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「無思想人」宣言

「きさまはエタイの知れぬやつだ。右か左かハッキリしろ」

 ということを私が最初にいわれたのは、今から二十何年か前、警視庁の特高取調室においてである。

「あなたの方できめてください。実はぼく自身にもよくわからないんですよ」

 と答えるほかはなかった。検挙された理由は、そのころ多かったシンパ事件で、現在左派社会党代議士になっている細迫兼光君から求められるままに、そこばくの金を出したのがいけなかったのである。長谷川如是閑氏がつかまったのと、たしか同じケースだった。そのころまで進歩的知識人の総元締のような立場にあった如是閑氏は、これを機会に元の日本主義者にかえり、戦後は貴族院議員、文化勲章受領者、藝術院会員、公安委員などという肩書を与えられて、日本の知識人としては位人臣をきわめた形である。当時彼が不起訴になって釈放されるときに、つぎのごとく語っている。

「共産党の反対者がかえってシンパの役割を演じることさえありがちだ。共産党員の間では、後輩が先輩を欺いたり、主義のためには友人を陥れたりすることもやむをえないなど、さかんに不都合なことが行なわれる」

 まわりくどい表現だが、これが如是閑氏の「転向宣言」である。彼をシンパのごとく思いこんでいたのは世間の錯覚で、実は「共産党の反対者」であることを告白し、かれらの“不都合”を指摘して、これにハッキりと手套(てぶくろ)を投げたのである。

 私の場合は、如是閑氏のような深遠な“思想”の持主でないから、特高刑事の転向要求に対しては、アッサリと、

「ぼくが転向すると共産党になりますよ」

 と答えるほかはなかった。それで釈放され、その後今日まで“転向声明”なるものを一度も出さずに通りぬけてきたところをみると、当局にも私にも、その必要が認められなかったからであろう。そのために“ずるい”といわれたものだが、共産党員が巧みに猫をかぶっていたというのなら、そういわれてもいい。しかし私が共産党に同調しようと努力していたときでも、私の内部にはこれに反撥するものが強くはたらいていたし、共産党の方でも私を利用することしか考えていなかったようだ。

 その後私は、いかなる主義主張にも同調しなかった。私は私流に生きて行くほかはないと考えた。終戦直後、民主主義と共産主義の大ブームがこの国に訪れた。私にはその方の実績が多少ないでもないので、多くの“進歩的”な思想団体から参加を勧誘された。だが、私はどこにも属さないで、戦時中からの農耕生活を戦後もずっとつづけていた。

 数年たって世の中が少し落着いてきたころ、『毎日新聞』の友人からもう一度筆をとるようにと勧められた。そこで私はいろいろと考えた末「猿取哲」という仮りの名で再出発することになったのである。

 戦前にも私は匿名でしばしばものを書いた経験をもっているが、こんど単なる匿名評論ではなく、「猿取哲」なる新しい人間を創造して、陰からこれを入形のようにあやつる、というよりも、自分がこれになりきることだというふうに考えた。

「猿取哲」の特性は、まず第一に世間に通用している主義主張を決してもたないことである。厳正中立、不偏不党、徹底した是々非々主義で押し通すことである。書くのは大宅壮一であるが、書くことは大宅壮一から独立すべきで、大宅壮一個人にとってどんなに親しい人間をあげつらう場合にでも、絶対に私情には影響されないで、何でもいってのけられる立場に立とうというのである。そのころの日本はまだ“主義”という名のついた“思想”のレッテルが横行していて、生きた人間がいうよりはレッテルがものをいうことが多かった。そこで時と場合によっては「猿取哲」がその生みの親である大宅壮一をやっつけねばならぬこともあり、事実やっつけたこともあった。

 世間はこれを文筆アクロバットと見た。だが、私は前にのべたような目的と信念をもって、一つの試みとして、計画的にやっていたのである。

 だが、実際問題となると、むずかしいことや面倒なことがあって、初めの計画どおりに行かないことが多かった。「猿取哲」がいつのまにか大宅壮一に還元している場合も少なくなかった。

 そのうちに、「猿取哲」は大宅壮一だということが世間に知れてしまった。かわって大宅壮一が再登場することになった。戦時中にはほとんど筆をとらなかったので、戦後の新しい読者は新人だと思ったようである。

