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批評論

 創作と批評

 名評の得難き、殆ど名作の得難きに下らず、「ハムレット」を評する者、ゲーテの如きあり、其批評の至妙なる、マコレーをして、嘆美と絶望とに余念なからしめたり、然れどもシェーキスピアーのゲーテを得る迄には殆ど二百年を経過せり、夫れ文学及美術上の創作は主として結構的作用に属す、理解的慧眼を以て其結構の妙処を穿(うが)つは是れ批評家の本領とする所なり、批評家と創作家とは(すこぶ)る其才能の趣を(こと)にするを以て、一人にして此両者の極処に達するは殆ど望む(べか)らざるの難事なり、古来此両種の才能を(かね)具したる者にしてゲーテ()しくはレッシングの如きは至て稀なり、()のバイロンの詩を賦するや、其音調の爽快なる、其詞句の有力なる、(あだか)も一種の魔術に似たりと(いへど)も、一旦心を潜めて詩文の批評を為さんとするに当ては(その)言ふこと極めて(つたな)く、悉皆(ことごとくみな)非なり、彼の歌ふや天使に似たり、其考ふるや三歳の童子に等し、夫れ詩才動くが故に詩人歌ふ、然れども必しも自ら其由(よつ)て来る所を知らざるなり、詩人は能く美妙を直覚す、之を理解する者は批評家なり、詩人は(あだか)も神明に通ずる者の如く自ら其理を解せずして、よく天地の美妙を(ひら)き、よく其真理を穿(うが)つ、詩人の為に其理を解する者は批評家なり、詩人は美妙を(とつ)て之を其作中に宿らしむ、彼素(もと)より作中の美妙を知る、然れども必しも其美たる所以(ゆゑん)を解釈し得るにあらず、之を解釈する者は批評家なり、然らば則ち詩人は天然を解する者、批評家は詩人を解する者と(いひ)て可なり、此の詩人と(それ)批評家との関係は、之を推さば以て概ね自余の創作家と其批評家との関係を知るに足らん。

 されば批評家は創作家の為に殿(しんがり)となるの位地にあれども、亦よく之が先駆(さきがけ)となる栄誉を負へり、(けだ)し名評は名作の後に出づるのみならず、又よく未来の名作を誘引するの力あり、批評は(ただ)に往時を顧るに止まらず、又将来を指揮するの力あり、批評家は己れ自ら創作せずと雖も、後世の創作家に教へて望あるの行路を取らしむることを()、且つ夫れ文学史上創作の時代と批評の時代とは(すこぶ)る其趣を異にする所あるを以て、一国の文学、若し批評の時代にある時は創作は敢て望む可らず、(むし)ろ之が為に準備を為すべし、創作の時代は(まねき)(ただち)(きた)る者にあらず、(その)来るや深く国家百般の情況に因縁す、()の「エリザベス時代」の、英国の文学に於ける、又彼の「ゲーテ、シルレル時代」の、独逸の文学に於ける、其例古来幾何(いくばく)かある、(かく)の如き創作時代の因となり縁となる者、(もと)より一にして足らずと雖も、一般の国民、新鮮の思想を呼吸し、活発なる精神的運動を始むるに於ては、其国の文学望むらくは創作の時代に近からん、此時に当り社会の飛奔する種々雑多の思想を判別批評して其真価を明にして以て当時の思想界に先だつ者は(けだ)し批評家なり、此時に当り草を()り土を返し種子を下して以て将来の文華を招き来す者は蓋し批評家なり、(まさ)に来らんとする文華の遅速と其情態とは(おほい)に之に先だつ所の批評如何(いかん)に関係す、両者の相関する所甚だ親密なるを知るべし

 斯の如く創作の時代は批評の時代と相分離すべき者にあらず、批評家を(おい)て創作家を得んとするは実に為し難きの事と雖も、若し其技能の高下を論ずれば、前者の後者に一歩を譲るは亦敢て疑を容れざるべし、蓋し文学の世界に於て最高の勲章を受くる者は創作家なれども之を授くる者は批評家なり

 

