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女房殺し

     一

 

 逗子(づし)の浜辺に潮頭楼(てふとうろう)といふ海水浴舎がある。三崎(みさき)へ通ふ街道を前にして居るが、眺望(ながめ)は、鎌倉の海を(へだ)てゝ江の嶋が浮いた様に見え、足柄(あしがら)の山々を越して富士の山が手に取る如く見える。(まこと)に好い景色だと誰も言は無い者はない。

 此辺は()べて東京や横浜で紳士と言はれる人々が建てた別荘で限られて居る。別して今年に成つてからめきめき殖えた。海水浴場としては大磯より好いと言ふ評判で、大分(だいぶん)此夏は遊客(きやく)が入込んだ。

 潮頭楼も客で満ちて居る。殆ど明間(あきま)が無い。飛んだ処で全盛を(てら)贅客(ぜいかく)(すくな)からぬ。其中に、末だ()んなに人の来ない頃から泊つて居る一人の客がある。それは一番最初(はじめ)第一等の見晴の好い室へ通された。其後(そののち)他の客が段々加はるに従ふて、次第々々に移され、変らされ、今は一番悪い部屋に案内せられて居る。(すなは)ち暗くて、風が通さなくつて、二階の楷子段(はしごだん)の下で、右隣室(みぎどなり)洋燈(らんぷ)部屋で、左が布団の入場(いれば)で、石油の香と、一種の汗臭い何んとも言はれぬ気を、常に鼻にして居らねばならぬ。四畳半で、三方が壁で、但し其内の一方に腰掛窓があるが、若し夫れ其所(そこ)を開くと、台所の流シの溜つて居る溝から、蝿が風より先きに飛んで来る。

 これでも宿では余程遠慮して居るので、管頭(ばんとう)揉手(もみで)を仕ながら、御気毒様ですが(ほか)の家へ御移り云々を願はないだけが、まづ幸福(しあはせ)と無理に思はなければ成らない。

 こんな部屋へ通されて何故怒らない。此所(こゝ)ばかりが宿屋ではない。避暑保養に来て(かく)の如き部屋、此の様な逆待(ぎやくたい)を受ける不愉快は、避暑にも成らぬ、保養にも成らぬ。却つて苦熱と不養生とで健康を害する。こんな馬鹿な事は無い筈、好く我慢して居る事だと(はた)からは思はれる。

 しかし、聴て見ると此客人は、好んで、といふ訳でもないが、他の涼しい座敷に居るよりは此所がとの望みで、それは又斯ういふ事情——まさか此混雑の中だから一人で一室占領とも行くまい、然らば相客をいづれ入れねば成るまいが、涼しくても相客は厭、暑い部屋でも一人が好いと言つたので、それで此所へ移されたのださうだ。

 其客人とは如何なる人か、女中達の噂では何んだか分らない不思議な男で、朝は早くから晩は遅くまで、駿河半紙(するがばんし)(とぢ)たのに木筆(ぼくひつ)で何か横文字を書きつゞけて、少しも休むといふ事はなく、さうかと思ふと考へ込んで仕まつては、殆ど死人かと思はれる様な事がある。時には両手で頭を押へた儘、うウん——と言つて引ツくりかへり、唐人(たうじん)の寝言の様な浮言(うはごと)を呻つて居る。第一分らないのが避暑に来た人が綿入を着て汗をだくだく流して居る。海水浴に来た人かと思ふと、一度も海へ這入つた事がない。更に尤も不思議なのは、三度々々の食事の時で、給使(きゆうじ)の女中が居ても一言(いちごん)も声を掛けず、全くの沈黙(だんまり)米飯(めし)を食ふ。茶碗を出す時に「米飯(めし)」「茶」これぎり。それで米飯をよそつて居る内には、箸で膳の上へ(しき)りに何か書いて居る。よそつて出しても受取る事を仕ないで、口の内でぶつぶつ言ひながら例の通り()つて居る。

 宿の主人(あるじ)はあまり不思議なので、最初(はじめ)の日に(しる)した宿帳を出して見た。それには「東京市芝區櫻川町二番地田村方。静岡県士族。近藤堅吉。二十三歳。数理学校生徒。脚気療養」としてあつた。

 扨ては数学を勉強して居るのか。綿入を着るのは蚊の喰ふのを防ぐ為めか。人が遊ぶ(うち)にあゝやつて(ひとり)真面目なのは、脚気ゆゑの転地療養か。今時の若さに感心な人だと初めの愚弄は(のち)の敬服と成つて、皆が気を附けて上げる様にいつしか成つた。

 

     二

 

 過度(あまり)に勉強なされては、病気の為めに好くありません。(せめ)て日に一度位は散歩でもなさいましと、宿の主人(あるじ)も主婦も勧めた。女中の年増の一人も恐る恐る勧めた。自分の事を人に恩に着せる位な処で、やつと堅吉は日に一度の散歩をする事に成つた。浜辺づたへに行くと小高い山があつて、(その)麓に木蔭の茶屋といふ水茶屋がある。其所(そこ)を目的に正午(ひる)の飯後から出かけて、暑い盛りを其処で四時頃まで過して帰るといふ事に極めた。そして其間(そのあひだ)は矢張向ふの茶屋の台の上で勉強するのは少しも変らぬ。

 斯う極めると極めた通りに規則正しく出かけて行く。重い足をひきずりながら、草履(ざうり)を尚重しとして、てくりてくりと出かけて行く。蝙蝠傘(かうもりがさ)を片手に、片手には駿河半紙の綴ぢた帳面と木筆(ぼくひつ)とを持つて。

 木蔭の茶屋といふのは、こんもりと繁つた赤松の下で、(まこと)に涼しく好い処だ。葦簾張(よしずばり)の竹の柱で、台が二つ、椅子が三つ、床几(しやうぎ)が一つ。台には古ぼけたカアペットの(きれ)が、椅子には破れかけたアンペラが、床几には穴の明いた赤毛布(あかげつと)が、共におぼつかなく敷いてある。風で飛ばない様に、お多福が頬冠をして居る火入や、木の根ツ子の烟草盆や、(さゞえ)の殻なぞが上置(うはおき)に成つて居る。此辺の連中が読んだ、涼しさや、とか、清水哉、とか、誌してある十七文字の聯が掛けてあつて、これの対句(つゐく)に是非並ベたいは、旅藝者の名前が書てある軒提燈、ぶウらぶウらと下つて居る。

 店台には駄菓子の箱と水菓子の籠とがある。茶釜の下には裏の松林の枯葉を絶えず()べてある。此方のテーブルの上には、色々の瓶が載せてあつて、其中の二三個には木札が付けてある。湯出玉子(ゆでたまご)が硝子の皿に盛つてある。真中には山百合の花が挿してある。()し人がコップを取つて或る洋酒を所望したら、香竄(かうざん)葡萄酒とビールの他は無いといふで(あら)ふ。木札は其二種を区別してあるので、其他は明瓶(あきびん)である事が此時判然するに違ひない。只此木蔭の茶屋で好い物は、山から引いた清水の噴水に冷してある藤沢桃(ふぢさはもゝ)と、十四ばかりの小娘の美しいのと、これが此逗子での評判である。

 堅吉は、小娘の美しいのが此辺の輿論である事も、桃が()へて居て如何にも美味(うまい)といふ事も知らない。いつも来ては茶を飲んで、駄菓子を二ツ三ツ食つて、台の上で代数(アルゼブラ)幾何(ジヨウメトリー)若しくは、算術(アリスメチツク)を勉強して、四時頃にはきつちりと帰へる。不時(たま)には茶屋の婆さんと僅に二口か三口は話すが、それも滅多に無い事、(あたか)も海水浴に()き、昼寝から起き、人々が此木蔭の茶屋へ遊びに来かゝる頃には、悪魔にでも追掛けられるかの如く、あわてゝ帰つて仕まふ。

 此所の婆さんは感心して、(あと)では小娘(むすめ)に向ひ「ほんとに今時の若さには珍らしい方だ、随分此逗子へも書生さんが見えるが、あんなに勉強する人はありは仕ない。あんな方は屹度(きつと)行末出世なさるよ」と賞めたてる。けれども小娘は、いつも此言葉をして老婆の独語に留めしめて、一向それには答へない。小娘の内職として浜辺で拾集めた貝がらを、江の嶋から買ひに来るのを待ちつゝ、それを種類によつて分けて居る。仕方がないから、婆さんも口の内で「ほんとに感心な方だ」をくりかへしながら、松葉を拾つて釜の下を焚付ける。後には吹竹(ふきだけ)を口に当てるので、(その)繰語(くりごと)此所(こゝ)に終る。其内段々御客が来る。

 

      三

 

 殊に暑さ厳しき日であつた。例の如く堅吉は来て、熱心に木筆を走らして居た。此方では婆さんも、余程暑くつて体がだるかつたと見えて、店の台の上に木枕を出して、団扇(うちは)で顔をかくして寝て仕まひ、小娘(むすめ)は何処へ行つたか姿は見えず。如何(いか)な勉強家の堅吉も、(つひ)にはうとうとと帳面の上に顔を伏せて居眠つた。蝉が一層喧しく鳴いて、これも彼方此方(あちらこちら)の木にぶつかり廻つて居る。

 ハッと思つて、起直つた堅吉は、顔でも洗つて来たら、少しは気が引立つであらうと、台を下りて()の噴水の方へと歩んだ。

 裏の小山つゞきの岩を切つた処に、(しのぶ)が巻いてある青竹が地に立つて居て、其口から龍が雲を吐く如く水を五六尺の高さに吹いて居る。それが散じて落ちる四面には、真白な貝がらが敷いてあつて、泉水の様な形に水が溜つて居る。桃の冷やしてあるのは此所で、流れない様に籠に入れてあるので、中で瑠璃色(るりいろ)翡翠色(ひすゐいろ)とが乱合(みだれあ)つて居る。

