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ファシズムへの道 準戦時体制へ

  準戦時体制へ

 

 挙国一致内閣  

 五・一五事件で犬飼毅(いぬかいつよし)が暗殺されたことによって内閣は瓦解したが、それは同時に政党内閣の終焉を意味するものだった。

 通常のばあいだと、内閣が倒れると、天皇から元老西園寺(さいおんじ)(公望)にたいして後継者推薦のご下命があり、西園寺がこれに奉答して後継者がきまるのであるが、このときは西園寺はわざわざ興津(おきつ)から上京し、各方面の人をよんで意見をきいた。その結果、後継内閣の成立は五月二十六日になり、十日あまりも高橋是清(これきよ)臨時代理がつづくことになった。昭和七年(1932)五月二十六日に成立したのは、海軍大将で、もと朝鮮総督や、枢密顧問官をしていた斎藤(まこと)を首班とする「挙国一致内閣」であった。

 当時、だれを首相にするかは国内で諸説紛々としていた。陸軍の内部には平沼騏一郎(きいちろう)という声が高く、政友会でも森(かく)らはこれに同調していた。また陸軍の革新派には、荒木貞夫をかつぎだし、軍人内閣をつくれという要求もあった。いずれにせよ陸軍は政党内閣には反対で、荒木から西園寺に意志表示をしていた。しかし政友会は、鈴木喜三郎を後任総裁にたてて政権受入れ準備に熱中していた。ただ森恪らの反対運動があり、その結束は乱れていた。そのほか民政党や国民同盟もそれぞれ複雑な思惑で動いていた。

 こういうなかで斎藤が選ばれたのは、鈴木や平沼が重臣のおぼえがよくなかったということもあるが、主として、軍部を抑えるためには軍人がよく、しかも穏健な人格者の斎藤が適任と判断されたためであった。もちろん西園寺は、これは一時の便法で、また事態がおさまったら、「憲政の常道」に戻すことを考えていたらしいが、いずれにせよ、軍部が内閣の選定に発言力をもちはじめたこと、他方、政党にはもはや日本の運命を荷うだけの気概も能力もなくなっていたことは明らかである。

 新内閣は高橋(蔵相)と荒木(陸相)を留任させ、政友会から鳩山一郎(文相)・三土忠造(鉄相)を、民政党から長老の山本達雄(内相)と永井柳太郎(拓相)をいれた。あとは実業界出の中島久万吉(商相)をのぞけば官僚出身者が中心であった。

 斎藤はその人柄のせいもあって、穏健ではあるが鈍重な印象を人々に与えた。スローモー内閣という綽名(あだな)が広く使われたのも、その一端をしめしている。しかしこのスローモーは、多少軍部の独走を抑えるには役立ったとしても、いい意味の保守主義を、断乎守っていくだけの力は斎藤にはなかった。むしろ事なかれ主義でことを処していこうとするうちに、つぎつぎと事態の進展におしまくられ、日本をいよいよ非常時のなかに追いこんだというのが、この内閣の唯一の「業績」であった。

 重光葵(しげみつまもる)はこの内閣を評して、「斎藤新総理は、積極の人ではなく、すべて受身の人であった。関東軍も、軍部も、満州建国で手一杯で、政府はむしろ放任政策に出たため、軍部方面は小康を得た。政府は、満州問題を他人事(ひとごと)のように取扱ったが、満州問題から来る日本の責任問題は、他人事ではなく、軍部の行動は日本の行動として、日本政府自身において、責任をもって、取り扱わねばならなかったのである。」(『昭和の動乱』上)といっているが、まさにそれはこの内閣の事なかれ主義をついている。

 こうして斎藤内閣は軍部の独走を抑ええなかっただけではない。荒木の主張をいれて、首・外・陸・海・蔵の五相からなるインナー・キャビネットをつくり、これがたいていのことは決定する方式を発足させた。これによって政党出身大臣は棚上げされ、発言力を弱められた。またそれは、原敬が苦辛して廃止した官吏の身分保障(文官分限令第十一条)をもとに戻して、これを強化した。

 これは官僚の本山といわれた伊沢多喜男の工作だというが、これが挺子になり、他方では、国家独占資本主義的経済統制が強化されたこともくわわって、このころから革新官僚の進出がいちじるしくなった。政党にかわって軍部と結びついた官僚が日本の政治・経済を牛耳りはじめるのも、このころからのことである。

 

 連盟脱退−孤立外交へ

 斎藤内閣はその成立後まもなく昭和七年(1932)九月十五日、日満議定書によって満州国を正式に承認した。この内閣で外相になった満鉄総裁の内田康哉(こうさい)は、外交界の長老ではあったが、満州で軍部との結合を深めており、幣原(しではら)外交には批判的な立場をとっていた。当時国内では、リットン報告との関係で、満州国を承認することは連盟内の日本の立場を困難にするという議論もあったが、内田は赴任のまえ、奉天で本庄司令官と打合せをすませたのち、あえて承認にふみきったのであった。イギリスやアメリカは、何とか承認をくいとめようと日本に働きかけたが無駄であった。

 昭和七年八月開かれた第六十三臨時議会では、内田は森恪の質問に答えて満州国承認の方針をのべ、「この問題のためにはいわゆる挙国一致、国を焦土にしても、此主張を通すことにおいては、一歩も譲らない」と見えを切った。いわゆる「焦土外交」といわれたのがこれであるが、まさか内田はそれから十余年後、文字どおり国が焦土と化することまで予想していたわけではないだろう。だが、この承認はまさに国を焦土とする第一歩だったのである。

 さてリットン報告をうけた(国際)連盟は、七年十二月二日から満州問題の審議を再開したが、このときの日本代表は松岡洋右(ようすけ)であった。

 松岡は外交官出身であったが、田中内閣のとき満鉄副総裁になり、当時は政友会の代議士であった。かれはのちに近衛第二次内閣の外相になり、日本を日米開戦にひきずりこむうえで重要な役割を果たすのだが、当時から熱弁をふるう能力はあったが、英雄気どりで一人合点の人物だった。その意味で、尻をまくって連盟からとびだす立役者としては、うってつけであった。

 松岡はジュネーヴに到達するといきなり、日本は満州国承認と矛盾するいかなる案ものむ気はないし、日本の威信にかかわるときは(国際)連盟を脱退すると宣言した。開会まえにこういう乱暴な宣言をしたのだから、会議がうまくいかないことは、はじめからわかっていた。しかしイギリスをはじめ多くの国は、日本をなだめようと百方手をつくした。紛争解決案の作成にあたった委員会は、リットン報告をもとに、満州の状態を満州事変以前に戻すことはできないが、現制度をも承認するものではないという決議案をつくり、これもすぐ日本に満州国承認取り消しを求めるものではなく、漠然とこの問題にたいする連盟の意志表示をするという趣旨のものだと説明された。

 しかし日本は、いっさいの妥協に応じないというかたくなな態度をとった。閣議は八年(1933)二月二十日、脱退の方針を決定し、二十四日の連盟総会で、右の委員会の案が賛成四十二、反対一(日本)、棄権一(タイ)で採択されると、ただちに松岡らは退場した。そして三月二十八日には連盟脱退が正式に通告されたのである。

 この内田外交は、宇垣一成(かずしげ)によってさえ、「軍部一部の短見者流の横車に引摺られて青年将校でも述べそうなことをお先棒となりて高唱し、何等の策も術もなく、押の一手一点張り、無策外交の極致」(『宇垣日記』)と非難されている。事実それは、一方では連盟の権威をいちじるしく傷つけた。このあと昭和十年にはドイツが、十二年にはイタリアが連盟を脱退するが、いずれにせよ、連盟を弱め、世界平和に大きなひびをいれた元兇としては、まず日本に指を屈しなければならないのである。と同時に、それは日本の国際的地位を決定的に悪くし、日本を孤立化させる役割を果たした。このとき以後、日本は世界でもっとも侵略的で横車をおす無頼漢として、鼻つまみにされたのである。さきにみたように、日本商品がソーシャル・ダンピングの名のもとに世界中から排斥されるようになったのも、こういう日本の国際的地位と無縁ではなかった。

 

 華北侵略の開始

 同じころ戦争は華北にひろがりつつあった。これより先、関東軍は、昭和八年二月から熱河(ねっか)作戦を開始していた。熱河は蒙古の一部であったが、関東軍ははじめからこれを満州国の一部と考えていた。熱河には当時湯玉麟(とうぎょくりん)がいたが、かれははじめは東北行政委員会に参加し、参議府副議長の職を与えられていた。しかしこの地が長城を境に河北省と接していたこともあって、ここへは張学良の勢力の滲透がいちじるしく、七年七月ころには湯は張学良側につくようになった。こうしたいきさつで熱河作戦がはじまったのである。

 熱河の掃蕩そのものは十日間ほどで片づいたが、三月初旬、長城線に達するにおよんで中央軍の抵抗がはげしくなってきた。そこで関東軍はついに長城線を突破して関内に軍をいれ、中国軍を(らん)河右岸に撃退した。しかしこれにたいしては、またもや奉勅命令がだされ、軍は四月二十三日、いちおう長城線まで撤退した。

 他方、関東軍は八年一月二日には山海関(さんかいかん)を占領したが、このころから華北を日本の勢力下におこうと軍の野望はしだいに露骨になってきた。満州をいちおう完全に占領してみても、華北からの中国側の滲透がやまない、そこで今度は華北を準満州化して、満州国の安全を確保しようということになってきたわけである。まさに(ろう)をえてまた(しょく)を望むというところだった。

