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扶余残照

  百済の公主

 胸をしめつけられるほどの優しさで木槿(むくげ)の花は開いた。

 そして、そのときを待っていたかのように乙女は扶余(プヨ)の町に現れた。

 ふわりと広がるチマチョゴリが細い体によく似あった。透き通るような白い肌が秋の陽を受けて、白磁のように輝く。長くつややかな髪が錦江を渡る風になびく。川岸に植えられた白楊(やなぎ)よりも、しなやかに動く手足は、パンソリ(巫俗踊歌)の名手の舞姿のようであった。そして、花の精かと思えるほどの清らかさで微笑む。

「あれは天女さまの生まれ変わりだよ」

 いつも口の悪い老ムーダン(巫女)の尹祓媛(ヨン・プルウォン)が、真顔で語りだした。

「違うよ。ばあさん」

 夫の都相太(ト・サンデ)は、深く皺のよった顔をしかめるようにして、手に持った筮竹(ぜいちく)を大きく左右にふる。若いころは半島をくまなく歩いたほど健脚を誇る行商人だった。妻の仕事を真似て、今では路上で一日中、得体の知れぬ占いをしていた。

「あれは百済王家の公主(コンジュ)(王女)さまに違いないよ」

「うん、そうだ。天女さまが公主さまに生まれ変わった姿だよ」

 ふたりとも、八十歳をとっくに過ぎていたが、驚くほど元気だった。

 扶余は百済が滅亡したとき、最後の都があったところである。しかし、市場(シジャン)の女たちは、老人たちほど現実離れはしていない。

「どこの誰なんだろうね?」

「ソウルからやって来たお金持ちのお嬢さんだよ」

「婦人画報で見たことがあるよ。確か新人の映画女優じゃないのかい?」

「そうかね。最近の若い歌手とか女優は、みんな髪の毛を染めてピアスをしているんじゃないのかい」

「そうだよ。みんな似たような顔でわからないけど、あんなにしっとりとしたいい娘は女優なんかにはならないよ」

 噂はさらに広がっていった。

 天女は小さな韓式旅館に泊まっていた。一日に一度か二度、特に買物をするというでもなく、市場をゆっくりと散歩していた。売られているものは野菜、魚から日用雑貨まで山のように積まれて通路にはみだすほどである。もの珍しそうにながめるだけで、値段交渉するようすもない。

「アガシ(娘さん)、この梨をあげるよ。とっても甘いよ」

カムサハムゥニダ(ありがとうございます)

 天女の言葉に聞き耳を立てていた女たちは、たどたどしい話しぶりと、その奇妙な発音に一斉に慌てて、興奮したように周りに伝えるのだった。

「かわいそうに、あんなきれいなのに日本人だって!」

 

 やがて、女たちにうながされるように日本語の得意な韓邦根(ハン・パンクン)が質問をした。

「お嬢さん、この扶余の町に観光でいらしたのですか?」

 韓邦根はこのとき六十五歳である。いまや少なくなってきた日本占領時代の生き残りであり、流暢な日本語を話す。扶余警察の副署長をしていたのだが、定年を迎えてからは町の世話役として働いていた。

「あっ、日本の方ですか?」

「私はこの土地の者ですが、昔、日本語の教育を受けたことがあるんです」

「戦前、日本がこの国を占領してひどいことをしていたときのことですね。慰安婦問題とか、創氏改名とか、国家としてきちんと謝らなくてはいけない罪を犯したのですよね。さらに、この国の無数の人を拉致していったのですね。本当に申し訳なく思っていますわ」

 こんな若い女性の口から、こんな素直に侵略への謝罪の言葉が出てきたことに、韓邦根は耳を疑う。

(そんなわけがない。日本が、戦争教育を、こんなに立派に行なえる国になれるはずがないのに)

「お嬢さん、失礼だとは思いますが、この小さな町にどんな用事があるのですかな? 通訳でもいい、何かこの老人にでも手助けできるようなことがあったら教えていただきたいのだが」

「ええ、でも……」

「私は、決して怪しい者じゃない。五年前まで、ここの警察に勤めていたんだ。何か困ったことがあったら遠慮せずに言ってくだされ」

 退職後から長く伸ばした白い髭が、韓邦根を優しく見せていた。

「私、ふたりの友達がソウルから着くのを待っているのです」

「ほう、三人でゆっくりとこの百済の古都を見て回られるのですな」

「いいえ、私たちみんな、この街のはずれにずっと住むのです」

「ほう、どこかの大学の方でここの歴史でも勉強なされるのですかな?」

 天女は少し恥らうように首を振る。

「いいえ……。私、あとピアノが着くのも待っているのです」

「ピアノ?」

「はい、日本にいるとき毎日弾いていたピアノなのです。こんなにあのピアノから離れたことがなかったので、あまりに手持ちぶさたさなのです。でも、こんなに弾きたいという気持ちになれたのも二十年ぶりのことなのです」

「二十年?」

「ええ、四歳からピアノを弾いていましたから」

「じゃ、あなたはピアニストなのですか」

「ええ、日本の音楽大学にいました。大学院に行く予定だったのですけれど、こちらに来ることにしたのです」

「この街でコンサートを開いてくださるのですね」

「いいえ、ピアノは私の嫁入り道具なのです」

「ほお、これはたまげた。あなたは結婚するために、この国にやって来たと言うのですか」

「はい」

 つつましい返事とともに、やわらかな頬が木槿の花弁のように赤く染まる。

「さらに失礼とは思いますが、もし、よろしければあなたのように素晴らしいお嬢さんと結婚できる果報者の名前を教えてはいただけないでしょうか?」

「はい」

 そして、聞き出した名前は、韓邦根にとって、いや扶余の住民すべてにとって信じられない名前だった。

「何だって! あの崔外植(チェ・ウェシク)の嫁に来たんだって」

 大きな叫びが市場の布製のテントを揺らすのだった。

 

 若いころの崔外植は、映画俳優にしてもいいくらいハンサムだった。しかし、四十を過ぎても未だに総角(チョンガー)(独身)である。若い時から女にはよくもてたが、定職らしい定職についたことなど一度もない。働くということを知らないのに金遣いは荒く、そこいら中の人間から借金をしていた。その借金を踏み倒してはギャンブルに明け暮れていたのだ。

 何人もの女をだまし、男をだまし、老人をだまして暮らしていた。つまり、この扶余の町では誰ひとりとして知らぬ者のない「ろくでなし」であった。

「覚えているかい、去年のことだよ。崔外植はカソリックの信者の若い未亡人をだまして全財産をむしりとったんだ。そうやって、あの新しい家を買ったんだよ」

「あの家は借家だよ。あの男に、家を買う甲斐性なんてないんだよ」

「その未亡人はすぐに扶余からいなくなってしまった。あの男が殺してどこかに埋めたんじゃないかって噂は、本当かね」

「あいつには、そんな度胸はないよ。百済の男なんかじゃないからね」

 毒気に満ちた女たちの言葉を聞きながら、韓邦根は考え込んでいた。

(国籍も民族も違う、いやそれ以上に人間としての品格が、あんなにまったく違うふたりを何が結びつけたんだろう?)

 老人のおせっかいな心が動く。

「あの男は、昔から私の知り合いなんだが……」

(逮捕して留置場にぶちこんだことも一度や二度ではない。しかしどれも軽犯罪ばかりで起訴にまで持ち込んだ事件はひとつもない。少なくとも前科者ではない。逆にいえば、あの男は、それだけタチが悪いんだ)

「お嬢さんは崔外植という男のことを知らなさ過ぎるようだ。結婚を考え直す気持ちはないのかい?」

 天女が街を歩いているところを見つけて問いただす。

「私たち、もうとっくに結婚式をあげてしまっているのです」

「えっ! どこで?」

「日本と韓国のちょうど真ん中です」

(東海〈日本海〉の波間じゃないか! 波に揺られた船上での結婚式というものがあっても不思議はないはずだが……)

「どこかの船か? それとも島の上で?」

「ええ、日本と韓国の友好のためにもっともいい場所で私たちは結ばれたのです」

 韓邦根にはずいぶん謎めいて聞こえる返事だった。

「じゃあ、なぜすぐに一緒に暮らしださなかったのかね」

「ちょっとした都合で半年間は、別々に暮らさなくてはいけなかったのです。その半年がこの夏にようやく終わったのです」

「じゃあ、会ったのはまだ一度きりなのかい?」

「はい、結婚式の会場でたった一時間会っただけです」

「一時間?」

「はい」

「たった一時間、じゃ、まだふたりは……」

「ええ、私はまだ処女なのです」

 あまりに大胆で、あまりに率直な答えにうろたえる韓邦根だった。

「じゃあ、取消しもできるはずだね、その結婚を」 

「いいえ、できません。結ばれることは、もう、とっくの昔に定められたことなのですから」

(いまの日本では、こんな結婚観が流行っているのだろうか? そんなわけがないはずだが)

 韓邦根には、とうてい理解できないことでばかりである。

 

 女たちの噂は、ますます広がっていく。

「あのきれいな日本人は、あの男のことをどこまで知っているのだろう。あんな男の所によく嫁に来たものだ」

「崔外植と結婚するのなら、一生独身のままのほうがよっぽど気楽なもんだ」

「私には、どうしても納得できないよ」

 韓国の女性は自立心が強い。全然働かない男なんて誰も見向きもしない。

 ふたりが結ばれた理由を知ることができなければキムチも漬けることができない、とでもいうように、女たちはいらいらしながら市場をめぐる。

「いいかい、もし何か困ったことが起こったら……」

(絶対に問題が起こらないはずはない)

 そう確信して、韓邦根は天女の目を見つめる。

「私のところに最初に相談に来るんだよ。いいね、お嬢さん」

「はい、先生のところに必ずうかがいます」

 不思議なほどうきうきした調子で、そう答えるのだった。

 やがてあまりに立派なグランドピアノと、さらにふたりの若い穏やかな表情の日本の女性が扶余の町に着いた。そして、それぞれが地元の男との新婚生活を始めるのだった。

 そのころになると崔外植がカソリックでもなくプロテスタントでもない珍しいキリスト教に改宗したことを、女たちは知るようになる。

「あの男も気持ちを入れ替えたのかね。キリスト教徒になって少しはまともになればいいんだが……」

「あの未亡人をだましたときもカソリックに改宗したらしいから、今度も同じだよ」

 崔外植が真面目に信仰心を持つような人間じゃないことは誰もが知っていた。

「通っているのはどこの教会なんだい?」

「最近できたばかりの立派な会堂を持つ教会らしいんだけれども、そこには十字架もなくて、ずいぶん奇妙な教えを説いているらしいよ」

 やがて、その宗教に改宗するとどんな男でも日本の若い娘と持参金付きで結婚できるという噂が流れる。事実、このとき日本から渡ってきた三人の女性たちの夫は、みんな四十過ぎの独身者か、妻に逃げられた男たちばかりだった。

「崔外植は、結婚するために、そんな手を使ったんだ」

 市場の女たちは、ようやく納得する。

「お金持ちの娘らしいから、持参金だけが目当てなんじゃないのかい」

「いつまでピアノをひいて暮らしていけるかね」

「そうそう、その通りだよ。あの男と暮らしていて、いつまできれいにして、いられるのかね」

「いやいや、生きて日本に帰ることができればめっけものだよ」

 うなずく女たちの背中から、ひとりのハルモニ(おばあさん)が沈んだ声をかける。

「苦労知らずに育ったお嬢さんには、あの男は荷が重すぎるよ」

 とにかく真実を知った女たちの顔には、やっと安堵の色が浮かぶ。それは哀れみを含んだ複雑な微笑である。その若い日本人の運命を大げさに嘆いてみせながらも、間違いなくその女性がたどり着くに違いない将来が見えたからである。

 

 おおいなる不幸という将来が。

  一

七月、真夏を迎える前の扶余はよく雨が降った。

そして、梅雨の最後をしめくくるような大きな水滴が薄暗くなった窓ガラスをたたく。

(こんな晩には事件なんか起こらないだろう)

 十年前に定年退職するまで、李憲哲(イ・ホンチョル)はソウル日報の特派員として大田(タデン)で働いていた。それから生まれ故郷に戻って、扶余週報という小さな新聞を作っていた。最初ガリ版刷りの四ページから始めた新聞の評判はよかった。徐々に読者が増え、今では中古の印刷機を入れて、紙面も八ページになっていた。パン屋や焼肉屋など小さな店が多かったが、定期的な広告主もつくようになって、老人がひとりで暮らしていくぐらいの収入を得ることはできるようになっていた。また七十を過ぎた今でも、扶余の通信員としてソウル日報に、ときどき記事を書いていた。