 批評の職分

 批評の創作に関する所の如何(いかん)を知れば、其職分は従て推知し得らるべし、其職分は他なし、一言を以て之を(つく)すことを()、曰く在る物を在りの儘に見ること是れなり、此事たる、至て為し易きが如く見ゆべけれども、一たび深く其事の真に何たるを考ふれば、其極めて難事なるを認識し得べし、蓋し事物を創作するには一種の才能を要する如く、其創作の真相を観るにも亦一種の才能なかる可らず、事物の相を認識するは(あだか)も鏡面の物象を受くるが如く、(くもり)なく、凹凸なき者にして始めて其真相を写し得べく、智力の発達円満、心情の感応宏寛なる者にして始めて其真相を認識し得べし、且又(かつまた)事物の真相は屡々(しばしば)其表面に出現せず、(むし)ろ其内部に埋伏(まいふく)するが故に、慧眼を有するにあらずば之を発見する(あた)はず、其眼孔は事物の全面に(わた)ると共に、其根底に達せざる可らず、されば批評家が文学上の創作を品評し、其真相を明にし、其妙処を穿つは()に為し難きのことと(いひ)つべし、名評の得難き()に怪むに足らんや

 然らば則ち批評家は如何(いか)の作用によりて文学的創作の真相を発見し得るや、今其作用を分析して二段となし得べし、第一創作家と同情となること、第二其創作家の所作を我が有する所の最高の標準に照すこと是れなり、人常に()ふ批評は(すべ)からく局外の人に委托すべしと、(けだ)し其局に当る者は(やや)もすれば事の一方に執着して公平の判断を失ふことあればなり、然れども是れ只だ真理の(なかば)を云へるに過ぎず、何となれば当局者にあらざるよりは其事の内実隠微の辺に通じ難く従て皮相の見解を下すこと多ければなり、されば批評家たる者は先づ身を創作家の位地に置き、其考を自ら更に考へ、其感覚を自ら更に感覚し、全く彼と同情となり、云はゞ、一旦は、彼れ創作家と変ぜざる可らず、(かく)(ごとく)にして始めて其思想と感情との秘密の辺を探り得て毫も遺憾なきに到るべし、然れども一たび身を創作家の位地に置きし上は、()た翼を撃て理想的の上地に(のぼ)り、最高の標準に照らして其創作家の所作に、絶対的の批評を下さゞる可らず、即ち一たびは近づき一度は(とほざ)かり、一度は親友一たびは純全たる他人とならざる可らず、大自在の心なき者()に之を為し得んや、(ただ)に心の自在なるのみならず、非凡の智力と感応とを具ふる者にあらざれば、文学上最高の標準を発見し、且つ広く創作家に対して同情となること能はざるなり

 批評の範囲  

 上来論じたる所は(もつぱ)ら文学の批評に関すれども、批評なるものは広く之を解すれば独り文学に限るにあらず、美術には美術の批評あり、哲学には哲学の批評あり、創作のある所批評あらざるはなし、且つ夫れ歴史は一種の批評に外ならず、或は国家の歴史、或は文学の歴史、或は学術の歴史、皆是れ既往の事実を批評する者と謂つて可なり、(まさ)に社会に流布(るふ)せんとするの思想あるか、(ここ)に最も欠く可らざるは之が批評なり、其思想にして()し真実の価値あらば(よろ)しく之に印して思想界の貨幣となすべし、而して之に印する者は即ち批評なり、且つ夫れ批評の職分は其批評を下す所の事件に随ひて、多少其趣を(こと)にすべければ、文学的著作の批評家と、哲学若しくは其他学術的著作の批評家とは其間(おのづか)ら差別ありと雖も、其批評家たるの大体に於ては、上来論じたる所と概ね相違(あひたが)ふことなかるべし

 

 何を批評すべき乎

 方今(はうこん)我国は隠遯(いんとん)の眠より覚め来りて、(まさ)に新鮮の思想を呼吸せんとす、泰西の思想は波涛の巻き来るが如く将に我国中に(みなぎ)らんとす、我国人は将に活溌なる精神的の運動を為さんとす、我国の文学は将来に望ある者の如し、此時に当り世人稍々(やや)批評の必要を感じ来りしは(もと)より(まさ)に然るべきことなりとす、夫れ此一二年間新聞雑誌の紙面を一変したる者にして、恐くは批評の文字の上に出づる者あらざるべし、小説の翻訳ある毎に、(もろもろ)の新聞雑誌は之に多少の批評を下さざるはなし、朝に生れて夕に死すと云ふ蜉蝣に等しき小冊子をだも尚ほ丁寧に批評する新聞屋あり、毎月出版の雑誌にして批評を専門とする者さへあるに到れり、されば此批評の流行に連れて身に速成の神験術(まじなひ)を行ひ、一変して批評家となりすます者もあるならん、予は批評家たらんと思ふ者の益々多からんことを希望して止まず、()だ彼等に向ひ問うて()はん、何事を批評せんと欲するかと、人或は新聞雑誌の批評を非難して定文句(きまりもんく)の挨拶に過ぎずといふと雖も、其の批評を責むるに(さきだ)ちて批評さるゝ著書の価値を撿せざる可らず、今日の著作中細密荘厳なる批評に値する者幾何(いくばく)かある、我国文学の尚ほ振はざる、縦令(たと)ひ批評を以て一世に鳴らんと欲するの俊才あるも、其慧眼を用ふべき所なきを如何(いかん)せん、未だ名作なし何ぞ名評ある可けんや