 しかし私の場合は、かつて杉山平助が氷川烈の筆名で出て、後に本名を名のったのと形の上では似ているが、動機や目的は同じではないのである。今はもう主として本名で何でも書いているが、本名であろうと筆名であろうと、書くのは同じ人間であるとともに、その態度にもほとんど変りがないつもりである。つまり戦後の私は、大宅壮一ではなくて「猿取哲」でありたい、あらねばならぬと、意識的に努力しているのである。

 いつか『中央公論』に近藤日出造君が私の「診断書」を書いた中で、私は「思想的には“無”の立場、無思想という“思想”のように思える」という断定を下している。さすがに名医の名診断だといわざるをえない。

 そこで私は、名実ともに“無思想人”(“無思想家”というと“無思想”という思想をもっているように誤解される恐れがある) であることを天下に宣言したいと思うのである。

 

 そもそも「思想」とは何であるかを考えてみる必要がある。近ごろはあまり流行(はや)らないが、戦前には知識人の分類の中に「思想家」というのがあった。思索の専門家というよりも、外国のいろんな“思想”を輸入したり、解説したり、祖述したり、受け売りしたりする人のことである。

『広辞林』で「思想家」というのを見ると、「思想にふける人」「思想の豊富な人」となっている。すると“無思想家”というのは、「思想にふけらぬ人」「思想豊富ならざる人」ということになる。まったくそのとおりで、私には“思想”などにふけっている暇がないし、たとえ暇があっても、もっと別なことをしたいと思う人間の型である。ものを考えるにしても、何をどう処理するかといったような具体的な問題についてなら考えられるが、将棋の詰め手でも考えるように、ただ“思想にふける”なんてことはできない。いや、将棋の詰め手でも考える方が、それよりずっと具体的である。

 つぎに、“思想”を豊富にもっているかどうかという問題である。日本には昔から“思想”の(おろ)し屋みたいなのがいて、古今東西の“思想”を何でもとりそろえて頭の中に貯蔵し、必要に応じて取り出して見せられるのがいた。私もそういうものなら若干持合せがないでもないが、“思想”の問屋に比べると、いかにも品うすで、店のかまえも狭い。むろんその点でも思想家の仲間入りはできそうもない。

 しかし、近藤日出造君のいう“思想”とはそういうものでもなさそうだ。書いたり、話したりする場合の()りどころみたいなものらしい。大宅壮一が大宅壮一としての意見を発表しただけではよくないのだ。もっとハッキリした標識になるようなものが必要で、しかもそれは大宅壮一の名とともにすぐ連想されるようなものでないといけないらしい。

 大正時代に「思想劇」というものが流行したことがある。これまでのように世相を漫然と描いた喜怒哀楽をあつかっただけではダメで、何か問題を提出し、これに解答もしくは暗示を与えるような要素をふくんでいなければならぬのである。小説をもふくめて「問題文藝」とも呼ばれ、一時文壇を賑わしたが、あまり長つづきはしなかった。

 ウドンに「()ウドン」というのがある。これとちがって、卵や竹輪や天プラのようなカヤクの入っているのもあって、この方は値が高い。だが、ウドンでもソバでも、ほんとの通人というのは、カヤクの入っていないのを食うそうである。「思想劇」や「問題文藝」の中に入っている“思想”というのは、このカヤクに似ている。確かになんにも入ってないものにくらべると、上等で値が高いことは争えない。

 われわれ文筆人の間にも、こういうカヤクの入っているものと入っていないものとある。私の場合などはいろんなカヤクは相当入っているつもりであるが、それがロクなものでないから、安っぽくて、来客などには恥かしくて出せないというのであろう。結局カヤクのあるなしでなくて、その質が問題、その仕入れにどれくらい金がかかっているかということによってきまるのである。第一、神聖な“思想”の問題をあつかうのにこういう下品なたとえ話をもち出してくること自体が、私の頭の中にはガラクタばかりしか入っていないことを立証するもので、“思想家失格”をみずから宣言するにひとしい。

 結局、“思想”というのは、知識人にとっての脊椎みたいなものだということになる。これのあるなしで、高等動物か下等動物、いや“高等人間”か“下等人間”かということがきまるのである。むろん一般大衆にはこれがないものとされている。知識人の仲間入りを許されていながら、これを欠いているものはモグリである、といったような考え方に支配されているものが、古くからこの国には多い。