 其岩の陰に衣服を脱いで置いて、其岩の一個(ひとつ)滑かな上に此方を背にして腰を掛けて居る小娘(むすめ)、手拭を肩に(かぶら)せて其端を乳の上に結んで居る。髪を洗つたものと見えて、黒い、濃い、長い、髪が、白い(はだへ)の上に懸つて居る。噴水は風になびいて、さツさツさツと小娘の上に落ちて来るので、赤い腰巻の上は瀧をなして居る。手には桃を持つて居る。(あたか)海女(あま)が龍宮で珠を取つて来たかの観。

 其所(そこ)へ堅吉が行つたので、小娘は吃驚(びつくり)したが、堅吉の方でも吃驚して、真赤に成つて、極りがわるさに引つかへして仕まつた。小娘はそれ程でもない、手に持つて居た桃を見られたのを寧ろ羞ぢたのか、急いでそれを籠の中へ入れて、其後(そののち)ゆツたりと、髪を絞つて、体を拭いて、そして衣服(きもの)を着た。

 彼此(かれこれ)する内婆さんも起きる、客も来る、堅吉はいそいそと帰つて仕まつた。

 此日は実に不思議な事で、堅吉は早くから寝て仕まつた。蚊帳(かや)の中でうんうん呻つて居たが、翌日は少しく早目に木蔭の茶屋へ行つた。此日は如何したのか小娘は居ない。又如何したのか堅吉はいつもほど勉強仕ない。そして珍らしく、冷してある桃を取寄せて、小刀で皮を剥いて食べながら、婆さんと話した。入牢(じゆろう)の人が外へ出た時に歩き(ざま)がよろめく如く、寡言(くわごん)の人が話しかけると、(ども)らぬまでが、どぎまぎする。婆さんは又此間内から聴かう聴かうと思つて居た事が有つたが、隙間が無いので躊躇して居たので、今日を幸ひと切込んだ「貴郎(あなた)の様に御勉強なすつては、それこそゑらい者に御成れなさいませう。全体何に御成んなさる御つもりで……」と問ふた。

「僕は理科大学の撰科へ這入つて、天文学を専修したい」と答へた。大学の日本で一番ゑらい学校といふ事は知つて居ても、撰科といふのは正統の順序を踏まぬといふ事は知らない老婆(ばゞ)。天文学と言つては昔の軍師が心得て居る、あの天文の事と思つたから、婆さん、何かなしにゑらく敬服して、益々堅吉に重きをおく「まア好い御息子さんを御持ちなさつて、御両親は御幸福(おしあはせ)な事だ」と(しき)りに賞めたてると「いや、両親があれば僕も嬉しいが」と堅吉は溜息を吐いた「それでは、貴郎(あなた)は、一人ぼツちで居らツしやるか。やれやれまア」と気毒がつた。直ぐと嫁に行く人には気がねがなくつて好からうと考込んで、いよいよ益々堅吉が慕はしくなる、といふものは、娘の孫を持つた祖母(ばゞ)のこれ人情。

「此所に居た女の子はお前の孫かね。両親はあるかい」と堅吉は尋ねた「はい、孫で御坐いますが、其両親が矢張御坐いませんので。母は子供の内なくなりました。此春までは父が居ましたが、これが、から、呑太郎(のんだくれ)で、困りもので御坐いましたが、矢張病気で死去(なく)なりまして、只今ではまア如何(どう)やら斯うやら妾が世話を致して居りますが、もう此歳で御坐いますから、手もとゞきませず、早く嫁に遣るか婿を取るか致したう御坐います」

「いくつだね」と突然問出して、未だ答へぬ内続け様に「名は何といふかね」と言つた。

「お(りゆう)と申しますよ、十四ですが……」と口籠つて「如何もいけません」と言ひかけて、俄に萎れて、胸が詰つた様な、()も苦し気な息を吐いて、そして又「如何もいけません、から子供で御坐いますが……」

 これぎりで会話(はなし)は止み、例の如く堅吉は木筆を手に取つた。

 其翌日は咋日にかへて婆さんが居らず、お柳一人で店に居た。堅吉は身体を石の様にして、いつもに倍して勉強して、加之(しかも)お柳には一口も発しない。お柳は又ぼうツとして、うからうからと番をして居た。帰途(かへりがけ)に堅吉は漸く一言「お婆さんは如何した」「お婆さんは心持が悪いと言つて寝て居ます」「それではお前心細いだらう、両親は無し、たよる婆さんが病気では」「いんえ、そんなに重い病気ではありません」と軽く答へた。それにも(かま)はず堅吉は「僕にも両親が無いんだぜ」と真赤に成つて言つて、蝙蝠傘をさツと開いて、顔を隠して、重い足ながら早めて去つた。

 

     四

 

 今までの勉強家は此頃何となく怠けはじめた、怠けはじめて見れば、今まで見向きも仕なかつた、此逗子の夏、遊客の様、それが能く分る。殊に両親の無い、世を淋しく送る身には、同じ宿に泊つて居る他の家族の和合といふ事や、夫婦の親密といふ事が目に着く。おのれも早く一家を成したいといふ念は、むらむらと起る。一方には、目的の天文学ををさめて、星界の面白味を知らうといふ念も起る。自分がもう理学士に成つて、社会に天文家として名を知られ、一家を(かま)へたかの空想も起る。其時に両親あらば、如何に喜び給ふであらうかといふ事も考へられる。其両親も両親だが、同じく残惜しいのは、許嫁(いひなづけ)であつた娘、それも死んで仕まつたといふ事も思出される。其許嫁を思出すに連れて、何処やらお柳が似て居る様な、如何(どう)も似て居る様な、といふ事も浮んで来て、(あれ)を妻に仕たらばと斯ういふ早や恋の念が加はつて、勉強の凝結がそろそろ解けて、更に恋愛が固まり始めた。極端から極端へ走りやすく、数学(マスマチック)の頭が(ゼロ)に成つて、(ラブ)の脳が無限大(インフィニチー)。彼は吾妻(わがつま)に成り得べきやの疑問点(インタラゲエシヨン)が、常に記されない事は無い。

 天文家の玉子が人界に立戻つて見ると、暗い室は矢張厭で、暑苦しい部屋は矢張厭で、臭い喧しい狭い処に居るのは、全く好もしくなくなつた。

 それでなくつても、如何しても堅吉は此潮頭楼を去らねばならぬ事に成つた。それは(あらた)此家(このや)に来つた客人がある、其客人を非常に堅吉は嫌ふて居るので。其人は以前堅吉の父と同じ役所に勤めて居たが、堅吉の父は正直一図の人、其男は長官に摩込(すりこ)むのが上手、いつでも説は合はなくつて、或日激論を仕た末、(いさぎよ)く父は辞職し、其男は後に遺つて居たが、段々出世して今では某省の参事官と成つて居る。堅吉は父が常に其男の事を言つて居たのを、子供ながら耳にして居たので、それが頭にあるから、其男に顔を合はすのが、厭で厭でならぬ。これを以て早速転宿とは決定したが、()て何処へ移つたら好いものか、こんな事には不経験だから、先づ木蔭の茶屋の婆さんに(はか)つた。但し只室が、暑くつて、暗くつて、如何(どう)も騒々しくつて、といふのを口実にした。婆さんは信切に引受けて、それなら(わたし)の家へお入来(いで)なさい、何も別に御搆ひ申しませんが、(むさ)くはあつても、見晴(みはらし)は好し、風通しは好し、いつぞや矢張書生さんが御逗留なさつた事がありました。昼間は妾達二人は此茶屋へ参りますから、誰も居ませんで尚静閑(なほしづか)、妾も戸を締めて出るよりは用心に好う御坐いますからとの事で、堅吉には願つてもない幸福(しあはせ)、喜んで左う()めた。

 極まると直ぐに荷物を婆さんの家に運んだ。堅吉の感は、恰も、地獄をさへ去らば満足であつた亡者が、望外の極樂に引取られた時の様で、いよいよ以て勉強は出来はせぬ。婆さんは丸で養子でも()た気で、これも(しき)りに喜んで居る。お柳は左程喜びも仕ない、かはりに又厭がりも仕ない。

 丁度堅吉が移つた晩、二人も茶店から帰つて来て、行水をして、夕飯を食べて居る処ヘ、慌だしく潮頭楼の女中が来て「お美代婆さん、御内(おうち)かえ」と言つて(しきゐ)(また)いだ。これは常に堅吉を偏屈だ偏屈だと言つて(わら)つて居た一人で、お鉄と言ふ渡り者のあばずれ、何しに来たのか、堅吉の遺失品(わすれもの)でも持つて来たのかと思ふと、左うではなくつて「おう、お柳ちやんも居るね、まア好かつた。(わたし)は又居ないかと思つて心配したのだよ。それはいゝが、ちよいとお婆さん、急用だよ、耳を貸しておくんなさい、喜ばせる事があるんだよ、内所(ないしよ)話なんだから」とわめく「なんだねえ、誰も遠慮する様な人は居やア仕ないのに、其処でお話な」「でもさ、内所だから耳を借りたいんだアね」と無理に年寄を引張つて、やゝしばらく(さゝや)いた。お美代婆さんは(しき)りに首を振つて()に戻りながら「いやいやもう折角何んですが、それは御免だ。あの時はあの時。妾が手にお柳を引受けてからは、如何して如何してそんな事が……全体親父(おやじ)()の通りの無慈悲で……いくら御金子(おかね)をならべられても、()しんば先様(さきさま)が東京でえらい御役人様だツても、これは又別な事だから、もうもう御免御免、如何かよろしく其所(そこ)のところを断つて被下(くださ)い」と言切つて、腹立し気に茶漬をさらさらと掻込んだ。

