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明治天皇の初代侍従武官長(抄)

 宮城退出後の事故

 

 事故がおきたのは明治四十一年(一九〇八)十一月二十一日の午後だった。この日、侍従武官長・岡澤(くわし)は、明治帝に華頂宮(かちょうのみや)郁子妃殿下の葬儀に出席することを述べ、午後零時三十分ころ皇居から退出し、葬儀の行なわれる東京・音羽の豊島ヶ岡墓地にむかっていた。

 華頂宮家は伏見宮邦家親王の子・博経親王の創立した宮家だが、当日の喪主・博忠王は、精とは碁敵でもある伏見宮貞愛(さだなる)親王の孫にもあたるので、精にとっては身近に感じられる葬儀だった。

 当時のしきたりにより、葬列は本邸の在る芝・三田台町を午前九時に出発し、二重橋前をとおって皇居にお別れをし、飯田橋、江戸川橋を経て音羽通りを北へむかうという道順だった。先頭に騎馬警官をたて、長い列をつくってゆっくりと進むのだが、精が皇居を出たころはもう豊島ヶ岡墓地に着いている時間だった。

 当時の『東京日日新聞』をみると、

「侍従武官長岡澤大将は廿一日午後零時半頃、一頭立栗色馬車にて華頂宮大妃殿下御葬儀に会せんと宮城退出後直ちに豊島ヶ岡に向いしに、牛込区若松町の裏坂に差しかかりしに、折柄、坂の上より降り来たりし人力車に驚きて馬が突然前足を揚げて起ち上がりし為、馬車は傍にありたる黒塀に衝き当り遂に転覆し……」(読み点筆者)とある。

 現在の宮城も豊島ヶ岡墓地も、位置だけはこのときとかわらない。関東大震災とか、太平洋戦争のときの戦災や、そのあとの区画整理で、道路などは位置や姿もずいぶんかわっていると思うが、皇居からいくら最短距離の道をとおっても牛込区若松町、今の新宿区若松町のあたりをとおる道順は遠まわりになる。市ヶ谷にあった陸軍士官学校とか、中央幼年学校、早稲田の戸山学校など、若松町へ出る道筋に、たちよると思われる施設はあるが、公私の区別にやかましかった精が、当時、軍人見習いだった息子などのいるそういった施設にたちよるとは考えられない。事故のもとになった人力車についても当時いろいろと事情聴取も行なわれたと思うのだが、そのへんの事情は調べがつかないので分からない。二十七貫(約一〇〇キログラム)も体重があった精は人力車をつかわず、いつも馬車で出勤していた。

 この事故によってうけた右耳から後頭部にかけての打撲で、精は後頭部裂傷、および軟骨部骨折という大怪我をし、番町にある木澤全生病院に入院し、縫合の手術をうけた。かなりひどい怪我だったが手術はうまくいった。精の事故のことはすぐ明治帝につたえられ、明くる二十二日、明治帝は侍従の大炊御門(おおいみかど)家政を遣わしその容態を聞かせた。二十六日、明治帝からお見舞いの菓子折り一つが届けられたとき、精はすでに退院して赤坂新坂町、現在の赤坂東宮御所に近い乃木神社そばの自宅にもどり、そこで療養していた。経過は良く、食事は一日三度ずつ、病人食だったが普通にすませ、気分の良いときは庭を散歩できるくらいに快復しているようだった。

 当時の治療法がどの程度ゆきとどいていたのかは分からない。もちろん抗生物質などありようはずはない。翌月の十二月にはいると微熱がではじめ、八日から九日にかけて体温は四〇度近くにまであがり、悪寒を訴えるようになった。急を聞いてかけつけた大学病院の佐藤医師の判断で、すぐに東京帝大医科大学附属病院に入院し、再手術することになった。翌十日、全身麻酔をし、患部を切開、出すものをだしたことで病状はいくぶん快復し、再手術は成功したかにみえた。しかし十一日になるとふたたび発熱し、脈拍も激しくなり、身体のどこかに異常が発生したことを思わせた。前回執刀した佐藤医師と青山医師の診断は丹毒症ということだった。外傷から感染したブドウ状球菌による皮膚病である。現在ならサルファ剤とかペニシリンなど抗生物質による治療でほとんど治ってしまうような病気とのことだ。そんな病気も当時としては命取りになるような病気だった。

 十二月十一日の夕方、宮中の侍従武官府(侍従武官の待機している場所をこの年の一月からこう呼んでいた)に入った電話は、精の容態が思わしくないとの知らせだった。つまり危篤ということだった。このことはすぐに御座所に在った明治帝につたえられた。明治帝はただちに侍医の柏村貞一を精のところに遣わし容態をみてくるよう命じられた。ご自分と同じ糖尿病を病んでいた精のことを思い、万が一にも別の手だてで救うことができるのではないか、と思われたのかもしれない。そしてさらに明くる十二日には、侍医頭の岡玄卿と侍医の桂秀馬を精の入院する大学病院へ遣わし、容態をみさせた。このように再度も侍医を遣わせるということは、その二カ月前に亡くなった元帥・野津道貫の例はあるが、何回となく侍医頭まで遣わすということは、当時としてはめずらしいことだった。

 

 激動の時代ともいえる明治という時代を支えてきたものたちが、明治帝のまわりからは次々と消えていった。激しい戦いのなかで、誰もがどこかに刀傷か弾傷を負っているようなものたちばかりだった。それに明治帝は、西郷隆盛のような相撲取りと間違えられそうな大きな男たちに殊のほか愛着を示されていたようだ。大久保利通もたしか六尺(約一八〇センチ)近いということだった。同じように背丈が六尺、体重が一〇〇キロほどあった精が、明治帝の眼にはじめてとまったのも明治六年(一八七三)の習志野で行なわれた大演習のときという早い時期で、明治帝がまだ二十一歳のときのこと。このとき精は近衛歩兵大隊長として野営演習に参加していた。近衛都督だった西郷隆盛が太りすぎて馬にのれず、明治帝のうしろから歩いて習志野までお伴したときでもあり、その夜の暴風雨で御座所だった天幕が飛ばされそうになり、西郷が走りよってその天幕をおさえ事なきを得た、というエピソードが残っているときのことだ。西南の役でその西郷と運命をともにした陸軍少将の篠原国幹(くにもと)も、この時、近衛局長官として東西対抗演習の指揮をとっていた。

 

 十二月十二日朝、精は鶏卵を一つと好物のまぐろの刺身などを口にした。朝からおおぜいの見舞客があったが、精と顔をあわせたのは山縣有朋など数名のものだけだった。侍従武官の関野謙吉が特に明治帝の命により届けてきた赤葡萄酒(注・岡澤大将葬儀記事には葡萄酒名として、澳太利<おおすとり>匈<ママ>牙利<とかり>国匈牙利産トカイヤアウスブルヒとある)一本は、たまたま乃木希典(まれすけ)が枕もとにいたので、乃木の口からそのことを精につたえた。すでに危篤となり死の床についていたので、医師の許可を得てからとの明治帝の指示ではあったが、それまで禁じられていたものもすべて、本人が求めるまま与えることになっていた。乃木は精の頼みを受けその葡萄酒の栓をぬき、二人は一口ずつ感慨をもって飲んだ。

 山縣有朋が精を見舞ったのは午後三時を少しまわったころだった。山縣有朋–それは山縣小輔でもある。後年、ジャーナリストの徳富猪一郎(蘇峰)が『公爵山縣有朋伝』のなかでも書いているように、小輔と精とはその父親どうしのつき合いをとおしても知りあいであった。おたがいに一方は奇兵隊、一方は南園隊(のちの振武隊)と離れてはいたが、動乱のなかを戦ってきたのである。

「岡澤大将は臨終近くまで意識確かに、言語もすこぶる明晰にして其の身の大患に在るを知らざるものの如く、山縣元帥と親しく談話を交へられたる由、同元帥は医員より密かに大将の病状を聞き取りて、深き憂いに沈みつ帰途に就かれた……」

 明治四十一年十二月十三日付の『東京日日新聞』にはこのように書かれている。〈臨終まぢかの我が身を知らぬかのように〉と山縣の目にうつるほど精は何を話していたのだろうか。

 

 

初代侍従武官長

 

 軍事内局長を兼ねた日清戦争

 明治十二年五月に陸軍卿の西郷従道(つぐみち)などが上書した天皇の軍事統率の件は、『明治天皇紀』(第四巻)によると次のようになっている。

「夫萬機親裁の今日、政法に文武の別あるべからず、然れども、軍事にありては文治と其趣を異にし、天皇自ら大元帥の職に居たまひ、兵馬の権(いつ)に親裁に仰がざるべからず、故に侍従に駢置(連なる)するに、侍中武官を設くるの要あり」として侍従武官(侍中武官)の必要を説いている。

 この侍中武官については、明治二十一年六月、川上操六とともにドイツ留学からもどった乃木希典がその経験にもとづき作成した意見書草稿のなかでも述べられていて、

「我ガ朝廷、今日侍中武官ノ制度ナキハ、抑モ我ガ朝 古代ノ儀礼ニモ違ヘル者ノ如ク、欧州各帝国ニ於テ有ルベキコトニ非ズ。天皇陛下ハ我ガ陸軍ノ大元帥タルノ儀杖ヲ欠キ玉フガ如ク然リ。此事タル下官ラガ喋々ヲ待タズ、或ハ已ニ其制度ノ行ハルベキト否トハ伺ヒ知ルベキニ非ズト雖モ、陛下ノ左右ニ近侍スル将校ノ選抜、今日甚ダ急要ナルヲ察セリ」(『乃木希典』宿利重一 春秋社)とある。

 すでに明治十一年ころ、文官であった侍従の米田虎雄や山田正定などを武官に任命し、軍事面での奉仕をさせていたらしいが、軍国主義に傾斜していくにつれ、これでは用が足りなくなった、ということのようだ。

 この侍従武官に任命された精はその職務を忠実にはたし、本人もその職務に不満をもらすようなことはなかったが、精自身にプラスとなったのかどうかは分からない。

 日露戦争のときの総理大臣・桂太郎は、明治四十五年、外遊からもどると内大臣兼侍従長に任命されたが、桂太郎を知っている徳富蘇峰は、桂にとってその職務は窮屈であり、手持ち無沙汰で、その職務で一生を終わることはすこぶる不本意であったにちがいないと書いているという(『日本の歴史』第二二巻 中央公論社)。桂にしてみれば政治家としても軍人としても活躍の場がなくなってしまうというのだが、同じことは精にもいえることだろう。

 明治三十三年一月の『明治天皇紀』には次のような部分がある。

「侍従武官長男爵岡澤精、曾て洋行の志あり、頃日載仁(ことひと)親王を欧州各国に差遣せられんとするの議あるを聞き、陸軍大臣子爵桂太郎に由りて、其の随行に加へられんことを奏請せんことを請ふ、是の日 太郎、侍従長侯爵徳大寺実則に就きて此の事を内奏す、天皇、単に随行のみの名を以てするを不可とし、其の目的を明示せしめたまふ」(『明治天皇紀』第九巻)

 桂太郎は天皇から許可をもらえば、精を洋行させ、欧州各国の侍従武官制度を視察させることができ、各国の軍制についても視察させることができる、さらにそれ以降の奉仕にも役立つのではないかと内奏した。

「他日亦自ら其の機会あらん、今回の行は宜しく之れを断念せしむべし」と、徳大寺実則をとおして天皇は精の洋行を断念させた。精は伏見宮貞愛親王とは碁敵でもあったから、貞愛親王との洋行なら考えられるが、閑院宮載仁親王との洋行を自分から進んで希望したのかどうかには疑問がある。さらに大坂の兵学伝習所で仏式操練を習ったとはいえ、自分からすすんで洋行を希望するほど語学が達者だったような様子はみえない。もちろん外国の侍従武官制度を学ばせるより、岡澤精という侍従武官長をいつも側においておくほうが明治帝には便利だったから、とみることもできる。あるいは切れ者といわれた桂太郎の内奏のあり方から、明治帝は、精の自発的な意思でないと判断されたのかも分からない。