 憲哲は朝刊の締切りにまだ十分過ぎるほど間に合う夕暮れどきが好きだった。特に目的もなく町の中を散歩するのが長年の記者生活の習慣になっていた。そぞろ歩きした市場で何気なく耳に挟んだ主婦の一言で贈収賄事件を摘発したこともあった。 

 散歩の途中で憲哲はいつものように都相太の家に寄ってみた。妻の尹祓媛が三年前に亡くなってから、ひとり暮らしになってしまった老人の穏やかな顔を見るようにしていたのだ。もっとありていに言えばボケも始まった老人が生きているかどうかを確かめていたのである。

「あれは百済の農婦だな」

 憲哲の姿を見るなり、老占い師は不思議な言葉を発していた。

「誰のことをおっしゃっているのでしょう? ソンセンギ(先生様)」

『先生』と呼ばれるたびに、寿命が延びるとでもいうかのように都相太が笑うことを知っていた。

「さっき、この家の前を通って市場の方へ行ったんだ。誰にも相手にされないんでまたバス停に戻っていった」

 今日は、にこりともしないで筮竹を左右に振る。

「えっ?」

「ずいぶんつらいことがあったんだよ。あんなに泣いていた」

 言葉に合わせるように老人の目尻の皺が動く。

「誰のことでしょう?」

「だから言ったじゃないか。百済が滅びてしまったことを嘆いている農婦なんだよ。でももともとは、百済の公主さまだったんだよ。貴い家の生まれだったんだよ。それなのにあんなみじめな姿になって、いまじゃ乞食と変わりない姿じゃないか。かわいそうに。本当にかわいそうに……」

(また老人の妄想が始まったか)

 しかし市場を通り過ぎるとき、憲哲は女たちからも同じ話を耳にする。

「変な女がバスターミナルにいるんだよ」

 ほとんど客のいない市場では、後片付けが始まっていた。

「見かけない顔だったね」

「ずいぶん汚い野良着姿の女が裸足で、何かをねだっているんだよ」

「ああ、私も見たよ。この雨の中、傘もささないで歩き回っていた」

「頭がおかしいんじゃないのかい?」

 一段と激しくなってきた豪雨が市場のテントを揺らしていた。

「年はどれくらいの女だった?」

 憲哲は口をはさむ。

「ひどく年とったホームレスだったよ」

「いいや違うね、それは。私が見たのは、ずいぶん若い女だったような気がするけれど」

(年齢不詳の裸足の女か)

 記者の習性を呼び覚ます言葉だった。

 

 家を出たときには、ふつうの降りだったのに、歩いているうちに豪雨といってもいい激しさになってきた。終バスには、まだ時間があったがターミナルは閑散としていた。激しい雨を嫌って売り子たちもいない。

(こんなみじめな動物があっていいのだろうか?)

 鎖につながれたまま何時間も雨にうたれて、背中を丸めうずくまる犬のようだった。女は、たまに道を行く人間に、しきりに何かを頼んでいるのだが無視されている。

 触るところもないほど全身が泥だらけになっているのだ。誰もが関わりあいたくはないはずだった。

「助けてください。もう戻るところがないのです」

 女の言葉に耳を傾ける者などいなかった。もし聞き取ったとしても、何を言われているのかわからなかったはずだ。

「だれか! 助けてください」

(日本語じゃないか!)

 女の顔をのぞきこむと雨に負けないほどの涙を流している。

「こんなイスラエルは、もうまっぴらなんです」

 視線が合うと同時に、ひどく汚れた布切れを憲哲の鼻先に突きつけてきた。

(やっぱり気が狂っているのだろうか?)

「エジプトに帰りたいんです」

 濡れた髪をふり乱しながら、発するのは意味不明な言葉だった。

「こんなところで若い女が何をしているんだ」

 粗末な服の裂け目から、はっとするほど白い女の胸がのぞいた。

「どうしてこんなに泥まみれになっているんだ」

「何回も田んぼに落ちてしまって」

「すっかりずぶ濡れじゃないか。さあ、このレインコートをはおって」

 コートを身につけると女はようやく泣き止んだ。

「韓邦根先生のお宅を知りませんか?」

「警察の副署長だった韓邦根のことか」

「はい」

「韓邦根は、私の古い友人だ。あんたは、あの男の知り合いか?」

「もうあの先生だけが頼りなんです。私、もうイスラエルにはいたくないんです。エジプトに戻りたいんです」

「どこへ?」

「エジプトです」

(日本人だから韓国の地名を言い間違えているのだろう?)

「さあ、このままじゃ風邪をひく。とりあえず私のうちに来るんだ」

 傘をさしかけられて歩きながら、女は再び泣き始める。

「夫がずっと私を殴るんです。毎日毎日、畑仕事や豚の世話をしていて疲れきっている私を」

(ありふれた家庭内暴力か。これじゃ記事にはならないな)

「私を蹴って殴ることだけが夫の仕事なんです」

(妻に手をあげたことなど、私は一度もない)

 憲哲はコートの上から女の肩をやさしくだきよせようする。

「あばら骨が右も左も三本ずつ折れたんです。くっついたと思ったら、また折れるんです」

(いくら何でも、それはひどい。本当だとしたら間違いなく犯罪じゃないか)

 女の頬や耳たぶには雨と泥水が混ざった水滴が残っている。長い髪が女の心の乱れそのままに横顔にくっついていた。

「それで、とうとう夫の家を出てきしまったんです。でも尊母(そんぼ)さま尊父(そんぷ)さまに申し訳なくて……でも、今はエジプトに戻りたいんです」

 女の言葉の半分も、憲哲には理解できない。

「ああ、もう一円もお金がないんです。助けてください! 私、もう行く所がないんです」

 女の目からは顔の泥をかきわけるように涙が流れ落ちる。

「ああ、尊母さま、尊父さま!」

 そう叫ぶと女はくずおれるように失神して泥のなかに倒れた。

 憲哲の二の腕には、女の乳房のやわらかい感覚が残った。

  二

 夜が明けた。いつの間にか、あんなに激しかった雨もあがっていた。

 夏ひばりのリズミカルなさえずりが部屋のなかにまでよく通ってくる。そして、その優雅な自然のメロディを目覚ましにしたように、大きな瞳をおおっていた柔らかいまぶたが一瞬のうちに開いた。

「ここは?」

 まだ泥跡の残る顔で女はゆっくりとまわりを見回す。輝く朝がやってきたことは、厚手のカーテンを、ものともしない光の到来によって感じられた。どっしりとした造りの天井の梁。それと不釣合いなほど軽やかな淡い色彩の壁紙。大きな衣装ダンスが威圧するように部屋の一面を占めていた。ゆっくり起き上がろうとすると、わずかにベッドがきしむ。耳障りな音に眉をしかめようとしたときだ。

「私は李憲哲という者だ」

 目の前に立つ男の姿に息を止める。

「扶余週報という小さな新聞を作っている。ここは私の自宅兼新聞社の二階だよ。亡くなった妻が使っていた部屋だ」

「私、どうしてここに?」

 女はおびえた子鹿のように体を起き上がらせる。

「バスターミナルで出会ったことを覚えていないのかい?」 

 泥でよごれてすっかり茶色になった服もかよわい子鹿を連想させた。

「バスターミナル?」

「まあ、いいだろう。ところできみの名前は?」

 女は警戒したように口をつぐむ。

「ああ、言いたくなかったらいいんだ。でも昨夜のことを本当に覚えていないのかい?」

「何も覚えていません」

 そう言いながら、まだ泥のこびりついている両手に驚く。爪先には真っ黒い汚れが染みこんでいる。

「あっ、シーツをこんなに汚してしまって」

 家のなかにあるだけの手ぬぐいで汚れをふき取って、さらに何枚ものバスタオルで体の水分を吸い取ってから、女をベッドに休ませたはずだった。だが繊維の奥にまで染み付いてしまったような衣服の汚れはどうしようもなかった。上着のボタンは半分以上取れていた。どうやら、かすかに赤い色だったらしいとわかる。そしてチョゴリパジ(ズボン)は、元はどんな色をしていたのか、想像もできないほどである。

「いいんだ、気にしなくても。また洗濯をすればいいんだから」

 長い髪には、乾いて白くなっていた土がこびりついていた。

「さっき風呂をわかしたから、ゆっくりと入って体や髪を洗うといい。衣装タンスのなかに妻の着ていたものがある。どれでも好きなものを選ぶといい」

 女は体を大きく曲げるようにしてうなずく。破れてしまったチョゴリパジからは白い太ももがのぞいた。

 入浴したあと女が選んだのは、とりわけ地味なベージュのワンピースだった。

(着道楽の妻が残した華やかなドレスが多くかかっている中から、どうしてこんな無地のものを選んだのだろうか)

「遠慮しなくていいんだよ。もっと派手な服を選んでも……」

 そう言いかけて、汚れの落ちた女の、あまりに清楚な姿に息をのむ。

(三十年前、初めて出会ったころの妻は、こんなふうに好んで地味な色のドレスをよく着ていた)

 女は、そのときの妻よりもずっと若くて、ずっと美しかった。

 

「こんなものしか用意できないんだがいいかな?」

 憲哲は女の前にクルミの入った朝粥と白菜キムチを差し出す。

「とっても、おいしいです。他の人に朝ごはんを作ってもらったのって何年ぶりかしら」

「きみは日本人なんだろう? どこから扶余にやってきたのかね」

「聖書(むら)から来ました」

「聞かない名前だが……」

「鶏竜山の山奥に教団の人たちが作った邑なんです」

 ためらいがちに小さな声で答える。

 韓国の人間なら誰でも鶏竜山のことを、よく知っている。扶余の東方四十キロにあり、李朝時代に書かれた予言書『鄭鑑録』の中でソウルの次に都になる所とされていた。風水地理的にご利益(りやく)があると信じられたためであろうか、多くの新興宗教がそこに拠点を設けていた。

「教団というと?」

 女は、はっとして口をつぐむ。

(何か深い事情があるようだ)

 憲哲は鉄箸とスプーンを女の前にゆっくりと並べた。

「夕陽がとってもきれいな所なのです」

 女は遠くを見る目になる。

「そんな遠くからどうやってここまで来られたんだね?」

「論山の町まで歩いて、そこからバスに乗ってきました。でもバスに乗っているあいだに気が遠くなって……どうしても次のバス停が『四谷三丁目』のような気がして」

「四谷?」

「ええ、東京にいたころは毎日乗っていた地下鉄の駅の名前です。そう……急に自分でも自分のいる場所がわからなくなって……。それからのことはどうしても思い出せないのです」

「きみは韓邦根とはどういう知り合いなんだね?」

「韓先生のことを、私、話ました?」

「そうだよ。夕べ、ずぶ濡れになりながら」

「もう、あの先生だけが頼りなのです」

 昨晩とまったく同じ答えに軽く嫉妬の気持ちがわいていた。

 女の目がうるみだす。

(また泣き出されては困るな)

「ここ一年ぐらい会ってはいないが、韓邦根は元気なはずだ。家には電話しておいた。留守だったが伝言を頼んでおいたから、じきにここにやって来るだろう」

 すかさずかけた声に、女は軽くうなずいていた。

 

 昼食は、階下の居間兼食堂でゆで卵入りのラーメンを出した。

「ラーメンは大好物です」

 女は初めて入る部屋をもの珍しそうに見回す。

 ここも、天井の太い梁はむきだしになっていた。台所との境には黒光りするようなケヤキの食器棚があった。白い皿と器が整然と並んでいる。壁は四面ともケヤキの板壁である。風景画の油絵などがかかっていれば、とても落ち着いた雰囲気の食堂になるはずだった。しかし妻を亡くしてから、ここは新聞社の資料室にもなっていて、無骨なスチール製の棚が並んでいて、ファイルが雑然と押し込まれていた。もちろん食器の数よりも、ファイルの数の方が多かった。

「きみの名前をまだ聞いていなかったが……」

 女がスプーンを口に運ぶとき何気ないふうに憲哲は尋ねた。

「新井吉江と申します」

 小さな声が曇ったスプーンに反射した。

「偶然だね。私も昔、『新井』という苗字だったことがある」

 戦前のいまわしい記憶がよみがえる。

「日本人がこの国の人にしたことでも最も恥ずべき『創氏改名』のことをおっしゃられているのですね。韓国の人にとって、もっとも大切な苗字のことも本貫(ほんがん)のことも知らないで、勝手に日本風の名前をつけるなんて、どんな刑罰よりも人の心を切り裂く残酷なことだったんですよね。占領地の住民の名前を変えるなんて、世界のどこの歴史を見ても、どんな非道な支配者さえも、なし得なかったことなのですよね」