「でもお前さん、そんな事を言つても仕やうがない、何んだツて当世でさアね、それも今度が初めてならですけども、一度何があツたんですから」と女中は言つた「それは死んだ親父が不心得で、これの知つた事ではありません。第一世の中にこんな無慈悲な事は又とあつた事ではない」「それはもう左うには違ひないが、其処が先方様では大枚の御金子を御出しなさる処でさアね」「お鉄どん、止してお呉れよ。奥には御客もあるし、又(これ)の前でそんな事を」「だから初め耳を借りたんでさアね」「それしきに貸す耳はありませんから」「おやおや大変な御立腹だね、けれども、それではお美代さん、お前さんの為めに成りますまいよ。今の茶店を出すに就いても、家の旦那にお前願つた事があつたぢやアないか。それを急に催促されたら、まアさ、そんなに三圓や四圓のはしたをね、催促なさる様な家の旦那ではないが、もしもの時は大まごつきを仕なくツちやアならないよ。それよりは薄井様の御座敷へお柳さんを……」「もう止してお呉れ、奥には御客があるよ」「ヘん、其御客なら横文字癲癇(てんかん)と綽名のある人だらう」「失礼な事を御言ひでないよ」「まア何んでもいゝやね、それなら、それと、其事を内へ帰つて言ふばかしさ。おやかましふ」と下駄音高く引つかへして去つた。

 お柳は最前から米飯(めし)を食ふのを中止して、祖母とお鉄との対話を聴いて居たが、去つた時には又箸を取つて、さらさらと食べ始めた。祖母(ばゞ)は胸をつまらして、涙()んで、まばらの歯を喰〆(くひし)めて、ぢッとお柳の顔を見た。お柳は常にかはらず、そろりと箸を置いて「薄井様が入らツしやツたのですか」と聴いた「さうだとさ」と祖母は答へた。

 これを奥の一間で、海に向ふ縁側で、団扇(うちは)をつかひながら、とびとびに聴いて居た堅吉——何んだかちツとも分らないが、薄井といふのが耳に入つた、(その)薄井といふのは加之(しかも)父の(かたき)同然の名前である、其薄井が如何したといふのか、それが聴きたさにづかづかと二人の傍まで進んで行つて「薄井といふのを知つて居るの」と聴いた、時に、お美代婆さんは真青に色が変じて、急には答へなかつた。お柳は何か考へて居る様で、堅吉の方へは目も配らなかつた。婆さんはやつとお茶を一口飲んで「なアに、只御ひいきになるばかしで御坐います」

 

     五

 

 此一週間といふものは堅吉に取りては如何に楽しくあつたらう。何も()ず、茶屋へ行つたり、内へ帰つたり、夜はお柳が貝殻撰(かいがらよ)りの手つだひを恐る恐る仕て居る。綿入なぞは決して着ないで、髪も(くしけづ)り、髯も剃る。お美代婆さんは、これでも未だ堅吉の勉強家たるを信じて動かない。此頃は少し息抜きをして居らツしやるのだと言つて居る。それに堅吉は既にお柳に恋して居ても、ちツとも表面に出さないで、()しや貝よりの手伝ひをしても、其所(そこ)に少しの厭味が無いので、これを茶店に張りに来る書生連に競べて見ると大変な相違ではある。

 

*       *       *

 老婆は未だ茶屋へ行かず、人は未だ海水に浴せぬ(あした)。霧が浜辺を封じて居る中を、寐間衣(ねまき)の儘で散歩して居る男がある。四十余歳、髯あり、頭少しく()げ、でツぷりと太り、()も左も剛慢に()して居る。これを縁側から、ちらと見た堅吉の目には、其某省の参事官、薄井巌なる事を(みとめ)た。今日は朝から不愉快であると(かんじ)た。やがて(その)常に見さへすれば堅吉に不快感を与へる姿は、霧の中に没して仕まつた。不図(ふと)考へて見ると、今朝其方角の浜辺に、お柳は貝がらを拾ひに行つて居る筈だ。如何いふものか堅吉は、それが心配で心配で成らない、如何しても内にぢツとして居られぬ。直ぐ草履を穿いて、出て、浜辺に向つた。()の薄井の足跡は、汐が引いたばかりで未だ濡れて居る砂の上に、大きく印されてある。小さなのは先きにお柳が歩いた跡が、此他には未だ誰も踏まぬと見える。堅吉も亦霧の中を分けて、おのれの足跡を遺しながら行く程に、其大小の足跡が、非常に乱合ふて居る所があつて、其から先きは又並行に進んで、先きの方へ歩いて行つて居る。其先きは(かわ)いた砂の中に没して、行方分からず此時堅吉は身体中の血を絞取られた様な心持に成つた。しばらく茫然として直立した。それは霧がすツかり晴れて仕まつたのも知らずに居た。

 不図(ふと)向ふを見ると、引揚げられてある漁船の脇に(かゞ)んで居る娘がある。見定むればお柳だ。彼は余念なく貝がらを拾ふて居た。薄井の姿は霧と共に何処かへ消えて見えない。堅吉は我知らずお柳の傍へ行つて「お前は最先(さつき)から此所(こゝ)に居たのか」と尋ねた「はい、居ました」「それでは薄井といふ人に会つたか」「はい、会ひました」

 此答を聴いて、堅吉は溜息を吐きながら、船に倚りかゝつて、しばらくは無言。お柳は首を上げて「近藤さん、貴郎(あなた)も拾つて頂戴」「それでは薄井も手伝つて拾つたのか」と思込んで言つた。二ツ三ツ拾つて被下(くださ)いましたが……」「お柳さん、お前は薄井さんといふ人を何んと思ふね」「東京で好い御役を御勤めなさる方ださうです……」「お前は薄井に連れられて東京へ行きたくはないか」「薄井さんとは厭ですが、東京へは行きたう御坐います」「それでは僕とは」と思切つて言つた「ほゝゝ」と笑つて「連れて行つて被下いますなら、いつでも参ります」と言つた。

 この言葉で(ひど)く安心した堅吉は、一層勇気を出して言つて仕まはふと、思ひは、思つたが、()て舌が動かないで、ためらつて、でも今言はなければ言ふ時は無いと、遠廻しの秘伝知らぬ身の、真向から切込んで「お柳さん」「はい」「僕が東京へ連れて行くと言つたら、行きますか」「それは祖母さんが行けと言ひましたら」「祖母さんも一所に僕が東京へ引取ふと言つたら、来るかね」と厳然として言つた。此時初めてお柳が真赤に成つて、それは珍らしく真赤に成つて「だつて……だつて……」と口籠つて、全く下を向いて仕まつて「だつて、妾は行かれやア仕ません」「何故行かれない」と激した「何故でも……貴郎、知つて居ながら、妾をからかつては厭ですよ。妾の事を知つて居ながら……」「何んだか僕は知らない」「うそですよ、知つて居て、それで貴郎は……」と言ひつゝ立上つて、そして莞爾(につこり)と笑うたが、此所を去るでもない、語気の強い程怒つたのでもない。

 

     六

 

 一日大嵐で海は荒れ、外へ出られぬ事があつた。雨戸をしめて今日は三人、一間に集つた時に、堅吉は言つた。「僕も大変御世話に成つたが、もう脚気(かつけ)も好し、学校も始まつて居るから、東京へ(かへら)ふと思ふ」これを聴いたお美代婆さんは、吃驚(びつくり)した顔で「それは(まこと)に御名残惜しい事で……しかし、御病気が快く御成んなすツた上に、学校が始まつて居ますのなら、無理にお留め申す事も出来ませんが……」何んだか言悪(いひにく)さうにして居る。堅吉も何んだか言ひたい事があるやうにして居る。流石(さすが)は年寄で到頭お美代婆さんは切出した「かうやつて貴郎が(わたし)の内に御逗留なさつたのも、何かの因縁で御坐いませうが、此上は如何かいつまでも御懇意に願いたいもので……」「それは僕も望む処だ。実に僕は自分の家の様に思つて居て、失敬ばかり仕ました」「妾も親類の息子が来て居る様に思つて居ましたが……如何かまあいつまでも御懇意に願ひたいもので」と同じ様な事を繰返して言つて居るが、未だ此他に言ひたい事が、如何(どう)もあるらしく、奥歯の奥の其奥の方に何んだか噛〆めて居て吐出さずに居る様に見える「本統にねえ、貴郎の様な御方を……」と、やつと言出して「御若いのに珍らしい貴郎の様な御方を、親類に持ちましたら」と謎の様にいふ。()う大概なら読めて居るのだが、其処が、堅吉で、如何(どう)も切出して好いのやら、悪いのやら、解する事が出来ないで、まごまごとして苦しむ「若しねえ、貴郎の様な方に、(これ)を差上げましたら、どんなに妾が嬉しいか知れません」と思切つて婆さんは言つて、間違つたら串戯(じようだん)に仕やうと、いつもにない高調子で笑出した。堅吉は真面目で、加之(しかも)青筋を出さぬばかりに一生懸命の色をあらはした。怒るのかと思つたら「若し僕が貰ふと言つたら如何します」と言つた。これで安心して、婆さんも真面目に成つて「それは二ツ返辞で差上げますが、何んと申しても田舎娘で(とて)も貴郎方の」と歎息する「いや、僕だつて今は書生の身分だから、今が今とは行かんが、大学の撰科へ入学して、卒業するまでには、未だ三四年あるから、其間に充分教育したらいゝが、それでは待つのがいやだらう」と益々堅くなつて此()先途(せんど)と言つた「いえいえそれが本統で御坐いますなら、四年は愚か、五年が十年待ちました処で、(これ)が二十四、好しや妾が七十に成りましても、お待ち申して居りまする」と乗地(のりぢ)に成つて答へた。