 そこで誰も彼も争ってなんらかの“思想”を手に入れようとするのである。しかもこれには流行があって、最近外国から入ってきたようなものでないと、身につけていてかえって軽蔑される点で、帽子などと同じである。

 ペルーやボリビヤの奥に、インカ族の血を引いているというアメリカン・インディアンが住んでいる。皮膚の色から言語、風俗にいたるまで、明らかに蒙古系だといわれているが、かれらは非常に帽子が好きで、無帽のものはほとんどいない。しかもその帽子はすべてイタリー製の高級品で、身にはルンペンのようにボロをまといながら、帽子だけが目立って、異様な感じをうける。かれらは海抜一万何千呎という高いところに住んでいるので、寒さを防ぐために帽子は必要なのであるが、なんでもイタリーの帽子会社の巧妙な謀略宣伝にのせられ、帽子をかむらないと災禍に見舞われるという迷信に基づいている点もあると教えられた。

“思想”を帽子にたとえていうと、プラトーとかカントとかいうのは、山高帽やシルクハットのようなもので、デモクラシーは中折帽である。戦闘帽とミリタリズムの関係については改めていうまでもない。マルキシズムその他の社会主義思想はハンチングで、自由主義は近頃流行のベレーである。

 帽子の用途は、寒さを防ぎ、頭を保護するところから発したものであろうが、今では完全にアクセサリーの一種となっている。しいて実用性を求めるならば、ハゲ頭をかくすくらいのものだ。

 今日の社会で“思想”が演じている役割はこれと相通ずるものがある。少なくとも、そういった役割を演じている“思想”の多いことは事実である。

 私はここ何十年来、ほとんど帽子をかむったことがない。べつに“無帽主義”を標榜しているわけでもないが、帽子の必要を全然感じないのである。中近東やアフリカの砂漠地帯を歩くときにも、無帽で通して、べつに日射病にもかからなかった。とくにひどく照りつけられた場合には、ハンカチを頭に頂いた程度である。“思想”についても私は同じような考えを抱いている。昔は帽子をかむらないで外出するものは“紳士”でないように考えられていたが、今は身分、階級、職業、年齢を問わず、無帽の方が多いくらいである。それでいてべつに不自由を感じていないのだ。

 大正末期、第一次大戦の後に“思想氾濫期”ともいうべき時代があって、文壇、ジャーナリズムのショウ・ウィンドーには、世界中のあらゆる“思想”が陳列された。

 宮嶋新三郎、相田隆太郎共著『改造思想十二講』は当時の流行思想を通俗的に解説したものであるが、これには下の十二の思想が選ばれている。

 一 社会主義の鼻祖マルクス

 一 ベルンシュタインと修正派社会主義

 一 コオルのギルド・ソシャリズム

 一 ラッセルの社会改造論

 一 無政府主義者クロポトキン

 一 ボルセヴィズムとレーニン

 一 ウェルズの世界国家説

 一 社会主義詩人カアぺンター

 一 モリスの藝術的社会主義

 一 エレン・ケイの平和主義

 一 宗教的革命家ガンジー

 一 バルビュスと「クラルテ」の運動

 いずれも、現在五十歳以上のものには、思い出深い名前である。このほかにもトルストイ、ドストイェフスキー、オイケン、ベルグソン、ロマン・ローラン、タゴール等々の“思想”が次々に輸入されて、日本の知識人は、まるでデパートの食堂の前に立たされた子供のように、どれを選んでいいかわからなくて困ったくらいである。

 これらの舶来思想には、たいてい日本における一手輸入元、すなわちエゼントのようなものができていた。さらに外国のどこかで新しい“思想”が生れたとなると、これを輸入するための競争はすさまじいものであった。中には、丸善に新しい“思想”の書物が入ると、いちはやくかけつけて入っただけ全部を一人で買い占めるものまで出た。つぎの入荷までその“思想”を独占するためである。

 かように大正末期の日本は、まさに“思想”の百花繚乱期であった。いずれも西洋種の草花みたいなもので、この国の知識人は、その中の気に入った一輪を、ときには一人で異なったのを三、四輪もぬきとって、得々として胸に、いや、頭にさしていたのである。こういう時代が何年かつづいた。

 しかし、まもなく“改造思想”の名で呼ばれた当時の流行思想家の大部分は、ほとんど日本人の頭の中から消えてしまった。その後、統合のような現象が見られて、装飾的な思想家は次第に淘汰(とうた)されて、最後に残ったのは、現実の社会や権力と結びついたものばかりとなった。