 さらに明治三十七年には、日露戦争に従軍する機会もあった。これについては司馬遼太郎の『要塞』(昭和四十二年 別冊文藝春秋一〇〇号)にも書かれている。

「第三軍司令官についてである。……。岡澤精は長州萩の出身で、維新後四等軍曹からはじめ、累進した。乃木より五歳年上であり、年齢からしても野戦勤務に堪えられぬであろうし、それに岡澤はすでに宮中に入っており、侍従武官長をつとめている」

 このとき精が第三軍司令官になるかもしれなかった事情を、精の三男の精三が昭和三十六年十月、当時、防衛大学校教授で一等陸佐だった吉武敏一に話している。

 明治三十七年、精三は陸軍中央幼年学校生徒で、精三の兄・精二が陸軍歩兵中尉として日露戦争に出征することになり、「親子で出征だ」と喜んでいた、というのである。司馬は精の年齢から無理と判断しているが、大山巌に負けぬくらい体の大きかった精は、自分でも出征するつもりでいたらしい。かつて精の上司でもあった第四軍司令官の野津道貫は精より三歳も年上だし、総司令官の大山も年上、第一軍司令官の黒木為楨(ためもと)は同い年だったし、精が士官学校生徒大隊司令をしていたときの士官生徒の何人かは参謀将校として出征していた。しかし、参謀総長の山縣有朋は陸軍がバラバラになるとの理由で、精を侍従武官長の職務からはずすことを拒否したというのである。

 もっともこのときも桂太郎のように、「この宮中入りは、山縣の発意によるものであったが、当時の世上では山縣が桂の勢力の増大を惧れて宮中に閉じ込めたのであると取沙汰した」(『山縣有朋』岡義武 岩波書店)といった事情が精のばあいにも考えられるだろう。

 さらにまた桂太郎が明治四十五年に侍従長兼内大臣となったとき、あとで首相となった原敬がその日記に、

「山縣一派の陰謀にて枢府並に宮中を一切彼等の手に収めんとの企に出たること明らかなり」(『日本の歴史』第二二巻 中央公論社)と書いているらしいから、精のばあいも山縣のそうした考えが働いていたのかもしれない。

 このようにして精は、当時の流行だった洋行でより広い活躍の場をうるという機会も失い、戦歴を重ねる機会も失って、明治二十七年八月から他界するまでの十四年間、侍従武官として天皇に仕えたことになる。精は明治三十七年六月に大将に進級したのだが、「陸軍進級令改正(明治三十七年五月十九日の陸軍武官進級令改正)のお陰で大将になった」(『日本軍閥の興亡』松下芳男 昭和四十二年 人物往来社)と言われるようなことにもなった。

 このような評価は明治時代の末にもみられたらしく、このへんを意識したような記事が当時の新聞にのっている。

「世には岡澤を誤解して居るものがある。西南役以後、絶えて野戦の功がないから無理もないが、岡澤は決して便侫(口先が巧みで、人の気にいるように立ちまわる)の士ではない。陸軍では絶対に禁物とされて居る長上に対して侃々(剛直)の言辞を弄するといふことは、岡澤の少壮時には珍しくなかつた」(「大阪毎日新聞」明治四十一年十二月十六日)

 西南戦争が終わるまでの精は実戦の経験が豊富で、それまでの軍功はそれなりに評価されており、ドイツの参謀将校・メッケルが来たときなどは、参謀として通用するような能力をなお備えていたと思えるエピソードもある(『東京朝日新聞』明治四十一年十二月十三日)。

 精にたいする軍人としての評価は、侍従武官となったことで明治という時代から離れるにつれて低下している。さらに宮中に仕える者に必要な特別な配慮が、このことを加速したようである。このへんの事情を、幕末から三条実美に従って動き、宮内大臣として朝廷と深くかかわっていた土方久元は、

「君側に奉仕する側の人と云ふ者は、内閣側の人などとは違ひ自ら機密があつて、内には種々の事柄があつても、夫を外に向つて云ひ得ざる場合が多いので、一時に赫々の名声を世に輝かすと云ふ様な事はない、道理から云つても実は又左う無くてはならぬ事だと思ひます」(『東京朝日新聞』明治四十一年十二月十四日)と話している。

 精のばあいはさらに特別な事情があったからと思われるが、その仕事の難しさを表に出すことは殆どなかったようである。

 精が亡くなったとき、後任の侍従武官長人事の下馬評が当時の新聞にのっており、そのなかから仕事の内容のいくぶんかをうかがい知ることはできる。

「その後任は今の処チョット適任者が見当らないね、赳々たる野戦の将官としては今の将軍悉くそれだが、常に君側に侍して軍国の事を補佐し奉るのは智略や胆識ばかりでは行けぬ、福嶋(安正)などは斯ういふ地位に据えると適任だが事情が許すまい、学習院長といふ関係から乃木が兼任したら申分はなからうが併し兼任では責任を完うし得ない」(『大阪毎日新聞』明治四十一年十二月十六日)とか、

「侍従武官長は軍事上の知識の外に高潔清亮なる性格と多少文学上の素養勿論なるが、世間に伝へらるる候補者、西(寛二郎)、川村(景明)、乃木の三大将は何れも一代の名将に相違なきも、乃木大将を除くの外は文学上の素養においては適任と云ふべからず」(『朝野新聞』。『毎日電報』にもこれとほぼ同じ内容の記事があり、どれも明治四十一年十二月)とあり、軍を統率する権能を握る大元帥に仕え、その職務をそつなく処理するには、野戦においての優れた能力だけでは務まらないというのである。

 精が侍従武官となったのは明治二十七年八月二十七日で、このときにはすでに日清戦争がはじまっており、宮中に戦時大本営が置かれ、九月十三日には大本営が広島に移っている。侍従武官で軍事内局長だった精も明治帝にお供し広島に行っている。

 精の家族は、精が姫路の歩兵第八旅団長から陸軍次官に転任になったとき、すでに東京に移っており、このころは牛込の払方町に住んでいた。

 

 西郷隆盛が元気だった明治六年の習志野の大演習にはじまり、明治二十三年の愛知県下で行なわれた日本最初の陸海軍連合大演習に、西軍の旅団長として乃木とともに指揮をとった体の大きな岡澤精は、侍従武官になるまで何回か明治帝の目にとまっていたらしい。その精が側近く仕えるようになり、明治帝は満足されたように思われる。

 長州藩の武士階級の末端にいた精には、藩主も天皇も遠い存在だった。それまで見たこともない朝廷の様子はどれも精の興味をひくものだったらしい。広島の大本営にいた明治二十八年、明治帝がそのつど話されたいくつかを精は断片的に書き残している(『岡澤精一所蔵文書』宮内庁書陵部蔵)。

 光格天皇のころ、非蔵人の一人が天子を殺害しようとし、裾持ちの着ている衣服の袖を切って捕まったこと、明治帝が七歳のとき碁盤の上にのって髪を結ってもらったらしいこと、先々代の近衛関白は強力者で、大きな石橋を一人で持ちはこんで庭づくりの手伝いをしたこと、夏の暑さを避けるため風とおしを良くした造りの「御涼所」も、「宮中ニ御涼之処アリ非常ニ暑シ」と話されるなど、明治帝はかなり親しく色々のことを話されている。

 日清戦争のあと、京都御所に立ちよられたときと思われるものには、

「禁中殿舎の数々の、中にも紫清両殿は、上古のままに造られたり、……、鳴板踏みて落板敷き、長橋・南廊・切馬道、紫宸殿の北簀子、……、東は建春、西宜秋、南建礼、北玄暉、是禁門の四方也、此次第を記憶して古実名義を学び問ふ」(『岡澤精一所蔵文書』宮内庁書陵部蔵)といった、広い内裏内の建物を覚えるため、幼少の明治帝が節をつけて口にされたらしい文も書きとめられている。

 明治帝は侍従武官となった精の緊張感を和らげ、お互いの意思疎通を図ろうとされたようである。

 明治元年一月に大久保利通は、「今其形跡上ノ一二ヲ論センニ、主上ノ在ル所ヲ雲上トイヒ、公卿方ヲ雲上人ト唱ヘ、龍顔ハ拝シ難キモノト思ヒ、玉体ハ寸地ヲ踏玉ハサルモノト余リニ推尊奉リテ、自ラ分外ニ尊大高貴ナルモノノ様ニ思食サセラレ、終ニ上下隔絶シテ其形今日ノ弊習トナリシモノナリ」(『国学運動の思想』日本思想大系 岩波書店)と大坂遷都の建白書のなかで書き、現世を超越したものに祭りあげようとするそれまでの天皇イメージを払いのけ、より現実的なものにしようと意図したというが、精に接する明治帝に、それまでのような特殊な人間を意識させるような面をみることはできない。ただ大久保の目的とするところは、「命令一タヒ下リテ天下慓動スル処ノ大基礎」として朝廷を考え、徳川幕府に対抗しうる権威を維新政府に具えるためだった、ということらしい。したがって明治初年の明治帝の地方巡幸が、侍補たちに天皇親政を考えさせるほど民衆にアピールしたとしても、それは維新政府を動かす者の計画のうちにあり、民衆が精と同じように主上と直接意思疎通できたわけではなかった。このことの一端が自由民権運動への政府の強硬姿勢に現れていたといえるのかもしれない。

 侍従武官の精についての評価の一つに次のようなことがあげられている。

「此人のよい処といふのは陛下に拝謁、奏聞等をする人を成るべく直接に謁見さすべく力めた事と、普く其折々の御聖徳を天下万民に伝へる事に骨を折られた事などであらう、例へば大演習があつて陛下の御側に附いて居られるとしても、特殊の将校なり兵卒なりを陛下の御前に連れ来たつて御伝奏申し上げるとか、一寸人の気づかない又陛下の平生御気づきがないやうな事を詳しく御覧に入れる為には、兵卒の背負ひ居る飯盒中の内容を兵卒自身をして直接天覧に供へ奉るとか、他の人では出来えない事を能くやつた」(『報知新聞』明治四十一年十二月十四日)ということで、とくに軍関係、それも陸軍関係者の末端にいる者にも明治帝の言葉がじかに伝わるよう精は骨折っている。この記事にある兵卒のもつ弁当の中身の粗末さに心をうたれた明治帝の様子は、『明治天皇紀』(第一〇巻)にも記されている。当時徴兵で集められた兵には貧しい農村出身者が多かったから、そのような兵をとおして広まった明治帝にたいする一般民衆の親近感は、軍国主義にむかっていた当時、もっとも効果的だったといえるだろう。このようなことがあって、

「大将(岡澤)は直接君側に奉仕さるる様になつてから後、時に一隊の兵員を率ゐて何かなさると云ふ様な事の無くなつたのに、……、適々若し左様の事があるべき位置に居られたとすれば、大将の名声は尚一層高く世に知られた事であらうと思ひます」(『東京朝日新聞』明治四十一年十二月十四日)というような土方久元の談話にもなる。

 末端の兵卒たちの様子まで明治帝にみせた精はまた、強い西陽がさしこむ、暑さのきびしい大本営の一室で、まわりの者が気づくまでその暑さを口にせず執務し、はた目に分かるまでご自分の体の不調を話さないといった明治帝の様子も、折にふれ、山縣や乃木、寺内など精の身近な者たちには伝えていたようである。

 明治帝の「君徳培養」に力をそそいだ岩倉具視は、維新新政の方針をくわしく書いた具陳書、『献芹せん(=ゴンベンの難漢字)語(けんきんせんご)』を国学者の矢野玄道からわたされているが、矢野はその具陳書のなかで日本書紀の「凡将治者、若君如臣、先当正己、而後正他。如不自正、何能正人」(『孝徳紀』)をあげ、国を治める者は君も臣もまず自分を正してから他を正せ、自分が正しくなくてどうして他を正しくできるだろうと書き、君徳培養の方法を指示している。明治帝の自分を律する姿勢もまた、侍従武官の精をとおして、軍人たちのあいだに浸透していったはずである。ただ明治帝の並みはずれた忍耐力に素直に感動した精ではあったが、昭和天皇の侍従武官長が言ったという、「軍に於ては天皇は現人神と信仰しあり」(『皇室制度』鈴木正幸 平成五年 岩波書店)のような姿勢は、侍従武官長・岡澤精の周辺にはみつからない。