 もっともこの華北進出は、単に張学良にたいする布石だけではなかった。六年(1931)十一月、江西省瑞金(ずいきん)で政府をたてた中共(中華ソヴィエト共和国)は、七年四月、対日宣戦布告をおこなっていた。その勢力はまだ華南に中心があり、しかも蒋介石との戦争に死力をつくしていたが、東北へのその勢力の伸張もしだいにすすみつつあった。他方、ソ連は五ヵ年計画を成功させつつあり、しだいに外蒙をその勢力下におさめつつあった。十一年三月には外蒙古はソ連と共同防衛条約を締結するにいたる。こうして三方から共産圏の包囲の危険にさらされたということが、関東軍をいっそう焦慮させたのである。

 そこで、八年二月には板垣征四郎は天津(てんしん)にとび、ここに天津特務機関をつくった。それは、宋哲元(そうてつげん)以下華北の軍閥に働きかけ、反蒋親日運動をおこさせる工作を担当する機関だった。しかしこの謀略はあまり功を奏さなかったので、しびれをきらした関東軍は、五月三日には関内作戦を開始した。そして五月十日ごろには北京(ぺきん)の北方まで進出し、空軍が北京上空で威嚇飛行を行うまでにいたった。

 このころ蒋介石は共産軍との戦争にあけ暮れており、日本と真正面から戦うだけの余力をもたなかった。しかも蒋は、日本軍の侵略は皮膚がただれた程度だが、中共は「心腹の患」であると称し、中共戦に重点をおいていた。

 こうしたことから中国側は対日和平策をとり、五月三日、親日家の黄郛(こうふ)を委員長とする行政院駐平政務整理委員会を発足させた。そして黄郛は上海(しゃんはい)から北京に飛び、二十二日、関東軍とのあいだに停戦協定を結ぶ約束をとりつけた。五月三十一日の塘沽(タンクー)停戦協定がこれである。これによって、中国側は濼東地区を中立化して軍隊を入れない約束をし、そこに満州側の勢力が入ることを容認せざるをえなくなった。これで華北の準満州国化という関東軍の目的は、いちおう達成されたのである。

 このあとの華北への侵略は、直接日華事変の前奏曲をなすものとなるから、くわしくは次巻にゆずることにしよう。簡単にいえば、十年(1935)六月には天津軍が梅津・何応欽(かおうきん)協定によって、于学忠(うがくちゅう)軍と排日機関を河北省外に駆逐する。そしてそのあと関東軍は、土肥原(どいはら)秦徳純(しんとくじゅん)協定によって親日派の宋哲元を河北省にすえた。その後、十年十一月の蒋介石の幣制改革を契幾として、出先軍部は殷汝耕(いんじょこう)をひきだし、河北省に冀東(きとう)防共政府という傀儡(かいらい)政権を成立させた。関東軍はチャハル省にも同じような政府の成立を画策していたが、蒋介石が先手をうって十二月、宋哲元に冀察政務委員会をつくらせたので、このたくらみは成功しなかった。しかし冀東政府のおこなった日本商品の密輸は華北の経済を混乱させ、中国側の反感をいよいよ強めることとなった。

 このように斎藤(実)内閣・岡田(啓介)内閣のもとで、華北への侵略がつぎつぎ強められてゆき、日華事変への道が開かれてゆくことになる。このばあい注意しておくべきことは、このころになると、こういう動きは、もうまったく出先軍部の動きに委ねられてしまい、政府の統制は全然きかなくなってしまっているということである。外務省が中国政府と外交交渉をすすめることはまったく無意味であった。軍は何の連絡もなしに、つぎつぎとその交渉をぶちこわすような行動をつづけていったからである。それは対外的にはまさに無政府状態を意味した。こうして、もはや日本政府を信用する外国はどこにもない状態になってしまったのである。

 

 瀧川事件

 国外では日本がいよいよ孤立し、「非常時」が深刻になりつつあったとき、国内では反動の嵐が吹きあれていた。右翼のテロリズムの波はいちおう去り、他方、左翼も、小林多喜二の虐殺事件が人々の目をひいたくらいで、逼塞(ひっそく)を余儀なくされていた。「転向」時代がはじまったのである。そのなかで、政治の中心に進出した軍部は、それに便乗する官僚や政治家を動かして、着々と準戦時体制を固めていった。

 ここでまず強く現われてきたのが思想対策であった。社会主義の運動は下火になったけれども、その危険思想はなお根強くはびこっている、したがってこのさい、そういう不穏な思想を追放し、国体明徴をはからなければ国防の安全はたもてない、というのがその認識であった。この危険思想とか不穏思想とかというのは、はじめはもちろん共産主義思想であった。しかししだいにそれは拡大解釈されるようになり、社会主義思想はむろんのこと、自由主義・平和主義・国際主義など、およそ軍部の政策に批判的な思想は、すべてアカとされることになっていった。

 こういう巨大な反動化の動きにとっては、学問・思想の自由も大学の自治も、何の尊重にも値しないものだった。いな、そういうものこそ危険思想の温床なのであり、こういうものに一撃をくわえて「教学刷新」をおこなうことこそが、何よりの思想対策とされたのである。

 そのいわば最初の一撃が、昭和八年(1933)五月におこった京大の瀧川事件だったといっていい。もちろん思想事件に関連して大学教授が学園を追われたのは、決してこれが最初ではない。古いことは別としても、すでに三・一五事件に関連して河上肇らが追われ、また五年には山田盛太郎・平野義太郎両助教授が追われていたことはすでに述べたとおりである。しかしそれらは共産党との関係を理由としたもので、あからさまに学説なり思想なりを理由としたものではなかった。

 もっとも、たとえば平野義大郎のばあいには、大正十四年(1925)に発表された『法律に於ける階級闘争』なる著書が危険思想をふくむというので、右翼のごろつき学者蓑田胸喜(みのだむねき)三井甲之(みついこうし)らは早くからこれを攻撃し、貴族院や文部省に働きかけていた。しかしそれが直接問題にされるにはまだいたらなかった。

 ところで瀧川事件は、京都大学の刑法担当教授瀧川幸辰(ゆきとき)の罷免を文相鳩山一郎が要求したことからおこった。すでにそのまえから蓑田らは瀧川を「赤化教授」として攻撃していたが、八年(1933)一月の第六十四議会では、貴族院の菊池武夫や宮沢(ゆたか)(政友会)が赤化教授の追放を鳩山に要求していた。そして衆議院は三月二十三日、久原(くはら)房之助らの提案した「教育革新に関する決議案」を可決した。それは「近時我が国民の一部に矯激なる思想を抱懐して民心を惑乱」するものがあるから、「政府は確固たる思想対策」をたて、「根本的に之を芟除(せんじょ)し以て民心の帰嚮(ききょう)を明かにし其安定を図るべし」というものだった。

 四月に入って、内務省は瀧川の著書『刑法講義』と『刑法読本』を発禁にした。後者は発売当時、大審院長(=最高裁長官なみ)が良書として部下にすすめたという書物なのだが、それが発売後十ヵ月もして発禁になったのだから、まさにめちゃくちゃであった。

 鳩山はこの二書の発禁と、前年秋、瀧川が中央大学でおこなった講演が不穏当であることを理由に、京大の小西重直(しげなお)総長に瀧川の罷免を要求した。しかし、文部省が理由としてあげた点はまことに薄弱だった。たとえば瀧川が、内乱はよりよい社会の建設を目的としており、ふつうの犯罪のように破廉恥なものでないと書いたのは内乱を煽動するものだとか、妻の姦通のみを罰し夫のそれを不問に付するのは片手落ちだと書いたのは姦通を奨励するものだとかというのであって、まさに難くせという以外にはなかった。

 それゆえ京大は.結束して文部省に反対し、総長も瀧川の処分を拒絶した。そこで鳩山は、五月二十五日、文官分限令によって瀧川を一方的に休職処分にした。それは教授の進退は総長の具申によるという大学自治の慣行を完全に蹂躙(じゅうりん)したものだった。

 京大法学部ではこれに抗議するために、五月二十六日、教授全員が辞表を提出した。助教授・講師・助手もこれにならい、すべてで三十九名の辞表が出された。また学生も教授会を支持し、七月まで授業をボイコットするとともに、総退学運動を展開した。学生運動のほうは、東大、東北大、九大にも飛び火し、京大支援の学生運動がもりあがった。しかし大学側は、他大学はむろんのこと、京大の他学部もけっきょくは法学部を見殺しにした。

 文部省は収拾のためさまざまの工作をおこなったが、七月はじめ、小西にかわって松井元興(もとおき)が総長になったあと、佐々木惣一、末川博、宮本英雄ら強硬派と目される六教授の辞表を受理し、他はさし戻すという方法で教授会のきりくずしがおこなわれた。

 このとき恒藤恭(つねとうきょう)・田村徳治(とくじ)は慰留を蹴って辞職したが、逆に辞表受理組にいれられた宮本英脩(ひでやす)は、間もなく翻意して京大に復帰した。他の多くの教授・助教授は、文部省が今回の措置は非常特別のことで、一般には大学の具申を尊重すると言明したのを口実に辞表を撤回した。こうして京大法学部は、「玉砕組」と「瓦全組(がぜんぐみ)」に二分され、大学の完全な敗北のうちにこの事件は終わったのであった。

 

 学問の衰退と大学の転落

 この瀧川事件は、その後の日本の学問と大学のうえに大きな暗影を投げかけたものだった。というのは、第一に、瀧川はもともとマルクシストではなく、社会主義運動と何の関係もなかった。かれは長く司法試験委員もやっており、せいぜい多少自由主義的だったにすぎない。そういう穏健中正派までが狙いうちされるようになったのだから、それが以後、学者や大学に与えた衝撃は大きかった。