 この予想外の答えには、度肝を抜かれる。

(どうして、こんな答えが日本人の口から出てくるんだ)

「き、きみの韓国名は?」

 動揺のあまり憲哲の喉の奥で言葉がひっかかるほどだった。

「金吉江といいます」

「吉江さん、そのうちでいいからゆっくり聞かせてくれないかな。どういう事情があったのか。いや決して記事にするなんてことはしないから安心して」

「社長さんは、日本生まれなのですか?」

「社長さんはやめてくれ。社員はゼロ。記者と雑用係、印刷、配達もみんなひとりでやっているのだから。李さんでいいよ」

「李憲哲さんの日本語は本当に素晴らしい発音です。日本生まれなのですか?」

「日本にいたことはあるよ。名古屋にね」

「名古屋ですか……。一緒に韓国に渡ってきた友達のひとりが名古屋生まれの人でした」

 日本の中部地方随一の大都会である名古屋で、憲哲は九歳から十四歳までの多感な少年時代の五年間を過ごしていた。

(戦争中の貧しく苦しい時代だった。だが両親も元気でできるかぎりのことをして愛情を注いでくれていた。近所に住む同胞の仲間は、いい人間ばかりだった。でも学校では日本人の同級生にひどくいじめられたものだった)

 食堂の窓から、さらに明るい光が差し込んでくる。空も水色に変わっていた。いよいよ梅雨が明けたようだった。

「そうだ。思い出したよ。きみの持っていた布の包みはここの下に置いたままだった」

 真四角でどっしりとしたケヤキのテーブルの上を軽くたたき終わる前に、吉江はテーブルの下をのぞきこんだ。体をかがめてボロ布をつかみ出す。そして指が白くなるほど強くにぎりしめるのだった。

(いったい何が入っているのだろう?)

 呼吸を忘れたかのように、その包みを見つめる。やがて大きなため息とともに、空ろな目でゆっくりと部屋の中を見回すのだった。

「あっ、ピアノ」

 吉江は突然、息をのむ。部屋の隅に置いてあるアップライトのピアノを見つけたのだ。

「妻が弾いていたものだ」

 ピアノの上にも資料ファイルがうず高く積まれている。

「私、日本の音楽大学のピアノ専攻科にいたのです」

「ほう、ピアニストを目指していたのかね」

「ええ、プロとして活躍できればと思っていました。個人的に小さな演奏会も開いていました。卒業前にはワルシャワにも行きました」

「ポーランドの?」

「はい、そんなにすごいことではないのですが……ショパン・コンクールに出て、二次予選も通過しました」

「ほお」

「でも、そのころから、自分の心の中で何かが叫びだしたことに気がついたのです。音楽大学を卒業して、いよいよこれからさらに自由に弾けると思っていたのですけれど……。がんばって練習もしていたのですが、どこか音が空回りしだしたのです」

「音が空回り?」

「ええ、うまく言えないのですが……、そうフォルティッシモから始まるリストのピアノコンチェルトの第一楽章の感動的な出だしを私は誰に聞いて欲しいのかしら? チャイコフスキーのコンチェルトのロシアの大地そのものから湧きあがってきたような感動的な第一主題、モダンジャズのように前衛的な第二主題の、あまりにみごとなコントラストを誰が理解してくれているのかしら? そしてグリークのピアノコンチェルトの第一主題の変奏部分のアンダンテの長い旋律を誰が聞いてくれているのだろう? と思うようになりました」

「うむ」

 憲哲は腕を組む。

「『神様が聞いてくれているじゃない』教会の人からそう言われたときに私は衝撃を受けたのです」

「そこが、今、きみの入っている宗教団体なんだね?」

 吉江はボロ布をさらに強くつかむ。

「ええ、そして私はすぐに結婚をすることを勧められました。そのときは私もなぜか無性に純白のウェディングドレスを着たくなっていたので、ためらうことなく教会の人々の言葉に従いました。そして、命のある限り、身も心も夫のために尽くすと神さまに誓ったはずなのに……でも今はどうしても聖書邑に帰る気にはなれないのです。こんな風に大切な教えを裏切ってしまって……でも、どうしても」

 長く話しているうちに、また吉江の瞳は涙でうるんでくる。

「つらい気持ちはわかるよ。これでも、私は三十年前には、小さなキリスト教会の副牧師をやっていたこともあったんだ。でも、どうしても食べてはいけないので辞めて新聞社に入ったんだ」

「牧師先生だったのですか!」

 憲哲を驚きの目で見つめる。

「『人はパンだけで生きるものではない』と説教しながら、その日その日をどうやって食べて生きていこうかと、パンのことばかり考えていたのだから失格牧師だよ。いつの間にか布教への熱い情熱も消えた。大きな声では言えないけれど、もうクリスチャンでもない、と思っている。今でも、ときどき教会には通っている。それは昔馴染みと熱い人参茶を飲みながら話ができるからだけなんだ」

 そう言いながら吉江のコップにも高麗人参茶を注ぐ。

「私は小さいときからピアノだけを習わされてきたのです。最初、譜面通りに間違いなく弾くことから始まったのです。やがて譜面の奥にある音楽性を求められるようになります。そしてさらに作曲者さえ感じなかったほどの独創性も。わたしが上手くなるたびに両親は喜んでくれました。聴衆は万雷の拍手を送ってくれます。でも、私の音色の奥に含まれている孤独な響きを誰も知っていてはくれないのです。教会の人はその音色を使って奉仕することを教えてくれました」

「うん、音楽の奉仕はどこの教会にとっても欠くことのできない大切なものだからね」

(涙を流すほど妻は感動していたが、副牧師のときも私は惰性で聖歌を歌っていただけだった)

「扶余にも弾きなれたグランドピアノを持ってきたのですが……。小さな家には、とても入らないと、教会に無理やりに寄付させられてしまいました。それでも、この町に住んでいたときには、毎週、礼拝で弾くことができたのです。でも三年前に山奥に引きこもってしまってからは……」

 瞼の縁から涙は、あふれそうになっている。

「毎日聞いていたグレン・グールドのショパンとか、日本から持ってきたCDはみんな、この町で夫に売り払われてしまったのです。モーツァルトのレコードも一枚残らず割られてしまいました。聞きたくない音だって……廃盤になってもう二度と手に入らないと言われていたフルトベングラーのチャイコフスキーのコンチェルトのレコードも粉々にされてしまったのです。そのときは私自身が粉々になったような気分になって……」

 いとおしむように、吉江はボロ布をほどく。口を固くむすばれたビニール袋のなかには黒い表紙の本が何冊か入っていた。

「私の手元には、この譜面だけが残ったのです」

 キムチの匂いが広がる。

「すいません。夫に見つからないように、キムチの壷の下に隠しておいたものですから、臭いがついてしまって……」

 黒い表紙をめくって、一頁ずつゆっくりと楽譜を目で追う。譜面を追ううちに指先が自然に動いていた。

「お願いです。どんなことでもします。しばらくここに住まわせてください」

(若い女性を何日も泊める、というわけにはいかないんだ)

 憲哲が断わりの言葉を出す前に、吉江はつぶやき始めた。

「イエスさまにもそむいてしまって・・・…神の結びつけたものを人が分けてしまって……教会の人に連れ戻されても仕方ないことをしてしまって」

 懺悔の言葉とともに、涙が頬を流れ落ちる。

「扶余の町に住んでいたときには、家のなかに、しょっちゅう見知らぬ女の人がいました。そして裸になって夫と寝ていました。でもまだそれは許せました。でも、あのことがあってからは……」

(夫の不倫よりも許せないことがあるとは!)

 女は憲哲が予想していたよりもずっと複雑な事情を抱えているようだった。

「何があったんだね」

「言いたくありません」

 吉江は、しっかりと硬く口をつぐむ。どんなことがあっても話すまいと誓ったように。

「きみの堅い信仰を揺るがすようなことだったんだね」

「神さまが選んでくれた人なのですから従わなくてはいけないはず……」

「口では、そう言っているけれど心はそう思ってはいない。だからきみの体は、この町のバスターミナルに向かってきたんだ。そうじゃないのかい」

「アイゴー(哀号)」

 沈んで押し殺したような叫び声だった。

 憲哲は軽い衝撃を受けていた。

(こんな風に「アイゴー」と叫ぶ女性は韓国にはいない。みんな力いっぱい張り裂けるような叫び方をするものなのに)

「アイゴー」

(そうか。大声で叫んだとたん、きみは夫に殴られていたんだね)

 何度も何度も、そういう叫び方をしていたのだろう。韓国人の誰にもまけない発音だった。

  三

 扶余週報の題字は忍冬(にんどう)(スイカズラ)の花をデフォルメしたデザインで縁取られていた。長い冬が終わり、毎年三月になると、扶余では、その枝先に銀白色の可憐な小さな花が開いた。

 憲哲は少年のころから忍冬の花が好きだった。

「いいかい、この木が厳しい冬を枯れずに越して、このきれいな花が咲いたように、日本に占領されているこの苦しい時代もいつか必ず終わるときが来るんだ」

 幼いころ、春が来るたびに、父は確信に満ちた口調で語りかけてくれていた。

 憲哲の両親は扶余の町外れにある宮南池の近くに広い土地を持っていた。幾人かの小作人も雇い、米と麦を植えていた。そのほか野菜や果物など手広く農業を営み、恵まれた環境の中で穏やかに暮らしていた。しかし、日本の植民地政策で農地を奪われると、生活はとたんに苦しくなった。

 日本人の地主から、重い小作料を取られ、借金は増えていくばかりであった。そのころ『日本では食べ物も豊かで、誰もが楽しい暮らしをしている』という記事が連日のように新聞に載るようになった。それを信じた両親は、一九三八年(昭和十三年)、憲哲と生まれたばかりの妹を連れて日本に移住したのだった。

 住まいは、名古屋の港湾の堤防工事の飯場小屋だった。初めは一介の作業員として土砂を運ぶ作業をしていたが、責任感も強く指導力もあるところから班長として一区画の作業をまかされるまでになっていた。朝鮮人として初めてのことだったらしい。

 住まいも小屋から一軒屋になっていた。憲哲には、このころ母も一緒になって、妹と鞠遊びをした楽しい記憶があった。

 しかし、ある日、半島から渡ってきた同胞が三人も生き埋めになる事件が起きてしまった。

「作業員を助け出すまでは工事を中止するべきだ!」

 父が激しく現場監督に食ってかかったのである。

「埋まったのは朝鮮人じゃないか。いいかよく聞けよ。この堤防は、南方にいる天皇陛下の軍隊へ食料を届けるための貨物船の埠頭を守るためのものなんだ。恐れ多くも天皇陛下のお仕事なんだぞ!」

「埋まっているのも、その陛下の民じゃないのか! 助け出してから工事をしないでどうするんだ!」

 あとで聞いたところによると父の抗議は、三時間も続いたらしい。しかし結局、警官がやってきて父は捕まり、作業員の沈んだ場所の上には、どんどんと大きな岩や土砂が埋められていってしまったのだ。

 三日後、全身アザだらけで父が警察から帰ってきた。班長を解任され、すぐに住まいは元の飯場小屋に戻ってしまった。

「あなた、立派なことをしましたね」

 母は、おだやかに笑って父をほめるのだった。

 戦争末期の一九四四年(昭和十九年)春、栄養失調で体調を崩した妹を心配した父は「田舎に行けばいくらでも食料はある」という噂を信じて、名古屋を離れることになった。生き埋め事件以来、警察に父はたびたび呼び出されるようになった。そして工事現場にいづらくなったのも理由のひとつだった。

 一家四人は、すし詰めの満員列車に揺られ、広島県の山奥の小さな村に移住した。しかし、その住まいは、養蚕所の一角をムシロで区切っただけの小屋であった。

 両親と十五歳になっていた憲哲は、小作人の下働きとして、やせた土地での稲つくりと、養蚕所や養鶏所の世話をする仕事を割り当てられた。わずかな配給と、食べられそうな草の葉や木の根を食料にあてて、飢えを凌ぐ毎日であった。