 山縣有朋が枢密院議長だったとき、議事の途中で仮睡されている明治帝を、山縣は軍刀の先で床をたたいて目覚めさせたというが、山縣にとってあるべき天皇は、「理念化された天皇にほかならない」(『山縣有朋』岡義武 岩波書店)という。葉隠武士としての自負のある山縣にとって、自らの命をすてるに値する君主は、黒船に驚き動揺してはならないし、尊王・佐幕のあいだで揺れ、朝令暮改をくり返してはならなかった。師と仰ぐ吉田松陰と同様、神として祭られるような人であって欲しかった、ということかもしれない。

 

 精が侍従武官兼軍事内局長として広島の大本営にいるとき扱ったと思われる「大山大将の訓示文」(『岡澤精一所蔵文書』宮内庁書陵部蔵)というのがある。これは明治二十七年十月十五日に作成されたものだが、初めの部分は、

「我軍ハ仁義ヲ以テ動キ文明ニ依ツテ戦フモノナリ……」とあり、前にあげた『歴史と視点』(司馬遼太郎 新潮社)にある通達文草稿の文面と全く同じといってよい内容である。

 司馬の手もとにあった草稿は広島大本営の軍事内局長・岡澤精が各師団長に送った通達文草稿とある。ここにある「大山の訓示文」には大山の記名はない。『岡澤精一所蔵文書』の文書にはどれも記名があり、記名のないのは精が出した文書らしいので、精の書いた草稿を大山の名前で訓示文にしたのかもしれない。

 この訓示文はさらに、

「……敵国一般ノ人民ニ対シテハ尤モ此意ヲ体シ、我妨害ヲナサヾル限リハ之ヲ遇スルニ仁愛ノ心ヲ以テスベシ、秋毫ノ微ト雖モ決シテ掠メ奪フ事アルベカラズ……」といった文がつづき、衣食および器具の調達を必要とするときは代価を払って購入すること、これに違反した者は厳罰にするとしてある。この訓示文は日清戦争のとき、遼東半島の花園口に上陸した第二軍を対象として出されたものだが、この第二軍が旅順を占領した十一月、ふたたび参謀本部次長の川上操六から第二軍参謀長の井上光宛てに同じような通達文が十二月八日付で発せられている。

「旅順戦勝ノ快報ニ接スルト同時、日本兵ハ戦勝ノ余リ人民ノ財宝ヲ奪略シ或ハ無辜ノ民ヲ殺害シ又ハ婦女ニ対シ言フニ忍ヒサル不徳義ノ所業アリシ等不快ナル風説アリ、特ニ外国人中ニ尤モ甚タシ、併シ実際ニ在テハ左程ノ事ハ勿論是レナカルヘシト信スレトモ日本軍ノ紀律ヲ世上ニ表白シ、又後来ノ戦ニ於テ如此所業ヲ予防スル為メニハ、目下右ニ似タル所業アリシモノヲ取調ヘ軍法ニ処シ世間ニ示スヲ得策トス、此辺素ヨリ御手落ナシト信スレトモ念ノ為御注意ニ及フ」(『岡澤精一所蔵文書』宮内庁書陵部蔵)

 このあとも第二軍司令官の大山と広島の大本営とのあいだに文書がかわされ、外国の新聞記者が日本を非難して報道しないよう苦労する様子が書かれている。当時の日本政府の悲願でもあった不平等条約改正が、極東でのロシアの進出を懸念するイギリスとのあいだで日英通商航海条約となって実現し、これによって他の国ともつぎつぎと条約が改正される運びになったが、日本の非人道的な行ないを知らせる外国の新聞報道について、その真偽を問いあわせてくる国もあり、なかには、「米国ニ於テハ条約改正ノ批准ニモ関係スべシ」(『岡澤精一所蔵文書』のうち大山大将宛文書 宮内庁書陵部蔵)というものもあった。「我軍始メヨリ仁義ヲ以テ動キ、文明ノ戦争ニ拠ルヘキハ勿論ニシテ、既ニ貴官ノ金州半島ニ上陸ノ当時ニ布カレタル訓示ニモ明瞭ナル所ニシテ、万一右等ノ事実有之ニ於テハ軍紀上容易ナラサル義ニ付厳ニ御詮議相成義ト存候」と大本営は大山第二軍司令官に要望している。

 この文書にはさらに、

「幸ニ内国新聞ニハ非難之声ヲ発セス却而外国新聞攻撃ニ筆鋒ヲ向ケ居候」とあり、日本の新聞は日本軍についての不快な報道をとりあげず、むしろ外国新聞を攻撃しているとある。日清戦争のはじまる二年前、瀬戸内海でイギリスの商船と衝突し沈没した日本の砲艦について、日本側ではイギリスに損害賠償の請求をしているが、瀬戸内海を「公海」とみなす上海のイギリス高等裁判所は却下の判決をくだし、日本国民を憤慨させる事件があった。それにたいするわだかまりがこのときも尾を引いていたのかもしれない。

「当方ニ於テモ百方外国新聞ノ所説ヲ撲滅スル手段ヲ施候」とあり、日本の主権を確立するため諸外国の偏見をなくそうと、政府だけでなく軍部も努力している様子がうかがえる。

「要スルニ之ヲ本官ノ不行届ニ帰スルハ辞セサル可シト深ク慚愧ニ不堪候」と、これに応えてしめくくる差出人が大山巌であるのをみると、山縣有朋などの名前がある文書とはちがった印象をうける。

 キリスト教徒の内村鑑三まで正義の戦争とした日清戦争だが、昭和八年(一九三三)、軍国主義の流れのなかで完成した『明治天皇紀』には、「今回の戦争は朕素より不本意なり」とする天皇が、伊勢神宮への開戦奉告をする勅使の人選を願いでた宮内大臣・土方久元に、「其の儀に及ばず」と拒否した様子が記されている(『明治天皇紀』第八巻)。このころ精が渡辺幾治郎(『明治天皇と軍事』の著者)に話したところによれば、旅順が陥落したとき日本側の勝利を喜ぶとともに、明治帝は、「さるにても、清国皇帝には定めて憂悶に沈みたまはらん」と話し、声を曇らせたというのである。

 

 精が広島の大本営で扱った事がらのなかに三国干渉についてのものがある。

 清国との講和は明治二十八年四月十七日に調印されたが、その講和条件に遼東半島の割譲という項目があり、露・独・仏の三国が極東の平和を乱すとの理由でこれに反対し、遼東半島の永久占有権を放棄するよう日本側に勧告してきた。

『明治天皇紀』によれば、四月三十日、ロシア駐在の西徳二郎公使に打電し、遼東半島の金州を除いた部分の永久占有権を放棄し、それに応ずる賠償金を請求することに変更し、清国側がこのことを履行するまで担保として遼東半島を占有する、との覚え書きをロシア側に示すよう訓令している。

 この同じ日の朝、何らかの命令あるまで進出を控えること、との勅命をつたえるため旅順にむかった陸軍大臣・山縣有朋宛てに、大本営は次のように打電している。

「……○又在倫敦(ろんどん)加藤公使ニ電訓シテ欧州各国ニ対シ貿易上多少ノ利益ヲ与ヘ、然シテ遼東半島割譲ニ関シ露西亜、独乙、仏蘭西ノ勧告ヲ拒絶スル場合ニ於テハ英国ハ如何ナル助力ヲ我ニ与フルカヲモ談判セシメタルニ、彼モ輙ク手ヲ出スコトヲ肯セス・・・」(『岡澤精一所蔵文書』宮内庁書陵部蔵)と、イギリスの助力は得られないこと、その他、イタリアもアメリカも日本を徳義上助けるだけで兵力をもって助けてはくれない、といったことも述べている。そしてこの四月三十日夜、陸軍次官・児玉源太郎からも山縣宛てに電報が打たれている。精の手もとにあるその写しからは、無条件で三国の勧告を受けいれるのはロシア相手では日本の武力が足りないとの理由よりも、西公使の電文にある理由のほうが主だという印象をうける。

「本使ハ魯国外務大臣ト長時間ノ談話中ニ於テ心付タルコトアリ、夫ハ他ニアラズ、則魯西亜政府カ遼東半島ノ占領ニハ反対スル真意ノアル処ハ、日本ニシテ遼東半島ニ良好ナル軍港ヲ得ルニ於テハ、其勢力独、占領地内ノミニ止マラズシテ終ニ朝鮮内地ニ及ブベク、而シテ又北方満州ノ豊饒ナル土地ハ、許多ノ日本人移住シテ之ニ充満シ以テ終ニハ日本ノ領地トナルベシ、然ル時ハ魯西亜ノ版図ハ海陸共常ニ日本人ノ窺フ処トナルニ至ルベキヲ恐ルルニアリ」(『岡澤精一所蔵文書』宮内庁書陵部蔵)として、児玉陸軍次官は、ロシア駐在の西公使の電文を伝え、この点に留意するよう陸軍大臣の山縣に要請している。

 露・独・仏三国による勧告を無条件で承諾した表の理由は、日本の軍事力不足とするのが常識的な見方と思われるが、「ロシアは東方への進出に熱意をもって」(『日本の歴史』第二二巻)いた、との見方に訂正を迫るように、西公使の得た感触は、日本側の進出(侵略?)を懸念するロシア側の不安のほうを強く浮かびあがらせているようである。

 この部分は、当時の外務大臣・陸奥宗光が書いた『蹇蹇録(けんけんろく)』をみると次のようになっている。

「四月二十九日、露京発同公使(西徳二郎)の別電にも露国の底意は、一旦日本が遼東半島に於て良軍港を領有すれば、其勢力同半島内に局限せずして、将来遂に朝鮮全国并びに満州北部豊饒の地方をも併呑し、海に陸に露国の領土を危くすべしとの鬼胎(ひそかな恐れ)を懐き居る模様あり」と書いて、「露国政府は猜眼(疑いの目で)以て我国を視、その臆測頗る過大に失するが如く……」と判断しているが、児玉次官から山縣にあてた電報に、西公使の電文がそのまま使われていることから考え、陸奥外相の「過大に失する」との判断には、軍部の真意を正確につかんでいたのかどうか疑問に思えるところがありそうである。

 西公使がロシアの外交的術策にはまったとみるべきか、利益線の拡大を図る軍部への西公使の忠告とみるべきか、この僅かな資料だけで判断するのは難しい。

『明治天皇紀』(第八巻)は、日本が無条件で遼東半島還付の勧告を受けいれたことを、五月五日、外務次官の林薫をとおして独・仏の両公使につたえたとき、この両国公使は、日本側の「無条件」という処理の仕方に驚いた、と書いてある。

 児玉陸軍次官から山縣に宛てたこの電文をみるかぎり、日本側に進出の意図のないことをロシア側に示さねばならない、と児玉も山縣に示唆しているようにみえる。この時点では、利益線の拡大を意図する軍部などの傾向に、慎重に対処しようとする児玉の様子がうかがえる。この電文の写しからは、児玉が慎重さに欠け軽率にものを言う(『児玉源太郎』宿利重一)、などと山縣に批評されたのは、これ以降のことのように思える。

『岡澤精一所蔵文書』は、大正四年および五年に明治天皇紀編修資料として宮内省臨時編修局が借りだしたもの。その『明治天皇紀』は昭和八年に完成している。広島大本営で扱ったと思われるこの文書が、明治天皇紀編修の過程でなぜ使用されなかったかを考えると、その時代の流れがかいまみられそうである。

 

 明治二十九年に入ると、三国干渉による講和条件の一部放棄といった事件も表面的には落ちつき、日本領土となった台湾での軍事行動も一段落する。

 このころ精は軍事内局長としての功で陸軍中将に昇進している。大本営勤務は昭和になってからも作戦に従事したものとみなされたが、広島の大本営にいた精の場合は、公にされなかった部分で明治帝から高く評価されたものもあった、ということだろう。このころの中将や大将の進退は明治帝が親裁したという(『明治天皇と軍事』渡辺幾治郎)。

 明治二十八年五月、日清戦争に関する武功審査委員が選任されたが、陸軍は山縣や大山などあとで元帥になった大将四人と、中将では参謀次長の川上操六、軍事内局長の精の二人が選ばれている。この武功審査委員の任期がいつまでだったのか不明だが、山縣有朋から精に宛てた手紙には、この審査に関連するらしいものが二、三ある。