 このころから学者はなるべく口をとざして、「勇気ある言葉」は外にださないようにした。また大学のなかでも、便乗派の教授がしだいに勢力をえるようになり、大学自体の右傾化がおしすすめられていくようになった。それは明らかにファシズムにたいする学問の敗北であり、大学の転落の道であった。

 第二に、この事件はもともとうす暗い陰謀におおわれていた。蓑田(胸喜)がとくに瀧川にかみついたのは、かつて京大で蓑田が講演したとき、学生にこっぴどくやっつけられたのを怨みとしたためだという。だが、いずれにしても、こののち、天皇機関説問題から矢内原(やないはら)事件・河合事件と展開していくこの時代の学問圧迫の過程は、判でおしたように、蓑田らが攻撃をはじめ、貴衆両院の一部の議員がそれをとりあげ、政府が大学に圧力をかけるという手順をとっている。

 そしてこの蓑田らの裏にも、貴衆両院の議員の裏にも、軍部の手が動いていたといわれる。いずれにせよこうして、この事件は、その後の学問弾圧の過程の、いわば原型をなしているのであり、それがすべて軍=右翼の手で演出されていたところに、その重大性があった。

 第三に、この事件は、こういう圧力にたいする大学や知識階級一般の無力さを如実にさらけだしたものだった。京大法学部はいちおうは抵抗にたちあがった。しかしそれも、政府の分裂工作のまえに、あえなく敗退してしまった。他の学部や大学は、むしろひたすら沈黙を守ることによって災いのおよぶのを避けようとする態度をとった。また一般の知識人といわれる人たちも、結束して抵抗にたちあがる勇気もなかったし、組織もなかった。それが安々と軍部や政府に成功をおさめさせた原因であった。

 ここには日本の大学や知識階級に固有の弱さが露呈されているといっていい。もともと日本の大学は、輸入された高度の学問的知識を消化し、一部の知識人を教育することに急であって、庶民との連帯感をいちじるしく欠いている。それは「象牙の塔」として尊敬はされていたかもしれないが、民衆はただそれを自分たちとかけ離れた存在としてしか意識できなかった。

 知識階級なるものがまたそうで、かれらは一方で強いエリート意識はもっていたが、それだけに他方では大衆から疎外された孤立した存在であった。こういう浮き上がった基盤のない存在には、およそ社会的抵抗を組織する力はありようがない。だから、抵抗は、けっきょく個々の知識人が、自分の殻の中にとじこもって、個人の良心だけを守るという形でおこなわれる以外にはなかったのだ。だが、そういう蛸壺は何の役にも立たなかった。ファシズム戦車は、そんなものをふみつぶしたまま、はるか先へ戦線をすすめていった。とりのこされた知識人は、ただ「貝になって」ちぢこまっている以外になかったのである。

 

 斎藤内閣打倒の動き 

 昭和九年(1934)に入ると、そろそろ斎藤内閣も人々にあきられ、いろいろな方面から政局の転換を促す動きが現われはじめた。

 たとえば軍部は、さらに強力な内閣を出現させて、自分たちの政策をもっとおしすすめようという意図を露骨にもちはじめていた。高橋(是清)蔵相の財布のひもが案外かたく、軍備拡張が思うにまかせないこともその一つの理由であった。とくに海軍は一九三五—六年の危機をさかんに唱え、軍縮条約の破棄を主張していたが、財政上の理由もあって、斎藤はそれを抑えるほうにまわっていた。陸軍は華北への進出をあせっていたが、八年九月、広田弘毅(こうき)が外務大臣になってからは、多少ともブレーキがかけられた。イギリスとの話合いによって中国問題の打開をはかろうというのが、広田の基本方針だったからである。

 また荒木(貞夫陸相)は八年末、陸軍の国策案をつくり、軍備の拡大から農村救済にいたるまでの対策を五相会議におしつけようとしていた。しかしこれも高橋の抵抗にあってほとんど効を現わさなかったので、逆に荒木が九年一月には病気を理由に辞職せざるをえなくなった。後任には林銑十郎が入ったが、これはあとでのべるように、皇道派の没落のはじまりであった。それにしても、こうしたことはすべて軍を倒閣の方向へ駆りたてる原因となったのである。

 このころ政党の内部にも、また官僚の一部にも軍部の横暴にたいする反撥があったが、そういうことも軍部を刺戟する要素となった。たとえば八年(1933)六月におこった大阪の「ゴー・ストップ事件」などは、子供の喧嘩のようなものだったが、その根は案外深いものがあった。

 事件というのは、大阪の天神町の交叉点を第四師団の一兵卒が、信号を無視してわたろうとしたことから生じた。交通巡査がそれを制止したのにたいし、その兵隊が、軍人は警官の命令には従わないといったことから両者のなぐり合いになった。それですめばちょっとした喧嘩沙汰にすぎなかったのだが、第四師団の参謀長が、皇軍の威信にかかわる問題だとして、警察の陳謝を要求したことからことが大きくなった。ついにそれが荒木陸相と山本内相の対立になり、十一月まで大もめをしたのである。このへんに軍の横暴にたいする官僚や政党陣の鬱憤があった。

 さらに、政党も、軍部の進出を抑えるべく財界とも共同して戦線統一をはかりはじめていた。河合良成(かわいよしなり)(ごう)誠之助・永野(まもる)など若手財界人の結成する番町会が肝煎りになって、政民両党の連合運動をすすめ、議会政治擁護の気勢をあげたのは八年末から九年一月にかけてであった。第六十五議会では、珍しく政民両党から軍部にたいする攻撃がさかんにおこなわれた。

 とくに、陸軍省調査部長の東条英樹の主張でだされたといわれる、軍民分離を促す言動にたいする警告という陸海軍の共同声明(八年十二月九日)は、議会の攻撃のまととなり、それは軍部の狼狽(ろうばい)を現わすものだとか、軍人の政治介入であるとかいった批判やら非難が軍部大臣に集中した。この攻撃は、政府が政友会にたいして、軍を刺戟しないように、と注意するほどはげしいものだったが、こうしたこともまた軍部を反政府に追いやる理由となった。

 しかし政党のほうは、軍と対決することで統一されていたわけではむろんない。軍と提携して勢力をのばそうとするもの、もう一度政党に政権をとり戻そうと考えるものなど、さまざまの動きが渦をまいていた。またこの軍部にたいする攻撃にしたところで、むしろそれによって政府を窮地に追いこむことが目的だったのであって、かならずしもファシズムから日本を守ろうとするほどの意識の高いものではなかった。

 したがって同じ第六十五議会では、中島商相にたいする「足利尊氏(あしかがたかうじ)問題」とか、鳩山文相にたいする樺太工業問題とかの追及がおこなわれた。前者は中島が、雑誌『現代』に足利尊氏讃美論を書いた(これはしかも中島の旧稿の転載だった)というので、貴族院の菊池武夫が追及をはじめたものである。逆賊を讃美するとは何ごとかというわけだ。これに院外の右翼も同調しはじめたので、中島は二月九日、商相を松本烝治(じょうじ)にゆずらざるをえなくなった。

 後者は鳩山が樺太工業から贈賄(ぞうわい)をうけたという攻撃で、鳩山は百方弁明したが、ついに三月四日、「明鏡止水」という言葉をのこして辞職した。こうした一連の事件は、とくに政友会の久原(くはら)房之助の画策にでたものだが、この各個撃破によって斎藤内閣は大いによろめいた。

 もう一つ、この内閣の大きな敵役になったのは枢密院の平沼(騏一郎)だった。これより先、九年(1934)五月に枢府議長の倉富(くらとみ)勇三郎が辞任したが、順調にいけば副議長の平沼が昇格するところだった。ところが(元老)西園寺(公望)が平沼をきらっていたこともあって、斎藤は一木喜徳郎(いちききとくろう)(前宮相)を議長にすえた。このことから平沼は大いに斎藤にふくみ、久原と結んで倒閣運動にのりだすのである。中島や鳩山の問題も平沼の差し(がね)だというし、やがておこる帝人事件は、検察のボス平沼のうった大芝居であった。

 

 帝人事件

 帝人事件の発端は、当時鐘紡(かねぼう)をやめた武藤山治(さんじ)が社長をしていた『時事新報』が、一月十六日から「番町会を(あば)く」という記事をのせはじめたことにある。これは、「政党と政商の結託暗躍はあらゆる社会悪の源となり、つひに五・一五事件を誘発して非常時内閣の出現をみたことはあまねく知るところ、しかも五・一五事件の洗礼を受けた非常時内閣下において政党政商等はしばらくその爪牙(そうが)をかくして世の指弾を避くるに汲々たる折柄、ここにわれらは、わが政界財界のかげに奇怪な存在をきく。

 曰く『番町会』の登場がそれである。すなはち彼等はいまや、その伏魔殿にたてこもり、かつて政党政商がなせるが如き行為、紐育(ニューヨーク)『タマニー』者流にも比すべき吸血をなしつつ政界財界を毒しつつあるといふ。しかもこの『番町会』のメムバーとして伝へられるものに、某財界の巨頭(郷誠之助のこと 引用者)を首脳としこれを囲繞(いにょう)するものに現内閣の某大臣(中島久万吉)あり、新聞社員(正力(しょうりき)松太郎)あり、政権を笠に金権と筆権を擁して財界と政界の裏面に暗躍する暴状は眼にあまるものあり……」という書出しのように、一種の暴露ものであった。武藤がなぜこういう記事をのせはじめたのかは、かならずしもはっきりしないが、長く少数党を率いて政界にあり、しかも番町会の外にあった武藤には、筆誅をくわえたいという意図も動いていたことはたしかだろう。それに新聞の販売政策がからんでいたのである。