“文壇の大久保彦左衛門”として自他ともに許していた中村武羅夫は、そのころのマルクス・レーニン主義の跳梁に憤慨して、「花園を荒すものは誰だ!」と叫んだが、この風潮は如何ともすることができなかった。花園的思想家は、マルクス・レーニン主義には抗すべくもなかった。

 この地ならしが終ったころに、こんどは軍国主義、ファッシズムがやってきて、全日本人の頭はすっかりローラーをかけられたような結果となった。かつての人道主義者もマルクス・レーニン主義者も、このローラーの下敷となって、“転向”を誓ったものだ。

 戦後アメリカが入ってきて、援助物資のメリケン粉、トーモロコシ粉、バター、カンヅメ類などにそえて、“デモクラシー”が各戸、各人に配給された。老いも若きも幼きも、歓呼の声をあげてこれをうけた。これも結果においては、全日本人がデモクラシーという“思想”のローラーにかかったのと同じである。もっとも、これはあまり普及しすぎて、アクセサリーとしての魅力がなく、誰もこれを独立の“思想”とは考えなくなってしまった。今では反民主主義を名のるものの方が何か特別の“思想”でもありそうな印象を与えている。

 軍国主義ローラーの下敷になって、一時は枯れてしまったように思われていたマルクス・レーニン主義が、戦後また芽をふいて、雑草のごとくたくましくひろがって行った。今日の日本で“思想”らしいのはこれくらいのものだ。このほかにフランスからサルトル、カミュなどというニュー・ルックの“思想”も輸入されているが、これなどは文字通りに一部知識人のアクセサリーにすぎず、ディオールのファッションショウとたいしてちがいはない。

 広い意味のマルクス・レーニン主義は、今日の日本の思想界に君臨する、というよりも、アメリカ的民主主義に対する唯一のアンティ・テーゼとなっている。もっとも、これにも比較的純度の高いものと、左派社会党の“思想”的背景となっている“労農派”イデオロギーのように、三、四割も水を割ったのとあって、ずっと対立抗争をつづけている。

 しかし、いずれにしても、マルクス・レーニン主義やデモクラシーは、もはや単なる“思想”ではない。「二つの世界」の一方を支配する力の論理であり、バイブルであり、コーランである。従来の“思想”という概念とは非常に違ったものとなってきている。それは一つの強力な組織であって、この“思想”を選ぶということは、この組織に入って部署につくことである。資本主義もしくは共産主義打倒の十字軍に参加することである。

 私はこんどの旅行で、中近東からバルカンにかけ宗教の名において行なわれたさまざまな戦いの跡を見てきた。近代的自覚に到達するまでの人類の頭は、宗教によって完全に支配されていた。宗教は人類思想の最大公約数で、それ以外の“思想”の割りこむ余地はほとんどなかったのである。

 未公認の宗教は、今でいう「非合法思想」である。今も残っているローマのカタコンベに入ると、かれらが文字どおりに地下にもぐって秘密の会合をもった状態がよくわかる。

 諸民族間の闘争も、大部分は宗教という“思想”の名において行なわれたのである。それがいかに残酷なものであったか、近代人の想像を絶するものがある。しかもこの種のたたかいは、今もつづいているのである。ユダヤ教国であるイスラエルに対する回教徒アラブ諸国の争いがそれだ。

 アラブ諸国に残っている回教寺院やローマのヴァチカン宮殿などを見ると、宗教という名の“思想”の力が、いかに強大で、いかにすさまじい搾取を行なっていたかということがよくわかる。しかも今日なおヴァチカンは、世界における三億のカトリック教徒を支配しているのである。

 徳川時代には、寺院が今の役場のような役目を仰せつかって、どこかの寺院に籍がないと邪宗門として扱われた。今もブラジルその他の中南米諸国では、たいていカトリックが国教となっていて、部分的にはこれに似た権力をもっている。しかし一方では、カトリックもプロテスタントも、いっしょになって、一つの国をつくり、同じ学校に通い、同じ団体に属し、中には夫婦として同じ家庭に住んでいるものさえある。

 各宗各派の対立抗争が劇甚をきわめていた時代には、地上に天国をもたらすということによって、実は戦慄すべき修羅地獄をつくり出していたのである。そのころ今のような他宗他派との“共存”の時代がくると予想しえたであろうか。