 然らば則ち今日の批評家たらんと思ふ者は特に何をか批評せんとする、(その)為さんとする所、小説の訳書の出づる度に之に数言の愛憎を呈せんとするに在る()、寺小屋の文字にホゼクリ批評を下さんとするに在る乎、それも或は益あるならん、然れども是れ只だ批評の末端なるのみ、若し又其欲する所は筆を飛ばして政治経済詩文小説歴史哲学の近著に悉皆掻撫(しつかい・かいなで)の批評を下し尚ほ飽き足たらずして数学の書物迄を品評せんとするに在る乎、其批評家の多能なる、或は「八人藝する様な」との世間の大批評を博するに足らん、其批評の效能は少くとも千金丹位はあるならん、然れども凡べて其種類の批評家は予が所謂(いはゆ)る批評家にあらざるなり、我国文化の先導者たらんと欲するの批評家は宜しく活眼を開て今日の思想界を洞察せよ、善く其真相を看破し得る者は是れ予が所謂る批評家たることを得る者なり

 

 我国の思想界

 向後我国文化の基礎となり、其動力となるの思想に三種あり、其中(そのうち)二ツは既に過去に発達したる者、一ツは過去に発達し現在に発達し尚ほ未来に発達せんとする者なり、過去に発達したるの思想とは支那及び印度の思想を云ふ、人屡々「東洋の思想」てふ一語を以て此二種の思想を合称すれども、是れ大に当を失せるの(きらひ)あり、此両者の間判然たる差別の存することを忘る可らず、夫れ支那思想の骨髄たる者は儒教なり、儒教は我国を感化し終りて既に其力を余さず、印度思想の大に我国に影響したる者は仏法なり、仏法も亦既に其感化力を用ゐ(つく)したる者の如しと雖ども思ふに尚ほ幾分の余す所なきにあらず、其余す所とは即ち其哲学的の思想なり、従来(いやし)くも文字を知れる者にして四書を読まざる者は()かるべし、仏書に到ては専門の僧侶を除きては学者と雖も其理に通ずる者(はなは)だ稀なり、蓋し実際的の仏教は既に我国を感化し終りたりと雖も、理論的の仏教は尚ほ其の思想界の一隅に止まれり、「西洋思想の我国を感化し来りしより未だ多数の年月を()ざるに、其成就したる結果に於ては大に驚駭すべき者少からず、我国の将来は必ずや永く其感化を受くるならん、」夫れ西洋今日の文明は希臘(ギリシア)羅馬(ローマ)の文化を其基本とせり、其思想界の最高位なる哲学は希臘の学問と猶太(ユダヤ)の思想との相合して()れる結果なり、而して輓近(ちかごろ)又印度の思想、稍々(やや)其間(そのかん)に加らんとする者の如し、既にショーペンハウヱルの哲学の如きは最も著しく其思想の影響を受けたる者と謂つて可なり、向後其影響は西洋の思想界に如何(いかが)の現象を呈せん()、今(ここ)に之を予言するを得ずと雖も、必ずや西洋は尚ほ東洋の為に多少の感化を受くるならん、されども其感化は之を東洋の西洋に仰ぐ者に比較すれば、(その)大小強弱(げん)を待たずして(あきらか)なり

 今や(わが)東洋の一孤島は外には西洋思想の襲ひ来るあり、内には支那印度の思想の尚ほ其城壁を固うするあり、此三者は或は遂に相和する所あらん、或は全く相容れざる所あらん、其争闘其調和は我国将来の思想界の歴史なり、若し(わが)日本にして一種特別の新思想を開発するを得ば、必ずや其争闘其調和の間に於て之を為すならん、我国今日の外交的政治家は英仏露が東洋に示すの一挙一動を見て、日本の将来如何(いかん)、東洋の運命如何と(ひそか)(おそ)るゝ所ある者の如し、我国今日の学者たる者は支那の思想を(あきらか)にし印度の思想を究め西洋の思想に通暁し以て我国将来の為に思慮せざる可らず、政治家の配慮彼に在り、学者の思慮此にあるなり