「陸軍少将 佐野延勝

右ハ明治廿七八年戦役間、監軍留守中、監軍部御用取扱被仰付、始終監軍ノ事務ニ服シ、其功績顕著ナル(のみ)ナラス、古参ノ将官ニシテ、当時授爵ノ恩典ヲ蒙リタル将官ニ比シ甚権衡失シ徳沢ニ漏ルヽノ嫌ヒアルヲ以、此際授爵ノ詮議相成度事情及内申候事

  明治廿九年十月九日」

(『山縣有朋書簡』岡澤精一氏所蔵 国立国会図書館蔵)

 枢密院議長だった山縣は日清戦争のときは第一軍司令官として大陸にわたっているが、開戦の年の十二月に入ると胃腸病のため帰国し、監軍になっていた。それまで監軍だった三好重臣と佐野延勝との関係は分からないが、佐野は陸軍の実力者の山縣をとおして昇爵の件を働きかけたということだろう。山縣以上の権限もない精になぜ山縣が話したのか分からないが、精の陰に山縣は明治帝をみていたのかも分からない。

 山縣はこの他にも、「……、先日 将官其の他叙勲之一事ニ付 老生少々意見有之、昨日来両大将とも談合相試み居候央ニ付、一両日中御発表之運びに不立到様御含み置き可被下、……」といった手紙を精宛てに親展でだしている。

「伯爵松方正義、侯爵西郷従道の二人、前内閣総理大臣侯爵山縣有朋を大勲位に叙せられんことを奏請す、天皇聴したまはず」(『明治天皇紀』第九巻)とある明治三十三年十月二十二日のところには、この奏請で松方は山縣に恩を売り、自らを侯爵に推薦してもらおうと図ったとの噂も記されている。山縣と精のあいだに昇爵や昇進の話がでてもおかしくはないだろう。

 さらに精宛てには、明治二十八年十一月十日付で、粟屋幹・寺内正毅・児玉源太郎の連名で手紙が届いている。書いているのは粟屋と思われる。山縣が公的な手紙を精宛てにだすときは、中将殿とか武官長殿と宛て先を書き、私的な手紙の場合でもほとんどは、賢兄、老台などとして、「岡澤精殿」と書くことはなかった。しかしこの粟屋からの手紙では、「岡澤精殿」としてあって、精にたいする様子が少しちがっている。この手紙の文面から具体的な内容は分からないが、精の家のプライバシーにかかわることと思われる。それぞれの名前に肩書きはついていないが、寺内正毅はこのときの陸軍運輸通信長官、児玉源太郎は陸軍次官で、粟屋幹はこの数年後、山口県の陸軍歩兵第四十二連隊長となった陸軍大佐。乃木希典日記の明治二十七年二月三日のところに「帰後岡澤来訪、粟屋の事なり」とある粟屋と思われる。この粟屋幹については、『明治天皇紀』(第一〇巻)に次のような記述がみられる。

「……、然るに歩兵第四十二連隊長粟屋幹・同連隊附二等軍医林俊道等が馬蹄銀を掠略隠匿せるやの容疑、比ろに至りて暴露す、時に男爵児玉源太郎陸軍大臣たり、恐悚措かず、上表進止を請ふ」とあり、北清事変で「日本軍の勇敢さと規律の正しさは、列強軍隊の略奪騒ぎのなかで賞賛を博した」(『日本の歴史』第二二巻)にもかかわらず、日本軍の連隊長が貨幣の一種、馬蹄銀を略奪していたのである。この北清事変ではこれに参加した第十一師団(衛戍地・香川県)の一部にも同じようなことがあり、師団長の乃木は責任をとり休職になっている。粟屋のばあいは児玉が陸軍大臣のときの調査では分からず、寺内が陸軍大臣になったとき判明した。児玉としては個人的にも知りあいの粟屋がやったことで、同郷の先輩、北清事変の軍司令官・山口素臣にたいしても強く責任を感じていたと思われる。明治帝は山縣を呼び、児玉が提出した進退伺いについて相談した。長州閥の不明朗な人事の結果で、児玉や寺内も時には人をみる目のないことがあった、ということだろう。

 岡澤精は日清戦争のとき陸軍中将になったが、戦争終了後、本土にいて兵站面で功のあった児玉源太郎の中将昇進は、山縣の奏請にもかかわらず明治帝の意志で見送られた。長谷川好道や西寛二郎のような児玉の先輩にあたる少将を差しおいて昇進させることに明治帝は反対したというのである(『明治天皇と軍事』渡辺幾治郎)。山縣はこの処置に不満で、参謀次長・川上操六の差し金かと疑い、山縣と川上の仲はこのためいちじ不穏になり明治帝を悩ませたという。

 明治三十三年十二月に、台湾総督の児玉は桂太郎の推薦で陸軍大臣を兼任することになった。これは暫定的処置だったが、この兼任がながびき、児玉は明治帝の不評を買うことになった。『明治天皇紀』(第一〇巻)には、

「夫れ(注・兼任を指す)或は台湾に於ける諸事業をして一時停頓せしめ、延いて之れを退縮せしむるの虞なきやを憂ふと、此の他陸軍会計変改の事、清国事変鹵獲金賜遺の事、第五師団兵復員奏上遅延の事、火薬庫の焼失を奏上せざる事等につき叡旨を漏したまふ所あり」との記載がある。

 この兼任の結果、陸軍大臣の児玉と参謀総長・大山巌のあいだでも行きちがいが起きた。児玉は大山参謀総長に相談することなく、独断で台湾守備兵の人数を減らし、その浮いた額を軍備修正および人件費増にまわし予算案を作成して議会に提出したというのである。

「然るに台湾守備兵の増減は、事国防に関係するを以て、予め参謀総長の同意を得ざるべからざるに、源太郎軽忽(軽率)事を決して之れを総長に謀らず、然るに参謀総長侯爵大山巌は、目下世界の注目悉く東亜に攅まるの際、台湾守備の兵力は之れを増すことあるも、苟も減ずべからずと為し」(『明治天皇紀』第一〇巻)、二人の意見が衝突し、天皇を悩ませたというのである。

 確かに日露戦争では、奉天の会戦で勝利を収めたあと、このことを奏上するため日本にもどった児玉は、「政府に向かって第一に強調したことは、このうえ貧乏国の日本が戦争を続けたらどうなると考えているのか」(『日本の歴史』第二二巻 中央公論社)と説き、戦局収拾のときを主張した。しかし児玉を動かす大きな力はそうした児玉の良識を相対的に弱いものにしてしまったようである。

『明治天皇紀』にある児玉源太郎に関する記述をみると、山縣や軍国主義時代を経てきた者が児玉を見る目と、明治帝が児玉を見る目とには、心なしか微妙なちがいが感じられるように思う。

 

 侍従武官長に専念した日露戦争

 明治三十七年五月、留守近衛師団長だった乃木希典は第三軍司令官に任命されたが、このとき侍従武官長の精が第三軍司令官になる可能性のあったことは前に書いた。精と乃木の関係は深かったが、二人の個人的関係について乃木自身が話したものがある。

「明治十六、七年頃からの交際であるが、第一、年齢も違うて同じ山口県で大将(岡澤)は萩で私は長府の出だから始めのうちは只交際をしてゐたと云ふに過ぎなかつたが、大将が第一師団参謀長だつた頃私は十四連隊長から一連隊長に転じ、大将が侍従武官長となつてから極めて親密に交際を願つてゐた」(『中央新聞』明治四十一年十二月十四日)

『乃木希典日記』(和田政雄編 昭和四十五年 金園社)によると、乃木が陸軍卿・山縣有朋の伝令使をしていた明治八年五月、精が近衛局参謀だったときに会ったとの記録がある。しかしこのときは名前を岡崎と間違えて記入してあるところもあり、親しくしていたわけではないらしい。日記によると、親しくつき合いはじめたのは明治十一年ころかららしく、乃木が熊本鎮台から東京鎮台の歩兵第一連隊長に転じたときのようである。このとき精は東京鎮台幕僚参謀長で、麹町富士見町の官舎に家族とともに住んでいる。このころ山縣も同じ富士見町に住んでいて、乃木は山縣を訪ねると、精の家にも立ちよっていたようである。

 乃木は仕事だけでなく、年賀の挨拶にも山縣の家にはしばしば出かけているようだが、山縣が元帥になってからは、恒例の六月十四日の山縣の誕生祝賀会にもほとんど出席していないらしい。山縣が政治にかかわっているのを乃木は嫌っていたようにもみえる。これは寺内正毅にたいしても同様で、寺内の新築した屋敷に招かれたとき、悪気はないらしいのだが、乃木は天井が高すぎると批判して寺内と喧嘩になり、その場にいた精が仲裁に入り収まった、との話を精の三男・精三は聞いている。前原一誠と萩の乱に加わり、明治九年に賊徒として死んだ弟・真人のことが乃木の心のどこかにあり、「世論ニ惑ハス政治ニ拘ラス……」との軍人勅諭の起草者、山縣への消極的反抗となったのかもしれない。

 乃木が赤坂新坂町に住んでいたことに関係があったのかどうか分からないが、姫路勤務を終え東京牛込の払方町に住んでいた精は、明治二十七年末に乃木と同じ赤坂新坂町に移り住んでいる。家が近くなったこともあり、乃木は休職中、那須野に閑居しているときも、東京にもどってくると、よく精の家の台所に大根などを放りこんでいったようだ。乃木の日記にも、「一二時二三分那須野発帰京、玉菜・味噌・麦四俵等持帰ル、夜岡澤中将ヲ訪、玉菜壱ツ贈ル」といった記述がある。精の三男・精三の記憶にも、精の前にきちんと座って話をしている乃木の姿がある。

『乃木希典日記』では精が姫路にいるときや、乃木が熊本にいたり、ドイツに留学しているときは別として、東京にもどった明治三十四年からはふたたび二人の行き来の記述が復活する。侍従武官長として仕えるようになった精をとおし、乃木はいっそう明治帝を身近に感じたと思うし、乃木のこともしばしば明治帝に伝わっていただろう。

 明治三十五年十一月、熊本の大演習にむかう天皇に休職中の乃木も供奉することになった。かつて乃木が熊本の師団にいたからとの理由だけでなく、精の進言もあったと思われる。大演習の行なわれる熊本へむかう途中、天皇の一行は山口県の長府に立ちより、行在所となった旧豊浦藩主・毛利元敏の屋敷で体を休めた。『明治天皇紀』(第九巻)にはこのとき使った特製の安楽椅子が天皇のお気に召し、精の口ぞえで献上し旧藩主の毛利元敏が喜んだとある。これに気分をよくしたこともあるのだろう、旧豊浦藩の家臣だった乃木は、このあとの車中で、侍臣たちが勅題に応えて詠進歌を差しだしたとき、これに自作の歌を添え精の手をへて明治帝にわたし、その一つが明治帝の添削をうけ、精の手から乃木に返されるという前例のないできごとがあった。

 この話は、歌を詠むのを得意とする山縣に捨ててはおけないことだったらしい。

「……此ニ腰折両首、相認めさし出申候、被供乙夜御覧、併而奉仰高評段、御内奏所願候、是ハ乃木中将和歌之例ニ依候 余事譲拝光」との手紙を山縣はさっそく精宛てにだし、彼の詠んだ歌二首を乃木の例にならって天皇に添削してもらうよう頼んでいる。

 このことがあってから、山縣は精が亡くなるまで何回となく自作の歌を天皇にみせ、添削してもらうよう精宛てに手紙を書いている。歌人としての評価も高かった山縣が、わざわざ天皇に手を入れてもらうよう、侍従武官の管掌外と思われることを侍従武官長の精をとおして頼んでいる。日露戦争のとき第三軍司令官として出征するはずが、陸軍がバラバラになるからといって、山縣は精をその任から離さなかったというのだが、精がいなくなることで、山縣自身が明治帝から遠ざかるような気持ちになったのかもしれない。