 台風が来たときなど、文字通り小屋ごと風にまかれて吹き飛ばされそうになっていた。雨漏りというにはあまりに激しい水滴に打たれて家族全員が全身水浸しになっていた。地主の農家の石垣が崩れ、小屋のなかにまで石が流れてきていた。その中のひとつに真っ白い丸い石があった。赤と黄色の筋が周りにきれいに入っていた。

「手鞠みたい」

 鞠遊びが大好きだった妹が目を輝かせた。

「これは我が家の守り神にしよう」

 妹の声を聞いて、母はにこやかに笑うのだった。

 しかし、そのころから妹はすこしずつ体力をなくしていって、やがて起き上がることもできなくなっていった。

 養鶏所では、多くの鶏が毎日たくさんの卵を産んでいた。

「娘のために生卵をひとついただけないでしょうか」

 母が、農家の主婦に泣いて頼んでいた姿を今も思い出す。

「これは兵隊さんが食べるものでうちの者も口にはしていないんだ」

 それが嘘だということを知っていた。その家の子供たちが毎日のように食べていた卵の殻を、また鶏の餌に混ぜる仕事も母がしていたからである。

 名古屋にいたときよりも悲惨な状況の中で妹は衰弱し、初雪が降り始めたころ、わずか六歳で亡くなってしまった。

 妹が死んでから、申し訳なさそうに生卵が届けられた。

「アイゴー」

 それを見ながら、泣き叫んだ母の声は、いつまでたっても忘れられないものだった。

 どんなに苦しいときにも愚痴ひとつこぼさず、明るくほがらかに笑う母は、その日からいなくなってしまった。むっつりと押し黙り、ときどき目頭を押さえて、あの白い石を置いただけの妹の墓の前でたたずむようになっていた。

「忍冬の花を見たくなったな」

 どんなときにも弱音なんか吐かなかった父も独り言をいうようになった。

「扶余の夕陽をもう一度、見たいよ」

 母の独り言も多くなっていた。

 ある日、その母が狂ったように叫んで農家の主婦をののしっていた。

 妹の墓石が突然消えてしまっていたからだ。台風で崩れた農家の石垣のどこかにはめ込まれてしまったらしい。父も母と一緒に激しく抗議してくれるに違いない、と憲哲は期待した。しかし、力なくうなだれるようにして母の後ろにたたずんでいるだけだった。

 憲哲は知らなかったが、このころから血を吐くようになっていたのである。

 大晦日には母も大喀血した。ふたりの看病をしながら一九四五年(昭和二十年)の正月を迎えたのである。

「ひとつだけでいいですから、父と母のために生卵をください」

 農家の主婦に、そう頼むことが憲哲の日課になっていた。毎日、毎日頼んでも答えはいつも一緒だった。

「これは兵隊さんが食べるものでうちの者も口にはしていないんだ」

(こんな所では医者にかかることや薬をもらうことなど夢のまた、夢じゃないか)

 憲哲はその悔しさをどうすることもできなかった。

「広島の街中には朝鮮人にも親切にしてくれる医者がいる」と、いう話を聞いて、憲哲は、ひとり広島まで歩いて出かけることにした。一袋でも薬をもらえればそれでいいと思ったからだ。しかし、そのような話自体が当てにならないことを、いつくもの峠を越え、丸一日以上も歩いて広島の街に入って気がついた。

 空腹でさまよっている憲哲を助けてくれたのは忠清道から徴用されてきたという多くの朝鮮人の同胞だった。同じ本貫の人とめぐり会い、餅を分けてもらったときには天にも昇る気分だった。そして飛び上がるような足取りで両親のもとに帰ったのだった。

 しかし、あまりに衰弱した両親はもう、それを味わう体力さえなくなってしまっていた。そして以前住んでいた名古屋の街が大空襲で灰燼になったころ、父と母は相次いで亡くなってしまった。

 妹の墓の横に、憲哲はひとりで穴を堀って、すっかり痩せて小さくなった両親を埋めるのだった。

「うちの子に結核が移るから、すぐに出て行ってくれ!」

 ひとりぼっちになってしまった憲哲の背中にあびせられた罵声である。

「僕は元気です。病気じゃないです。何でもしますから、ここに置いてください」

「うるさい、朝鮮人が! 結核菌のうじゃうじゃいた小屋には、これから火をかけるぞ」

 憲哲は泣きながら、両親と妹の墓をあとにしたのである。

 どこにも行くあてなどなかった。

「しまった!」

 広島に向かう小さな峠の上で憲哲は叫び声をあげた。墓の上に目印のための石ひとつさえも置かなかったことに気づいたからである。しかし、途中まで戻ろうとした足は、あるものを見て止まってしまった。自分たちの住んでいた小屋が村人の手で本当に燃やされていたのである。その煙は、空高く上がっていく。

(あの煙こそ、父と母と妹を火葬した煙なんだ。三人はあの煙に乗って仲良く天国にまで上っていくんだ)

 憲哲は、そう思うことにした。そして、もう二度とこの村に戻らないと決めるのだった。

 

 たどりついた広島の町では、意外にもそれほど飢えに苦しむことはなかった。空襲もない、にぎやかな街で朝鮮人の同胞とともに、いろいろな仕事をすることができたからである。そして十六歳になった憲哲は両親と妹の墓参りをすることを思いついた。八月六日のことである。

 墓参りといっても、あの悲惨な思い出のある村に行くのではない。村を見渡せる峠までいって、そのあたりに咲く野のユリでもつんで、形だけでも供養してやりたいと思ったのである。

 広島の市街を出て最初の峠の上にはカッコウのさえずりが響き、柔らかな南風が吹いていた。

(自然のなかには朝鮮人とか、日本人とか、どんな差別もないじゃないか)

 ヤマユリの花の茎に、ヒルガオの薄紫の花びらがかかる。

(どうしてあの農家のおばさんは、毎日、何十個も生まれるうちの、たったひとつの生卵も恵んでくれなかったのだろう?)

『あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい』

 突然、空のかなたからそんな声が聞こえてきた気がした。まだ小学校にあがる前、憲哲が通っていた日曜学校で若い牧師から聞いた聖句である。

(急に、どうしてこんな言葉を思いついたのだろう?)

 その言葉を聞いていたころの憲哲は幼すぎて、まだ『迫害』という意味がわからなかった。いま体の芯までその意味がわかるようになっていた。

 白い雲が浮かぶ空と、その下にあるこれから向かう峠をながめようとしたときである。

 すさまじい衝撃音に背中を押されるようにして、憲哲は、ツユクサの花の群れのなかに倒れていた。

(雷に打たれたんだ)

 最初は、そう思った。

 そして立ち上がって後ろをふりむいた。見たこともないほど大きな入道雲が広島の街全体を覆っていたのである。それが原子爆弾であるということを、まったく知らなくても、恐ろしい新兵器が使われたことぐらいはわかった。

(忠清道の人たちを助けなきゃ)

 駆け下りていって憲哲が見たものは、まさに地獄であった。そして助けるべき同胞の人たちがみな炭のように焼けこげてしまっている姿を見たのである。

 しばらくたって憲哲も喀血すると、激しい疲労で立ち上がれなくなった。

(父や母と同じように僕も結核で死ぬんだ。そして煙になって天国に行くんだ)

 原爆症のことなど誰も知らないときだった。

 わずかに生き残っていた同胞の人の手によって、ある教会に運び込まれたのも、無縁仏として葬られるのはしのびないという理由だった。だが幸運なことにも、そのキリスト教団に付属する診療所で、憲哲は手厚い看護を受けることができたのだった。

 秋の終わりを迎えるころには奇跡的に健康は回復していた。しかし、寝込んでいる間に、大日本帝国は無条件降伏していて、憲哲は突如、外国人にされてしまっていた。

 それからは、あまり空襲されなかった小倉の街に移り、同胞の仲間とともにあらゆる仕事をしたのだった。さらに筆舌につくしがたい苦労をして半島に引き上げてきたのである。  

 二回目の光復節を迎えるころ、ようやくなつかしい扶余の地を憲哲は踏むことができた。八年ぶりの故郷である。しかし、親戚も離散し、もともと持っていた土地も忍冬の植えられていた実家も、みんな他人に取られてしまっていた。

 小倉にいたとき「マッカーサーによって、天皇陛下が死刑になる」という噂が流れた。生まれた時から、皇民化教育を受けていた憲哲は、ちょっぴりかわいそうな気がした。しかし結局、天皇は命どころか何一つ失うこともなく、相変わらずのんびりとした顔で暮らしているようだった。憲哲はやさしい両親の愛も、妹と鞠遊びをする楽しい時も、何もかも、本当に何もかも失くしてしまっていた。

 憲哲を迎えたのは、赤茶けた大地からわきあがる乾いた空気と扶蘇山の上を流れる白い雲だけだった。

  四

 明るい日差しの中で若葉の緑も日々濃くなっていく。二日目になって、吉江は淡いグリーンの芙蓉の花模様のワンピースに着替えていた。シックな革のベルトもよく似合った。何着もある妻の残した服のうちでも憲哲がもっとも好きなものだった。少し落ち着きを取り戻してきたようすの吉江に、憲哲は朝粥を作って出した。久しぶりに作った目玉焼きは形がゆがんでいた。

「キムチの味はどうだね。何かほかに欲しい食べ物はないかね?」

「いいえ、こんなに親切にしていただいて……」

「体の具合はどうかね? どこか痛む所はないのかね?」

 何本もアバラ骨を折ったと聞いたことは、吉江には伏せていた。その話を切り出すだけで、きっとこのおだやかな空気はひどくかき乱されてしまうのではないかという不安があったからだ。

(普通の人間の一生分の涙を一晩で流したような泣き方をこの女はしていた。もうこれ以上、一分でも泣く姿を見せることはないんだ)

「どこもありません」

 明るい笑顔に安心して階下の新聞社に降りていくと、韓邦根がどっかりとソファーに腰をおろしてタバコをくゆらしていた。

「おお、まだ生きていたか」

「ああ、お前も相変わらずのようだな」

 韓邦根のがっしりとした体格から出る低いしわがれ声も変わっていなかった。

「伝言を聞いてくれたんだな」

「伝言? そんなもの知らんぞ。今週は、ずっとこの近くの寺回りをしていて家には戻ってないからな」

 白くゆったりとしたチョゴリパジの足を鷹揚に組みかえる。

「いいご身分だな」

「これまで犯罪者を何人も捕まえてきた。そのうちの何人かは冥土に送っている。そいつらの冥福を祈ってやらないといけないからな」

「そうだな。お前も冥土に行く日がどんどん近づいてきているからな。地獄で殺人犯とばったり出くわすかもしれないからな」

「何を言っているんだ。おれは天国に行くからそんなやつらとは会うはずがない。おまえこそ、間違った記事で何人もの人間を傷つけてきたんじゃないのか」

「ははは、相変わらず口が悪いな」

 ふたりは小学校以来の悪友である。

「ところでお前、ソウル日報の朝刊を読んだか」

「何かおもしろい記事でも見つけたのか」

「うむ。これ読んでみろ」

『在韓被爆者への日本政府の国家補償を要求』

 差し出された切抜きの見出しの文字だった。

「おまえも広島でやられたんだろ?」

「興味はない」

「いくらかの現金と医療の援助を受けられるかもしれないと書いてあるぞ」

「金なんか、欲しくない」

「マスコミ人のひとりだろう。まして当事者じゃないか。扶余週報におまえの体験を書いてもいいんじゃないか?」

「ここの新聞社では外交問題と宗教関係の記事は載せないんだ。政治的な記事があったとしても地元の話題だけだ。それに……」

「なんだ」

「広島に平和公園ってあるのを知っているか?」

「いや」

「その公園には被爆者の慰霊碑がある。毎年八月になると日本の首相が平和を祈りに来るところだ。ところが墓誌のなかには韓国人の名前はひとつもない。韓国人の墓誌は公園のはずれの粗末な碑のなかにあるんだ」

「それは知らなかった」

「同じように放射線を浴びて、同じように火傷を負って死んでいったのに、半島の人間は差別を受けている。いいか、死んでしまってからも、魂だけになってしまってからも差別され続けているんだぞ。それを聞いて日本という国には絶望した。本当に絶望した。日本から援助など受けたくはないんだ」