 宗教の力、信仰の熱度とともに、イントレラント (非寛容)な性格は原則として高められて行くものである。それを抑えて行くことが“共存”の必須条件である。だが、他宗他派に対して極度にトレラント (寛容) な宗教は、もはや宗教でなくなっている場合が多い。そこで“共存”のための最上の条件は、宗教そのものをすてることだということにもなるわけだ。

 近藤日出造君がいみじくも指摘したとおり、私は“無思想”ではあるが、私が今日まで終始一貫してやってきたことがたった一つある。それは宗教と偽善者の排撃である。これだけはどうしてもやめられない。

 ソ連的マルクス・レーニン主義はもちろん、アメりカ的デモグラシーも、現実の権力と結び、これによって組織化されつつあるという点において一致している。これらはもはや単なる“思想”ではなく、かつて宗教が演じたと同じような役割を演じようとし、現に演じつつあるのだ。これら以外のアクセサリー的“思想”については、私はそんなものに興味も必要も感じないと一言いえばすむ。

 私は無帽で外出するのと同じように、無宗教で生きて行くつもりである。これと同じような意味で“無思想”でありたいと思っている。現に人類の大きな部分が、無宗教でいて別に何の不便も感じていないのである。“思想”についても、今にきっとそうなるときがくると信じている。いや、今でも人類の多くは、一部の“思想業者”が考えているほど“思想”にこだわっていない。それが“共存”の基盤になるのだ。

 

 私は十数年使っている万年筆をもっている。軸は飴色になり、ペン先は確かに十四金らしいが、すりへって太い字しか書けない。それでもまだ当分使えそうである。戦時中上海の古道具屋を(ひや)かしているときに安く買ったもので、商品名はどこにも書いてない。完全に無印である。

 その後、パーカーとかウォーターマンとかいう有名品を度々買ったり、もらったりしたが、気に入らなかったり、人に与えたり、紛失したりして、手もとに残っているのはこの無印だけである。日本人は何でも銘柄(めいがら)好みで、時計でも名の通ったものでないともたないという人が多い。“思想”についても同じことがいえる。

 今の日本に“思想”らしいものをもっている、というよりも見せびらかしている人が少なくないが、これもたいていパーカー的思想、ウォーターマン的思想と思えばまちがいない。だが、同じパーカーでも、51もあれば25などという古いのもある。実質的にはたいしてちがいはなく、古い方がかえって使いやすい。しかし人に見せびらかすためには、アメりカから直送でもしてもらって、最新型を手に入れなければならない。それには始終あちらのカタログに目を通していないと、すぐ“時代おくれ”になる恐れがある。

 絶対にそういうことにならぬ秘訣がある。それは私のように無印のものをもつことである。

 それはそれとして、いったい今日の日本に、マルクス・レーニン教徒を除いて、思想らしい“思想”をもっている人がどれだけいるだろうか。

 長谷川如是閑氏にしても、壮年時代にはスぺンサーなどから仕入れたアクセサリーをチラチラさせたが、晩年には三宅雪嶺などと同じような『日本及び日本人』的な面が強く出てきた。結局は“偉大なる無印”と見てよい。

 如是閑氏を新しくしたような清水幾太郎君は、例の平和主義でもって全国を講演して歩き、どこかの座談会で冗談に自分は「思想の行商人」だといっていた。なるほどそれにちがいないが、彼はいったいどういう“思想”を売って歩いているのであろうか。平和主義などというものは、誰もがほしがるチョコレートみたいなもので、“思想"でもなんでもない。如是閑氏じゃないが、彼も「共産党の反対者がかえってシンパの役割を演じる」というようなことになりはしないか。

 日本の文壇は、プロレタリア派を除いては、伝統的に無思想地帯である。その中で若干“思想”らしいものをもっているものの代表として石川達三君をあげるのが常識である。しかし彼の場合も、漠然とした正義感を除いて、どういう“思想”があるだろうか。戦後の代表作「風にそよぐ葦」で同調者的思想が顔を出しかかったが、後篇ではすぐ引っこめて、反共的な面が出てきた。“思想”といってもこの程度のものを思わせぶりに描く技術をもっているにすぎない。