 明治四十一年十一月、奈良の大演習に供奉した老体の山縣に、天皇は土瓶に入れた葡萄酒を与え、寒気をふせげと精をとおして伝えたというが、その気持ちを山縣は、「山風に寒さふせけとたまひたる此のひとつきそ骨にしみける」(『公爵山縣有朋伝』〈徳富蘇峰〉、『明治天皇紀』は「山風の寒さふせけとたまはりし此のひとつきは骨にとほれり」)と詠んでいる。山縣は明治帝とのつながりをひたすら望んでいたのかもしれない。精が明治帝からの言葉を山縣に伝えにいくと、彼はいつも涙を浮かべて聞いていたという。精をとおして感じる明治帝に山縣は、枢密院で議事審議中仮眠する晩年の明治帝をみてはいないようである。

 山縣と同じに、精をとおして自分をみる明治帝の姿を思い浮かべ、乃木もまた「天皇の武士」である自分を確認していたのかもしれない。

 明治四十一年十二月の精の葬儀のあと、学習院長だった乃木は、東宮武官長の村木雅美と第一師団司令部へもどったが、このとき葬儀の模様を取材した新聞記者と乃木の話の様子が『毎日電報』にのっている。第四師団長の井上光(日清戦争では第一軍司令官・大山巌の下で参謀長を務め、日露戦争では第十二師団長として黒木為楨の第一軍に加わった)がこのとき危篤で、そのことが話のきっかけとなった。

「……、『井上は却々真面目にやる方でネ、いい大将で』と後は言葉が消えて大将(乃木)の顔に憂色がある、話が切れたので記者の方から口を切ると大将又語る『今日は皇太子殿下の御召で今から行くのだが実に忙しいです、モウ岡澤の家にも行く暇はあるまい、……』と話すうちに通りに出て、もう第一師団司令部の前に来た、『やァ今日は失敬』と大将、で『左様なら』をやると大将はクルリと向いて剣を長靴にバタつかせ乍ら中将(村木)と司令部の門を潜られた」(『毎日電報』明治四十一年十二月十七日)、この記事の見出しは「乃木将軍の長嘆」となっている。

 結局、精は日露戦争に従軍する機会を失った。日清戦争のときは軍事内局長として大本営にあり、この戦争にかかわるような文書をいくつか残しているが、日露戦争のときの侍従武官長・岡澤精にはそのような文書は見当たらない。参謀として身につけていた精の知識程度のものは明治帝自身すでに身につけていただろうし、侍従武官長・岡澤精の力が大本営で大きくなるのは、組織的にも軍部の方針としても具合が悪かったといえるのだろう。

 兵馬の権を一手に握る大元帥が、

「今回の戦は朕が志にあらず、然れども事既に茲に至る、之れを如何ともすべからざるなりと、更に独り私語したまふものの如く、語を継ぎて宣はく、事万一蹉跌を生ぜば、朕何を以てか祖宗に謝し、臣民に対するを得んと、忽ち涙潸々として下る」(『明治天皇紀』第九巻)といった状態に置かれるほど軍の力も大きくなっていたわけである。

 当時、宮内省御用掛だったドイツ人医師ベルツは、その日記のなかで、日本の政治体制は天皇に「ありとあらゆる尊敬を払いながら、何らの自主性を与えようともしない」と書いているという(『日本の歴史』第二二巻)。このことは、「天皇は政府以外に独自の執行権をもたず、国務に関する大権行使はすべて国務大臣、したがって政府の同意なくして行使しえないのであったから、大臣の任免権はもっていても、政府にたいする君権はおのずと制限されざるをえなかった」(『皇室制度』鈴木正幸 平成五年 岩波書店)ということになり、天皇の意思は軍部にも政府にも思うように伝わらないことになる。

 明治三十七年九月二十八日、乃木の第三軍は二〇三高地のロシア軍陣地に第二回総攻撃を行なったが、目的をはたせなかった。このあと、天皇は満州軍総司令部から三〇〇キロ以上も離れている第三軍を大本営直属の指揮下に入れるよう桂総理に命じた。しかし参謀総長の山縣や寺内陸相と相談した結果、桂は侍従武官長の精を伴い、この命令に服せないことを奏上した。天皇はさらに満州軍総司令官の大山と話しあうよう桂に命じたため、桂はその一カ月前、天皇が総司令官の意向を阻み第八師団を旅順でなく遼陽にむかわせた例をあげ、大本営と満州軍総司令部の意思疎通を欠く恐れがあるからとこの命令の中止を願いでた(『明治天皇紀』第一〇巻)。それから二カ月ほどのちの十一月二十二日、満州軍総司令部は第三軍に、「如何に多大の犠牲を払ふことあるも、必ず陥落せしめずば已まざるの決心を以て断行すべきこと」との命令をくだした。

 少なくとも実戦の経験は乃木より古く、児玉源太郎が学んだドイツの参謀将校・メッケルの講義に口をはさみ、そこにいた士官生徒たちを感心させた(『東京朝日新聞』明治四十一年十二月十三日)ほど参謀としての能力のあった精にすれば、長いつき合いのある乃木に、どの程度の作戦・指揮能力があるか分かっていたのではないかと思われる。

 明治三十七年九月七日、参謀本部次長の長岡外史が樺太出兵の派遣軍編成を諮ったことがあり、寺内陸相は長岡に説得されてこれに賛成し、参謀総長・山縣は侍従武官長の精と相談することを条件にこの案に同意した。長岡は精がこの案のとり次ぎを拒否したため自分で明治帝に直接上奏したのだが、天皇も自分で決めず桂総理にこのことを諮った。このため山縣は気分を損ない、「参謀総長に就任してより信を陛下に薄うせり」と長岡にいったという(『明治天皇紀』第一〇巻)。しかし、結局は翌年六月に日露講和条約の話がでると、長岡は小村外相とともに講和条件を良くするため、樺太占領案を満州軍総参謀長の児玉に相談し、児玉の賛成を得ると即刻実行に移し、条約締結前に樺太全土を占領した。この案には海軍も反対し、山縣参謀総長も消極的、精も反対したのだが、長岡に代表される軍の力はこれを押しきり、利権拡張路線は前進した。「ロシアは講和の話合いが進んでいるときに無防備の樺太を攻撃するのはけしからんと非難した」(『日本の歴史』第二二巻)というが、結果的には八月一日、「……汝等将卒ノ行動敏捷ニシテ偉大ノ効果ヲ収メタルヲ嘉尚ス」との勅語が、精の手を経て長岡に下されることになった。日清戦争後の三国干渉で西公使がロシアの外相・ロストフスキーから得た感触、日本が遼東半島を手にすれば朝鮮・満州にも力を及ぼすだろうとの危惧の念は、米・英のロシアにたいする思惑もからみ表面化することはなかった。日露戦争でもアメリカの思惑が働き日本には有利な展開となった。

 昭和時代の大本営陸軍部作戦課長・服部大佐は、

「平和の探究は、それが戦争指導の責任当局において考えられる限り当然なことであるが、直接責任の衝にない人々によって行なわれることは、たとえそれが善意によるものであっても、ややもすれば国内に敗戦・反戦の思想を起こす弊に陥り易いものである」(『日本終戦史 上』林茂編 昭和三十七年 読売新聞社)といっているが、明治時代も日露戦争のころになると、幕末の日本人同士が敵味方に分かれ戦っていたときにみられた惻隠の情のようなものはすでに薄れ、戦争の技術的な面だけが前に押しだされているようである。

 明治二十八年五月、明治帝が宮中顧問官の佐々木高行に話した言葉のなかに、「我が兵の忠勇義烈なるは、各国にも比類稀なる事なり、其の代り随分駕馭し難き点もあり」(『明治天皇と軍事』渡辺幾治郎 昭和十三年 千倉書房)というのがあり、軍の力が明治帝の手にも負えぬ存在となりつつあることを示唆している。戦いにたいする明治帝の消極的な姿勢も、軍関係者には、ひ弱な公家気質と、裏ではみられていたのかもしれない。

 明治帝の意思すら無視されるような状況はなお続いていたといえるのだろう。

 日英同盟は明治三十五年に成立したが、このとき日露協商締結のほうに賛成した伊藤博文や井上馨が、三国干渉のとき、日本の利益線拡大傾向に示すロシア側の危惧を感じた西駐露公使の電文を事実として受けとっていたとすれば、東洋における利害が一致するとして日英同盟に賛成した桂太郎や山縣有朋、それに小村寿太郎の姿勢は、帝国主義的方向を意図していたといえるのかもしれない。精が日清戦争のとき大本営で処理した文書に色濃く残っている人道主義的なものは、長州藩の来島又兵衛や大村益次郎から受け継いだもののように思うが、この明治のなかごろには既に古風といわれるものに変わっていたのかもしれない。儒教的で、民族的なものも超えた人間的なものも、幕末以来日本が置かれた危機的状況もあって、中国という国さえ超えた世界的な思想まで、日本固有のものでないとして後ろに押しやられる結果となった。

 明治三十七年六月十四日、椿山荘で催された恒例の山縣元帥の誕生祝賀記念小集会で、精は北越戦争のとき属していた振武隊の記録を、山縣の配下だった元奇兵隊司令の三浦梧楼に訂正させられるということがあった。すでに前年の九月、山縣は北越戦争についての振武隊の行動記録を精からもらい、それについては礼状までだしており、この件は処理済みだったはずである。ところがこの日、北越戦争のことをふたたび精に尋ね、彼が使ったらしい長州藩元儒役の書いた振武隊記録の誤りを精に人前で訂正させ、そのことを自著、『越の山風』にくわしく記録したのである。

「便ち岡澤大将の記述する所は其の結構の整々然として猥りに駁撃を容さざるの観あるにも拘らず、到底之を是認することを得ざるなり。三浦中将より聞く所によれば三十七年六月十四日、我が椿山荘に小集を催ふしたる折、中将は岡澤大将に右の報告をとり消すべき旨を勧告し、大将も遂に之に従ひたり・・・」(『山縣公遺稿・越の山風』日本史籍協会編 昭和五十四年 東京大学出版会)

 この本が公になったのは大正期に入ってからだから、明治四十一年に亡くなった精にこのあたりの事情を自分で説明することはできなかった。

 三浦梧楼(五郎)が精の記憶違いを遂に精自身に訂正させた、と山縣は書いている。これからも精が強く抵抗したらしいようすが窺える。恐れずにものを言う三浦にしてみれば、精の腰の低さばかりが印象に残るできごとだろう。この精の過剰とも思われる低姿勢は、妥当でないと否定されてはいるが、見る者により便侫(口先が巧みで、人の気にいるように立ちまわる)との評価を抱かせたかもしれない(『大阪毎日新聞』明治四十一年十二月十六日)。

 明治帝の信任の厚かった侍従武官長への度をすぎるような山縣の攻撃は、山縣の力の強さと、彼と精の関係の強さをより鮮明にしたことだろう。

「山縣が独り宮内省を専らにすると云ふことは、伊藤さんも非常に心配して居られる」(『観樹将軍回顧録』三浦梧楼)と、山本権兵衛は三浦に話していたという。

 山縣は明治四十四年、彼の前任の奇兵隊総管だった赤根武人を、奇兵隊への貢献を考え高く評価しようとする動きのあったときもこれに激しく反対し、その計画を退けたという。

 山縣の念頭に、精のいた振武隊に名を連ねた伊藤の父・十蔵のことがあったとすれば、このころ振武隊代表格となっていた精の頭を叩く必要はあった、といえるのかもしれない。精と明治帝とのつながりを意識する山縣が、より近く精を自分の方へ引きつけようとしたともいえるだろう。伊藤博文の娘婿の末松謙澄が大正九年に刊行した『防長回天史』の津川の戦いに関する記述が、簡略で要を得ていることを考えると、精の記憶ちがいにたいする山縣の対応の仕方は普通でないように思える。

 結局、精は、山縣の強い権力意志とは関係なく、兄・市之助と幼友達であったかもしれない山縣を、兄弟のように思っていたとも考えられる。精の父・甚内や兄の早逝があり、幕末の動乱も重なって、精は萩の実家にほとんど戻らなかった。このため祖父弥一右衛門のことなどほとんど知らずにいたようだし、身寄りに士分の者のいたことも気づかなかったようだ。山縣はその伝記にもあるように、彼と精の父親同士が知りあいで、彼の父・有稔は有朋が二十三歳になるころまで存命だった。ばあいによれば山縣は精以上に精の家のことを知っていたのかもしれない。明治十二年ころまでにみられた、長州人らしくない芒洋とした精の伸びやかさのようなものは、山縣と再会した明治十二、三年ころから何となく薄れたように思える。