 無数の焼け爛れた同胞の姿を見た人間にしか言えない迫力である。

 韓邦根は、新聞を丁寧に折りたたむと胸元にしまっていた。

「わかったよ。おまえ体調はいいのか」

 憲哲の顔色をちらりと見て、タバコを深く吸いこむ。

「おかげさまでな」

「お互いに女房を冥土に送って何年になるかな?」

 韓邦根は大きなため息をそのまま形にしたようなタバコの煙を天井に向かって噴き出していた。そしてふいに鋭い目つきになる。

「若い女を泊めているらしいな」

「どうして知っているんだ」

「裸足でずぶ濡れの女を連れ込んだらしいじゃないか」

 狭い町には、もう噂が広がっていたのだ。

「誤解するなよ。雨の中、半狂乱で泣き叫んでいたんだ。しかも叫んでいたのは、お前の名前だ」

「いいかげんなことを言うな」

「いや、嘘じゃない。会えばわかるはずだ。そのまま放っておいたら自殺でもしかねない様子だった。あんな悲惨な人間の姿を見たのは、北が攻めてきて大田の街を占領したとき以来だ。あまりに寒そうなので、ここに保護してやっただけなんだぞ」

「プロテスタントの博愛精神ってやつかね」

「キリスト教徒は、もうとっくにやめているよ」

 長年の友人は、自嘲的な言葉を軽く聞き流してくれることを知っていた。

「ああ、そうだったな。ところで女の名前は?」

「金吉江っていう日本人だ」

「おいおい、そりゃとんでもないのを拾いこんだな。崔外植の嫁じゃないか」

「あの崔外植のか? このごろ噂を聞かないが堅気になったのか? それとも刑務所に入ったのか?」

「その両方でもない。白馬連合会の幹部の奥さんと密会中に、その幹部に現場を押さえられて、二度と見られない顔にされたというもっぱらの噂だ」

 白馬連合会とは、このあたりを支配する闇の組織だった。

「そりゃ、災難だったな」

「今から三年前のことだ。背骨を折られて、もう二度と歩けなくなったという話も聞いた。この町には住めなくなって、年老いた両親と一緒に鶏竜山の奥に逃げていったらしい」

(きっとそこが聖書邑と呼ばれている所なのだろう)

 憲哲は軽くうなずいていた。

「お前は、いつ金吉江に会ったんだ?」

「もう何年前になるかな。この扶余に来たばかりのころだ。それはそれは、いい女だった。ところで、おまえ宮南池の近くにある立派な会堂を知っているか?」

「立派でない会堂なんて扶余のどこにもないぞ」

「確かに、そうだな」

 韓国は、いまではキリスト教国といってもよいほど、イエス・キリストへの信仰が盛んになっていた。そして、どんな小さな町でも荘厳な会堂が建てられるようになっていた。扶余ほどの町になると、それぞれの宗派が争うように会堂を建て、歴史的な古い景観の中では、やや目障りになるほどであった。荘厳なたたずまいのカソリックの教会のほかに、プロテスタントは、それぞれバプティスト派、メソジスト派、ルーテル派、長老派などが教会を持っていた。また独立派の教会もいつくかあってどこも十字架を高く掲げていたのである。

 

 わずかに開け放たれた窓にかかるカーテンの隙間から、ホトトギスの甲高い鳴き声が響いてきた。韓邦根は二本目のタバコに火をつける。

「そうだ、思い出したぞ。金吉江はスタンウェイとかいう立派なグランドピアノを日本から持ってきて、あの会堂に寄付したはずだ。あのころは、まだキリスト教の一派だったんだが、あまりに教えがおかしくなり過ぎて、破門というか異端宣告されたんだ」

「そこに、あの日本人の女が信じる神様がいるというわけか」

「そのころは、まだ『出エジプト派』という名前は名乗っていなかった」

「『出エジプト派』だって?」

「そうだ、いま正式には、『出エジプト派三ツ星教団』っていうんだ」

(吉江が『エジプト、エジプト』としきりに言っていたのは、そのせいか。確かに旧約聖書には『出エジプト記』という一章がある。モーゼに率いられたイスラエルの民がエジプトを出て、紅海を渡り約束の地にたどりつくまでの物語である。おそらく、そこから採ったんだろうが……)

「ずいぶん変わった名前の教団だな。三ツ星というのはどういう意味なんだ?」

「おれも詳しくは知らない。どこの教会の会堂でも屋根の上にある十字架がなくて、三ツ星のマークになっているんだ。初めて見ると、ちょっと驚くぞ。どちらかというと、このごろ増えてきた新興宗教の一派なんだろうが、どういうわけか、この扶余の付近が『約束の地』ということになっているらしいんだ」

「金吉江は『イエスさま』と言っていた。やっぱり聖書を元に教えを広めているのか?」

「やつらは、そう主張している。だが、はっきりいって異端も異端、完全にカルト教団の部類に入るだろうな」

「ふーむ、カルトか」

「ちょっと始末が悪いだろう」

「何をしでかすかわからない人間を何人も抱えている、というという所もあるらしいからな」

「日本には『オウム真理教』というすごいカルト教団があっただろう。洗脳された信者たちは、殺人なんて屁でもないっていう教祖に誰も逆らえなかったんだからな。『出エジプト派教団』も、ここ二、三年で教えが急に世間離れしてきたんだ。まともな人間なら、いつまでもあんな異常な世界に耐えられるはずがない。きっと、その教義から逃れようとするようになると思っていたが、やっぱりそうなったか」

「その出エジプト派の教義を信じて日本から、やって来た女性というのは何人ぐらいいるんだ?」

「はっきりした数はわからないが、扶余の周辺に嫁に来た日本人の女たちは、二十名は下らないぞ」

「二十人もか」

 憲哲のため息を吹き飛ばすように、さわやかな初夏の風がカーテンを揺すりながら部屋を通り過ぎていく。

「彼女たちは、生活習慣や言葉の違いなど一切のカウンセリングも受けることはないんだ。東京育ちのお嬢さんがいきなり韓国の田舎の暮らしをすることになってしまっているんだ。いろいろ悩みを抱えても、教義に従ってきたのだから教団の人間には表立って相談もできない。そこで日本語の得意な、我々の世代の人間に相談を求めて来るようになったんだ」

「ふーん、それは知らなかった。面白い話だな」

「憲哲、おまえ新聞記事にするつもりじゃないだろうな。まあ、いいだろう。ここ半年でさらに人数が増えてきている。この忠清道全体では、ひょっとすると二百人ぐらいには、なっているのかもしれない」

「そんなにたくさんか」

「うん、中にはノイローゼ気味になってしまっている女性もいるようだ。聖書では離婚を禁じられている。それに、もちろんどんな悲惨な状況でも自殺は禁じられている。だからよけいに苦しいのかもしれないが……またひとり、そういう女が出たか」

「またひとりというと?」

「三か月ほど前にも、警察に保護を頼んできた日本人の女がいたんだが……そうだ。お前、金博仁(キム・パクイン)のことを覚えているか?」

 昔、教会にいたころ日曜学校で教えたことがある子供の名前である。

「ああ、素直ないい子だった」

 聖書の逸話を、紙芝居や人形劇にしてわかりやすく教えるのが日曜学校であった。あとはお菓子を配り、聖歌を歌って終わる。楽しい時間を通じて、子供たちを信仰に導く行事であったが、教えることよりも幼い心の純粋な輝きに教えられることも多い憲哲だった。そして、多くの純真な子供たちと接することができたことこそ、副牧師時代の一番の楽しい思い出になっていた。

「ソウル大学に進学して、今は大田で弁護士をやっている。すごい高級車に乗って警察にやってきて、その女を請け出していったよ」

「出エジプト派の信者になっていたのか?」

「いいや、信仰なんて、ちょっとも持ってはいない。ただずいぶんいい金になるらしいから、その教団の仕事を引き受けているんだ」

「そうか……」

 軽くうなずくと、憲哲は手の甲に一面に広がる皺に目を落とした。

「この年まで生きれば、誰もが金で変わってしまうことには驚かなかいつもりだったが、あの子までがそんなふうになってしまったのか」

(子供のいなかった妻も一時は、とっても愛情を注いで世話をしていたこともあったのに)

「女の体には明らかに暴行された跡があって、刑事事件で立件する準備をしていたんだ。それを金博仁は、単なる夫婦げんかにしてしまったんだ」

「弁護士がそんな無茶なことをしてもいいのか」

「もちろん合法的にやっている。それだけ優秀な弁護士なんだ。そして、有能な人材を雇えるということは、カルト教団といっても、簡単には侮れないということだ。どんな手段を使って、金吉江を取り戻そうとするか、わかったものではないということだ」

「じゃ、彼女を拉致するということも……」

「十分にありえる」

「そうなったときに警察は動いてくれるのだろうか?」

「宗教関係のことにはあまり首を突っ込みたがらないから、多分無理だろうな」

 そのとき吉江がゆっくりと階段を下りてきた。

 憲哲は韓邦根に目配せして、少し席を外すように立ち上がった。

「久しぶりだな。覚えていますか?」

 階下から響く韓邦根の声に吉江は身を硬くする。

「あっ」

 吉江の表情がぱっと明るくなった。

「やっぱり、あんただったか」

「韓先生ですね」

「この私を頼って出てきてくれたんだね。崔外植は元気かね?」

 答えるのもいやだと、いうふうに唇を強くかむ。

「確か、年老いた両親がいたはずだが、そのふたりも元気かね」

 必死に怒りを押さえるような表情になる吉江の前に、憲哲は熱い人参茶を置いた。

 あたたかい器を両手で持って香りをかぐ姿を、ふたりの老人は心配そうにのぞきこむ。

「義母は元気ですが、義父は寝たきりです。ふたりとも本当は悪い人ではないはずなのですが……」

(『本当は』と、前置きしなくてはいけないほど、ひどい仕打ちを受けたんだね)

 憲哲には吉江の不幸の形がだんだんはっきりと見えてくるようだった。

「確か、まだ三十前だろう? きみの年は。ぜったいにやり直せるよ」

 話しかけながら韓邦根は自慢の白い髭に手を伸ばす。

「やり直す?」

 そのことの意味がわかないかのように吉江は首をかしげる。

「じゃ、教祖さまを信じて、いつまでもこの地に留まっていたいのかね」

「もちろん、唯一の救い主なのですから。でも……」

 唇を噛んでおしだまる。

(きみの唇ときみの心の叫びとはずいぶん違っているのではないのかね)

 本当は助けを求めているはずの吉江に、憲哲は違う質問をぶつけてみる。

「日本のご両親はご健在なのかね」

卑父(ひふ)卑母(ひぼ)のことですか?」

 質問の真意を探るような視線になっている。

「『ヒフ』『ヒボ』って何のことなんだい?」

「漢字で『卑しい父』、『卑しい母』と書きます」

「そんな言葉は、日本語にも韓国語にもない」

 憲哲は吉江をにらみかえす。

「実の父親が『卑父』だなんて・・・…」

 絶句してしばらく言葉をつなげられない韓邦根だった。

  五

 扶余福音教会は、新聞社の建物から見て扶蘇山の反対側にあった。

 憲哲がもともと副牧師をしていたのは、この教会であった。昔のように篤い信仰心はなくなっていたが、今もそこを訪ねるのは、日曜学校のころ教えた小さな子供たちが立派な成人として育っている姿を見る楽しみもあったからである。

 この教会の主任牧師である朴承武(パク・スンム)は、まだ三十五歳という若さである。だが韓国のキリスト教界、いや韓国の宗教界全体を見渡しても、もっとも前途を嘱望された牧師のひとりである。高麗大学の医学部を出て精神科医の医師免許も持っていた。心理学者としてもエリートコースを歩んでいた。だが十年前、二十五歳のときに洗礼を受け、二年後には神学校に入った。

 そして、この朴承武も、憲哲の昔の教え子のひとりだったのだ。『主の祈り』さえ満足にできなかった子供が牧師をやっている姿を見るのは、何事にも換え難い喜びだった。

 毎週、日曜日に朴承武は若々しい声で信者たちに説教をする。礼拝の最後、会堂には必ず驚くような大音声が響くのだった。

「サタンよ、退け!」

 それが朴承武の口癖であった。

『サタンよ、退け。主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』

 聖書のマタイによる福音書第三章の言葉である。イエス・キリストが荒野で四十日四十夜の断食のあと、悪魔(サタン)がこの世の快楽をいろいろ見せて、「私にひれ伏したなら、すべてを与えよう」と誘惑してきたことに対する答えである。『人はパンのみによって生きるにあらず』という有名な言葉をキリストが発するのも、このときである。

「サタンよ、退け!」

 まさにイエス・キリスト自身が荒野で叫んだような迫力で、キリストとほぼ同年代の若い牧師は信者の心に訴えかける。そして、その叫びのたびに教会は大きく育った。初め、三十人の小さな教会は、いまや三百人のメンバーを誇る大教会に育っていた。朴承武には教団の中での将来が約束されていた。しかし、医者としてエリートコースを歩むという世俗的な成功から比べれば、それははるかに貧しい暮らしであるはずだった。