 この記事は、番町会の罪悪をたくさん並ベたてて暴露していたが、その一部として帝人問題がとりあげられた。

 帝人=帝国人絹(じんけん)というのは鈴木商店系の人絹会社であるが、このころの人絹ブームにのって、営業成績は向上をつづけていた。ところが金融恐慌以来、この会社の株二十二万株余が台(湾)銀(行)の担保に入っていた。この株価の上昇がみこまれたので、金子直吉らは、このさい台銀からそれを買い戻そうということになり、その斡旋を番町会の面々に依頼した。とくに永野護がその中心になり、正力が永野の依頼で活躍したといわれているが、かれは、そこで鳩山一郎(文相)・黒田英雄大蔵次官らに働きかけ、島田茂台銀頭取を動かして、ついに十一万株の払下げを実現させた。

 そのさい、株価の問題で金子らと折合いがつかなかったので、永野らは別に買受団をつくり、一株百二十五円でこれを買いとった。だが、それと同時に帝人が増資をきめたので、この株はたちまち百四十−五十円にあがり、永野らは大儲けをした。――これが、暴露されたことのおよその内容であった。

 この記事がでたあと、検事局が動きだし、四月十八日には台銀の島田頭取、帝人の高木復亨(なおみち)社長および永野・河合良成・長崎英造(えいぞう)など番町会メンバーが召喚された。そして五月に入ると、大蔵次官黒田英雄・銀行局長大久保偵次(ていじ)らが収賄容疑で拘引され、やがて起訴された。また中島も召喚されたが、そのとき参考人としてよばれた三土忠造(みつちちゅうぞう)は、検事の主張する事実を否認したので偽証罪に問われた。

 こうして、帝人事件は空前の大疑獄事件となったが、斎藤内閣は黒田次官の起訴確定後、七月三日、ついに責任をとって辞職した。倒閣がここに成功をみたわけである。

 ところで、この帝人事件の裁判は十年(1935)六月からはじまり、十二年十月までかかったが、結果は全員無罪であった。しかも判決は、証拠不十分というのではなく、犯罪事実がなくすべてが「空中楼閣」だったというのだから、世間の人も唖然としたのであった。もちろん中島をはじめ多くのものは、帝人株の一部をわけてもらったり贈与をうけたりしたという事実はあった。しかしそれは謝礼であり、ふつうの商慣習で、背任とか贈収賄ではなかったというのである。

 だが、この事件は、一方では明らかに倒閣を目的とした政治疑獄であり、それとしてはじゅうぶん目的を達していた。その張本人が平沼であった。かれは、その主催していた右翼団体国本社(こくほんしゃ)の一員であった検察の大物塩野季彦(すえひこ)(第一次近衛内閣の法相)を使って、この事件をデッチあげさせたといわれている。事実、このときの検事の取調べは猛烈で、中島以下にも拷問に近いことまでし、虚偽の自白を強要した。検察ファッショという言葉が生まれたのもこのときからである。平沼の背後にはむろん右翼や軍部があったし、平沼は、今度こそ政権は自分のところに転がりこむと読んでいた。それをまたかついでいたのが久原(くはら)(房之助)の一派であった。

 他方しかし、たとえ罪にはならないにしても、この事件は、財界の悪どい金儲けの実態と、それに官僚や政治家が結託している醜悪な事実を世間に暴露した。ただその結果は、当時の日本では、かえって軍部や右翼の発言力を強めることに終わったのである。

 なお、この事件の最中の昭和九年(1934)三月九日には、武藤山治が北鎌倉の自宅から駅に向かう途中、福島某なる青年にピストルで撃たれて死ぬという事件がおこった。これは一時は背後に番町会があるのではないかとして騒がれたものだったが、実は武藤の恐喝に失政した肺患の青年がやった単なる偶発事件にすぎなかった。

 

 岡田内閣の成立

 斎藤内閣の瓦解後、平沼らの思惑はまたもやはずれ、海軍大臣だった(昭和八年一月に大角岑生と交替していたが)岡田啓介に組閣の大命がくだった。このときは西園寺は宮中に重臣会議を召集し、牧野内府、一木枢相、斎藤・高橋・清浦・若槻の各元首相がよばれた。西園寺は、自分が死んだあとの首相推薦の方式をここで考えたわけである。ここで斎藤が推した岡田にきまったのだが、もう一度穏健な海軍軍人を選んで軍部を抑えさせようという西園寺の気持が、そこには反映していたといっていい。

 岡田内閣は、この意味で斎藤内閣の継続たる性格をもっていた。しかし、今度も民政党の町田忠治(蔵相)・松田源治(文相)、政友会の床次(とこなみ)竹二郎(逓相)・内田信也(鉄相)・山崎達之輔(農相)の五名が政党から入閣したが、政友会が協力を拒絶し、入閣者三名を除名したので、政党色はいっそううすくなった。それにかわって、後藤文夫(内相)・藤井真信(まさのぶ、蔵相)・河田烈(いさお、書記官長)といった官僚の進出が目立った。組閣の途中では石黒忠篤(ただあつ、農林次官)・久保田敬一(鉄道次官)の入閣も噂されたので、次官内閣という呼び名ができたくらいであった。

 岡田内閣は、綱紀粛正・民心作興・国際親善・国防安全・教育刷新など十大政綱の実現という旗じるしをかかげて出発したが、概して斎藤内閣以上に政治力のない内閣だった。途中で高橋(是清)の引出しには成功したが、ともかく閣僚が小ものであったし、岡田自身、善意でまじめではあったが政治的識見を欠いていた。そのうえ政党、とくに政友会は、軍と組んで政府の足をひっぱることしか考えていなかったのだから、ファシズムの大波をくいとめるなどということは、はじめからのぞめないことだった。

 この政府が成立すると間もなく、陸軍は満州行政機構の改革を要求し、九月の閣議でついにそれを政府に認めさせた。それは要するに、拓務省の指揮下にあった関東州と満鉄付属地の行政権をとりあげ、関東軍司令官兼全権大使の一元的支配下におこうとするものだった。これにたいしては拓務・外務両省も政党出身大臣も、植民地の統治から文官を排除するものだとして猛烈に反対したが、岡田はついに陸軍に押し切られた。以後、満州はいよいよ軍の独占的な支配下に入ることになったのである。

 また海軍は斎藤内閣時代におさえられていたワシントン条約廃棄を、九年(1934)十二月、ついに実現させた。岡田は軍縮に熱心で、とくにロンドン条約の成立には力をつくしたのであるが、海軍の内部は横須賀鎮守府司令長官末次信正(すえつぐのぶまさ)を中心とするいわゆる艦隊派に握られていた。そして末次らの廃棄の主張に政友会などが同調して騒ぎだしたために、ついに岡田は、ここでも押し切られたのである。十年十二月のロンドン軍縮会議には永野修身(おさみ)大将と永井松三大使が送られたが、日本はあっさりとこれを脱退し、ついに軍縮無制限時代に突入したのであった。

 

 陸軍パンフレット

 このころになると、もう陸軍は、政府や政党をそっちのけにして、公然と政党政治に介入するようになっていた。その象徴的なものが、昭和九年十月にでた「国防の本義と其強化の提唱」というパンフレットであった。これが(政界の陰の演出者といわれた)矢次(やつぎ)一夫らの入知恵によるものだということはまえにふれた。それは、

「たたかひは創造の父、文化の母である。試煉の個人における、競争の国家における、ひとしくそれぞれの生命の生成発展、文化創造の動機であり刺戟である」

という書出しではじまり、国防の重要性と国民の覚悟をといたものであったが、そのなかには、たとえば、経済活動の個人主義を排して統制を強化するとか、富の遍在を是正して国民の生活安定をはかるとか、税制をあらためて負担の公平をはかるとか、およそ軍部の権限外の要求がたくさんもりこまれていた。しかもそれが林陸相の決裁をうけて発表されたのだから、軍の政治介入の意図はきわめて露骨であった。

 もちろんそのまえ、すでに荒木陸相のとき、農村救済までももりこんだ陸軍の国策案を五相会議にもちこんだことはあった。しかし陸軍が政府の了解なしに直接国民に訴える態度をとったのは、これがはじめてであった。このころ陸軍の内部では、荒木・真崎(まさき)らの皇道派が勢力を失い、永田鉄山(軍務局長)を筆頭に、東条(英機)・武藤章らの統制派が進出しつつあった。かれらはもうクーデターに訴えないで、合法的に政権に近づく方針をとり、財界や政界とも広いつながりを作りつつあった。このパンフレットも、そういう連中のプログラムだったのである。

 これにたいしては、政・民両党はさすがに反撥するところがあった。民政党は十月二日の幹部会で、陸軍が勝手に社会政策や経済政策にまで口を入れるのは、秩序ある政府のゆるすべきことでないという態度をきめたし、政友会の安藤正純は、第六十六議会で、明治天皇の軍人勅諭をひいて軍の政治介入をいましめた。林陸相は、

「これは国防について国民の了解を深からしめるためのもので、ここにもられた事項をいかに実行に移すかは専門各省の仕事だ。軍が自分でやろうという意図は毛頭ない」

という趣旨の弁明をして問題をおさめた。しかし、実は陸軍は、政党などが何をいおうとまったく痛痒(つうよう)を感じてはいなかった。そしてつぎの機関説問題では、いよいよ思想統制にまで、みずからのりだしてくるのである。