「本統に呉れますか」とあらたまつた。あまりにあらたまつたので、お柳はぢろぢろ堅吉の顔を見て居る「否やがあつたもんぢヤア御坐いません」とお美代は勇む「本統に呉れますか」「此方から願つてもない事で……」「それなら僕が出世するまで、しツかりとお婆さんにあづけておくよ」

 もつと談判が手間(てま)取れる、いや談判を開くまでには至らずして止むであらうと思つて居た堅吉が、望外の返事を得たので、何んだが力抜けがして、これで大丈夫か知らんと後の事を案じて、ぴしりぴしりと駄目を押して「しツかりとあづけたよ」といふ言葉を力を入れ力を入れ入れられるだけの力を入れて繰かへした。

 

     七

 

 扨ていよいよ堅吉は楽しかりし逗子を見捨て、東京へ帰らねばならぬ。手垢の付いた算術書や、クリスターの代数書、セウブオーの幾何学等を、鞄へ詰めて「逗子の勉強」の紀念なる駿河半紙(するがばんし)横帳(よこちやう)——多くは潮頭楼で書散らしたのを、これもすツかり畳込んで、奇怪がられた綿入衣服(きもの)すら鞄の中に納めた。尚此他にはお美代が勧めてお柳から呉れた美しい様々の貝殻である、それも綿入の中にくるんで、音のせぬやうに、(こは)れぬ様に、()も左も大事に仕まつてある。これで一寸歩きばえのある停車場(すていしよん)まで、お美代婆さんとお柳とに送られて、いよいよ堅吉は出立(しゆつたつ)した。其鞄は婆さんと娘が代り代り持つて呉れた。堅吉は停車場で其なつかしきお柳の手に重かりし鞄を受取つて持つ時まで「しツかり預けたよ」といふ意味の言葉を、いろいろの言方で絶えずあらはして居た。停車場では流石に人が居るので言はなかつたが、尚其心配気なる相は、其事をうるさくも語つて居た。

 切符を買ふ。汽車は横須賀の方から来る。人々は争ふて改札所を出る、堅吉は一番遅く出た。出ても振向いて二人を見ては、言ひたげにして居た。(つひ)にもう再び言葉を交す間もなく、汽車に乗込んだ。せはしく汽車は出發した。なつかしき海も浜辺も家も人も瞬く内に見えなくなつた。もう他の景色は堅吉の眼中に入来(いりきた)らぬ。恐ろしく考込んで仕まつた。お柳は許嫁の死んだ娘に似て居る、但しそれは外面だ。A若しBならばCはDなりと軌範定理の仮定と終決では、如何(どう)しても幾何(きか)通りに確定が出来ぬ。さりながら、全くお柳が我を思ふの力を有して居らぬとも、我と婆さんとが相懐(あひおも)ふの(くわ)で打勝つ事が出来るだらう、なぞと、そんな事ばかり研究して、来がけには下等室の押合ふ中をも厭はずに、三次方程式をカルタニスの解法で遣つて、其運算の厄介なのを苦しんで居る内、(ほど)()隧道(とんねる)ヘ這入つて吃驚(びつくり)したといふ熱心は、何処へやら行つて仕まつて、微分積分でも解し得られぬ「恋」の一字に迷ふて居て、大船(おほふな)の乗かへを知らずに居た位。

 東京へ帰つて、櫻川町の下宿屋に落付いても、三四日は此通りであつた。近藤さんは逗子へ行つて、脚気は快くおなんなすツたかも知れませんが、他に病気を持つて入らツしやりはせぬかと、女中なぞは言つて居た。

 が、再び学校へ通ふ様に成つては、又(もと)の勉強家に復した。或は元に何倍したかの勉強家に成つた。机の上には美しい貝殻が置いてある。

 越えて一年、首尾好く大学の撰科へ這入れた。其休暇の中、堅吉は又逗子へ行くべく新橋から發した。脚気の為めではない、勉強の為めでもない、前夜銀座の勧工場(くわんこうば)で買ふた、かんざしと半襟とを持つて。但し年頃はこれこれ、其年頃に似合ふのは、どんな物がよいかと店番に尋ねた揚句の果と知るべし。

 

     八

 

 心配する程ではなかつた。お美代婆さんは、しツかりとお柳をあづかつて居た。加之(しかも)お柳をして堅吉を慕はしめるべく(なら)されてあつた。()金釵(かんざし)と半襟とを見た時には、別してお柳は喜んだ。

 見晴しの好い一間で、三人鼎座(かなへざ)に成つて、いろいろの物語。一年間の出来事を、彼話し、此語り、中々尽きなかつた。しかし其内に、堅吉は斯ういふ事を知つた。今年も亦彼の潮頭楼には、薄井厳が来て居る事。仔細あつて、木蔭の茶屋は出さぬ事、此二件である。何故水茶屋を出さぬかといふに、これは薄井に関係して居る事で、今年も潮頭楼へ薄井が来るや、否や、()のあばずれのお鉄が来て、是非お柳を借りたいと言つた。それを断つた結果は、潮頭楼から借りた金の催促と成つて、止むを得ず店を畳んだとの事である。実に()の店を夏場張らなければ、一年中の生活(くらし)がむつかしいと、(ひど)く婆さんは苦心して居る処、堅吉の来たのは誠に幸ひである。

 如何したら此後が行かれると言ふ問題に向つて、好い式を作らねばならぬ。けれども別に好い方法はない。唯只(たゞたゞ)時期(とき)は少し早いが、一家二人(ににん)を東京へ引取つて、自分も下宿を止めて、静岡の親類が保管して居る、わづかばかりの財産——と言つても、いくらもない、家作が一二軒、それを売つて貰つて、それと紡績会社から来る利子、それとで以て東京へおぼつかなくも一家を構ヘ、そして三年間理科大学の撰科へ通ふて、卒業したらば、何処かへ勤める。それから後は腕次第、勉強次第、それで一生埋木(うもれぎ)に成るか、大学者に成るか、此二ツだ。妻子の係累が出来ては、得て大学者に成りにくい、(いは)んや書生中から一家をなしては、末がおぼつかないと思はぬでもないが、さりとて如何しても彼のお柳を見捨てる事が出来ないので、大学者に成らなくつてもよい、如何でも好い、(あれ)と夫婦に成ツて食つてさへ行かれゝば好いといふ極端まで考込んで、一方から薄井といふ悪魔に何となく、追掛けられるやうに思つて、急いで以て二人を引取る事に決定した。

 これほど迄に、熱心に、堅吉はお柳を思ふて居る。これをお美代婆さんに話した時に、その喜びさ加減といふものはなかつた。それに如何いふものか、其喜びの内に、悲しみを含んで居る。此疑問は初めて堅吉に解し得らるゝの時期は来た。

貴郎(あなた)、本統にお柳を奥様にして被下(くださ)いますか。貴郎、本統で御坐いますか」とお美代はあらたまつて。今更何故あらたまつたのか、堅吉は不思議な顔をして「お婆さん、それが如何したね、虚言(うそ)も本統もないではないか」「いえ、あまり嬉しふ御坐いますから……ですが、貴郎はお柳の身上を御承知の上で御坐いますか……いや、それは御存じではありますまい。御存じないのを此方からも申さずに、話が纏りました後で、どうのかうのといふ事がありましては、誠に妾が申訳がありませんから、斯うなりましたら何もかも申しますが、それを御聴きなさいました上で、如何かおいやなら御遠慮なく、御断りなすツて被下(くださ)いまし。決して御怨み申しは致しませぬ。御断りなさるのが、これは御道理(ごもつとも)と思ひますから……」と言ひさして、はらはらと婆さんは泣いた。そして急いで涙を拭きながら「お柳、お前はあちらへおいで……」と言つた。けれどもお柳は去らない。再三再四言つた時に、お柳は立上つて行つた。次の間で手習を始めるべく机に向ふて(すゞり)を取出した。正しく其手本は、此春婆さんの注文に応じて、堅吉が贈つた(でふ)だ、仮名の手本だ。

 お美代は殆ど顔を得上げないで「まことに(わたし)の口から此様な事を申すのは、申し(にく)い事で御坐いますが、(これ)の父と申しまするのは、もうもう仕方の無い呑太郎(のんだくれ)で御坐いましたが、(あれ)の母が亡くなりましてからと申すものは、一層酒喰(さけぐら)ひが増長致しまして、家も何も皆呑んで仕まひましたが、揚句のはてには……飛んでもない事を……」と此所(こゝ)まで言つて(むせ)んだ。

「お柳が十三の時で御坐います、()の潮頭楼へ手伝ひに遣つて居りますと、貴郎(あなた)、ある御客が、不憫(かあい)さうに、あれが目に(とまつ)たと(みえ)まして、あられもない事を言出しまして、宿の主人(あるじ)から親父(おやぢ)へ掛合ひまして、末だ十三の小娘を、無理に貴郎、おどかしまして肩揚(かたあげ)(ほころ)びさしたので御坐います。親父は急に参拾圓といふ大金が這入つたので、大喜び、(あれ)は何も知らないもんですから、到頭言ふなり次第に成りまして、一生汚れた身体(からだ)に成つて仕まひました。其時(わたし)さへ居りましたら、そんな事は致させるのでは御坐いませなんだが、如何(どう)も残念で成りません」と手拭を顔へ(あて)咽入(むせびい)つた。