「どうして、あんな大きな声を出すのかね」

 憲哲は一度だけ聞いてみた。

「信者たちが信仰に迷ったときのために、一喝するのです」

 りりしい姿の牧師は、しかし、一瞬はにかんだ笑顔を見せて、憲哲の耳元に小さな声でささやく。

「先生にだけは、本当のことを言います。あれは私自身に向かって言っているのです。説教をしながら私自身の心にわいてくる邪悪な思いを一喝しているのです。説教の場こそ牧師自身を清め、育てる場でもあるのですから」

 そのひたむきな姿勢に、ただただ感心するのだった。

 

 こんな田舎町でカルトの洗脳を解くことのできるような人物は、ひとりしかいなかった。憲哲が思いついたのは、もちろん朴承武である。

「扶余福音教会に預かってもらえれば、もう出エジプト派の人間に拉致されることもない。奥さんもとってもよくできた人だ。あそこなら安心だよ」

「ええ、李先生を信じます」

 言葉とは裏腹に吉江の瞳には暗い影が広がる。

「何か心配なことがあるのかい?」

「あの私、何を着ていったらいいのでしょう?」

「何だ、そんなことか。妻の残した服でも靴でも気に入ったのがあればどれでも持っていっていいんだよ」

 偶然なのだろうか。幸運なのだろうか。服のサイズも靴のサイズも亡くなった妻とあまり違いはなかった。

 牧師にとって休日である月曜日の朝になった。吉江は赤いバラの花模様のワンピースを選んでいた。赤い靴をはいて憲哲の後ろをゆっくりと歩いていく。扶蘇山のふもとを回ってふたりは、朴承武の牧師館に向かった。そこの空き部屋に吉江は保護されることになっていたのだ。

「さあ、自分の家と思ってゆっくり過ごしてくださいね」

 朴承武の妻の姜娟承(カン・ヨンスン)は、にこやかな笑顔で出迎える。そのうしろでは三人の女の子が元気よく会堂の中を走り回っていた。

「いい眺めじゃないか」

 用意された二階の部屋の窓からは扶余三山のうちの一つである烏山の稜線がよく見える。

「あっ、カササギ」

 あの雨の晩から五日たっていた。きれいになった爪先で吉江が指さす。

 この夏の暑さを暗示するような白い雲をふたりが見上げていると、朴承武がやってきた。

「今日は、ここに慣れるだけで結構ですよ」

 若い牧師は、吉江の華やいだドレスをまぶしそうに見つめる。

「ありがとうございます」

「これから、少しずつ、あなたのことを聞かせてください。それからゆっくりとカウンセリングを始めていきましょう?」

「カウンセリングですか?」

「そうだよ。きみは気がついていないかもしれないけれど、出エジプト派というカルト集団の洗脳にかかっているんだよ」

「カルト? 洗脳?」

「意味がわかるかい?」

「ええ、よくわかります。でも私は出エジプト派の信仰を捨てるつもりはありません。夫と義母から逃れたかっただけなのです」

 これは憲哲にとって意外な言葉であった。

「うん、そうだね。いきなりカルトだなんて決めつけた言い方をして悪かった。少しずつ本当の信仰のことを学んでいこう」

 返事もしないで吉江は軽くうなずくだけだった。

「お父さん!」

 階下から女の子の元気な声が聞こえてきた。

「あなた、みんなで三時のおやつを食べましょう」

 姜娟承が太った体を揺するようにして階段を上がってきた。

「朴先生と奥様がうらやましい。とってもかわいいお子様に恵まれて……」

 女の子たちの姿を追う吉江の瞳を牧師はじっと見つめている。

「子供がいないって、私は毎日責められていたのです」

「そんなことは」

 朴承武が口に出そうとしたなぐさめの言葉を、姜娟承の笑い声がかき消した。

「は、はは……。まあまあ、若いあなたが何を言うの。子供ができる前の自由な時間をもっともっと楽しまなくちゃ」

 肩を揺するようにして大きく息を吐く。さっきは憲哲も気がつかなかったけれど牧師夫人のお腹には四人目がいるようだった。

 

「どうだい? 少しは落ち着いた様子かい?」

 翌日の昼、憲哲は扶余福音教会をのぞいた。

 朴承武は精神医学の本を読んでいた。

「ああ、先生ですか、ちょうどいいところに来られましたね。吉江さんのカウンセリングに同席してみませんか」

「いいのかい? 私のような素人がそんなところに混ざっても」

「僕は日本語を話せません。彼女が韓国語でうまく話せないようなところがあれば、通訳していただけると助かりますが」

「李先生、おはようございます」

 吉江は、艶やかな空色の木綿のシャツに細かいプリーツの白いスカートを着て応接間に座っていた。

(妻は、こんな服を持っていたのだろうか?)

 初めて見たような気がする憲哲だった。

「この男は信用していい人物だよ。牧師といっても、出エジプト派のことを教条主義的に異端だなんて非難をする人間じゃない。きみの心の問題として出エジプト派のことを聞きたいんだ」

 スカートのプリーツに埋まるほどしっかりと組んでいた両手を、吉江は、ゆっくりとほどいていた。ピアニシモを弾くように細く長い指で軽く髪をかきあげる。

 しかし、それから憲哲と朴承武が聞きだしたことは驚くべき内容であった。

「いま出エジプト派を指導しているのはどのような人物なのですか?」

 牧師のよく通る声で質問が始まった。

「尊母さま尊父さまです」

「本名は?」

「尊母さまは金華姫(キム・フォアフェ)という名前の韓国人で、尊父さまはジェームス・ライスという名前のアメリカ人です」

「そのふたりは、この扶余の近くに住んでいるのかい」

「いいえ、おふたりとも今はスイスでお暮らしになっておられます」

「どうしてスイスなんだい?」

「タイムマシンのメンテナンスの関係からです」

『タイムマシン』『メンテナンス』という言葉があまりに唐突に吉江の口から飛び出してきた。そして、ふたりの耳に飛び込んできたのは、さらに驚くべき言葉だった。

「尊母さま尊父さまはイエス・キリストをお生みになられました」

「えっ! 何だって」

「はい、マホメットと仏陀も尊母さま尊父さまから生まれたのです」

「三大宗教の開祖をみな生んだというのかね」

「ええ」

「みんな千年以上も前に生まれた人間じゃないか」

「ええ、ですから尊母さまはタイムマシンに乗って一億年前に戻り、そこで次々と世界の三大聖人を産み落とされたのです」

「一億年前には、まだ人類はいないよ」

「ええ、ですから人類も尊母さま尊父さまが作られたのです。そして人類を救済する三大宗教を作るために、三大聖人をこの世に送りだされたのです」

「聖書を聖典としているのはなぜなんだい?」

「それは尊母さま尊父さまともイエスさまから生まれたからです」

「えっ!」

 朴承武も気が動転する。

「先ほど、その尊母、尊父なる人物がイエス・キリストを生んだと言わなかったかい?」

「タイムマシンの誤動作からそのようなことになってしまったのです」

 顔色ひとつ変えずに平然と答える。

 朴承武と憲哲は互いの顔を見合わせるしかなかった。

「尊母さま尊父さまは最初にイエス・キリストを生み、次に仏陀を生み、最後にマホメットを生んだのです。ですから私たちの『出エジプト派』では聖書を最も重んじ、次に仏教の聖典を重んじるのです」

「待てよ。歴史上では仏陀が最初に生まれたんじゃないか」

「タイムマシンですべて説明がつくのです」

 これほどまでに荒唐無稽なことを真面目に話す吉江の瞳は驚くほど澄んでいた。話される内容ではなく話す態度こそ、人を信仰に導くことを憲哲は改めて悟るのだった。

「それから言い忘れるといけませんが、尊母さまと尊父さまは地球が滅びたときのためにオリオン大星雲のなかにもうひとつ別の地球を作っておられます」

「オリオン大星雲というと、冬になるとよく見える四角形のオリオン座の?」

「はい、三ツ星の下にうっすらと輝く星雲です。あそこでは次々と恒星が生まれていますが、そのなかのある恒星の第三惑星として新地球を作られたのです」

(その星雲が教会の名前の由来だったのか)

 ここまで来ると、どんな突拍子もない話でも筋道が立っているように聞こえるのが不思議だった。

「待てよ。そんな遠くにどうやって行ったんだい?」

「タイムマシンは宇宙船の機能も持っているのです」

「今、そのタイムマシンはどこにあるのかい」

「韓日の中間の海峡に浮かぶ対馬にあります」

「対馬に?」

「はい、維持費として一か月に一億円かかります。私たちの献金は、そのために必要なのです」

「なぜ、維持しなくてはいけないのかね? 三大宗教の開祖を生んだのだから役割を終えてしまったんだろう?」

「タイムマシンは通信機の役割もしています。韓日相互の会話はすべて聞かれてしまっているのです。尊母さま尊父さまの悪口を言った者の上には、たちまちのうちに天罰が下るのです」

「盗聴器なのかね?」

「いいえ、違います。韓日の友好のためにとられている処置です。それにタイムマシンは重しの役割もしています。それによって辛うじて韓日の重力のバランスが取れているのです。もし、それを移動するとたちまち日本列島が沈没してしまいます」

「そのとき韓国はどうなるんだ?」

「大地が崩れおちて、月の向こう側まで吹き飛ばされてしまいます。それほどのエネルギーがあるのです」

(『大地が崩れおちて』か)

 それこそ、自分の足元の大地が揺らぐような感じを受ける憲哲であった。

 

 翌日の水曜日も憲哲は牧師館に出かけた。

「あのふたりこそサタンそのものなんだよ」

 朴承武の言葉に驚いたように、吉江はまばたきを繰り返す。

「尊母さま尊父さまのことをそんな悪し様に言うなんて・・・…」

 まだ洗脳は少しも解けてはいないようだった。

「きみを生んで育ててくれた実の母親や父親ではなくて、きみのことなんか見たこともなくてきみの実のご両親から金を巻き上げることしか考えていない人間の言葉を信じるのかね」

「尊母さま尊父さまは神の生まれ代わりですから」

「東京のきみのご両親とも連絡をとってもいいんだよ。きっときみの声を聞きたがっているはずだからね」

「卑父卑母のことなど考えたこともありません」

 牧師は、もうすでに知識があるのか、『卑父卑母』という言葉にも驚いた顔ひとつしない。

「実のご両親をどうして、そこまで蔑むのかい?」

「出エジプトするときに確信したのです。あのふたりの卑しさを」

「よかったら教えて欲しいんだが、『出エジプト』というのは具体的にどういうことなのかね?」

「『出エジプト』とは、下関港からフェリーに乗って、まず対馬に着くことです。そこで結婚式をあげます。花婿はすぐに実家に戻ります。花嫁は対馬で半年間、タイムマシンのために祈りの時を持ちます。また、エジプトがイスラエルに対して犯した過去の戦争犯罪の歴史を学ぶのです。その罪をつぐなう子羊としても私たちはイスラエルに行かなくてはいけないのです。そのあと再びフェリーに乗って釜山の港に入るのです。邪悪な繁栄で穢れきったエジプトの地から、紅海を渡り、清浄なる約束の地のイスラエルに着くのです」

「エジプトとは日本のことで、イスラエルとは韓国のことだね」

「はい」

「紅海とは東海(日本海)のことかね?」

「よくおわかりになりましたね。その通りです。東海という名前も紅海にゴロがよく合うようにと、一億年前に聖母さまが名づけられたのです。旧約聖書の中で、モーゼが紅海を渡ったように私たちも東海を渡らなくてはいけなかったのです」

「私たちって?」

「秋山千鶴さんと、古河雅子さんです。ほぼ同じころ信仰に入った大学生の仲間です」

「きみと一緒に扶余の町に来たのは、そのふたりだったんだね」

「ええ」

「断わることはできなかったのかい?」

「とんでもありません。数千年に一度訪れるかどうかわからない、出エジプトをできるという幸運をどうして逃すことなどできるでしょうか」

「ご両親は許してくれたのかね?」

「今、言ったことを、もっともっとわかりやすくていねいな言葉で両親に説明しました。『出エジプト』がいかに神に喜ばれ、また神を喜ばせることかを何日もかけて話しました。でも理屈もなく、ただただ反対するだけなのです。そして、こんな明白で簡単なこともわからない両親には本当に驚いて、絶望しました。そのとき本当に卑しむべき父、卑しむべき母だと思ったのです」