 そのほか当代ジャーナリズムの流行児と見られている人々、たとえば阿部真之助、山浦貫一、御手洗辰雄、三宅晴輝、荒垣秀雄、笠信太郎、高木健夫、中野好夫、中島健蔵、花森安治、臼井吉見、十返肇、南博、宮城音弥、浦松佐美太郎、桶谷繁雄、古谷綱武、亀井勝一郎、奥野信太郎、徳川夢声、渋沢秀雄などという人々は、はたしてどういう“思想”の持主だといえるであろうか。それぞれ個人的なニュアンスがあり、だいたいの傾向はわかるが、これに貼れるような“思想”のレッテルが見つかったら教えていただきたい。ジャーナリズムとは“無思想”の別名だといえないこともない。

 これらの中で中野、中島、南などの諸君には“進歩的”というレッテルが用意されているが、これは傾向であって“思想”でも何でもない。中野君は平和主義を口にする点を除いては、申し分のない良識の持主だし、中島健蔵君は、一時左に傾きすぎたが、今ではみずから「無党無派」だといっている。

 こういうふうにならべてみると、「思想家」などといえるのがほとんどいないことがわかる。近藤日出造君は、当代“無思想”の代表的人物の一人かと思っていたら、やはりそれでは心細いとみえて、「憲法改正、再軍備の問題だけには、何かムキになってぶつかって行きたい衝動を覚える」といっている。それで“思想家”の仲間入りができるなら、いとも簡便で、「憲法改正反対、再軍備反対」を唱えている政党に投票したものはみな“思想家”だということになる。

 とにかくこれで当代ジャーナリズムの流行児になるというのは、“思想”がほとんどいらなくなった証拠である。「二つの世界」の思想的というよりも実際的対立があまりハッキリしすぎて、これにも解説の必要があまりないし、それ以外の思想は無用というご時世である。人類の大多数がマルクス・レーニン主義かデモクラシーか、どっちかの信者になってしまったからだ。

 それだけにまた一方では、どっちにも属しないものの需要も増大しつつあるのだともいえよう。

 ラジオ放送には、アナウンサーのほかに「タレント」と呼ばれているものがある。たとえば野球試合の実況を伝えるのはアナウンサーの役目だが、アナウンサーの質問に応じて、両チームの批評などをしたりするのが「タレント」である。“その道の専門家”という意味である。

 ところが、今日の社会では、あらゆる面でこの「タレント」 が必要になってきている。 彼は監督の戦術上の誤りや、審判の誤審などを指摘したりすることはできる。しかし審判の判定に服しないチームに退場を命じたり、審判の誤審を正したりする権能は与えられていない。それでも自分の判断に自信のあるときは、これを世論に訴えることはできる。

 ある特定のチームをひいきしすぎるようでは、この役目はつとまらない。人間だからひいきチームのできるのはやむをえないとしても、マイクにむかっては、できるだけこれを抑えてかからねばならない。言葉をかえていえば“無宗教”“無思想”にならねばならない。

 むろん「タレント」に対するギャラ (報酬) は、放送局から支払われるのだから、放送局の注文をきかないわけにいかない。特に商業放送において然りである。しかしどんな放送局でも一チームをひいきせよといわぬのが普通である。それではファンが承知しないからだ。やむをえず一チームをひいきしなければならぬ羽目に陥ったとても、言葉のニュアンスによって、全然逆の効果を与えることも可能である。

“無思想”というのは、「無個性」「無人格」ということではない。いや、逆に今のような社会で“無思想”で生きぬくためには、非常に強い個性と人格を必要とするのだ。でないとすぐ、強そうな“思想”にひきずりこまれ、その中に溺れてしまう。

 私の“無思想”というのはこういったもので、私はプレヤーにも審判にもコミッショナーにもなろうとは思わない。といってただのアナウンサーにはなりたくないし、またなれもしない。「タレント」であることに満足し、許されるならば生涯それをつづけて行きたいと思っている。そして最終のそしてもっとも有力な審判者は目に見えない大衆だと信じている。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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大宅 壮一

オオヤ ソウイチ
おおや そういち 評論家 1900~1970 大阪府に生まれる。東大在学の頃よりプロレタリア文学運動に参加の一方、従軍記者としても活躍するなど自在多彩。戦後は「駅弁大学」「一億総白痴化」などの批評語を時代に突きつけるなど、ジャーナリズムの各分野で評論家として活躍した。没後膨大な蔵書類をもとに「大宅文庫」が作られている。

掲載作は、1955(昭和30)年「中央公論」5月号初出。

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