 堅吉は慄然(りつぜん)として、思はず立(あがら)ふとして、又坐つて、腕を組んで、一時に歎息だか何んだか知れない息を吐いた。実に鋭利なる鎗の穂先で、脳天から足の裏まで貫かれたかの如く感じて、少時(しばらく)(ばう)と成つて居た。其茫として居る中から「腹が立つ」「残念だ」「悲しい」「情けない」「如何したら好からう」「仕様はなからうか」なぞの念が、一皮(ひとかは)々々生じて来て、判断力を包む。其内で一番厚い皮が「情けない」といふ念である。次いでは「如何したら好からう」である。

 実に情けない親父だ。如何も情けない親父だ。してして此花の如く美しく、雪の如く清い少女を、誰が蕾の内に散らしたか、未だ積らざるに汚したか、(にく)むべき天下の罪人、大罪人、社会の大罪人、極重悪人(ごくじゆうあくにん)大々(だいだい)悪魔、未だ情を解せぬものを、神聖の恋情でなく、一時の好奇心で、金子(かね)の力で、犯したとは、獣心、人面、獣心、寸断に切さいなんでも()き足らぬ。如何しても厭き足らぬ。金力でバアヂニチーを破る、此位な惨酷は他に決して無い。人あり、(たう)を持つて人を殺し、腹を()きて、其腸(はらわた)攫出(つかみだ)し、(まなこ)をくじりて、其眼玉をゑぐり出し、其頭を立割りて、脳味噌を出したりとせんか、それよりも、我は、金力を以て処女の操を破りたる者を、一層の上に惨酷の度を置くべしと、堅吉は思詰めた。余所(よそ)の話、知らぬ少女を、これこれに仕たと聴いてさヘ、此位に思ふべき堅吉、それがおのれの生命を犠牲に供してまでもと思込んで居るお柳の上に於て見る、苦しさ、つらさ、腹立しさ、味気なさ、情けなさ、といふものは、実に非常で、其非常の結果として、此所に居たゝまれない様になつて、不意と飛出した。しかせざれば、堅吉は、(たし)かに卒倒する場合であつたのだ。

 夜だ、外は闇だ、潮頭楼の間毎々々には燈火(ともしび)が綺麗に輝いて居る。海白く、空黒く、今にも夕立が来さうで、遠雷か、それとも潮声か、ぴかりぴかりと電光は山の後で雲をつんざく。寒い程涼しい晩だ、堅吉にはそれが蒸暑く感じられて、身体の置所が無い様になつて来た。海へ飛込まふかと思つた、何度となく海へ飛込ふと思つた、しかしながら斯う思ひながら、足はそれに向はず、いつしか知らず小山の麓へ行つた。其所は木蔭の茶屋のあつた処、今は何もない。唯山から引いた噴水が、(かけひ)に木の葉でも詰つたのか、先程の勢ひはなく、只ちよびちよびと吹出して居る。以前は濡れて居た岩、今は噴水が届かぬので、昼間の日に()けたほとぼりが冷めぬ岩、これに()のお柳が腰を掛けて桃を手にして居た事もあつたのだ。堅吉はこれにどツかと腰を掛けた時に、少しは落付いて物を考へる事が出来るやうになつた。

 如何(どう)しやう、如何したら好からう、お柳を貰ふまいか、止して仕まはふか、お柳より他にお柳と寸分違はぬ女があれば好いが、無い。死んだ許嫁とお柳とがいくら好く似て居ても、どツか違ふて居るだけそれだけお柳以外にお柳はない。お柳より他に眼中女がない。其お柳には如何(いか)にしても消滅しがたい汚点がある。知らねば格別、知つて貰ふて如何(どう)であらう。口惜しい、其汚点は、決して消滅しないのである。何もそんな者を、好んで、急いで、女房にしなくツてもよい。といつて他に、それなら気に入つたお柳同様な女があるか。無い。決して、無い。それと思込んだら眼中他に女が無い。世界は唯一人の恋人であるのだから、有るべき道理がない。一生孤独で暮すなら格別、妻とするなら()のお柳が好い。()の笑ふ処が好い。こせつかぬ処が好い。何を言つても怒らない処が好い。言葉の通りに従ふ処が好い。何がなしに好い。如何しても好い。今日まで欠点はなかつたが、初めて聞いて驚くべき欠点のある事を知つた、其欠点——先づこれを研究せねばならぬ、其上で(かれ)はどちらかに極めやう、斯う堅吉は考へた。

 そして出来るだけ弁護すべき方面から、お柳の身上を研究した。自分では公平のつもりで。

 お柳は未だ(をさな)かつた。()しや身体は発育して居ても、実に通常の脳力は供へて居なかつた。親父が悪かつた、(はた)の者も悪かつた、第一(のぞみ)(しよく)した者が悪かつた。お柳は何も知らぬ内に汚点を付けられたのである。不憫な者である。今は(その)おのれのきず物である事を知つて謹しんで居る。老母は殊にそれを(はぢ)て居る。何んとそれを(めと)るのは義侠ではないか、仁徳ではないか、又(おれ)がそれほどまでに思ふて居るのを彼が知つたら、此後(こののち)如何(いか)に彼が謹しむであらうか。必らず前の汚点をつぐなふだけの事は()るに相違ない。イヤそれは()ずとも好し、再び他の汚点を印する事は決してあるまい……此所(こゝ)まで考へて堅吉は、少時(しばらく)ためらつて、彼の数学の難問題を考へる時の様に、両手を持つて頭を抱へて、うんうんと呻つて居た。忽ち悟る処があつたか、岩からはなれて立上つた。丸で其響きが伝つて(しか)るかの如く、木の葉で出の悪くなつて居た噴水の口は、更に勢好く水を数尺の高さに吐始(ふきはじ)めた。

「いや、これは考へたのが(おれ)過失(あやまち)だ。好しやどんな汚点がお柳にあらうとも、構はぬ。愛の極はそんな事で躊躇するのではない」と堅吉は口走つた。閃影瞬一時(せんゑい しゆんいちじ)、今まで心づかなんだが、不意と飛出した堅吉の行方を心配して、お美代婆さんはお柳を此所まで従はしめた。お柳はだんまりで最先(さつき)から此所に来て居た。今の光りで堅吉は認めた。そして吃驚(びつくり)してたじたじと成つた。

「近藤さん、御迎ひに参りました」とお柳は言つた。堅吉は走寄つて、其両手をしツかりと握つて、屹度(きつと)其顔を見詰めた時に、又もや一閃(いつせん)、ありありと其神女(しんによ)の如き美しい顔は照された。

「お柳さん、僕はもう極めた。お前を引取る事に極めた。何んにも言はずにお前を女房にするだけそれほど僕はお前を思ふて居るんだから、其つもりでお前も来て呉れねばならぬ。そんな事もあるまいが、僕の家へ来てから萬一の事があつたなら、好いか、そんな事は決してあるまいが、僕ア了簡(れうけん)仕ないよ」と言つた。折悪(おりあ)しく電光は達しなかつたが、此時たしかにお柳の目には感謝の涙が溢れて居たらう。無言で只お柳は立つて居る、堅吉も両手を握つた儘立つて居る。

 此二人は恰も連理(れんり)の樹の様に立つて居たが、噴水の飛沫(ひまつ)の他にぽつりぽつりと落ちかゝつた夕立の為めに、二人はいつまでも此所に立つては居られぬ。余所(よそ)が降つた土気(つちけ)の香と、前ぶれの風とに送られて、家へ帰つた。間もなく恐るべき大雷雨は来つて、三人は一ちゞみに蚊帳の中へ入つて仕まつた。

 

     九

 

 牛込神楽坂(うしごめかぐらざか)近傍(きんばう)は物価の安き処とて、軍人、安官員(やすかんいん)、書生なぞが多く住む。近藤堅吉は、初めて一家を()す為めに、此辺で貸屋を尋ねた。新小川町に適当なのを見出して、櫻川町の下宿から、自分の荷物を運んだ。世帯道具は何んにもない。お美代婆さんとお柳と三人で出かけて、勧工場(くわんこうば)でぼつぼつと買ふ。隣家(となり)の内で米屋を聴いて、月拂ひの件を()めて居る内、酒屋の御用は、すかさず帳面を持つて来て、得意先きをこしらへるに抜目はない。魚は毘沙門前(びしやもんまへ)の魚屋に夕河岸(ゆふがし)が着きますから、それを買ひに行くと御恰好(ごかつかう)で御坐いますと、井戸端で向ふのおさんどんの忠告するのを聴いて来て、漁村を離れた不自由を二人共に今更感じる。お美代は両三度東京へ来て知つて居るゆゑ、左程にまごつかぬが、お柳は何を見ても珍らしく、窓から一日外をながめて暮して居る。堅吉は此所(こゝ)から毎日大学へ通ふ、三年間切つて()めた学資やら、家の生活費(くらしむき)やらで、それが経過すれば売つた家の代はなくなり、紡績の僅かの利子ばがり(あて)にする勘定。一々それは御手(おて)の物でちやんと計算が出来て居る。故にお柳をして、充分に東京見物をさせ、又好む物を着せ味はせる余裕はない。勿論、お美代もお柳もそれは承知であるので、後の出世を楽しんで居る。堅吉は何処までも書生で、短い袴、古い帽、少しも扮装(みなり)に構ふては居らぬ。友人も亦堅吉が便宜上一家を持つた、それは両親がないゆゑ、傭婆さんをした、其婆さんは美しい娘を連れて居るといふ事を知つて居ても、其娘が後には堅吉の妻に成るといふ事は知りはせぬ。さればお柳は東京に居て東京を知らず、牛込に居て只神楽坂の縁日のみを知つて暮して居る。堅吉は自分の勉強の他に、お柳の教育をせねばならず。随分忙がしい。習字をさしたり、読本(とくほん)を教へたりすれど、如何もはかばかしく進まぬ。一層縫物でも稽古さしたらと、近所の教授所へ遣るに、これは如何やら斯うやら針が運ぶので、此方を(おも)にして、他は時々にして居る。