(こんな荒唐無稽な説明を聞いて、外国に嫁に行ってしまう娘に反対しない両親の方がどうかしている。そのことが大きな驚きであったということ自体、すでにかなり異常な世界じゃないか)

「きみは、聖書が正しい書物であることは信じるのだろう?」

「ええ」

「じゃ、この教会で聖書の本当の内容を学ぶことから始めようじゃないか。そしてきみの意思で正しい教えに戻られるように僕は手助けしよう」

「先生は、まさか……。せっかく紅海を渡った私に、もう一度、エジプトに戻れとおっしゃられるのではないでしょうね」

「僕が手伝うよ」

「か弱い女性の私に、そんな理不尽なことを言われるのですか? たくましい先生こそ、こちらに側に渡ってきていただけないのでしょうか?」

(牧師に出エジプト派になれ、と誘っているのではないか)

 憲哲は言葉を失うほど慄然とした。

「私は、夫や、その両親の仕打ちが憎いだけなのです。尊母さま尊父さま、それにイエスさまを憎いと思ったことなど一度もありません。今でも出エジプト派こそ、イエスさまを称えることのできる唯一の教会だと思っています。その他はみんな異端なのです」

「この教会もかね?」

「ええ、申し訳ないですがその通りです」

 憲哲が初めて聞く吉江のきっぱりとした言い方だった。

「サタンよ、退け!」

 朴承武の口から若々しい一喝が響きわたるのを憲哲は期待した。だが不思議なことに、この俊敏な牧師は深く腕を組み、考え込んでしまっているようだった。

  六

 扶余の周囲に住む『出エジプト派の妻』たちの実状を憲哲は取材してみることにした。

 特に吉江とともに五年前に扶余にやってきた女性たちの現状には興味があった。

 その前にひさしぶりに宮南池にも出かけてみることにした。例の三ツ星教会の建物の外観だけでも見ておこうと思ったのだ。

 驚いたことにも昔、両親と暮らしていた実家のすぐ近くにその建物はあった。正面の壁に赤銅色の十字架がはめ込まれて、金で三つの星が飾られていた。そして確かに尖塔の上にも星のマークだけが飾られていて、奇妙な教会だった。入り口の扉は上がアーチ型になっていて、まぶしく輝く金色だった。

(このあたりは百済の都の遺跡がたくさんあったところじゃないか。これじゃ、古都の雰囲気も台無しじゃないか。幼いころ遊んでいた風景は、すっかり消えてしまったんだ)

 会堂のなかからピアノの音が聞こえてきた。吉江が寄付したスタンウェイなのかもしれなかった。しかし吉江の音色が小鹿のような軽やかさだとしたら、それは農耕用の牛のような鈍重な響きだった。

 新聞記者の習性として、一枚だけ写真を撮ろうとしたときだ。教会の敷地に忍冬の木が植えられていることに気づいた。

(この木は、昔の実家の庭先から種が飛んできて芽生えたものかもしれない)

 夏の日を浴びたつややかな緑の葉を、何枚も写真に撮ってしまっていた。

 そのとき金色の扉を開けて、顔色の悪い男がいきなり飛び出してきた。

「おい、何をしている!」

 憲哲に好意を持っていないことは明らかだった。走るように通りに出て、あわててタクシーを拾うのだった。

 

 秋山千鶴の住まいは住宅地の外れに一軒だけ離れて建っていた。赤い屋根と明るく白い壁が遠くから目立った。しかし、門に近づくと玄関までの短い通路を塞ぐように雑草が伸び放題に生えている。どこか人を拒絶するような印象を与える家だった。

「ちょっとお話をうかがわせていただきたいんですけれど」

 珍しい日本語に警戒するようにドアをあけた千鶴は、まだ三十前なのに、ひどく疲れて見えて、化粧をしていない顔は四十過ぎにも見えた。

「帰ってください!」

 憲哲の訪問の目的を聞いて険しい顔になる。

「きみは名古屋出身だってね。私も名古屋で育ったんだよ」

「えっ、名古屋のどちらですか?」

「正確な所番地は忘れてしまったが関西線の八田の駅の近くで庄内川の見える所だった」

「まあ、私の実家もその近くだったんです」

 さらに韓邦根の名前を聞くと、千鶴は、わずかに微笑んだ。

「韓さんの家でときどき日本のお茶をごちそうになることだけが楽しみだったんです。でも、あまり出かけないようにと教団から指示が出てしまって、今では、ひと月に一度ぐらいしか行けなくなってしまっているんです」

 若い女性らしくもない、大きなため息をつく。

「この家にいるのは、昼間は私ひとりなんです。ほんの少しだけなら、お話を聞いてもいいんですけど……」

 千鶴は奥に入れとは言わなかった。

「ご主人はどんな仕事をしておられるのですかな?」

「結婚したとき夫は四十歳で再婚でした。公務員で外面(そとづら)はいいんですけど、家の中では箸ひとつ動かさないんです。趣味も全然合わなくて……。私と結婚したのも世間体を守るためだけだったんです」

「結婚前に相手の紹介はあるのだろう?」

「簡単なプロフィールだけなんです。対馬で結婚式をあげたときは、背も高くてきちんとした背広姿だったんで、いい人に巡り会えたと喜んでいたんですが……。半年後に一緒に暮らしてみると、こんなはずじゃなかったということばかりなんです」

「それでも、ここは約束の地なんだろう?」

「ふん、こんな田舎。言葉もろくに通じないようなところ。日本のテレビ番組も自由に見られないようなところに……」

 吉江の名前を聞いても一瞬、微笑んだだけである。

「もう一度学生時代に戻りたい。図書館で静かに本を読むのが私の唯一の趣味だったのに。あの日、キリスト教関係の本を何気なく読んでいたのがいけなかったんです。そのとき吉江に声をかけられて……。それが、私の人生を狂わせてしまった。つまらない男を相手に、こんな地の果てで一生暮らさなくてはいけないなんて」

 夫をつまらない男と公然という女を憲哲は好きになれそうもなかった。しかし、しばらく話をして驚いたことに、結婚して五年になるが夫婦関係がないという。

「夫は私の体に指一本触れようとはしないんです。結婚してから半年もしないうちに前の妻に逃げられたのも当たり前なんです」

「じゃ、あんたらは、まだ本当の夫婦じゃないんだね」

「尊母さま尊父さまから指名していただいたときから、私たちは本当の夫婦のはずなんですけれど……実は、私まだ処女なんです」

 明るい昼間に語られる、あからさまな言葉に憲哲は驚く。

「どうして、そんなことにこだわるんだね」

「出エジプト派教団の教義なのです。処女受胎したのはマリアさまと尊母さまだけですから。処女は汚らわしいものと考えられています。教団に入って三年たっても処女のままですと、強制的に導師か信者のうちの選ばれた者よって処女は破られます」

「えっ! 犯されるというのかい」

「いいえ、清められるのです。そのようなことを避けるためにも一刻も早くイスラエルに渡り、結婚することが必要だったんです」

 あまりにおぞましい教義に驚くのだった。

「きみは、まだ信仰を持っているのかい?」

「もちろんです。もう帰っていただけますか」

「きみは尊母さま尊父さまと会って話をしたたことがあるのかね?」

「いいえ、写真でそのお姿を見ただけです」

「一度も会ったこともない人物を信じるのかね」

「ええ、もちろん。イエスさまだって、誰もその姿を見たわけではないでしょ。でも、みんな信じているのですから。聖なるお方ほど姿を現さないものなのです」

 ドアを閉めようとして一瞬、ためらいながら千鶴が口を開く。

「お聞きになりたかったのは、尊母さま尊父さまを、これからも信じていってよいのか……ですよね。ときどき私にも、わからなくなることがあるんです。でも、もうここで暮すしかないんです。献金するために親戚中からものすごい借金をしてしまっているんです。それで両親も夜逃げしてしまって、故郷には誰もいなくなってしまって……。国籍も放棄させられてしまっている私は、どうやって日本に戻ることができるのでしょう?」

 深いため息をつくと、返事も聞かずにバタンとドアを閉めてしまった。

 最後の言葉は独り言のようだった。きっと誰かにそのことを聞いてほしかったんだ、と憲哲は思った。

 

 どんよりと曇った空の色が急に濃くなっていく。夕立がやってくるのかもしれない。

 湿気の多くなった農地のあいだを縫うようにして、憲哲は、吉江の、もうひとりの友人である古河雅子の所に向かった。そこは千鶴の家から歩いて十五分ほどの所にある、かなり立派な構えの家であった。玄関横の庭にはきれいなバラの花が咲いていた。韓邦根の名前を出すと、警戒されることもなく、奥の応接間にまで案内された。

 裕福さが伝わってくるような家具、調度であった。二歳ぐらいの男の子がソファーの横に敷かれた夏蒲団で昼寝をしていた。

「あなたも後妻なのですよね」

 韓邦根から聞いていたのだが、夫は五十五歳の土建業者だった。

「ええ」

「前の奥さんは?」

「社員の人と不倫の関係ができてしまって、夫を捨ててこの家を出ていってしまったんです。そのときは夫も浮気をしていたんですから仕方ないですよね。でもそれにこりてキリスト教に改宗したのです」

「なぜ出エジプト派にしたのかね」

「さあ、夫の会社が会堂の改築工事を担当していたというようなことを聞きましたけど……。これは内緒ですが、夫は無知で無教養で、しかも、あきれるほど信仰も浅いんです。異端のプロテスタントやカソリックと私たちの正しい教えとの区別もつかないんですよ。何度言っても、教義の半分も理解できないんですから」

 その口調からは、あまり不満なようすは伝わってこない。

「最初の二年間は毎日がいやでした。何度もここから逃げ出したいと思ったものです。でも尊母さま尊父さまがカップリングしてくださった相手ですし、私の言うことも、まあまあ聞いてくれます。よくお金を稼いでくれますし、子供を殴ったりしないので、私はまだここにいてやっているんです」

 雅子は若々しく化粧していて、着ているものもこざっぱりしている。

「尊母さま尊父さまのおかげで、少しは幸せだと思えることもあるんです。この子が少しずつ言葉を話し始めて、私のことを『ママ』と呼んでくたれときには、涙が出るほどうれしくなりました。『初めに言葉ありき』と新約聖書のヨハネによる福音書の冒頭に書かれているでしょ。このことなんだと、全身が打ちのめされるほどの喜びに満たされたんです」

(『初めに言葉ありき』というのは、神が言葉を使って世界を創造し始めたことのはずなんだが)

 雅子の聖書解釈に首をかしげるのだった。

 そのとき応接間の壁の天井近くに、男女一組の写真が飾ってあるのが目に入ってきた。

「あれが尊母さま、尊父さまなのかい?」

 ひとりは人のよさそうな笑顔をした老女であり、もうひとりは軍服姿の外人である。

「よく、おわかりになりましたね。神であり、同時に偉大な指導者さまです」

「三大宗教の開祖をみんな生んだという」

 皮肉を込めた憲哲の口調にも、おだやかな笑顔で答える。

「よくご存知ですね。その通りです。三ツ星教会の三つの星というのは、それぞれイエスさま、仏陀さま、マホメットさまを表しているのですよ。どうしてすべての人が信じないのか、それが不思議です」

 吉江の口からもまだ聞いていない、教会の名前の由来を初めて知るのだった。

「あのふたりの写真を撮ってもいいかね?」

「いえ、それはできません。写真を撮ったら、その瞬間にカメラは粉々に砕けてしまいます。教会に行けばとても安くわけてもらえますけれど」

「いくらぐらいなのかね」

「額付で、一千万ウォン(百万円)で買うことができます」

「あんな額に入った写真が、二つで一千万とは、恐れ入った」

「いいえ、尊母さま、尊父さまのお写真それぞれが一千万です」

「じゃ、きみは二千万ウォン払ったのかね」

「払ったのは主人ですけど、あの額があるだけであらゆる災難か逃れられるのですよ。この子がすくすく育っているのもあの額のおかげなのです」

 雅子が信じているものは、確かにキリスト教とは、まったく違う宗教であった。

「きみ自身はどうやって、出エジプト派のことを知ったのかね?」

「私、こう見えても夏はビーチで冬はゲレンデで、とっても男の人にもてたんです。そして、大学の先輩で、ある大きな会社の御曹司と結婚の約束もしていました。あの日、あのコンサートにさえ行かなければ、日本でもっと幸せに暮せていたのかもしれません」