 精には西郷隆盛のように「敬天愛人」といった明確な思想の自覚はなかったが、それに通じそうな資質は備えていたように思う。精の後任の陸軍次官で、参謀としても優れた才能をもつ八歳下の同郷の児玉源太郎に、精は先輩の参謀としても、自分が受け継いできたなにかを伝えたいという気持ちはあったと思う。日清戦争の大本営軍事内局長だった精が、彼の手元に残しておいた児玉次官から山縣陸相に宛てた電文の写しにも、その幾分かが感じられるような気がする。そこには精個人ではなく、明治帝の意思の在りかも示しているように思える。しかし、蝦夷へ、琉球へ、朝鮮へ、満州へ、支那へ、印度へと押しだそうとする吉田松陰の教えを識る山縣にとって、そのような姿勢は好ましいものとはいえなかっただろう。

 明治三十七年九月、外国通信社が日本軍に不利な報道を流し、満州軍総参謀長の児玉は責任を感じ辞表をだしたが、このとき、総司令官の大山に山縣が訓電した内容は、「……唯帝国ノ存立ヲ安全ナラシメ東洋ノ平和ヲ保障シ文明ノ徳沢ヲ普及セシメ人道ヲ扶殖シ……」(『明治天皇紀』第一〇巻)といった文面で、十年前、遼東半島に上陸した第二軍司令官・大山巌が、精の起草文をもとに指揮下の各師団に訓電したものとよく似ている。これをみていると、侍従武官長ではなく、参謀総長・山縣の考えで天皇を動かし、それが大本営の方針となるよう組織替えを図った、と考えをめぐらすこともできそうである。

 山縣は、「満蒙におけるわが国の帝国主義的権益の擁護については積極的であったが、しかし、外交一般については彼(山縣)の意見は防衛的、協調的色彩が強かった」(『山縣有朋』岡義武 昭和三十三年 岩波書店)という。しかし日露戦争の講和会議は、自分では動こうとせず、この戦争に消極的だった伊藤を行かせようとしたようすがみえる。

 明治三十八年六月十九日、講和全権委員の人選がおこなわれた。伊藤・山縣・松方・井上馨・桂・山本権兵衛・小村・寺内の八人が協議し、伊藤・小村に決まったが、伊藤はこれを拒み、このため桂首相は伊藤を説得するよう明治帝に頼んだ。このとき、明治帝の使いで伊藤のところに行った精のことを、当時、陸軍中央幼年学校生徒だった、精の三男・精三が話している。

 精は勅旨を伊藤に伝えに行ったが、伊藤はこれを一週間も拒みとおし、結局、小村と高平駐米公使が出席することになった。精は伊藤と天皇のあいだに一週間も板ばさみになり、このため頭に血がのぼって一週間も寝こんでしまったという。精が使いで行ったため、伊藤は山縣の差し金と思い、全権委員になるのを拒んだのではないか、と精三は推測している。山縣は責任を回避することが多いと三浦梧楼などはいっている。伊藤についても勝海舟などは「その胆力に至っては、(井上馨と比べて)伊藤などはとても及ばない」(『氷川清話』勝海舟・勝部真長編 昭和四十七年 角川書店)といっている。

「君の帰朝のときには他人はどうであろうとも、わが輩だけはかならず出迎えに行く」(『日本の歴史』第二二巻)と伊藤は小村に言ったというが、当時の最高実力者である二人のとった姿勢から、かつての武士たちの匂いは漂ってこないように思う。

 伊藤は日本が満足できるようなかたちで講和条約を結ぶことはできない、と知っていたということだろう。

 明治二十三年十二月の第一回帝国議会で施政方針演説をした山縣総理は、国家の独立を保持し国勢を振張するためには、主権線と利益線を確保しなければいけないと話し、日清戦争が終わったときには、主権線の維持から利益線の拡大に軍備の目的を置いている。

「朝鮮、遼東半島から遠くはるかインドに飛び、彼の胸中に幻となって去来するものは『東洋の盟主』日本の面影であった」(『山縣有朋』岡義武)というのが山縣の夢だという。そしてこれは、明治三十九年に上書した山縣の国防方針私案、

「我が国防の本領は、陸海両軍の誠実なる協同に依り初めより攻勢作戦を為すに在り、守勢作戦を為すは情況已むを得ざる場合に限るものとす」(『明治天皇紀』第一一巻)につながることになる。

 このことはまた、明治帝が生前に了解していた緊縮予算方針も、明治帝の崩御とともに無力化し、それ以後の軍備拡張路線に歯止めがなくなる、ということになる。

 三国干渉で、遼東半島放棄を涙をのんで承知した、と表現し、軍費賠償放棄、占領した樺太も半分を放棄するという日露講和条約について、屈辱的と感じたのも、その遠因は、侵略者と決めこんだロシアが危惧していた日本側の利益線拡大、主権線拡大への一方的な姿勢、これを正しいものとする日本側の意識に原因があった、とみることもできそうである。日本に好意的だった米・英にしても、結果的には日本の拡大政策に危惧の念をもっていたわけである。

 

『大阪朝日新聞』の、「主客殆ど転倒し、彼和を請うにあらずして、我和を請うに至りたり」にはじまり、「弔旗を以て迎えよ」(『万朝報』明治三十八年九月一日)、「国民と軍隊とは全く桂内閣及び小村全権に売られたり」(『報知新聞』明治三十八年九月三日)とあるように日本の世論は憤懣に沸き、「君国挙げて焦土と化するも、屈辱に類する平和を結ぶべからず」という戦地の将兵のなかには、「我等は断じて凱旋せず」(『児玉源太郎』宿利重一)と憤る者もいたという。

「もはや政府のコントロールはきかなかった」(『日本の歴史』第二二巻)。この屈辱的とされた講和条約に反対する運動は、小村が桂首相に伝えたように、「講和に対する国民の不平はずいぶん激烈であろうが、断乎として実行せられるよう願いたい、必要とあらば戒厳令を布いてもやってもらいたい」との言葉どおり、九月六日には東京近辺に戒厳令がしかれることになった。

 この前日の日比谷公園の喧騒とした様子は、明治帝の執務室にも達し、

「天皇安座に堪えさせたまはざるものの如く、椅子を離れて歩を入側に移し、頻りに両所の間を往反して耳を騒擾に傾けたまふ」(『明治天皇紀』第一一巻)とあり、このときの様子を精の三男・精三は昭和三十六年に、当時防衛大教授だった吉武敏一に次のように話している。

「陛下は自分で馬を乗りだして鎮圧に行くとまで仰ったらしいですがね、お止めして。親父が今晩は宿直を、殿居をいたしましょうか。そうしてくれれば有難いとおっしゃって、それから恩賜の軍刀を下げまして夕方行きました。その時は親父も何だか心細かったらしいんで、その日丁度日曜日でしたな、私家に帰っていました。……」

 精は公私の区別がやかましかったので、それまで身内の者を一度も同じ馬車に乗せるようなことはなかったが、精はこのときだけは息子の精三を市ケ谷の中央幼年学校まで馬車に乗せて行ったという。

「午後十時、侍従武官長男爵岡澤精参内し、側近に上直す、是の夜、天皇侍臣をして屡々其の状況を問はしめたまふ」(『明治天皇紀』第一一巻)

 この民衆のエネルギーは噴出する方向をまちがえた、と『日本の歴史』(第二二巻)の著者・隅谷三喜男は書いている。「世論を指導したのが戦争継続派であったため、一方では軍部を激励し、他方では鬱憤を感情的に爆発させるに終わってしまった」というのである。

 

 愛妻シマとの離別

 幕末の長州藩で活躍した諸隊はいくつかあるが、最終的には第二次世界大戦が終わるまで、日本軍の基礎をつくりその方向づけをした山縣有朋の育った奇兵隊が中心に日の目をみて、そのほかの諸隊は藩正規軍、正規軍に準じる干城隊についてもほとんど日の目をみていない。精などと南園隊創設に加わり、初代総督となった士分の佐々木男也も、幕府征長軍と戦ったときの負傷がもとで南園隊を離れてからは、自分の創設した南園隊についてほとんど語ることなく明治二十六年に亡くなっている。いちじ南園隊の後身の振武隊総督となった井上馨にしても、この隊に最後まで関係しなかったためか、彼の伝記で少しふれただけで、振武隊のことを詳しく話しているものは見当たらない。伊藤博文も父の十蔵がいた南園隊や振武隊についてほとんど語っていない。このようなこともあり、新潟や会津で戦い命をなくした竹本多門・石川厚狭助・林貫一・井上奨輔・岡崎高槌・向田礼蔵・吉村金太郎など司令や嚮導だったものなど大勢の隊員たちへの評価も、相対的に低いように思う。

 このように考えると、振武隊出身の軍人としてひとり明治陸軍の将官となった精が、なぜ自分のことを差しおいてでも仲間の隊員たちを顕彰してやらなかったのだろうかと思う。振武隊中隊司令として戊辰戦争を戦いぬき、そのなかで参謀としての能力も身につけてきた精である。

 

 明治四十一年に精が亡くなったとき、彼の死去を悼む関連記事が、約四十種類の新聞に、それも死亡から葬儀の終わるまで、なかには後任の侍従武官長の下馬評から、児玉源太郎の冥土近信(『東京朝日新聞』明治四十一年十二月二十一日)といったものまで入れるとほとんど四日間連続で、一段か二段をつかってのせられている。

「故大将は侍従武官長の栄職に有り乍ら己に奉ずる事極めて薄く、一言一動悉く古武士の俤ありて、空言を忌み虚飾を厭ふ事亦甚だしかりき、生前曾て折に触れ、往々新聞紙の死去広告に、死者の遺志に拠り贈花放鳥の儀は一切御断り申候と断り置くに拘らず、其当日之れを見れば華麗なる生花造花を以て葬列を飾る者多く、御断り広告が催促広告か一寸判断し難き有様なるが、斯かる事は只形式ばかりでは何の益も無し、と常に似ぬ皮肉を言はれし事あり」(『読売新聞』明治四十一年十二月十四日)

 生前の精は、ちょうど勤倹の詔勅が出ていたこともあり、自分の葬儀は質素に行なうよう指示もしていたようで、このようにマスコミが大騒ぎすることは誰も予測していなかった。

「大将(精)は直接君側に奉仕さるる様になってから後、時に一隊の兵員を率いて何かなさると云ふ様な事のなかったのに、此の如く名声の聞えて居る人なのですから……」(『東京朝日新聞』明治四十一年十二月十四日)と土方久元も思いがけない反響に驚いたようである。

 もちろんこれらの記事のなかには、精について流れている批判的なうわさを取りあげているものもあるが、何れもこれを打ち消す某将軍らの談話で確認できるだけである。

「岡澤の性質は自分の見る所では単純であつた、随分陰険だといふ様な評をする者もあるが、自分は左様に信じない、特に長州人としては最も(わだかま)りのない軍人であつた」(『東京朝日新聞』明治四十一年十二月十三日)

 明治十六年に近衛参謀長となった精が、近衛都督の小松宮邸で開かれた茶会で、濃茶をひとりで全部飲みほしてしまうようなエピソードも、精の武骨な一面をつたえるだけで、『中央新聞』(明治四十一年十二月十四日)にみられるような「天皇の大寵臣」といった表現から受ける印象をうち消している。

 西南戦争以来、目立つような戦功もなく、出仕に使う幌馬車も中古品で、ボロ馬車と陰口をたたかれるような日常だったが、明治帝も、「惜しき武士を死なしたり」(『東京日日新聞』明治四十一年十二月十四日)と口にされていた。

 

 このような評価を得ていた精が、ではなぜ自分の所属していた南園隊・振武隊出身者たちの力になりえなかったのかを考えると、やはり、山縣に代表されるこの時代の流れを思わないわけにいかない。