 お柳は如何も東京より逗子の方が好いやうに見える。次第次第に面白くなくなつた、けれども末が楽しみだと思ふて、口ヘも出さず、言はゞうからうからと日を暮して行く。婆さんは安心して暮して行く。堅吉は無上の愉快を以て暮して行く。変化が無いとて、恐らく此位変化の無い一家はない。極穏かに三年を過して、堅吉は理科大学の撰科を卒業した。

 此時あらためてお柳と堅吉は結婚の式を揚げた。お美代婆さんの喜びはたとへるに物がない程。堅吉の喜びはそれよりも尚幾十倍である。お柳とても喜ばない事は無い、末の楽しみが来つた時と思つた故に。

 それに付けても()の汚点さへなくば、と浮んで来る堅吉の胸には、それをしも忍んで、我は汝を(めと)つたといふ——何も恩に着せるのではないが、それが説明したくて成らぬ。説明せねば、否、説明しても充分お柳には其所(そこ)のありがたみが分つて居るまいと思はれてならぬので、時々其事を言ふ。夫婦と成つてからは益々言ふ。お柳はそれを聴くのを嫌ふて、いつも逃げて仕まふ。実に二人の仲の一点の雲は是だ。愛の度が高まれば高まるだけ、()の事を悲しむの度が高くなる。其事をうるさく言はれる度に、お柳の方では其耻かしいといふのが段々と馴れて来て、左程に感じなくなるのは、()ても止むを得ぬ結果か。此様(かやう)にして、一月立ち、二月過ぎるに、切つてはめた家の(しろ)は、全く盡きて紡績の利子とても日清戦争の影響で、少ない上に余程少なく、望む口はなくて、浪々で居らねばならぬ。学術の研究どころではない、家内三人の口を(のり)す方法を講ぜねばならぬ。(すゑ)(すゑ)、と、末に重きをおいて居たのに、此様では困つた事と、婆さん少しく考へぬでもない。しかし、引目(ひけめ)のあるお柳の身ゆゑ、これでも結構と思はねばならぬと、年寄だけ勘弁も付けるが、お柳は何となく面白くなくて、未だ東京見物さへせぬとつぶやく事もある。

 堅吉の友人が勧めるには、数学に達して居るこそ幸ひ、陸軍参謀本部の傭員となつて、遼東半嶋(れうとうはんたう)の測量隊に加り、彼地(かのち)へ行つて来ては如何か。帰つて来るまでには、天文台の方の口が出来ないでもなからうとの事。

 堅吉は決心して、それに従ふた。(すなは)ち最愛の妻と妻の祖母とに別れて、清国(しんこく)へ行く事になつた。一家を畳んで帰へるまでは、二人共逗子へ行き、田舎で生活して居る方が経済といふので、左う極めた。幾度となくお美代に向ひて「しツかりお柳をあづけましたぜ」の言葉を繰りかへす事、彼の逗子の停車場で別れた四年前の時と同じであつた。別してお柳には「お前の汚れた身体を知つて居ながら、お前を嫁にした、それほど、(おれ)はお前を思ふて居る」をつゞけて「もしも留守中に不都合があつたら、其時は決してゆるさぬ」を噛んで含める如く言つた。

 此時は流石にお柳もしみじみと嬉しく感じて、蒼蝿(うるさ)いとも思はず、道理に責められて、泣いて、其留守を堅固に暮すべく答へた。

 

     十

 

 昔の家は人手に渡つて居る。他の小家を借りて逗子の生活を続けた、お美代にお柳。昔馴染の人々に顔を合せるのが何となく極りの悪い位。殊にお柳は東京へ行つて居て、東京の話の出来ないのを耻辱と心得て、たまたま人から話しかけられると、いつも此返辞にためらつて居た。

 (こゝ)に不幸なるはお美代で、堅吉から堅く托されたお柳を、見捨(みすて)て、名もなき老の病のためにぽツくりと()つて仕まつた。

 お柳の悲しみ、悲しみよりは驚き、如何して好いやら、うろうろとして居る。知合の人々は来て呉れても、それは手を貸して呉れるばかりで、入用(にふよう)の方の相談敵手(あいて)とては一人も無い。良人は戦地に在り、急の間には合はず。殆ど途方に暮れて居た。

 突然遣つて来たのが()のお鉄で、虚言(うそ)か、真実(まこと)か、涙をこぼして、いろいろ口上を並べた末に、一段声をひめて、若し御金子(おかね)が入るやうなら、(わたし)の方で都合して上げやうから、遠慮なしに言へとの甘言(かんげん)。此急な場合で、お柳は助け船の好悪(かうを)を問ふの(いとま)はない。迂闊(うか)と乗つた。直ぐ十圓間に合はされた。喜んで葬送(さうそう)を出して、これもお鉄さんの御蔭とお柳は(いた)く喜んだ。折も折、此節又彼の薄井巌が潮頭楼へ来て居る。お柳はそれを少しも知らぬ。お鉄は又それを少しも語らぬ。

 初七日の晩、一人さびしく仏壇に向ふて、御念仏を唱へるでもなく、唱へぬでもなく、物案じの絶間々々に、御線香を上げて居る、お柳。行末を考へれば、只何となく悲しくなつて、早く良人が帰つてくれば好いと身の淋しさをかこちつ、又は祖母の存命中の事など懐出(おもひだ)しつして居る処ヘ「御免なさい」と入来(いりきた)つたのは()のお鉄だ。斯ういふ晩には、誰が来て呉れても嬉しいので、 (しな)れた婆さんが嫌ふ程お柳はお鉄を厭がりはせぬ上に、困つた場合に十圓といふ金子(かね)を工風して来て呉れた女の事ゆゑ、決してなほざりには取扱はぬ。

「時にお柳さん、此間(このあひだ)はあんな場合であつたから、別に委しくは話さなかつたが、それ、お前さんに用立(ようだて)御金子(おかね)の事さ、(あれ)は少し仔細(わけ)があるので、急に入るといふのでもないから、お前さん無理をして算段をするには及ばないよ。それを一寸言つておかうとは思つても、知つての通り此頃は忙がしいものだから、つい今日まで来なかつたのさ」「如何(どう)も御蔭で助かりました。いづれ(うち)のが戦地(あちら)から帰りましたら……」「いゝさ帰つたからツて、帰らないからツて、そんな事は如何(どう)でもいゝやね。だが、お前さんが、()の人を(うち)のと呼ぶ様に成つたとは、実に不思議だねえ。彼の人との最初からを知つてるのは(わたし)だが——妾も考へて見ると、今の処に随分永く足を留めて居るねえ。彼家(あすこ)の内の女中では、古狸だよ。おほゝゝゝ、けれども古いだけ御客の内にも知つた方が出来て、お鉄々々とおほきに持てるのさ。知つた方といへば、()のお柳さん、そら、あの、そら、お忘れぢやアあるまいね、あの薄井さんねえ」と切出した。

 「薄井さん」とお柳は問返した「あゝ薄井さんさ、()の方もねえ、以前(もと)とは違つて大層勢ひが抜けてねえ、年の所為(せい)とは言ひながら、もうもう昔の様な元気は無くなつたよ。何さ、何もそんなに極りを悪がらなくつてもいゝやな。妾だもの。今度も来て入らツしやるが、丸で人が違つたやうに成つておいでなさるよ。それで、此間(こなひだ)もね、お前さんの話がまア出たとお思ひな。さうすると大きな溜息を吐いて、アヽ(おれ)は悪い事を仕た、飛んでもない事を仕た為めに、()の子は一生きず物で暮さす事かと思つたら、でもまア好いあんばいに、そんな好い処へかたづいたツて、大層喜んでおいでなさツたよ」と言ひかけて、ぢツとお柳の顔色を見入つた「左うですか、薄井さんは入らツしやツて居ますか」と冷淡に答へた。一寸は儀式的に極りの悪い顔を見せたが、(のち)には更に気に留めない様子。お鉄は重ねて「お前さんが此頃、此方(こちら)へ戻つて居る事や、御婆さんのなくなつた事をお話し申したらね。さうかい、さぞ好い細君に成つて居るであらう、一度逢つて見たいものだなんて言つて居らツしやツたよ」と言つて、又同じく様子を窺ふに。お柳は相変らず冷々淡々「左うですか」と(かろ)く答へた。此石(このいし)動くべきか、動かざるべきか、お鉄は判断に苦しむ的挙動で、(その)てれかくしにお先煙草(さきたばこ)と出かけた。

 其虚(そのきよ)に話は飛んだ処へ走つた「妾もねヘ、お婆さんは此通りだし、家のはいつ帰つて来るのやら分らないし、斯うやつて一人ぼツちに成つて、本統に心細くつて……」と相談柱に立てかけた。

 失策(しま)つた、取逃しかけたと、大いに驚いた。お鉄はこれでは成らぬと話口を捕へて「ほんとに心細いだらうねえ、お前さんを一人にして逝つたお婆さんも邪見だが、全体旦那もあんまりだねえ……」と言つた。(けだ)し、これは、さぐりの針を一本打込んだのだ。

「本統ですよ、早く帰つて呉れゝばいゝんですが、困つて仕まひますよ」とこれは真から困つたらしく言つた。お鉄は此所(こゝ)ぞと「全体お前さんは今の旦那を如何(どう)思つておいでだい」「如何つて、別に……」