 

 天皇機関説問題

 天皇機関説というのは、美濃部達吉によって代表される憲法学説であるが、美濃部が貴族院でおこなった弁明にしたがって要約すれば、それはこういうものであった。

所謂(いわゆる)機関説と申すのは国家それ自身を一つの生命あり、それ自身に目的を有する恒久的の国体、即ち法律上の言葉を以て申せば一つの法人と観念致しまして、天皇はこの法人たる国家の元首たる地位に(まし)まし、国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給ひ天皇が国法に従つて行はせられます行為が即ち国家の行為たる効力を生ずるといふことをいひ表すものであります。」

 要するに統治権というものは本来国自体にある――国民にある、とまでは当時はいえなかった――ものであり、天皇は国の最高の機関としてこの統治権を行使するにすぎない、したがって天皇の権限も、憲法その他の法律にしたがって発動されるもので、絶対無限ではないというのである。今日からみれば、しごくあたりまえの説で何の不思議もそこにはないといっていい。

 だが明治以来、なお天皇は神であり、天皇の統治権はその一身に属する権限で、絶対無限だと考えたがる神がかり論者は少なくなかった。憲法学でもこういう考え方を代表していたのは上杉慎吉で、かれの天皇主権説と美濃部の天皇機関説とは、明治末年以来、学界でも大きな論争となったものであった。

 しかし、美濃部の学説は、明治憲法をできるだけ民主主義的に解釈し、天皇の権限を法令の枠のなかにおさめようとするものであったから、日本でもデモクラシーが発達するとともに、それがしだいに公認の解釈とされるようになっていた。美濃部憲法学説は、帝国大学で長く教えられただけでなく、文官試験や司法試験でも一般に採用されていたのであって、いまさら異論がでるのはおかしいようなものであった。

 だが、独裁をのぞむ軍部にとっては、それは大いに邪魔ものであった。天皇がもし絶対無限の権限をもつなら、軍は、天皇の名において自由に何でもやれることになる。それは議会を無力化し、国民の権利を剥奪するために、どうしても排撃されなければならない学説だった。

 すでに昭和五年(1930)にロンドン軍縮問題がおこったとき、天皇の統帥権(とうすいけん)がどの程度の独立性をもつかが大きな問題になった。美濃部の学説は、当然これをできるだけ狭く解釈する立場をとっており、「統帥大権の及ぶ範囲は唯軍隊を指揮し其戦闘力を発揮することにのみ止まることを本則とす」(『憲法撮要』)というものだった。つまり軍の編成・装備は統帥権の外にあり、したがって軍縮も政府の権限できめうるということになる。この美濃部説が浜口(雄幸)内閣の有力な武器とされたことも、美濃部が軍ににらまれた一つの原因であった。

 また美濃部は九年(1934)十一月号の『中央公論』では、陸軍パンフレットを批判し、「本冊子を通読して最も遺憾に感ぜらるるところは、本冊子が熱心に民心の一致を主張しながら、みづからは政府の既定の方針との調和一致をもはからず、ただ軍部だけの見地から自分の独自の主張を鼓吹し、民心をして強ひてこれに従はしめんとする痕跡の著しいことである」と、その独善をいましめた。こうしたことも軍部の逆鱗(げきりん)にふれた理由だったと思われる。

 

 機関説排撃の動き

 昭和十年二月十九日の貴族院本会議では、菊池武夫がたって機関説排撃演説をやった。菊池は蓑田(胸喜)らと組んで瀧川事件に火をつけた張本人であるが、今回も、美濃部を「謀叛人」「反逆者」「学匪(がくひ)」と罵倒した激越なものだった。これにたいして、当時、貴族院議員(勅選議員)だった美濃部は、二十五日、一身上の弁明にたったが、それは自分の学説を平明にといた名演説で、「満場粛としてこれに聞き入る。約一時間にわたり雄弁を振ひ降壇すれば、貴族院には珍しく拍手起」こる(『朝日新聞』)といったものであった。

 だが、騒ぎはこれではすまなかった。貴族院では三室戸敬光(みむろどゆきみつ)が反駁にたつ、外では在郷軍人会や右翼団体が騒ぎはじめる、ということで、俄然大きな政治問題に発展していった。そこには機関説論者の枢相一木(いちき、喜徳郎)や法制局長官の金森徳次郎をこのさい失脚させて、倒閣にもちこもうという平沼(騏一郎)の策謀がからんでいたために、話はいっそう厄介であった。

 岡田(首相)ははじめ、美濃部を擁護する態度をとっていたが、二月二十八日、衆議院の江藤源九郎代義士が美濃部を不敬罪で告発する、三月一日、貴族院の菊池や井田磐楠(いわくす)が貴衆両院有志懇談会をつくり、機関説排撃を決議する、五日には政友会有志代議士が同じ決議をする、八日には頭山満(とうやまみつる)・岩田愛之助ら右翼が機関説撲滅同盟をつくる、十六日には在郷軍人会が排撃声明をする等々といった事態になってきたので、にわかに態度をあらためて機関説排撃に同調した。これに勢いをえた陸軍は、参謀本部が中心になり、「わが国体観念と容れざる学説はその存在を許すべからず」と声明し、陸相は政府に強硬策を申し入れた。つづいて三月二十日と二十四日、貴衆両院は機関説排撃を決議して、ついにみずからの墓穴を掘ったのであった。

 陸軍はご丁寧に八月三日、「国体明徴声明」をだしたが、それは、「(うやうや)しく(おもん)みるに(わが)国体は天孫降臨し賜へる御神勅により昭示せられるところにして、万世一系の天皇国を統治し給ひ、宝祚(ほうそ)(さかん)天地(あめつち)とともに(きわまり)なし。……もしそれ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使するための機関なりとなすが如きは、これ全く万世無比なる我が国体の本義を(あやま)るものなり。……」といった神がかり調だった。学問はこうして神話のまえに屈したのである。

 美濃部は著書を発禁にされ、検事局の取調べをうけた。検事はさすがに不起訴処分にしたが、貴族院議員を辞し、謹慎を余儀なくされた。そのうえ十一年(1936)二月二十一日には右翼団体の暴漢におそわれ、負傷させられた。

 これよりまえ八月三日と十月十五日の二回にわたって、政府は国体明徴の声明をだし、天皇機関説の「芟除(せんじょ)」を誓った。十一年一月には金森が辞職をして、この間題はようやくけりがついた。十一年三月には文部省は『国体の本義』をつくり、「我等臣民は西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を(こと)にして」「その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉る」ことが、以後の教育の中心思想と定められた。万邦無比の大和民族という選民は、実は、こういう無権利の民だったのである。

 この機関説排撃は、日本の学問や思想のうえには重大な意味をもった。これによって国体は一種のタブーとされ、もはやまともに日本の社会について研究したり論じたりすることはできなくなったからである。天皇はこれによって神格化され、国民はそのまえにいっさいを捨てることを要求されるようになった。それは戦争に国民をひきずりこんでいくために欠くことのできない地ならしだったのである。

 

 財閥の転向

 こうして日本全体が滔々とファシズムの体制に押し流されていくなかで、独占資本の態度もいちじるしく変化しはじめた。もともと財閥はファシズムが進出する過程では、日本を腐敗させる元兇の一つとして目の敵にされていた。右翼にしても軍人にしても、およそ革新のこころみがおこなわれたときには、財閥の打倒が叫ばれないことはないといっていいくらいであった。そしてその攻撃は、團琢磨(だんたくま)の暗殺、池田成彬(なりあき)や木村久寿弥太(くすやた)の暗殺計画などとなって現われたのであった。

 こうしたことは、いかにその背後でふてぶてしく致富の道に精だしていたといっても、財界にも大きなショックを与えるものだった。

 だが、単にそういう、いわば精神的なショックが問題だっただけではない。満州事変以来の軍備の急激な拡大のなかで、軍需工業ないしそれと結びついた重化学工業が、急激な拡大をはじめるにつれて、財閥もこの分野の生産をめざましい勢いで拡大しはじめた。たとえば三井では昭和八年に東洋高圧や日満アルミニウムを、十年には石川島芝浦タービンを、十二年には(たま)造船所をつくって化学工業や機械工業への進出を強めているし、東芝や合成工業など系列企業も大幅な増資をおこなった。三菱も同様で、三菱造船と三菱航空機をあわせて三菱重工業を発足せしめ(九年、1934)、三菱電機・旭硝子などの大増資をやっている。

 こうなってくると、軍部や政府との結合がいっそう必要になるのはいうまでもない。軍からの巨大な発注がなければ軍需工業は成り立たないし、このころ製鉄会社の大合同をやって日本製鉄を成立させ、これを国策会社として支配したり(九年)、自動車工業を許可制にし、補助金によってこの育成をはかったり(十~十一年)といった国家的統制をいよいよ強めはじめた政府にたいしては、官僚の機嫌を損じないことも必要であった。また、満州開発がすすみつつあったときだから、このバスに乗りおくれないことも考えなければならなかった。

 しかも他方、このころ財閥にとっては警戒すべき強敵が現われはじめていた。新興財閥の進出がこれである。たとえば昭和四年(1929)、久原(くはら)鉱業の改組(かいそ)から出発した鮎川義介(ぎすけ)の日産コンツェルンは、つぎつぎと新会社をつくったり、買収をおこなったりして、十二年には十八社、三億五千万円の資本を支配する大財閥になっていた。その資本金の八〇%強が軍需生産に向けられていることからみても、それが戦争とともに太った企業であることは一見して明らかだろう。