 批評を要する者

 夫れ批評を要する者甚だ多し、されども概言すれば三種となし得べし、第一従来我国に存する者即ち支那印度の思想及其和合より生じたる文学等、第二西洋の思想第三西洋の思想と従来の思想との相合して現今に現はるゝ所の現象是なり、此中(このうち)第一は久しく我国人の所有且つ使用し来れる者なれども、之を批評的に論じて其価値を判定し其真相を認むることは概ね未だ我等の為さゞりし所なり、而して之を為さんとするには先づ西洋の思想を借り其批評法に倣はざる可らず、右の(うち)第三は概して西洋思想の漏潟(こぼ)れ出でたる者に過ぎざれば、善く西洋の思想を知る者はまた善く之が批評を下し得べし、然らば則ち今日批評家たる者の最も心を用うべきは右第二に掲げたる西洋の思想是なり、人或は予の言を見て、此西洋学の盛なる今日に於ては、殊更言ふに及ばざることと思はん()、然れども今日我国の学者と(なづ)くる者の中、善く西洋の思想を批評し得る者ある()、若し西洋の思想を批評する事の真に何たるを知る人あらば、必ずや予が言の無用ならざるを認知すべし、夫れ西洋の思想を批評するは()(はなは)だしき難事なり、何となれば先づ其思想の真相を認めざる可らず、而して之を認めんには()ぼ西洋の学者と同等の位地に立たざる可らず、是れ()に為し易きの事ならんや、然るが故に今日批評を事とする者も少しく綿密なる議論に遭遇すれば「之を批評するは(まさ)しく西洋の大家を批評する也一朝に論ず可らず」とて(あと)しざり()る者のみ多きにあらずや、次に西洋の思想を批評せんには、其批評の範囲に属する事柄は、(ただ)に一国一代に止まらず、広く且つ(つぶ)さに之を研究せざる可らず、(もと)より一人にして西洋百般の思想を批評するは敢て為し得べきことにあらずと雖も、其選択したる範囲に関することのみは広く且つ具さに之を攷究(かうきう)すること最も必要なり、例へば英国の文学を批評せんと思ふ者は(ただ)に其国の文学に止まらず、少くとも独仏の文学に(わた)り又多少希臘及羅馬古代の文学にも通ぜざる可からず、何となれば批評は専ら比較的になすべき者なればなり、されば批評家たらんと欲する者は宜しく其目途の為に其一生を犠牲とするの覚悟なかる可らず、今日我国の学者と称する者は多くは是れ西洋の思想を通弁する者に過ぎず、其思想の批評家たらんとする者に過ぎず、或人之を(たん)じて「今日の日本人は生国(しやうごく)を忘れて外国をのみ知るの傾向あり」と()ひたれども予は却て我国人の外国を知るの甚だ不十分なるを嘆ぜずばあらず、(もと)よりビスマルクの政略、仏蘭西内閣の更迭(かうてつ)の如きは、最も注意を惹き易きの事件にして、世間(これ)を論ずるの士に乏しからざるべし、然れども西洋文化の裏面なる其思想界の大勢に(いたつ)ては、善く之を知り善く之を批評し善く之を通弁する者幾何(いくばく)かある、若し善く之を為すの人あらば、真に我国の先師と仰ぐ可きの大家なり、西洋の思想を通弁すること誰か之を為し易しと謂はんや、(もと)よりゴマカシの通弁を云ふにはあらず

 