 長州藩の内戦のとき、数倍する藩政府軍と戦うため、頭を剃ってひとり下関の長府を出発した奇兵隊の軍監・山縣が、「呉竹のうき世をすてて杖と笠おもひたつ身ぞうれしかりける」と詠んだ心の底には、「武士道と云は、死ぬことと見付たり」との『葉隠』の一節が浮かんでいたように思われる。あと実行すべきことは師と仰ぐ日本の兵法家・松陰の示してくれた教えにそい、松陰の忠義の哲学にある天朝、理念化された天皇に忠義をつくすこと、水戸学でいう尊王思想、儒教的なものの一部を外した皇国主義をつらぬくこと、そして日本の危機的状況を回避していくことである。

「彼(山縣)は維新後の国家体制の建設者の一人であった。この体制は天皇をその象徴とし、現人神としての天皇への忠順がこの体制の基本的モラルとされた故に、天皇は理念化されて彼の尊崇の対象となったのである」(『山縣有朋』岡義武 昭和三十三年 岩波書店)

 山縣にとっての精の役目は、明治帝とのつなぎ役を立派にはたすことであり、精のもつ人間的なものは、山縣がもつ漢学的素養でことたりるわけである。

 

 精が亡くなった明治四十一年十二月、『読売新聞』にのった精の葬儀関連記事のなかで、次のような記事が目に入った。

「斯くて宮家の十七対、親族二対を残す外の寄贈花は一足先に斎場へと送りしが、特に目立ちて見えしは諸星家よりの白の大牡丹花にして、今は岡澤家より去りて築島の一茅屋に憂き年月を涙と共に送れる諸星しま子の身の上を偲ばしめて一入哀感を催さしめたり」(『読売新聞』明治四十一年十二月十七日)

 精の死亡関連記事を扱った四十数紙のなかで、精の妻・シマについて触れていたのは『読売新聞』と『やまと新聞』だけであった。『やまと新聞』はシマがわび住まいする築島(月島)まで出向いて取材している。「今は岡澤家より去りて……」と書く『読売新聞』は、このころ尾崎紅葉の「金色夜叉」を連載するなど、通俗的で庶民的モラルを扱うのが特徴だったということで、精とシマが別れたいきさつも知っているのではないかと、かなり古い記事にまで遡って探してみたが、その詳細を報じる記事はみつからなかった。精は日記のようなものは一つも残さず、シマの件もこのまま闇に葬ろうとする姿勢が、精自身の判断にもあったようである。このころはそういう時代だった、ということなのだろう。

 

 第二次世界大戦が終わり、日本が敗戦国となってから公刊された『明治天皇紀』により、明治時代に生きた人々のそれまで知られなかった部分が表に出て、この時代の群像にたいする理解は少し変わったのかもしれない。しかし日清・日露の戦争で負けなかった軍国日本を知る者にとって、これらの戦争をとおして作りあげられた立役者に関する強いイメージは、容易にぬぐい去ることができないように思う。

 

 明治三十一年、精の長男・精一は、関東財界の元老といわれた米倉一平の娘と結婚し、長女の(ちょう)は米倉の息子のところに嫁いだ。米倉は豊後(大分県)日田の出身で、同郷の長三州と知りあってから、奇兵隊に入った長三州をとおし長州閥とのつながりができ、さらに薩摩の西郷吉之助とも知りあいになって、明治になってからは郷里の日田県知事となった松方正義と組んで仕事をし、財界での地盤をつくり、関東の米穀取引の顔役となった。明治三十二年には次男・精二が、元長州藩大組士で、大村益次郎の普門寺塾で学んだ木梨精一郎のところに養子に入った。木梨は扶持もちの侍として戊辰戦争のときは追討総督付き参謀として戦い、明治に入って山口藩御親兵が組織されると大隊長になった。そのあと内務省の役人となり、明治十七年には長野県知事にもなっている。さらに明治三十二年になると、精の次女・(とめ)が、幕末に都落ちした七卿の一人、壬生基修の子の基義のところに嫁いでいる。基義は陸軍少尉で、幼いころ明治帝の側に仕えたことがあった。

 精にたいする明治帝の信頼が高まるにつれ精の身辺はこのように華やかになった。しかしこれとともに、精にたいする陰湿な中傷も出はじめたようである。その一つに、前に書いた粟屋幹の手紙がある。精が亡くなったあとに残る数少ない手紙の一つにそれがあることを思うと、重要な意味を含んでいたように思う。この手紙から具体的なことは読みとれないが、粟屋は児玉源太郎や寺内正毅の陰にかくれ、北清事変の略奪行為が露見するまで利を貪っていたことになる。

 明治五年にシマは精といっしょになったが、それ以来、つぎつぎと子供が生まれ、男女あわせて九人の子宝に恵まれた。ときには乳飲み子がいて、三歳、五歳、七歳、八歳、十二歳、十三歳の子供が同じ屋根の下で同時に暮らすこともあった。長男が結婚した明治三十一年はいちばん下の子が五歳になったばかりだった。精の家庭生活は恵まれていた。子供が大勢いても精の俸給なら人並みの生活はできた。好きでいっしょになった精であれば、シマには結婚したころの昔の自分を振りかえる必要も、また余裕もなかったと思う。その生活が二十数年つづいたわけである。

「(精は)家庭に居りましては随分厳重な方で、軍人は何時如何なる艱難に出会っても屈しない様に平常からの躾が大切だと申して、自分は勿論、子供達に至るまで如何なる厳寒でも湯を以て洗面する事を許して呉れませんので、乳呑子を抱へておりました私は一番困りました」(『やまと新聞』明治四十一年十二月十六日)

 家庭以外のところに目のいく暇はなく、明治の顕官夫人の多くのように園遊会だの慈善パーティーだのに顔を出すようなことをシマはしなかった。シマにとっては精の世話をすることが何より幸せだったはずである。

 

 明治時代の一面を書いた長谷川時雨の『近代美人伝』に、この時代は芸妓の跋扈した時代だとして、

「芸妓の鼻息は荒くなって、真面目な子女は眼下に見下され、要路の顕官貴紳、紳商は友達のように見なされた。そして誰氏の夫人、彼氏の夫人、歴々たる人々の正夫人が芸妓上りであって、遠き昔はいうまでもなく、昨日まで幕府の役人では小旗本といえど、そうした身柄のものは正夫人とは許されなかったのに、一躍して雲井に近きあたりまで出入りすることのできる立身出世」と書き、このため中堅家庭の道徳は乱れたとしている。家柄の正しい家にまで彼女たちがはいり込み、家婦となり子女の母となって、市民の家庭生活にみられた善良勤倹な美風はこのため損なわれたというのである。

 華族女学校創設にかかわった下田歌子は、このころ妻女の資格として、(1)十分にその夫を助けるに足る教育のあること、(2)結婚前既に独立の財産のあること、(3)社交的修養ありて常に家庭の歓楽の乏しからざること、の三条を「日本婦人」と題する小論のなかであげている。

 シマにこの資格があったのかどうかは分からないが、家庭にあって子育てに追われつづけた二十数年は、彼女にとり満足できるものだったはずである。長男や長女が結婚し、次女も次男もそれなりに独立するめどがつき、末娘も七歳になって小学校に通うようになり、四十六歳になったシマには、僅かではあったが時間的余裕ができたわけである。その僅かな時間的余裕がシマの運命を大きく変えてしまったことになる。

 

 そのときシマが駆り出された行事が何であったのか具体的なことは分らない。おそらくこの明治三十三年五月十日にあった、皇太子嘉仁親王(大正天皇)御成婚の関連行事だったのではないかと思われる。宮中では夕方から祝賀会が開かれ、精のほうは公務として明治帝のそばに扈従していた。シマのほうはこの席に出ないで、山口県出身の在京軍人会の祝賀会か何かの手伝いに行ったのではないかと思われる。

 自分から積極的に動くほうでない精自身の判断で彼がシマに手伝いに行かせたはずはない。何年ものあいだこの種の宴席に顔を出したことのないシマである。彼女の過去を知る者などほとんどいなかったはずである。そのような彼女に誰が誘いをかけたのか、今となっては分からない。しかし、山口県出身の軍人のなかに、精の家のプライバシーに関わり、このような席にシマを誘い出そうとする者のいたことは考えられそうである。精について、「部下に対しては円満、何人とも衝突せず」と元上官の高島鞆之助もいってる。断る理由の少なくなったこのとき、精は軽い気持ちで彼女に手伝いに行くことを促したのかもしれない。

 軍人たちのこのような集まりに将校夫人たちが召集され、人手の足りなさを補うことがよくあったらしい。児玉源太郎が東京鎮台佐倉営所の司令官をしていたときにも、このようなことがあった。

「一夜、部下将校団の招宴に臨まれたところが、酒間を周旋するの女性悉く丸髷紋服、偖は将校等の家族と、大将きちんと膝を組み、応接丁寧、殆ど良家の誼を訂せられた」(『児玉大将伝』森山守次 明治四十一年 星野錫)

 シマもほかの将校夫人たちに混じってこのように酒席のあいだを歩いていたらしい。

 このときは朝廷の警備兵としての自負の強い長州閥軍人の集まりでもあったし、まして東宮御婚礼祝賀ムードが街じゅうに溢れているときでもあった。それに、その宴席は無礼講でいこうとの取り決めもあった。

 この席に精がいないことは分かっていたが、なぜ児玉源太郎がいて、乃木希典などがいなかったのか分からない。児玉は五月八日に任地の台湾から帰国し、五月十日の東宮御成婚の儀には出席していたはずである。

 児玉が精を知ったのは、精が近衛参謀長としてドイツの参謀将校・メッケルの講義に時々顔を出していたころで、口をはさんだ精の計略がそこにいた士官生徒を感心させたという話のあったころと思われる(『東京朝日新聞』明治四十一年十二月十三日)。精の後任で陸軍次官を務めるようになった児玉は、日清戦争のときには大本営にいた精と仕事のうえで何度も連絡をとりあっていた。しかし、乃木のように精の自宅にまで顔を出すようなつき合いはなかった。乃木にしても精とは五歳、児玉のばあいは八歳も精のほうが年長である。児玉は精の家庭内のことはもちろん精の妻・シマについても何も知らなかったはずである。

 この宴会には児玉や寺内正毅を味方につけ、精の家庭内のことに関わったらしい粟屋幹もいたはずで、連隊長だった粟屋がここでどのような役割を演じていたのかまでは分からない。彼はこのあと起きた北清事変で、彼自身が行なった金品略奪が発覚し、陸軍大臣だった児玉に進退伺いを出させるようなことをしている。

 児玉が佐倉営所の司令官をしていたとき招かれた宴会で、児玉は世話をしていた婦人が将校夫人ではなく芸妓の変装だったことをあとで知らされ、それ以来、彼は目の前の女性が芸妓かどうか見分ける方法をみつけた、と台湾総督時代の児玉について長尾年平は話している。

「総督が(茶台を運んでくる婦人を)じっと見て居られたが『おい此方ヘ持って来い』―私は思った―例にならはず如何に総督が今日赫々たる勢ひと雖も、奥さんたちに対して余り無礼な挙動と思ひ変に考へて居った」(『児玉大将伝』森山守次)

 そしてこのとき、児玉は婦人の人差し指の爪に三弦の糸道がついていることをみつけ、その婦人が芸妓の変装であると分ったというのである。

 児玉はシマのしぐさの何をみて、慎重さを欠き、軽率にものを言う、と山縣に評されるような行動をあの宴会でもとってしまったのだろうか。シマのほうにしても、児玉がいつもやるような映えない格好でやって来たため、児玉を知らないシマは彼を別人と見誤ってしまったのかも分らない。

 両人の間にもめ事の起きるようなきっかけが、どのような状況から生まれたのだろうか。その場にいた者すべてが目を向けるほどシマは際立ってみえたのだろうか、それとも、その場にいた誰かが、故意に児玉の目をシマに向けさせようとでもしたのだろうか。そのようにでも考えなければ、おおぜいの宴会出席者のなかでこの二人が偶然顔を合わせる機会はとても少なかったはずである。

 児玉らとシマのあいだに何があったのか、今となってははっきりしたことは分からない。しかしこのできごとを「一入哀感を催さしめ」と新聞記者に書かせるような結末へ運んでいった、そのときの宴会出席者たちの処理の仕方に、この時代の悲しむべき一端をみる思いがする。