 また日本窒素コンツェルンは、第一次大戦まで九州の小電力会社にすぎなかったが、化学工業を中心に拡大をづづけ、十二年には二十八社、三億九千万円の資本を支配するにいたっている。

 そのほか昭和電工にしても中島飛行機にしても同様であったが、こういう新興財閥が軍部と結んで急成長をとげたことは、財閥にとっては大きな脅威であった。それはみすみす(とんび)に油あげをさらわれるようなものだったからである。 

 こうして五・一五事件後から、財閥はあの手この手を使って「転向」の形をとりつくろい、ファシストに迎合するようになった。とくに八年末ごろから、三井が公然と「転向」を表明して以来、それは一種の流行ともなった。

 この「転向」の内容はつぎのようなものだった。まず社会事業にたいして大口の寄付をはじめ、とくに三井は、三井報恩会を設立して社会事業への寄付を活溌におこなった。七−十一年のあいだに三井の寄付は約六千万円、三菱のそれは一千五百万円にのぼったというが、こういう表向きの寄付のほか、右翼団体や軍部への寄付もそうとうあったにちがいない。たとえば池田成彬などは、北一輝を通じて右翼にかなりの献金をしていたといわれている。

 第二には、一族の名前を責任者からさげて、番頭が責任を負う体制をつくった。とくに三井では、三井一族は背景にしりぞいて、社長は大部分が番頭におきかえられた。これによって、財閥が決して一族の独占物ではなく、「公共性」のあるものだということをしめそうとしたわけである。

 第三には株式の公開をすすめ、その大衆化をはかった。もちろんそうはいっても、株式の主要部分は依然、一族や番頭が握っていたから、会社にたいする支配権まで手ばなしたわけでは決してないが、それによって財閥が国民のものだという恰好をつくったわけである。

 こういう「転向」は、もちちん財閥のほうからいっても必要だった。重化学工業化の急激な進展のためには巨大な設備投資が必要だったが、それには一族の資本力では足りなかった。したがって株式を公開して社会的資金を集中する必要がはじめからあったのである。また事業の規模が大きくなるのにたいして、一族のほうは二代目、三代目の世代になってくれば、専門の経営者の責任体制の確立が必要になることもいうまでもない。ただそういう必要をたくみに「転向」と結びつけたところに、その巧妙さがあったわけである。

 

 軍財抱合

 一方、軍のほうでも、統制派の勢力が強くなるにつれて、観念的に財閥を排撃するようなやり方は、だんだんとらなくなった。それは、「転向」の実を認めたとか、献金をうけるようになったとかいうだけのことではない。軍需生産の拡大、軍備の充実と言うことをまともに考えれば、財閥を排除しては何ごともできないことは、いかに軍人であっても認めざるをえない事実であった。そこでこのころから、軍の実力者たちは、むしろ財閥とも連絡を密接にして、自分たちの政策の実現にこれを協力させようとする態度をとるように変わってくる。とくに永田鉄山は財界との交際も広く、部下にも交詢社などへの出入りをすすめていたといわれる。

 もちろん財界のお歴々が、政府に入り、軍といっしょになって国策の推進にとりかかるのは、二・二六事件後のことである。通常「軍財抱合」といわれるのは、そのことをさしているのだが、よく考えてみれば、財閥の「転向」のころから、軍財抱合の第一歩がふみだされていたのである。

 そしてこのことはファシズムの動きにとっては、重要な意味をもつことであった。というのは、当初、資本主義に反対することを一つの旗じるしとして出発するファシストの運動は、それが権力に近づくにつれて、しだいに独占資本との癒着を強め、その要求に沿う政策を追求するようになるのはいずれの国でもみられる事実であるが、日本のばあいにも、このへんにその端緒がみられるからである。そのことはしかし、本巻の最後でもう一度意義づけることにしよう。

 

   ファシズムの日本的特質

 

 ファシズムとは

 以上われわれは、日本のファッショ化の過程をたどってきたのだが、ここで、こういうふうにして成長をとげ、やがて日本の歴史をおおう大暗雲となるファシズムが、どんな特色をもっていたかを少しふりかえってみることによって、この時期の歴史のしめくくりとすることにしよう。

 ファシズムという名称が、イタリアにおいてムッソリーニに率いられておこった政治運動に由来するものであることはまえにもふれたが、このファシズムは、いくつかの小国においてもみられた現象だったし、いま(=昭和四十年代)でもスペインやポルトガルにはみられるのだが、イタリア、ドイツ、日本の一九三〇年(昭和五年)代から第二次大戦までの政治形態が、その代表的なものとして一般に考えられている。

 では、いったいファシズムの正体は何なのであろうか。こういう社会的・歴史的な現象になると、幾何学のように簡単明瞭な定義をズバリとくだすことは、なかなかできない。そして学者のあいだの意見もいろいろとわかれていて、かならずしも一致した結論がでていない。しかし、ここであまりこみいった議論にたちいることはやめ、われわれはそれよりも、まず日・独・伊のファシズムに多かれ少なかれ共通な性質について少し考え、それによってファシズムの正体を明らかにしてみることにしよう。

 まずファシズムというと、だれでも、独裁的な、反動的な政治を思い浮かべるだろう。たしかにファシズムのもとにおいては、国民の民主主義的な権利や自由は、極度に制限されるか、完全に奪われてしまう。議会などはあってもないのと同然になり、ただ独裁者の演説にたいして拍手を送るだけの機能しか果たさなくなってしまう。法律もしばしば政府によって勝手に蹂躙されてしまうし、法律にかわって、政府がだす命令のほうが重要な役割を果たすようになってくる。学問・思想・信仰・言論・集会などの自由はつぎつぎと否定され、人権さえ、しばしばまったく軽視されるようになる。――こういうのが、ファシズムのもとにおいてわれわれの経験した事実であった。

 だが、ただ独裁的・反動的というだけのことならば、そういう政治はいろいろな時代に現われる。封建社会とか、絶対王政のもとにおける政治もそうであったろう。社会主義のもとにおける政治は、その本来の理想からいえばそういうものではないはずだが、少なくともその建設途上において、乱暴な独裁制がとられることがあるのは、スターリニズムの例がよく物語っている。

 こういうものと区別されるファシズムの特色といえば、それが高度に発達した独占資本主義のもとにおいて――あるいは多くのばあい、国家独占資本主義体制と結びついて現われるという事実であろう。イタリアのばあいは、ファシズムは第一次世界大戦後すぐに現われてくるが、日本やドイツのばあいは、それはまさに国家独占資本主義体制と結びついて現われてきている。そしてイタリアでも、ファシズムが強くなってくるのは、やはり世界恐慌後のことである。

 こういうことから、ファシズムは、しばしば、危機におちいった独占資本の反動的政治支配の体制だとか、国家独占資本主義に対応した政治上部構造だとかいわれるのである。そのことは、ある意味では正しい。一般にファシズムのもとでは、社会主義運動ははげしく弾圧され、窒息せしめられる。その反面、独占資本は、主として軍需産業と結びつきながら、いわゆる死の商人としてますます肥え太っていく。ファシストたちが主観的にどう考えようとも、結果においては、ファシズムのもとで独占資本はいよいよその体制を強め、その経済的支配力を拡大していっている。そのファシズムは、口には国家社会主義といいながら、社会主義政権とはまったく反対の結果を生みだすのである。

 しかし、国家独占資本主義体制がつねにファシズムを生みだすわけではない。イギリスやアメリカには、はっきりしたファシズム政権は今日(=昭和四十年代)まで現われなかったし、日・独・伊にしても、第二次大戦後、国家独占資本主義体制はいっそう発展しているが、ファシズム体制は現われてこないのである。だから、国家独占資本主義体制はファシズム体制の基礎ではあろうが、ファシズムの成立のためには、もう少しいろいろな条件が必要だということになるであろう。

 

 ファシズムと中産階級

 ファシズムが独占資本の利益に奉仕する役割を果たしたとしても、それははじめから、独占資本の擁護を旗じるしとして現われてくるわけではない。むしろそれは、はじめは反社会主義であるとともに、反資本主義でもあったのであり、とくに独占資本にたいして強い敵意をもっていたことは、日本のファシストたちの財閥攻撃をみてもおよそ想像のつくところだろう。ファシストの権力が独占資本とはっきり結びつき、その致富のために活動しはじめるのは、かなりのちのことであり、日本についていえば、(軍の)統制派が権力を握るようになるこの時期の末期から、「軍財抱合」が完成するつぎの時期のはじめにかけてのことである。

 ところで、この反社会主義・反資本主義というイデオロギーが、農民や中小企業者といった中小生産者――サラリーマンや知識層のような新中産階級にたいして、旧中産階級とよばれている人たち――の階級に親近性をもっていることは、まえにふれたとおりである。

 もともと前資本主義的な経済体制の生きのこりであって、資本主義のなかではたえず窮乏と没落にさらされているこういう旧中産階級は、反資本主義的でもあるが、しかし小財産の所有者であり、小商品販売者であるというその地位からいって、社会主義にたいしても鋭い敵意をもたざるをえない。といって、具体的にどういう社会体制がのぞましいという、はっきりした目標があるわけではないが、それだけに暴力的な現状破壊の要求が、こういう中間層を基礎に燃えあがってくることは、きわめて自然なことなのである。

