山下さん、伸六と、かはるがはる酒をすすめたり、煙草をふかしたりしてゐたが、何かまた思ひだしたらしく、いつも話をきりだすときの、きよろつとした眼つきを、まつすぐに伸六のはうへ向けながら、前かがみに身をよせてきた。

「もとはね、あんた、山下さんといふひとは、かういふひとではなかつたのですがね、……」

 べつだんに山下さんのはうへ、きかせまいとする懸念からでもなささうだが、高木はもつともらしい真顔で、いくぶん声をおとしめにいふのである。

 そこで伸六が、山下さんについてきかされたのは、つぎのやうなことである。山下さんの一人息子は、をととしから戦事に行つてゐるといふこと。最初は中支だつたが、いまは南支の方面にゐるといふこと。親父さんにもまけない立派な体格で、砲兵軍曹だといふこと。山下さんの奥さんはもう五年も前になくなつて、家庭はおばあさんと、女中ひとり、といふやうなこと。

 方角も何も見きはめがつかぬほどに、夜の夜なかをどこまででもさまよひ歩くといふ、そんなまうろくな真似は、昔はいかに酒のうへでも、けつして山下さんはしなかつたと、高木は説明してきかせるのである。

「この二三年といふもん、めつきり年をとりましたよ。白髪はふえる。頭の毛もあのとほり。それに髭はどうですかい。この節ではあんた、眼がかすむいうて、新聞もろくすつぽ読むか読まんか。……」

 すると山下さんは、いままで台に頬杖ついてゐたのを、にはかに元気な声で、

「これこれ。なにをつまらんこといひよりますか。わしはまだまだ、まうろくなんぞしやせんです。戦争が五年十年つづいても、へいちやらや。さあ。お酒ならなんぼうでもお相手できますぜ。三田さん、おひとつ。」

 銚子を耳元でふつてから、にゆうつと高木の前をとほりこして、伸六のはうへさしのべた。

 これが山下さんの虚勢といふものであらうか。いまの話を、頬杖つきながら、だまつてきいてゐたものに違ひない。とぼとぼと、夜の夜なかを、どこまでもさまよひつづけて行く山下さんの、荒涼とでもいふのであらうか、さういつた気持は、ますます伸六にわかつてきた。戦争から生きのびてきた自分のことなどは、このひとにはいふんぢやないぞと、そんなふうに伸六は自分をいましめながら、いまついでもらつた冷い酒を、にがからく舌にあぢはつてゐた。

 

   

 

 おなじ中央沿線に住む山下さんと、伸六はその夜、いつしよの省線電車で帰ることになつたが、途中の駅でわかれてしまへば、もうこの二人は、二度とあふやうな機会もありさうにない、ほんの行きずりの間柄でしかなかつたわけである。

「では、また。」

「いづれそのうち。」

 別れの挨拶は、そんなふうにとりかはされても、またの再会に、どれほどの期侍をかけてゐるのでもない。

 それが不思議な羽目から、しかも伸六の積極的な意志にもとづいて、かれは山下さんを訪問して行くことになつたのである。

 日日に伸六は出版社に出勤して、日日にさして変化のない生活をくりかへしてゐる。いや。変化が全然ないといふわけではない。その変化が、きはだつて目にみえないだけの話である。じりじりと少しづつ、おなじ方向に向つて変化を継続してゐる。昨日と今日とのあひだでは、さしたる差違をみとめることはないのに、今日なら今日と、半月前、一ト月前とをくらべてみれば、驚くほどの差違が出来あがつてゐる。おなじ変化化でも、前にすすんだり、後にさがつたりの変化とはちがつて、前にすすんだら進んだなり、後にさがつたら退つたなりの変化である。自分の立つてゐる道路なら道路が、知らぬまに、一寸刻みに、自分をのせたまま、じりじりと後退して行つてゐる。四日や五日は、角の果物屋の前にゐることに変りはないと思つてゐると、一週間たち十日たちするうちに、果物屋の線から完全にあとずさりして、隣りの洋服屋の前にさしかかつてゐる。これはかなはんと、足をはやめれば早めるほど、道路の後退する速度もまして来る。ひとふんばりして、やつと果物屋の線をのりこえかけたと思つた瞬間に、ぐいツとあとへひきもどされて、見れば洋服屋の前である。一ト月もたてば、洋服屋の線から完全に後退するどころか、その隣りの家具屋の前にとどまることさへも、困難な状態にたちいたつてゐる。半年もすぎようものなら、どうであらう。最初の果物屋の店頭などは、はるか彼方の路角に、やつと品物の色彩で識別されるくらゐのものではないか。