 あらかじめシマのことを児玉が知っていれば、このような事態にはならなかっただろうし、そのことはシマにもいえる。シマが精の妻だと知っていた誰かが、このときのできごとをことさら大きくして、精の立場を悪くしようとしたのだ、と疑うこともできそうである。

 

「たかが女一人を–その財産を、自由を、子供の教育を、何もかもを、女と侮って、寄ってたかって、何のために押えつけようとするのであろう」と、桂太郎亡きあと、一人の女性として生きようとし、一方的な誓約書の承諾を求め怒鳴りつける井上馨に反抗するお鯉(安藤照子)を弁護し、長谷川時雨は弱い女性の側に立って『近代美人伝』のなかで書いている。もしシマが、伊藤博文を魅了した洋行帰りの戸田子爵夫人極子のように『女大学』を地でいくような良家育ちの貞淑な婦人だったのなら、不名誉な艶聞が流れてもじっと耐えたにちがいない。

 シマ宛てに差しだされた協議離婚の証文には、「従来品行其他ニ於テ不都合乃廉毫モ無キ次第ニ付」とシマの日ごろの行状が書きつけられている。これを書いた精や立会人に名を連ねる児玉源太郎の名前をみると、シマは自分のほうに非とするような行ないの無かったことを婉曲に児玉にも認めさせ、小学校に入ってまもない末娘や、小学生の四男など成人していない子供五人を残して精のもとを去ったのである。

「情の大将は書くに易い」と『児玉大将伝』にある。今までに伝えられているような児玉源太郎の人間像なら、児玉の心に深い傷跡が残ったはずである。徳富蘆花は、日露戦争のあとモスクワを訪ねてナポレオンを偲んだが、旅の途中で児玉の急逝を知り、奉天の大会戦で勝利しながら日本軍に戦争の終結を決心させねばならない立場に立った児玉を思い、ナポレオンとおなじように「勝利の悲哀」を知ったに違いないといっている(『日本の歴史』第二二巻)。

 恵まれた才能のある児玉に、この時代は公的な面でも私的な面でも、生身の人間の限界を超えるような大きな負担をかけたわけである。

 

 シマと離婚するような結末を精自身が選択したのだろうか。この時代の者がほとんど常識としていた男尊女卑の体質が精のどこかに潜んででもいたのだろうか。母と祖母、精の三人だけで過ごした、苦しかった幼い時代を思えば、母を思う子の気持ちは精には痛いほど分かっていたはずである。背曩をかついで這いずりまわる兵たちの苦労でさえ明治帝に伝えようとした精である。母を失う九人の子供たちの気持ちを察してやれないはずはない、と思う。

 

 確かに、「此君にハ妻子ヲ帰りみず、一命を捨テ屍ヲ土上ニサラシ」といい、「親・兄弟・女子・眷属一類を取集めても、必ず必ず、返々、くりかえしくりかえし、御主人様御一人にハかへ申な」とする『三河物語』にあるような古武士の姿を、精にみることもできる。しかしこの『三河物語』の内容について、現在では「儒教的な人倫の指導者という意識は少しもない」(日本思想大系『三河物語 葉隠』 岩波書店)と解説されている。

 十八歳のとき精といっしょになり、二十数年ものあいだ家庭の人だったシマにも、いつのまにか「忠義」という侍たちのモラルがしみ込んでいたというのだろうか。

 精の亡くなったとき、「夫人は昨今病中なりしも故大将逝去の報に接し二昼夜殆ど睡眠を取らざりしと」(『やまと新聞』明治四十一年十二月十六日)と書かれるほど彼女は精のことを遠くから案じてもいたのである。

 この事件があった数カ月のち、侍従長の徳大寺実則が明治帝に辞意を奏上したとき、

「凡そ華族にして朝廷に仕ふるものは、宜しく其の身を犠牲に供し、以て奉公の誠を致すの決心なかるべからず、然るに妄りに職を辞し、以て一身の安逸を謀らんとするが如きは、其の志真に悪むに勝へたり、卿幾たび職を辞せんとするも、朕は断じて之れを聴さず」(『明治天皇紀』第九巻)と、明治帝は激怒してこれを退けたという。もしかすると明治帝の心の片隅に精のことがあったのかもしれない。

 

 粟屋幹の北清事変での馬蹄銀掠略隠匿が発覚し、陸軍大臣だった児玉は「恐悚(恐れすくむ)措かず、上表進止を」天皇に請うことになった。粟屋についての責任をとろうとする児玉の人間らしい理性が、拡大路線を図る日本に必要とされる傑出した戦術的・行政的能力、技術的能力を萎縮させてしまいそうな場面である。

 この粟屋の事件があってから二カ月のち、精は山縣の力ぞえで親任官待遇になったりもしているが、山縣はその二年あとには、北越戦争における振武隊の行動について、精の記憶違いを常識を超えたようなかたちで精に訂正させ、精が自分の指揮下にあることを周囲の者に知らせ、精をとおしてにじみ出る明治帝の人間的なものをさえ抑えようとした、とみることもできそうである。

「吾人は決して我が軍隊に、人材なきを憂へざる也。されど彼等は材能、学識のみを以て、先輩と優劣を争ふ可きにあらず。彼等は須らく人間学に於て、如何に先輩が浮身を窶したるかを考顧することを要す。是れ決して陸軍大学校や、伯林、巴里の留学のみにて、卒業する能はず候」(『国民新聞』明治四十一年十二月十五日)

 明治時代の末にみられたこのような姿勢は、結局、端に押しやられ、

「個人主義に出発する一切の自由主義はこれを排除して行かなければならぬと考へます」(『児玉源太郎』宿利重一)と、昭和十五年に陸軍軍務局長が衆議院の決算委員会で発言したようなかたちで展開し、貝原益軒が「教女子法」に示した人間の価値平等観を完全に捨てた『女大学』(日本思想大系『貝原益軒 室鳩巣』の解説 岩波書店)のようなものが盛んになる時代に移っていったわけである。

 

 吉田松陰より五十数年もよけいに生きた山縣には、師と仰いだ松陰がわずか三十歳で命を落としたため、老成した師の教えを聞くことはできなかった。松陰の残した「忠義の哲学」、「夷狄の哲学」(日本思想大系『吉田松陰』の解説 岩波書店)を念頭におく山縣は、「天朝」にたいする忠義心は徹底していたが、「天朝」が何にたいして忠義をつくすべきか、つくそうとしていたのかまでは、松陰と同様、考えていなかったように思える。天子にいかなる愛国的姿勢があったかを知るより、山縣には、理念化された非人間的な現人神の存在こそ、師・松陰の「夷狄の哲学」の実践にも、自分のほうに引きよせた権力をさらに権威づけるためにも具合がよかった、といえるのかもしれない。

 軍事内局長となったころの精をとおしてみる明治帝には、古今とか万葉の時代、さらに「漂々とした時空の彼方に見失われていく」(『日本の思想』丸山真男 岩波書店)無辺際のものへの遥かな思い、その匂いのようなものが、ときおりかすめていくように思えるのである。

「なお、明治天皇が少なくともその晩年にはそうであったように、大正天皇もまた山縣に好意を持たなかった」(『山縣有朋』岡義武 岩波書店)といわれている。

 

 

 葬 儀

 

 岡澤精は明治四十一年十一月、華頂宮妃殿下の葬儀に向かう途中、乗っていた馬車が転倒し、頭を打ち、それが元でその年の十二月十二日に亡くなった。

「病気が重くなって宮中へ出られない事が天聴に達すると陛下には非常に御軫念(心を痛める)遊ばされ、一日の中に幾度も幾度も岡侍医を御遣しになったり、柏村侍医を御遣しになったりしては親しく病状を問せられ、さうして愈々入院なさる前日のごときは、誰も知らない間に御菓子を武官長邸に送るべく御沙汰を伝へられたやうな訳だから、薨去が天聴に達したに就ては一層御力を落される事と拝察されます」(『報知新聞』明治四十一年十二月十四日)と侍従武官の一人が話している。

 精の危篤は明治帝の心を大きく動かしたようである。大学病院で精の臨終の枕元にいた寺内正毅も、「涙潸然(注・さめざめと泣く)、顔を掩うて」という状態だった。臨終まじかに精を見舞い、下賜されたぶどう酒を精とともに飲んだ乃木希典も、「予も久しく交を訂せしが、斯の温厚篤実の人病みて其命旦夕を計らず(注・時期が迫る、憂心忡々(注・揺れ動く)たらざるを得ず」(『東京朝日新聞』明治四十一年十二月十四日)と、病院からでるとき記者に話している。

 寺内は西南戦争のころ陸軍士官学校生徒大隊副司令として、司令だった精とともに仕事をしたことがあり、乃木のばあいは直属の部下だったことはないが、同郷の先輩としていちばん深くつき合っていた。精の遺骸が自宅に移されたのは午後七時過ぎだったが、家も近かったので、乃木は夜の八時ころからずっと精の家にいて、留守居の者を指揮し世話をしていた。

 精の葬儀は十二月十六日、青山斎場で行なわれた。このころの元帥や大将の葬儀は青山練兵場で行なわれていたが、このときは勤倹の詔勅もでており、精の遺志もあったので質素に行なうことにして青山斎場と決まった。しかしこの日の参会者が予想をこえ五千名以上となったため、式場周辺はかなりの混雑となった。この日はまた、斎場および桐ケ谷火葬場周辺の乞食たちにも、一人あたり五銭ずつの弁当代がくばられた。

 赤坂の精の自宅から斎場へ柩が移される前の午前十時に、勅使の日根野侍従が御下賜品を届けにみえ、つづいて東宮御名代として代拝する田内侍従がみえて、葬儀総裁の乃木や喪主の精一がお迎えした。午後、斎場へ移る柩のそばには乃木・寺内・村木など生前、精と親しかった者八人が徒歩でつき添い、葬儀副総裁の長岡外史や葬儀委員長の岡市之助などがこのあとにつづいた。途中、青山大通りの両側には一般会葬者の長い人垣がならんだ。葬列がとおり過ぎるあいだ、一時停車した電車のなかから若い二人の婦人がわざわざおりて、精の柩に深々と拝礼する姿が人目をひいた。

 午後一時すぎに青山斎場で読経がはじまると、東宮御名代、各皇族の代拝、遺族や各国の大・公使、伊藤統監や山縣元帥の代理、大山巌や東郷平八郎などの焼香がつづいた。

 東宮御名代が代拝しているとき、近衛師団の儀仗兵が三発の弔砲をうった。周囲の梢や軒先にいたスズメやハトがその音に驚いていっせいに飛びたった。このとき斎場のそばにある花屋の軒下で葬儀の様子をみていた会葬者の一人、盛装をこらした廂髪美人が、不意の発砲にいっしゅん驚き、そのはずみでどぶに嵌り、新しい着物をだいなしにしてしまったのを、『万朝報』の記者が見ていた。

「精固より家計裕かならず、其の薨ずるに及びて、元帥公爵山縣有朋・内閣総理大臣侯爵桂太郎等為に内帑(注・天皇の所有する財貨)の賜を内請す、乃ち別に金二万五千円を賜ふ」(『明治天皇紀』第一一巻)

 天皇・皇后からの祭資金四千円では、予想を超えた参会者に手当てする葬儀費用を補えなかったわけである。

 山縣を実の兄のように思い、忠実に山縣と明治帝との取り次ぎ役に徹した精に、山縣は児玉や乃木、寺内などに示したような悲しみを、世間の人に分かるような形で書きのこしてはいない。

「事君十余年、脛骨(首の骨)為に曲がる」といわれるほど明治帝に仕え、明治帝からは侍従武官長として身にあまるような信頼を得た。そのことが岡澤精の六十四年五カ月の生涯のすべてだったのである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/07/27

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岡澤 祐吉

オカザワ ユウキチ
おかざわ ゆうきち 翻訳・歴史研究家 1933年 東京に生まれる。

掲載作は『明治天皇の初代侍従武官長事君十余年、頸骨為に曲がる』(1999年10月 新人物往来社刊)のうち、「宮城退出後の事故」「初代侍従武官長」「葬儀」の三章を抜粋し抄録した。

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