 日本のファシズムが、イデオロギーとしてみても農本主義の色彩を強くもっていたことはすでに明らかにしたが、右翼にせよ社会ファシストにせよ青年将校にせよ、農民層と深い結びつきをもっていることは注目しておいていいことである。

 もちろん右翼のなかには、そのほかに埒外(アウトカースト)の民、すなわち正常な社会生活からはみだしてしまった暴力団だの博徒・テキヤだのルンペンだのといった分子がふくまれていることは周知のとおりである。社会体制なり秩序なりの暴力的破壊というファシズムの要求は、こういう疎外され、やけになっている法外(アウトロー)の人々には魅力あるものである。けれども、かれらだけでは社会的変革の勢力にはなりえなかったのであり、分厚い旧中産階級の存在が背景にあったとき、ファシズムは大きな勢力になりえたのであった。 日本だけでなく、ドイツやイタリアが、やはり分厚い旧中産階級をもつ国だったことは、この意味で注目しておいていいことだろう。これらはいずれも後進資本主義国であり、一方では高度に発達した独占資本体制をもちながら、他方では、零細な農民層や生産性の低い中小零細企業を大量にのこしている国であった。今日の言葉でいえば、二重構造とよばれるような経済構造と社会構造を、とくにいちじるしく内包していたわけである。

 しかもこういう中間層は、独占資本主義の体制が発展していくにつれて、整理され、解消していくものでは決してなかった。むしろ慢性不況のなかでつぎつぎと堆積された過剰人口は、こういう中間層にもぐりこんで生活する以外にはなかったから、ますます多くの旧中産階級がたえず再生産される傾向が強かった。

 そしてかれらは、独占体制の強められるなかでは、その圧力によっていよいよ困難な立場にたたされた。なぜなら、かれらの買わなければならない原材料や設備は概して独占資本の生産物であり、その価格が相対的に高い水準に維持されていたのにたいして、かれらの生産物は、お互いのあいだのはげしい過当競争によってますます安くならざるをえなかったからである。しかも、組織力のないかれらは、この困難をきりぬける方法をもたなかった。かえって、労働者はストライキができるのに俺たちにはそれもできないということが、労働運動にたいする反感となって、かれらをいよいよ反社会主義に追いやるのだった。

 この点でイギリスやアメリカは、いちじるしく異なっている。イギリスはすでに一八世紀までに農民層をほとんど分解させてしまっており、農業も資本主義的に経営されていた。アメリカは農民層の比較的多い国ではあるが、大きなフロンティアをもつこの国には、日本やドイツ、イタリアのような救い道のないゆきづまりは、そう切実に感じられないですんでいた。

 こういう社会構造の差が、ファシズムの成長にとっても、かなり重要な環境の差となっていたことは見失ってはならない点である。

 

 ファシズムと危機  

 しかし、ただ発達した独占資本主義のなかに分厚い旧中産階級がとりのこされているというだけでは、ファシズムの成長する条件としては不十分である。われわれにとってはすでに明らかなように、こういう社会がさまざまの危機に見舞われたとき、そのなかから、危機に対抗するものとしてファシズムの運動がたち現われてくるのである。

 こういう危機はいろいろな形で現われてくる。まず、しばしばヒトラーは大恐慌の落し子といわれているように、大恐慌による経済的危機の深化が重要な役割を果たしていることは明らかだ。もちろん、ドイツやイタリアのように、大恐慌よりまえ、第一次大戦の打撃によって、はげしい経済的混乱を経験した国においては、戦後まもなくファシズムが頭をもたげてくるのだが、とくに大恐慌の過程で、中産階級がはげしく窮乏と没落の淵にたたきこまれ、その経済的破綻が決定的になったことが、深刻な危機感をつくりだしたことはたしかである。

 もちろんこういう危機感から、直接にファシズムの運動が組織され、進出してくるとはかぎらない。概していうと、みずから組織する力が弱く、マルクスの言葉をかりれば、ジャガイモのようにそれぞれ離れ離れにごろごろしているにすぎないかれらは、外からその要求を代弁してくれる運動を支持することはあっても、自分たちの力で組織的な運動を展開する力を欠いている。

 日本のばあいでも、農民が自分たちのなかからファシズムの運動をつくりだしていったというよりは、農民を社会的基盤とする青年将校が、農民の要求を代弁していたといったほうがいいだろう。だからファシズムの運動のなかでは、この危機感も、直接の経済的窮迫という危機感ではなく、この窮迫から生ずる、たとえば「健民強兵」の崩壊にたいする危機感に翻訳されて現われてくるのだが、それにしても、経済的窮迫がその基礎をなしていたことは間違いのないところである。

 だが、それは、単なる生活の窮乏にたいする危機感といった単純なものにはとどまらなかった。それは他方では、社会主義の思想や運動にたいする危機感につながっていた。社会主義のはげしい勃興は、資本主義体制それ自体にとってももちろん危機を意味したが、旧中産階級にとっても重大な危機であった。かれらにとっては、それは、かれらのよってたつ価値意識を根底からくつがえし、かれらの生活と存在を否定するものとして受け取られたといっていい。

 小生産者が小生産者として安定し、古い牧歌的な社会秩序が実現されるような「王道楽土」は、実は社会主義によってではなく、資本主義自体によって、あとかたもなく掘りくずされていたのであるが、そして、小生産者としてのかれらの存在は、実は形骸ばかりになっていたのだが、社会主義はその形骸さえ否定しさるものと考えられたのである。

 こうした危機感は、具体的にはもちろんさまざまの屈折を経た形で現われてくる。伝統的な国体の破壊とか、家父長的家族制度の崩壊とか、醇風美俗の衰退とか、民族の堕落とか――しかしそれは、すべてかれらの既存の価値意識の破壊にほかならなかった。

 しかも、こういう感情が、対外的な危機感と絡みあっていることにも注意しておく必要があろう。この対外的なそれは、一方では国際的な社会主義にたいする恐怖からきている。日本のばあいでも、ソ連や中共の進出にたいする恐怖が、ファシストの危機感をかきたてる重要な条件だったことは、われわれのよく知っていることである。だが同時に他方、それは、後進国の民族主義の勃興およびそれと複雑に絡みあった帝国主義列強の対立抗争からも由来している。

 このあとの点では、日本と独・伊とでは多少事情が異なっていた。独・伊のばあいには、第一次大戦によって奪われた(イタリアのばあいには獲得しそこなったといったほうが正確だが)領土や植民地や権益にたいする執着が、大きな役割を果たしていたであろう。それだけに、敗戦によってむしりとられた失地を回復し、「持てる国」に戻ることを妨げる列強にたいする対抗が、危機感の中心テーマだった。しかし日本のばあいには、むしろ中国の民族運動によって、その権益をおびやかされることにたいする危機感のほうが大きかったといえよう。

 しかし、こういう意識は、決してそれぞれ独立に、ばらばらに現われてくるものではない。たとえば経済的不況にしても、それは「持たざる国」であることから生じた現象であるし、また対外的にあなどりをうけるのは、国内の体制が腐敗しているからである。そしてそれはまた社会主義の跳梁(ちょうりょう)をゆるすゆえんであるというふうに、すべてが脈絡づけられて、いわば一つの危機感になり、そこから現状破壊への強い要求なり、現状打破のこころみにたいする共感なり支持なりが醸しだされていたのであった。

 こういう脈絡がかならずしも論理的でなかったことなどは、ある意味でどうでもいいことであった。政治というものはつねに非理性的であるが、とくにファシズムのような狂信的な運動には、むしろ非理性的であることが必要だったのである。

 

 日本的ファシズム

 以上のようにファシズムに共通の特質を拾ってくると、日本のファシズムもまさに、ファシズムとしての特質を立派にそなえていたことがわかるであろうが、しかし同時に日本のファシズムは、独・伊のそれとは一見いちじるしく異なる特質をもっていた。そこから、日本のファシズムはほんとうの意味のファシズムではなかったとして、日本にファシズムの支配のあったことを否定する学者も現われてくるのである。

 はたしてファシズムの存在を否定するのが正しいかどうかは、大いに疑問であるが、たしかに、日本のファシズムの独特な性質に、じゅうぶん注意を払っておくことはたいせつなことである。それはファシズムについての認識を深めることだけでなく、今日でも依然としてわれわれの問題である日本の政治の体質についての知見と自覚を深くするためにも、欠くことのできないものであろう。

 こういう日本的特質としては、いろいろな点を数えあげることができるが、ここではとくに、それが天皇制ファシズムと一般によばれている点にまず注目してみよう。

 つまり日本のばあいには、独・伊のように、ファシズムが一つの大衆的な政党運動として従来の政治体制の外側から進出し、クーデターによってファシストが政権を奪取したのちに、強力な独裁制がしかれるという形は、かならずしもみられない。もちろん日本では右翼の運動は、数も少なく微弱であって、とても選挙によって多数をとれるというようなものではなかったが、ともかくここでもそれは大衆的な政治運動であった。また青年将校たちの運動や行動は、ある意味で下から進出した運動であり、既存の支配秩序をくつがえそうとしたものであった。

 しかし日本におけるファシストの政治権力は、かれらの運動とクーデターとによって、直接に獲得されたものではなかった。クーデターはむしろすべて失敗に帰し、その結果、陸軍の首脳部を中心に、重臣・内閣・議会といったような、天皇制のもとにおけるこれまでの政治体制が、そのままファッショ化していく形でファシストの支配体制ができあがっていったのである。

 この意味で、陸軍の統制派の果たした役割は重要だった。かつての革新的中堅将校がやがて首脳部に入るにつれて、かれらはクーデターをむしろ弾圧しつつ、既存の機構のなかで日本のファッショ化をおしすすめはじめた。そしてそれにおされて、すべての政治機構がファシズムの方向へいっせいに押し流されていくのである。