 このごろ少少、伸六の気持はすさんで来てゐる。社に出れば、毎日なにかしらの仕事はあるにしたところが、その仕事が、いつになれば、出版書籍といふ具体的の成果を、かれの眼の前にみせてくれるものやら、さつぱりわからない。堅い表紙が、仮綴(かりとじ)式に余儀なくされるやうになつた時期は、まだしもそれほどこたへなかつた。一冊の書物で、本文の紙の色が変らなければならぬやうになつても、これでも本が出せればよいと、づぶとく構へることは出来たのである。それがいまでは、全然希望がもてなくなつてしまつたのだ。印刷所では紙をいれないと、組んでさへもくれない。折角いまはりきつて、文壇にでようとしてゐる新人作家の長篇小説など、半分以上も組みあがつてゐるのに、印刷所ではあとをどうしてもつづけてはくれないのである。その新人作家の丸目次郎とは、むかしおなじ苦労をわけあつた仲だといつて、ひいきをするのではない。雑誌に連載されたその長篇小説は、当時から評判がよかつたのだし、去年のうちにも出版されるものと、消息通のあひだには、とうから取沙汰されてゐたものである。もちろん社のはうでも、そのつもりで、雑誌広告はすでに二回もつづけて出してゐる。友人とはいへ、丸目次郎にたいしても、あふたびに不面目このうへもないし、社としても醜態のきはみである。社長にしても支配人にしても、努力はしてゐるにせよ、実際の衝にあたる伸六にしてみれば、走つても走つても、前にすすむどころか、その場にとどまることすらも出来ずに、一日一日と、じりじりうしろへひきさげられて、つひにどこへもつて行かれるものやら。いづれはこの競争場裡から完全に落伍してしまふにちがひない。そのおそろしい予感から来る焦躁気分のもつて行き場のない苦しまぎれに、社長・支配人にまでも、つツかかつて行くやうになるのは、あながち無理とはいへないのである。

 島村書房が難局に当面してゐるといふニュースのはひつたのは、伸六の荒んだ気持も、ほとんど頂点に達しかけてゐるやうな、さういふ或る夜のことであつた。

 その日は、社の帰りに、伸六は支配人にさそはれて、新宿のおでんやに行つてゐた。支配人といふのは、愛嬌のある、申訳ほどのチョビ髭を鼻下にはやした、ひとの良い、いたつて世話好きな人間で、伸六などに何か強いことをいはれても、それに反撥するやうなことはしないで、いつもなだめ役にまはるといつた、温厚な性質をそなへてゐる。まづ喧嘩になるやうなことは、滅多にないといつてよい。いよいよとなれば、社の帰りに、新宿へんの酒場なりおでんやなりに、伸六をさそひこむといふ手もある。

 当夜もいはばそのでんで、支配人はしきりと酒をすすめながら、いつになく、薄気味のわるいほどむつつりして、何事を腹でたくらんでゐるのか推量もつきかねるやうな伸六を、腫物にさはるやうな大事のとりかたで、なだめてゐるのである。時には伸六も、こだはりのない笑ひかたをしてみせて、さも支配人の言葉を肯定するやうな、すなほな態度にも出るのだが、それは表面だけのこと、内実は、かれの気持はますます硬化して行く一方であつた。

 別れしなにも、伸六は上機嫌で、新宿の裏通りにある一廓のことを、冗談めかしくいひながら、はしやいでみせたりしたが、ひとりになると、急に気むづかしい顔つきになつて、銀座行のバスにのりこんだ。

 いつものことで、銀座四丁目の角のビヤホールだらうと、目星をつけて行つてみれば、そこにはゐないで、かへつてあまりあてにもしなかつた六丁目の角の喫茶店の前にさしかかつて伸六は、まんなかのゴムの木の葉蔭から、うかない顔で表を見てゐる丸目次郎を、硝子戸ごしに見つけることができた。

 さて、テーブルをはさんで向ひあつたが、二人ともむつつりしたまま、どちらも並はづれてぎよろツとしたやうな眼で、見かはしてゐるきりである。

「どうしたんだ。へんにすごんでるぢやないか。」

「うん。」

 あたりまへよといつたやうに、おこつた顔で伸六は、がつくりとうなづいた。

「すまんが、本はあきらめてくれ。そのかはりに、おれも社をやめる。」

「社をやめる必要はないだらう。本の出ないのは、君の責任でもあるまいし。」「責任であつてもなくても、それはかまはん。だけどおれには、もう張合といふものがなくなつたね。新宿でいままでチョビ髭とのんでゐたんだ。いふことはかうさ。——闇をやらうと思へば、本は出せんことはない。出してしかし、それほどの利益があるかといふんだ。それくらゐなら、闇から闇へ、紙をよそへまはしたはうが、むしろてきめんに、利益が目に見えてあがつて来る。それはまあいいことにしておかう。ところが、その紙を手にいれた出版屋がまた、それで本をだすよりはといふので、また闇から闇へ、ほかの出版屋へまはしてやる。だんだんとさうなつて行くと、しまひにはいつたい、どういふことになるんだ。その紙といふやつは、結局は本にならんで、ただ値段だけは、ぐいぐいと鰻のぼりにのぼつて行くわけだらう。」