 (まさ)しくお柳は別に如何といふ深き考へはないのである。善とも悪とも考へては居らぬ。唯良人だと思ふて居るのである。如何(どう)つて別により、別に言ひ様は無いのである。

 もどかしがつてお鉄は真向から切込んだ「如何だね、お柳さん、お前さんも御婆さんに別れて唯一人此所に居ても、何んだらうから、潮頭楼へ遊び半分、手伝ひに来たら好いだらうにねえ。それで以て旦那の帰るのを待つて居た方が、余程好からうと妾は思ふよ」とこれから至極巧く理屈を合せて、如何してもそれが好い様に(とき)立てた。迂闊(うか)と乗る。締めたと喜んで益々説立てるお鉄の弁に、くるくるとくるめられて、それぢやア何分と言ふ事になつた。

 

*       *       *

 

 けれども流石に薄井の居る部屋へは行かなかつた。再三再四(なんどもなんども)お鉄が勧めたけれど行かなかつた。後には手を引張つて連れて行かうとしたけれど行かなかつた。

 

*       *       *

 

 十圓の出処は薄井からだといふ事をお鉄が明かした時に、お柳は(ふさ)いだ。此義理に責められて、止む事を得ず、薄井の部屋に行つた。

 

*       *       *

 

 薄井が帰京する時に、停車場(すていしよん)まで送つて行くべく、お柳はお鉄に引張られて行つた。

 急に、東京見物に連れて行つて遣るといふので、無理無体にお鉄と薄井とに引張られて、汽車に載せられた。如何(いかんと)もお柳には、これを拒む事が出来なかつた。

 

     十一

 

 其留守に堅吉は帰つて来た。加之(しかも)一度は東京へ着いた。けれども、お柳が薄井の屋敷に来て居やうとは、神ならぬ身の何んで知らう。急いで逗子へ来て見た。家は錠を(おろ)されて住む人無し。お美代婆さんは死んで黄泉(あのよ)の人、お柳は東京ヘ、誰と、何しに、其処は知れねど、行つて居る事は近所の人から聴いて知れた、不審で不審で成らぬ。仕方なく引帰して東京へとも思つた。何にしても解す可らざる事だ。何事でお柳は東京へ行つたらう、誰に誘れて行つたのだらう、手紙を二三度出して帰期(かへり)を知らしてあるのに、如何したのか。

 遼東半嶋を彼方此方(あちらこちら)、幾多の困難を(たへ)忍んで、測量の事業を終り、(つゝが)なく帰つて見れば、此有様。浦嶋が感に似て居る。

 旅にやつれ、つかれつかれて、色も黒く、体も瘠せた。其やつれ、其つかれ、それは片時も忘れぬ最愛の妻を見るの楽しみで(いや)すベく、帰つて来て見れば、老婆(ばゞ)は死し、妻は居らぬ。

 (かつ)と上せて眼前の物を弁ぜぬ様に成つた。()しや如何なる用向があつたにしろ、お柳が東京へ行つた事に就ては、一点のゆるす処が無い。見当り次第撲斃(なぐりたふ)さねば腹が治まらぬ様に成つた。

 直ぐ東京へ引帰して、心当りを捜さねばならぬ。自分がこれ程に苦労をして帰つたのに、まア如何したのだなアと胸が張裂ける程疳癪を起して、又停車場(すていしよん)へ立戻つた時は夢中であつた。切符を買つたのも、汽車に乗つたのも、丸で知らず。

 大船の乗かへの時に、遇つた、それは向ふから来た旅客の(なか)に、お柳とお鉄とが——見る間にお鉄は姿を隠して仕まつた。お柳は喜んで、急いで、此方(こなた)へ駈けて来る、堅吉もづかづかと駈寄る、衝突した、突如(いきなり)お柳の胸倉を取つて(なぐら)ふとした。不図(ふと)人中といふことに気が着いた。撲れもせず、撲られない無念さを怒つた眼の恐ろしい光に加へて、ぐツと睨んだ。お柳は全く弱つて仕まつて、其弱切つた揚句が、如何なるものかと覚悟をした(てい)だ。

 此所では仕方がないと、乗移るべき汽車に二人共乗らず。構外の茶屋へ行つて、二階の一間へ通つた。此間は無言であつた。

「如何したのだなア」と詰問の声は(ふるへ)て居る「(まこと)に済みません」と応答の声も顫へて居る「如何したのだア」「済みません、(わたし)が悪ふ御坐いました」「如何したのだなア」と激して来た「寔に済みません」と言つて下を向いて仕まつた。其向いた処で、突如其髷を攫んで引倒しながら、五ツ六ツ撲つた。撲られながらも「済みません済みません」を口にして居た。

「如何したのだなア」と突放した時に又言つた。お柳は泣伏しながら「寔に済みません」より他には言はない。それを言はないですら此位だ、其実(そのじつ)を白状したら殺されるだらう、殺されるのは立派に分つて居る。けれど、言はずにおけるものでない、言はさずには又置かれない、必らず問詰められるに相違ない、とは知れども、其問詰められるまで、如何も言ひたくない。悪かつた、悪かつた、皆自分が悪かつた、()の汽車へ無理に載せられた時に、舌でも喰切つて何故(しな)なかツたらう。東京へ着いた時に、何故死なかつたらう。薄井の屋敷へ入つた時に、何故死なかつたらう。何故うかうかと東京を見物して来たらうか、まア如何してお鉄に引張り廻されたらうかと、今始めてお柳は目が()めた。

「何んだな、これには屹度(きつと)深い仔細(わけ)があるのだらうな」と堅吉は言つた。終にお柳は覚悟を定めて、(かす)かな声で白状した「悪い事を致しました」

 これを聴いた時の堅吉は、再びお柳の髪を(つか)んで、畳の(おもて)摩付(すりつ)けたが、血の涙をはらはらと落して「好く聴け、お柳、(おれ)はお前を(めと)る時に何んと言つた。忘れたか、忘れたのか、これ忘れたのか。(おれ)はお前のきず物を承知で、それで女房に仕たぞ……もう其時に(おれ)(つら)は汚れて居るのだが、此上に未だ足らいで、今度の様な、ちえツ、ちえツ、情けない事をして呉れたなア。我は何んの為めに支那へ行つた、何んの為めに風に吹さらされ、雪の中に埋められて来た。皆お前を可愛(かあゆ)いと思へばこそだぞ。これほどまでに(おれ)はお前を愛して居るのに、まア如何したら好いか。ちえツ、残念だ、飛んだ事を仕たなア。(おれ)の愛が足らぬからかツ、我の愛が足らぬからか、情けないぢやアないか、情けないぢやアないか、天文学上何んの発見する処もなく、碌々(ろくろく)として今日……測量隊と成つて支那へ行く、こんな意久地の無い人間としたのは、誰だ、誰だ。意久地を無くしたのは矢張(おれ)が悪いのとしても、あ、あんまり情けないお前の、今度の、お前の、今度の……」と男泣きに泣入つた。

 殺されるよりは一層つらい此言葉。お柳はもう心が米顆(こめつぶ)ほどに縮んで仕まつた。身も共に縮んで消えて呉れぬかと祈つた。

 如何して(わたし)()んなであらう、もう良人に殺されても仕方がないと自ら見捨て、今更におぼえられる良人の真の、真の、真情、これもまア何故早く知らなかつたか、(わたし)は馬鹿だ、何一ツ取柄の無い馬鹿だ、早く殺されて此苦しみを救はれたいとまで思ひつめた。

 堅吉は死人の如く、真青に成つて、考込んで居た。お柳も其通り泣沈んで居た。

「仕方がない、もう仕方がない、これから此不愉快を忘れる為めに、直ぐと箱根へ行かう。久しぶりでもあるし、旅のつかれもあるから」此語は一時間余も過ぎた後、如何(いか)にも軽く出た堅吉の言葉。

 意外も意外、大雷鳴(おほかみなり)かと思ひの他、優しい琴の音だ。思はず知らず、お柳は顔を上げて「それでは(わたし)の罪をゆるして被下(くださ)いましたの」「仕方がないからもうゆるしたのだ。さアさア今度の列車で箱根へ行かう」と言はれるだけ猶更面目なくて、お柳は(とみ)に立ちも得せず、又も袖に溢れる紅涙は、感謝の涙!!