 もちろん斎藤(実)・岡田(啓介)をはじめ、西園寺(公望)・若槻(礼次郎)・木戸(幸一)等々といった重臣や首相にも、既成政党の一部の人々にも、それにたいする抵抗がまったくなかったわけではない。しかし、それは決して国民的背景をもった組織的な抵抗ではなかったし、なかには命を失ったものもあったが、大部分はずるずると大勢におされてファシズムの支配の一端に組みこまれてしまっているのである。

 したがって日本のファシズムのなかでは、ムソリーニやヒトラーのような国民的英雄であり、同時に強烈な独裁者でもある人物はついに現われなかった。多少とも独裁者といわれたのは、つぎの時期に入って登場する東条英機かもしれないが、かれとて国民的支持をもっていたわけでは決してないし、重臣層の支持を失えば、たちまち失脚するような存在にすぎなかったのである。

 むしろ絶対的な権威をもっていたものといえば、天皇だけだったといえようが、皮肉にも天皇は、個人的にはむしろファシズムにたいする反対者であった。ただ明治時代とはちがって、大正以降は、もはや天皇がその個性によって日本の政治を動かしうる機構は、すでに原則として失われていた。

 田中(義一)内閣を倒し、二・二六叛乱軍の討伐を決定せしめられた天皇も、日本の政治をみずから左右するだけの責任はとりえない地位におかれていた。だから、天皇の名のもとにおこなわれた日本のファッショ化の過程は、実は天皇の個人的意志とは無関係に、むしろ天皇を棚上げにした日本の大正以降の「民主主義」=天皇制のもとで、勝手に進行していったのである。

 天皇制ファシズムというのは、この意味で、決して天皇個人のイニシャティヴなり責任なりのもとですすめられたファシズムではない。天皇制の機構のもとで天皇の名のもとにすすめられたファシズムにほかならないのである。天皇親政といいながら、実は天皇不在の機構がファシズム成立を可能にしたのであった。

 

 無責任体制ファシズム

 日本では、なぜこういう奇妙な形のファシズムが成立したのか。それにじゅうぶんに答えることは困難である。ただ、これまでわれわれが解明してきたこの時期の日本の歴史のなかからも、つぎの二つの事実を指摘することはできるだろう。

 その第一は、いうまでもなく日本の民主主義の未発達ということである。日本でも大正デモクラシー以降、政党政治が発達し、明治憲法という枠はあったが、そのなかで、ある程度の民主主義の発達があったことはたしかである。

 しかし政党政治の形はあっても、国民がほんとうに政治をわがものと考え、議会や政府が、ほんとうに国民にたいして責任を負う体制になっていたかというと、そうではなかった。国民にとっては政治は依然として「お(かみ)」のすることで、自分たちとは関係のないものであったし、議会や政府は、重臣や枢府や軍部には気がねをしたが、国民とは無関係のところで、政治を少数のボスの権力のために(もてあそ)んでいたのであった。こうしたなかでは、ファシズムといえども大衆的基盤をもった運動としては成立しようがない。むしろそれは、日本の社会主義運動と同じように、少数の「先覚者」エリートの、独善的な運動にならざるをえないのである。

 この民主主義とファシズムとの関係は、なかなかデリケートである。イギリス、アメリカ、フランスのように、長い伝統のうえに民主主義が力強く発達し、国民の政治意識がじゅうぶん高くなったところでは、ファシズムのような反民主主義的な運動はなかなか成功しない。その意味では、ドイツやイタリアでも、民主主義の発達が不十分だったことがファシズムの成立をゆるしたということは、決して誤りではない。

 しかし、同時にドイツやイタリアは、西欧的伝統のなかで、日本よりはるかに発達した民主主義をもっていたのであり、そこにファシズムもまた、大衆的政治運動として権力に近づく以外にはなかった理由があったのである。、

 たとえばナチスにしても、それが政権を獲得するまでには、もちろん暴力による脅迫や、陰謀や、その他さまざまの権謀術数を(ろう)してはいるが、同時に広汎な大衆の組織と、選挙による勝利とを必要としたのだった。ヒトラーの雄弁と、あの人を酔わせる特異の人格なしには、ナチスが政権にいたることはできなかっただろう。

 だが日本では、そういう大衆的煽動ははじめから必要がなかった。国民の多くは、政治から逃避することを知っていたが、政治を自分のものとして、これを主体的に受け止めることを知らなかった。それゆえファシズムは、むしろ少数の、旧来の支配者層との取引によって、やすやすと政治の中枢に入りこみえたのであった。

 第二に、日本の政治に特有の無責任体制の存在である。これも、むろんそのいちばん基礎には民主主義の未発達があったのだが、明治憲法の、天皇のもとに政治権力を各種の機関に分裂させる仕組がそれをいっそう助長していたことは、すでにわれわれの知っていることである。政府も議会も、決して集中された権力をもってはいなかった。内閣のなかでさえ、各大臣は、直接天皇にたいして責任を負うたてまえになっており、総理大臣が指揮命令権をもっていたわけではない。いわんや軍部(統帥権)・枢府・重臣等々は、それぞれ独立の権能を法制上ないし事実上もっていたのであり、天皇以外にはだれもこれらを統一的に支配することはできなかったのだ。

 こういう体制は、天皇が実質的権限を行使するばあいには、よかれ悪しかれ天皇にすべての権限と責任とが帰属される関係で統一を保ちえただろう。しかし天皇は、憲法ではすべての責任の外にあり、しかも大正期以降は、原則として実質的権限を行使しない存在になっていた。こうなれば、この体制は多頭支配になり、無責任体制になるのは自明のことである。

 第二次大戦後の極東裁判とニュールンベルク裁判とをくらべたばあい、そこには実に鮮かな対照性がみられた。後者のばあいには、ゲーリング、リッペントロップ、ヘスといったようなナチスの領袖(りょうしゅう)たちは、ともかくナチスのしたことにたいして、それは自分の責任だといいきっていた。それにたいして前者のばあいには、東条以下すべてが、自分たちには責任はないと主張していた点がそれである。

 これをただ、日本人には責任感がないとか、卑怯だとかいっただけでは問題は片づかない。むしろ何人(なんぴと)も責任を負いうる体制がなく、すべての指導者が、ただ状況に押し流されてずるずるとファシズム体制におちこみ、戦争に駆りたてられた、というのが、日本の政治の現実だったのではないだろうか。無責任体制ファシズムとでもいうべき、日本独自の体制がこうしてできあがったのである。

 もちろんこの無責任体制の背後には、なおいろいろの問題がある。日本では、政治家だけでなく、役人でも実業家でも労働運動の指導者でも、これは自分の本意ではないが事情やむをえずこうせざるをえない、といったような判断が基準になって行動のおこなわれることが多い。すじはそうかもしれないが、実際問題は理窟どおりにはいかないから、しかたがない、というのもそうであろう。自分は反対だったが、皆がそういうからやむをえずハンコを押した、などということはざらにある。皆がそう思いつつ、ある決定書にたくさんハンコがおされると、その決定はだれの責任かわからないことになってしまう。

 他方、日本では他人の責任を厳しく追及しない習慣がある。失敗はあっても、まあまあことを荒だてないほうがいいということになり、ついには責任を追及しないことが「武士の情」になったりする。

 こういう無責任体制を際限もなくつくりだしていく社会的体質がどうしてできるのか。それは興味のある研究課題だし、われわれの厳しい反省を必要とする問題だろう。だが、それはそれとして、こういうヌルマ湯につかったような社会の雰囲気のなかから生まれた無責任体制が、明治憲法で助長されたところに天皇制ファシズムの秘密があったことは、どうやらたしかのように思われる。

 今日では、ファシズムは過去の悪夢として葬りさられているようだ。しかし、ファシズムを成立させる社会の体質が右のようなものだとすれば、果たしてそれを単なる過去の悪夢として片づけることがわれわれに許されるだろうか。幸いにしていまは、経済的不況が重大な問題とはなっていない。しかし、その点を別として、われわれの社会や政治の体質は、どれだけ改善され、進歩したのだろうか。

 われわれはもう一度、日本のファッショ化の過程をふりかえってみて、その点について、現在のわれわれの姿をほんとうに見つめることが必要だろう。まだわれわれの社会には、この亡霊が、不死鳥のようによみがえる条件がたくさんのこっているのである。その点についての厳しい反省なしには、われわれの社会の進歩はありえない。歴史に学ぶことは、そういう反省のための鏡をとぎすますことにほかならないのである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/04/05

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大内 力

オオウチ ツトム
おおうち つとむ 経済学者 1918年 東京に生まれる。東京大学名誉教授。

掲載作は、昭和49年9月10日初版の中央公論社版「日本の歴史」第24巻『ファシズムへの道』の二つの章を招請・抄出した。暗く絶望的な軍国「昭和」日本の不幸な暴走をまざまざと顧み、いましも「有事」の名目でどう動いて行くか知れぬ戦後60年「平成」日本の不気味な傾斜に、はたして「国家的独占資本主義」と結託したまた新たな「ファシズム」への気配はないかどうかを推測すべく、優れた歴史認識と記述から、とくに「準戦時体制へ」の危険を深く学び、また先立つ、色川大吉『自由民権 請願の波』隅谷三喜男『大逆事件 明治の終焉』また今井清一『関東大震災』にひき続いて、日本の近代推移の実況と問題を、「主権在民」の願いと共に読み取りたい。

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