「それは君の考へだしたことか。」

「チョビ髭と半分半分だな。チョビ髭がしやべつたことと、おれの考へと、両方ごつちやになつてゐるやうなものだ。とにかく本は出ないんだから、おれは断然、社をやめることにきめた。すまん。」

「こんな時代に、短気をおこしたりして仕様があるかつて。おれの本ぐらゐ、でなくたつて平気だよ。島村を見ろよ。さつきまでここにゐて、よたつてゐたんだがね。やつこさん、ふうふうなんだ。来る日も来る日も、印刷屋だ、紙屋だ、広告屋だ、なんのかんのつて、借金取の日参に責められどほしなんだ。」

 以前ならば、島村書房がどうならうと、伸六はまつたく無関心でゐられたにちがひないのである。身だしなみは嫌味なくらゐに瀟洒(せうしや)として、金縁の眼鏡に、金金具づきの細身のステッキ。一見貴公子然としてゐながら、純然たる貴公子になりきれない哀れさがあるのに、当人はその哀れさに気がつかずに、得得としてゐる、といつたところが、最初丸目次郎にどこやらで紹介をされた時以来、ずつと伸六は気にくはなかつたのである。ところが、去年の秋ごろ、島村書房ではたらいてゐる難波三策といふ純良な青年が、玉の井の女をつれだして、姿をくらましたといふ事件がおこつた。そのとばつちりで、書房主の島村秀夫は、田代組とかいふのの若い者どもに、相当手ごはいことをされたにもかかはらず、あのやさをとこの、どこにさういふ胆力がひそんでゐたのかと、誰もびつくりしたほど悠然とかまへて、最後まで、難波三策と女とを、かくまひとほしたものである。これで伸六もすつかり島村を見なほして、難波三策が一時危急に瀕するやうな場合にたちいたつた際には、伸六のはうから買つて出て、しばらく自分の家に、三策の身柄をあづかることにしたくらゐであつた。

 いま、丸目次郎の話によれば、印刷屋、製本屋、製函屋、広告屋、紙屋、その他小物をふくめて、前前からつもり積つての借金は、かれこれ三千円にちかいといふのである。先月の月末に支払ふといふことにしておいたのが、延びてこの月の五日になり、五日が駄目で、十日までのばしてもらつたその一日前の、けふは九日の夜である。二千円でなければ、せめて三千円の半分、千五六百円もあればしまつはつけられるのだが、今夜ここでおちあつての島村の話では、かいもく金融の法はつかぬといふのださうである。あたらしく紙を買ひこんで、この月の二十日までに、新刊が出せるかどうかといふ、伸六のはうの社の心配などは、島村書房の当面した、のるかそるかの難局にくらべてみれば、よほどのんきな心配かも知れないのだ。

 顎をひきながら、咽喉のおくで、はたがびつくりするほどの野ぶとい音をさせて、ながいこと呻るのが、感動したときの伸六の癖である。

「社をやめることはよした。」

 ズボンのかくしから、ばらせんを鷲づかみにして、そいつを丸目次郎の眼の前に、伸六はひろげてみせると、次郎はにやりと笑ひながら、二重マントの片羽根をうしろにはねて、袂から蟇口をとりだした。くしやくしやのよごれたさつを二枚つまみだして伸六の手の、ばらせんに加へ、そのうへに蟇口をさかさに、全部根こそぎのはきだしである。行先は四丁目の角のビヤホールにきまつてゐた。

 

   

 

 その日から一日おいた二日目に、紙がはひつたのである。社長も支配人も、伸六には何もいはないのに、いきなり前のつづきの校正刷が、どしどしとかれの事務机の上に、印刷所からまはつて来た。  (以下・割愛)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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岡田 三郎

オカダ サブロウ
おかだ さぶろう 小説家 1890・2・4~1954・4・12 北海道松前市に生まれる。早稲田大学在学中に新聞社の短編小説募集に一等当選、博文館勤務を経てフランスに渡り日本に初の「コント」を移入。帰国後、時代思潮の窮迫と暗い傾斜のなかで三田伸六ものなどユニークにゆとり有る人生派的な作品により、体制の圧迫へ抵抗の姿勢をまもっていた。

掲載作は1940(昭和15)年2月、一冊に纏められた同題単行本の抄録。

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