 

     十二

 

 汽車は出る、国府津(こふづ)までの切符を買ふた堅吉お柳の二人は、これに乗つて大船(おほふな)を発した。まア好かつたとお柳は安心した。

 国府津から鉄道馬車に乗つて、酒匂(さかわ)、小田原を過ぎ、湯本で降りた。福住に二三日逗留して、瀧の前や早雲寺(さううんじ)などへ遊びにゆき、それから塔の沢にも二三日、宮の下、底倉、堂ケ島と、箱根の七湯は更なり、大地獄、小地獄、芦の湖なぞへも遊び、旅のつかれと彼の不快の念とを勉めて忘れるべく仕て居た。一言も大船での事を口に出さぬのみか、つひに見た事のない堅吉が此頃の嬉し気。お柳は益々心を落付けて、もうもうこれからは良人を大事に大事に仕ませうと心に期して居た。

 此箱根の生活は二人の未だ曾て味ふた事の無い極楽の境であつた。天人天女の逍遥であつた。

 でも時々思出したやうにお柳は考へる。()の大罪を本統にゆるして被下(くださ)つたのであらうかと。

 けれど、良人が余念なくおのれを愛する処を見ると、全くゆるして被下つたに相違ないと安心する。其安心は又時々破れるが、破れた跡から繕ふて行く。離縁されるものなら大船で、殺されるものなら彼時(あのとき)に。それが左うで無いのを見ると、全くあの罪はゆるされたのだ。

 堅吉は真に(かれ)の大罪をゆるしたらうか。

 箱根に一月の余も居て、それから、小田原、大磯の海水浴を経て、江の嶋まで来た時には、戦地で貯へた金子(かね)が大方尽きた頃であつた。それは、お美代婆さんとお柳と三人、平和の生活を続け様と思つて溜めたのであつた。

 其金子の尽きかゝツたのも、戦地に携へて行つた護身の短刀、それを鞄の荷物の底に隠して持つて居る事も、お柳は知らぬ。

 江の嶋の亀の屋といふ宿屋に泊つた。それは(まこと)に見晴の好い家で、七里ケ浜、稲村ケ崎、鎌倉の入江、逗子も見える。もう逗子ヘ帰つたやうなものだ、逗子の夏は昔、今は江の嶋の夏である。

 此所にも二人は三日ばかり逗留した。曾てお柳が拾集め、堅吉も手伝うて撰分(よりわ)けて遣つた貝がら、其金釵(そのかんざし)や細工物を売る店が沢山にある。思出せば今昔の感に堪へぬ。

 翌日(あす)は逗子へ一先づ帰るといふ晩、珍らしく堅吉は酒を呑んだ。(あはび)の水貝、黒鯛のあらひに米海苔(こめのり)のあしらひ。酌はお柳の優しき手。

 酌を仕ながらお柳は、行末の事を二言三言問掛けた。それは極単純な問題で、逗子に永く居るか、東京へ行くか、それから如何して暮して行く、なぞであつた。

 堅吉は酔つて居るのか、何かこれには答へぬ「まアいゝまアいゝ」と蒼蠅(うるさ)がつて、(しき)りに酒をがぶがぶと飲んだ。(やが)て堅吉は立上つて、これから(ちご)(ふち)の方へ散歩に行かうといふ。月は好し、涼しくはあるしと、頻りに勧めた。お柳は如何(どう)いふものか、お止しなさい、と(いつ)て、如何も行きともない風情。堅吉は無理に引張つて出た。

 

*       *       *

 

 堅吉は真にお柳の罪をゆるしたのか。(しか)らず。大船に於て、もう腹の(うち)で宣告を仕た、それは死刑。

 今日まで手を下さぬのは、(かれ)が遼東半島で苦労に苦労を重ねて居る内、一日片時(へんし)も忘れはせぬ、それはお柳と箱根へ行つて、一月ばかり楽々と暮して、遠征の疲労を休めやうといふ理想、それを実行せんが為めであつた。今日其実行の終局に於て、いよいよ死刑を宣告仕やうと決心したのである。

 月は好し、風は涼しく、二人は宿の同じ模様の貸浴衣(かしゆかた)で出て行つた。堅吉はお柳に知らせず、短刀を持出した。お柳は、今自分は殺されに行くといふのを知らぬ。団扇(うちは)を持ちてうからうからと歩いて行く。其後から堅吉は、血走つた眼をして歩いて行く。

 堅吉はお柳が(にく)くつて(にく)くつて成らぬ。それは世の常の(にく)さとも違ふて、不憫さ、可愛さ、が混じて居る悪さで、まア何故あんな事を仕て呉れたらうといふ感を含む事多しだ。死刑——それは憤怒(ふんぬ)の極ではない、矢張愛情の極である。犯した罪は一生不滅。これも無教育の(へい)、彼は(おれ)が思ふ程の大罪とは思ふて居らぬ。全く罪を犯しても、それを知らぬ如き極めて平気な心で居る。我から責められて悪いと知る。詫れば其罪は消えると思ふて居る。至極無邪気? 否、無能力である。それと知つて(めと)つたのが此方(こちら)失策(しくじり)、何んの(あれ)の生れた漁村では、()んな事は何んでもないのであらう。故に殺す程の事は無いのであるが、只離縁して仕まへば好いのであるが、如何も(それ)離縁して、手放して、人手に(かれ)を渡す、仮令(たとへ)ば薄井の如き奴に渡す事が、如何も出来ぬのである。といふて、罪を犯した彼を矢張妻にして置く事は出来ぬのである。彼が再び薄井に汚されたといふ事、それから来る痛苦は、(とて)も我をして此世に堪へざらしむ。何故彼等の悪計に載せられて、うかうかと東京へ行つたらうか、歯掻(はがゆ)い様な。如何も如何も齒掻い様な、一口に言へば、唯情けない事をして呉れたお柳。殺しでもせねば腹が()えぬ。それは憤怒ではない、不憫だからだ、我も死ぬ、彼を殺して死ぬ、心のこりは無い、それで初めて人間の安心が出来る。斯う考へながら——いや(とく)にもう考へて居たのを、再び今繰返して歩んで行く。

 中津宮(なかつみや)の石段を上つて、それから外人の住んで居る屋敷の前を通つて、一遍上人成就水(いつぺんしやうにん じやうじゆすゐ)の石標のある処を過ぎて、山二ツから鉄の鳥居を過ぎる時には、堅吉の種々(いろいろ)感覚(かんがへ)は最う失せて、唯只お柳をこれから殺しに行く、(おれ)(しに)に行くといふ念より他には無い。

 お柳は何も知らぬ。両側の木の枝のこんもりと繁つて居て、貝細工店の今は一人(いちにん)も居らぬ処、月の光は飛々に敷石を照して居るのを踏んで行くので、お柳は心細くなつて、しツかりと堅吉の手を握つて、そして足下を気を着けながら歩いて行く。

 今は全く堅吉の足下は、しどろだ。上気(のぼせ)て何事も弁じない。唯これからお柳を殺しに行くのだ、そして我も死ぬのだといふ事より他には知らない。幾度(いくたび)か石や木の根につまづき、倒れんとするをいつもお柳に支へられて居る。丸でお柳に引かれて行くのだ。お柳は酒の所為(せゐ)と思つて居る。

 沖津宮(おきつみや)を過ぎ、又石段を危くも踏んで、次第次第に降つて行く。夜は人の居らぬ茶店に入つて、お柳は休まふと勧めた。けれど堅吉は一語も発せぬ。ぐんぐんと降りかける、お柳も仕方なく降りて行く。

 (ちご)(ふち)龍燈(りゆうとう)の松、三天の岩の上の石燈籠の処まで行つて、此所(こゝ)で初めて腰を休めた。

 相模伊豆の山々は消えなんとして尚姿を(とゞ)め、海の色はハッキリと明かである。月は浪に砕け、浪は岩に砕けて居る。風は天の星と海の篝火(かゞりび)とを一所に吹寄せ、離れて居る堅吉の袖とお柳の袖とを後の石燈籠に吹付けて居る。

「あゝ涼しい」とお柳は言つて、何の心もなく海原(うなばら)を見渡して居る。堅吉は唯お柳を殺すのだ、おれも死ぬるのだ、と思つて居ても、思つて居るばかりで、今手を下すべき時であるといふ事は考へて居らぬ。

 一歩(ひとあし)踏出した絶壁の下には、凄じい音で浪が砕けて居る。益々耳がガンガン鳴出して、堅吉の思慮は全く無い。余程しばらく此儘で此所に居たが、お柳は退屈して、恐る恐る切出した「もう帰らうではありませんか、何んだか寒くなつて来ましたから」と。

 言ふたので、(とつ)と気が着き、殺すも死ぬるも今だ——今だとあわてゝ短刀引抜いて、驚くお柳の乳の下を。お柳は一声(いつせい)風笛(かざぶえ)の鳴つた様な悲叫(ひけう)を揚げて、堅吉の首にしツかりとかじり付いた。堅吉は突込んだ刀を深く深く尚力に委せて深く突込んだ。もうそれぎりでお柳はばツたりと岩の上に倒れた。尖先(きつさき)は抜出て岩の上で折れた。堅吉も一所に倒れて少時(しばらく)は起上らなかつた。

 

*       *       *

 

(おれ)はお柳に何か言聴かせて、それから殺したか知らん、何も言はなかつたか知らん」起上つた堅吉は、斯うつぶやいた。そしてそれを考出す為めに又少時(しばらく)沈んで居た。

 浪も、風も、おとろへて来た。月も影暗く雲の中に隠れた。堅吉の脳中は氷の入つた如く(すゞ)しくなつて来た。お柳の死骸をつくづく見て「お前をこんなに殺すまで、愛の度が高まつて居たといふ事を一言、いふのを忘れたと思ふ。今我(おれ)も後を追ふて行く」と言つて末だ突立つて居た短刀を引抜いて、其血を其儘拭きもせぬ。我とわが喉を貫かうとした。

 折から流星長く飛んで西方(さいはう)に消ゆ「おう、流星か。……彗星が地球と衝突すれば人類此時滅す。おそかれ、はやかれ、死は人の上に来るのだ」と放ちたるが、堅吉の最後の言、折重なつてお柳の上に血を流して死んだ。

 

(明治二十八年十月「文藝倶樂部」}

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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江見 水蔭

エミ スイイン
えみ すいいん 小説家 1869・8・12~1934・11・3 岡山県岡山市に生まれる。巌谷小波の紹介で硯友社同人となり、田山花袋とも親交。

雑多な畑で作品を残した中で、1896(明治28)年「文藝倶楽部」10月号に初出の掲載作は、日清戦後の深刻小説の一代表作として、田岡嶺雲、内田魯庵さらには斎藤緑雨の「上々吉」に極まる「傑作」として驚くほど賞賛を浴びた。いわゆる同時代評であるが、同時期の鏡花一葉らと作調に通い合うものを明らかに持っている。

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