 通弁の誤謬

 夫れ西洋の思想を通弁するは決して為し易きの事にあらず、されば其通弁に誤謬多きも更に怪しむに足らざるなり、請ふ(こころみ)に我国の思想界を通観せよ、其誤謬の多きは如何(いかに)ぞや、(ここ)に其一例を挙げん()、従来英学の隆盛なると共に斯学に入れるの輩は概ね皆ミル、スペンサーを見て西洋学問の標準、西洋学者の代表者と思ひたりしにあらずや、現今の書生尚ほ此誤謬に支配さるゝ者少きにあらざるべし、(かく)の如きの誤謬は(けだ)何処(いづく)より来れる()、西洋の思想を通弁し誤りたるより来りしにあらずや、且つ又近来の著書小冊子中通弁の誤謬の多きことは殊更茲に論證するの必要なかるべし、されども試に其最も甚しき者を挙げん()、或人の著述と称する「哲學管見」てふ小冊子あり、(もと)より管見には相違なかるべきが、予は其余りに管見なるに一驚を喫したり、此書 ()しゴマカシを主意とするならば、(もと)より何とも非難の仕方なし、然れども(かり)にも哲学を論ずるの書、苟にも事実を講じて之を人に教へんとするの書なる以上は、(あに)少しく筆誅を加へずして()()けんや、余輩其書中哲学史大意と題するの一項を見るに、其紙数僅に十六頁に過ぎず、(しか)して其中(そのうち)希臘哲学史を記せる者八頁あり、僅か此八頁の(うち)一目瞭然たる誤謬少くとも七八ケ処を発見し得べし、例へばターレスのことを記して「幾何学天文学は此人の初めて発明する所なり」と云ひ又プラトーンを論じて其哲学の基本は宇宙の第一原因を信ずるにありと云ひ又プラトーンは物体を見て唯だ神の観念となすと云ひ又彼は天地万物を(とらへ)て唯心のみとして天地万物虚無なりと迄論及すと云へる如きは一渡(ひとわた)り哲学史を読める者の決して看過し能はざる誤謬なり、又其近世哲学史を論ずるの段には唯だベーコンとプラトーンとを奇怪に比較するに止まりてブルーノー又デカルトの名も無ければ、スピノザ、ライプニッツの名もあらず、カント、ヘーゲルの名だに見えず、(あゝ)よくも斯かる書物を書く人あるかな、而して著者は自ら曰ふ「天の未だ吾著述を絶たざる也吾生命必ず存して吾志を成すを得ん」と我国今日の著者学者と(なづ)くる者は何すれぞ(やや)もすれば此の如きの言語を発するや、何すれぞ(このん)で自ら「ラビ」と称するや、彼等の為す所(あだか)も市井の童子が相互に誇称して我は太閤なり我はナポレオンなりと云ふに似たり、予は之を名けて著書の不道徳と云ふ、彼等が学ぶべき之徳義は先づ暫く黙するにあり

 我国の事物日々に其面目を改め文学の如きも進で退くなきの有様なり、試に十年前の新聞を取りて之を今日の新聞と比較せば、其進歩の如何(いかん)を知るに足らん、然れども尚ほ我国の文学は、云はゞ小人国の文学なり、学者の考ふる所、著作作家の(あらは)す所、批評家の評する所、其規模の宏大深遠なる者幾何(いくばく)かある、学者は洋書の抜書をなし著作家は西洋小説の焼直(やきなほし)をなし、批評家は真似の如き批評を為し居れり、出来は如何(いか)麁末(そまつ)なるも只だ手間の懸らぬが肝腎なり、事実に相違の(かど)あるも唯だ大ゲサに書きたるが最もよろし、(かく)の如く書かずんば公衆の愛顧を得ること能はざるを如何(いかに)せん、然れども我国今日の文学は思ふに我国の今日に相応せる文学なり、(あに)猥りに著作家を咎む可けんや、又急に公衆を責む可けんや、我等即ち(その)公衆(もし)くは其著作家なることを忘る可らず、三年(たた)三歳(みツつ)になるべし、我国の文学にも尚ほ幾分の年月を()せよ、されば予は猥りに今日の時代を咎めず、只だ之を知れと云ふ人、己を知る者少し、今日の時代にありて善く今日の時代を知る者幾何(いくばく)かある、今日の時代を知らんには之を超越せざる可らず、之を超越せんには先づ進歩せる西洋の思想に通ぜざる可らず、之を超越し之を知り之が教導者たらんと欲する者は細に密に明に西洋の思想を究め而して之を批評せざる可らず、此一語は以て我国今日の思想界の方針と為すに足ると信ず

 

      (明治二十一年五月「國民の友」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/12/24

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大西 操山

オオニシ ソウザン
おおにし そうざん 思想家 1864・8・7~1900・11・2 現岡山県の岡山城下西田町、操山麓に生まれる。幼来宗教感化をうけ同志社に学び英学より神学に進んで徳富蘇峰と相識った。数学論理学文学に抜群の力を示し東京帝大3年に編入、哲学倫理学を専攻し優れた論考を山積ののち後の早大に転じて坪内逍遙と並び称せられた。島崎藤村もこの大西祝の講演に感奮している。

掲載作は、1888(明治21)年5月蘇峰率いる「國民之友」に発表、時に25歳。最も先駆的な「批評の本質論」として輝き、この視野の内から日本の多くの優れた批評家・評論家が現れたとして過言ではない。

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