 寝返りをうつ子供をいとおしそうに見る。

「その日、婚約者に誘われて、吉江さんのミニ・コンサートに行きました。それが運のつきだったんです。私、吉江さんに恋をしてしまったんです。あまりに素晴らしいピアノの音色に魅せられてしまって……。彼女の誘いに乗って出エジプト派に入りました。そしてすぐに婚約は破談にして、洗礼も受けてしまったんです。ときどき後悔することもあるんですが……。でも、そのときは自分でもどうすることもできないくらい吉江さんの教えに夢中になってしまっていて、気がついたら、この扶余の町に住んでいたんです。やっぱりこれって恋と同じですよね」

 そう言いながら、雅子は瞳を輝かせる。

「聖書邑というのはどういうところなのかね?」

「理想郷です。尊母さまがそこでお生まれになったんです。吉江さんは、まさにその生家に住んでいるんですよ。本当にうらやましいことです。そこに行ってからは、一度も会えないんですけど、彼女も子供を授かったんでしょうね。あんなに信仰の篤い人に神さまの恵みがないわけがありませんからね」

 まだ吉江の出奔のことは知らないようだった。

「何十人もの信者を獲得した大学のエリート信者なのに、彼女には、少しかわいそうなところがあったんです。ある大学の教授とカップリングされるはずだったんです。でも、その教授が突然教団を離脱してしまって……。それで結婚式のために日本を立つときにも、まだ相手の男性の名前さえはっきりしていなかったんです。これは出エジプト派でも珍しいことだって後から聞きました。でも吉江さんは、対馬に渡っていくときは、とっても喜んでいました。約束の地が近づいたって」

(その教授の離脱こそ吉江の不幸の源だったのだ。それに怒った教団は、吉江にとんでもない相手を娶わせることにしたのかもしれない。目の前に座っている、豊かな暮らしを享受している女性も一歩間違えばどのような不幸にみまわれたか、わかったものではなかったのだ)

 夢を見たのだろうか。そのとき子供が眠りながら笑い始めた。どのような事情によって結ばれたカップルのあいだに生まれたかには関係なく、命を得てこの世に生まれ出た子供に罪はなかった。

「このかわいい寝顔を撮ってもいいかね?」

「ええ、結構ですわ」

 憲哲がたいたフラッシュのまぶしさに子供が急に目を覚ました。

「ママ、お水が飲みたい」

「そこで待っていてね。すぐに持ってくるから」

 ミネラルウォーターのボトルを取りに、あわてて台所に走っていく。しみじみとした幸福を感じさせる後姿であった。コップに注がれた水をごくりと飲む子供の仕草に、やさしい視線を注ぐ雅子だった。

「私の信仰は彼女ほど堅くないから……。内緒ですけど、本当は一度、子供を連れてエジプトに戻りたいんです。この子の笑顔を両親に見てもらいたいと思って……。教会では『卑父、卑母』と呼ばなくてはいけないことになっているんです。けれども、どうしても親の優しさだけが思い出されて仕方がないんです。この子を授かってからは特に」

 子供の顔をいとおしそうに見下ろす姿こそ『聖母』と呼んでもおかしくないものだった。

(人間として当たり前の感情を吐き出すこの女性の信仰が浅いのだろうか? もし、そうなのだとしたら、その信仰の浅さこそ、人間らしいあたたかい感情を守ってくれているのだ。この女性が曲がりなりにも幸せそうに見えるのは、きっとそのせいなんだ)

 憲哲は、そう確信するのだった。

  七

 吉江が扶余福音教会に移ってから一週間が過ぎた。牧師夫人の心のこもった手料理と住み心地のよい部屋、それに子供たちとの交流が吉江の心をなごませてくれているようだった。牧師のカウンセリングの言葉によって、少しずつ吉江の心も開かれて、時々微笑みも見せるようになった。あまりに純粋な九歳の少女のような笑顔である。

 しかし、これは憲哲の直感であったが、まだ何かを隠しているように見えるのだった。

 出エジプト派のことをもっと詳しく知りたくなった憲哲は、『尊母さま、尊父さま』なる人物についても詳しく調べてみることにした。驚いたことに、スイスに住んでいるはずの、ふたりの教祖には実体がなかった。数人の幹部しか接することの出来ない人物で、教団のほとんどの人間が、その素顔を見たこともなかったのだ。二十年ほど前に撮った写真があるだけである。現在の本当の所在地も不明でどうやら架空の人物のようであった。

 ただ尊母の出生地とされる場所だけがはっきりしていた。信徒たちが『理想郷』とあこがれる聖書邑である。しかし、表向きには『地上の楽園』と呼ばれている国があることを考えると、そこの住み心地がよいとは、とても信じられるものではない。

 憲哲には、さらに疑問が残った。

(秋山千鶴も古河雅子も不満を持ちながらも夫の元から出奔しようとはしなかった。堅い信仰をもっていたはずの吉江さえ逃げ出さずにはいられなかったとは……吉江の身の上には、どれほどの不幸があったのだろう。その心の秘密を知るためには、どうしても吉江が三年間も過ごした鶏竜山の『理想郷』にある家を見なければいけない)

 現場取材を第一とする記者の習性は憲哲の心のなかにしっかりと残っていた。

「崔外植の家を訪ねてみることにしたんだが……」

「怖い!」

 語りだしただけで吉江の顔は恐怖にひきつった。

「先生は、きっと殺される」

「何を言っているのかね?」

「先生が殺されたら今の私は生きていけない」

 体を丸めてうずくまるのだった。

「あの吊り橋を渡って、崔外植がやってくる」

 恐怖に顔を引きつらせて、吉江は初めて夫の名をフルネームで呼んだ。

「吊り橋があるのかい?」

「ええ、私は、一日も早くあの橋のことを忘れたいのです」

 

 一時間ほどで、バスは東鶴寺に着いた。荘厳な寺門の前で、黄色い瓜の花がうす曇りの空を見あげていた。

「この鶏竜山の奥に聖書邑があると聞いたのですが……」

「あの邪教の仲間なんだな、お前も!」

 質問の途中で、僧侶は全身に怒りをみなぎらせた。

 憲哲が事情を説明しても、その興奮はおさまらない。

「あの邑は、寺の土地を勝手に占拠しているんだ。しかも邪教を広めようとしている。許せない」  

 寺の前で拾ったタクシーの運転手も不機嫌な顔になる。

「あの白丁(パクチェ)の邑に行くのか、あんた」

 白丁の起源は不明であった。いつの時代からか賤民身分とされ、常民から理由もなく不当な差別を受けていたのである。

「橋が流れてしまって、ここから先は行き止まりなんだ。降りてくれ」

 平坦な道が続いているようにしか見えなかったが、途中で降ろされた。

(私も白丁だと思われたのだろうか)

 日常生活で白丁は多くの差別を受けてきた。瓦屋根の家に住むことも、絹の服を着ることもできなかった。また、革靴を履くことも禁止されていた。名前には『仁』『義』『孝』『忠』のような文字の使用は禁じられていたのだ。さらに結婚や葬式にも制限がかけられ、一般人と同じ墓地に葬られることもなかった。

 かつて日本にいたときに激しい差別をうけ、また人権擁護のために闘っていたマスコミ人として許せぬことだった。

 タクシーから降ろされた憲哲は、仕方なくそこからは谷沿いの道を進んだ。すぐに舗装がつきた。そして三十分以上も歩いて、やがて通行止めの看板が目に入る。

(ここまで運んできてくれてもよかったのに)

 邑の評判を連想させるような運転手の悪意だった。そこからは、右に折れ曲がり、けもの道のような細い道にわけいって歩いていかなくてはいけなかった。七十歳の老人には険しすぎる道だった。

(若い時に体を鍛えておいてよかった)

 やがて、目の前に長い吊り橋が見えてきた。

(これが吉江の言っていた橋か)

 渡っているあいだにも、木の踏み板がいつ落ちるのか不安になるほどで、錆びた鋼が痛々しい。

(生活物資もこの吊り橋を通って運ぶしかないのだろうか?)

 ようやく渡り終わったところに、驚くほど立派な金の額にかこまれた『聖書邑』という看板が立っていた。その隣には、くすんだ色のチャンスス(守り神)が立っている。キリスト教の教えとのアンバランスが不思議だった。ざっと見渡して二十軒ほどあったが、邑の家はどれも驚くほど粗末な造りだった。通りには人の姿はまったくなく、生気を感じられなかった。聞こえてくるのは家畜の鳴き声だけである。少し歩くと小さな林の陰に金色に輝くものが見えてきた。それは、人の背の高さの倍ほどの四角錘の尖塔で、その表面には『大尊母生誕地』と漢字で彫りこまれていた。その前に建っているのが吉江と崔外植が暮していた家だった。

 

 道を渡って近づくと、豚の汚物の激しい臭いが鼻につく。

(このものすごい臭いのただよう家の入り口に初めて立ったとき、吉江は何を感じていたのだろう。すぐに逃げだしたいと思わなかったのだろうか?)

 薄暗い土間の奥から声が響いた。

「誰だ」

 ひどく小さな体の老婆が出てきた。皺だらけの顔にぎらぎらと輝く瞳だけ目立った。それが吉江の義母の金恵花(キム・フェフォア)だった。 

 差し出された憲哲の名刺を遠く離すようにして見る。

「あの日本人の女はお前に家にいるんだな」

 汚れた柱には金色の額に入った聖句が掲げられている。

『神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。マルコ福音書第一章』

(近づいたのは地獄ではなかったのか)

「いいえ、今はあるプロテスタントの教会に預かってもらっている」

「プロテスタントだって! カソリックじゃなくて……」

 そう言いながら肺に空気を吸い込んでいく。

「穢れきったプロテスタントとは、これは恐れ入った」

 肺活量を自慢するような大きな声を出した。

「出エジプト派も、以前はキリスト教の一派だったんだろう。聖書を中心にしているのなら、その教えはプロテスタントに近いのでないのか?」

「そんなことはない。尊母さま尊父さまを悪し様にいう、プロテスタントとは絶縁している。もっともまもなく、この国にいる牧師どもはひとり残らずエイズにかかって死ぬことになっているんだ。穢れた淫行の裁きを受けるんだよ」

「淫行する牧師などひとりもいないぞ」

「ふん、いずれにしても出エジプト派の三ツ星教会だけが清められた場所なんだ。よりによって、そんな穢れた所にうちの嫁を監禁しているのか」

 ひどくまずいキムチを食べたときのように唇を歪める。

「監禁じゃない。吉江さんの方から保護を求めてきたんだよ」

「嘘だ! うちの大切な嫁なんだよ。絶対に取り返すからな」

「いや、彼女は、ここに戻りたがってはいないんだ」

「尊母さま尊父さまが決めたことを破るっているのかい、あの女は。夫の体の世話も、夫の父親の世話も放り出して……そんなことが許されるのかい。息子もあの嫁のせいであんな体にさせられてしまって……アイゴー」

 突然泣き叫びはじめる。

 それに驚いて奥の暗い部屋にうごめくものが見えた。それが寝たきりの吉江の義父なのだろう。この家では、饒舌なこの女だけが生気のすべてのようだった。

「近所の人間は助けてはくれないのかね」

「白丁の連中なんかと付き合えるかい」

(この邑で生まれたとされる尊母も白丁じゃなかったのかい)

 さすがにそう質問することは、ためらう憲哲だった。

「結婚して五年もたつのに、まともに子供も産めないんだよ。それを寛大な心で許してやっているのに、あの女はどこに不満があったんだろう。豚も鶏の世話も、畑仕事も、今じゃ、私ひとりがやらなくではいけなくなったんだよ」

(家畜の世話も、みんな吉江がさせられていたんだ)

「彼女は、きっと日本に帰るだろう」

「あの邪悪な国にかい。じゃ仕方ない。金を出してもらうよ」

 きっとこちらが本心なのだろう。あっさりと考えをひるがえすのに憲哲は驚く。

「とりあえず二千万ウォン出してもらおうか」

「二千万だって!」

『とりあえず』というにはあまりの大金である。日本円で二百万円近い額である。

「あの女の家族からは全部で五千万ウォンは、もらわないといけないことになっているんだよ」

「そんな大金で何をするんだ」

「このトタン拭きの家を、この邑で一番の大きな家に建て替えて、出の悪くなっている井戸も掘りなおさなくてはいけない。金はいくらあっても足りないんだ。それに半年前に洪水で、橋が流されてしまったんだ」

「ここの郡庁の予算で直してもらえばいいじゃないか」

「鶏竜山の連中は、みんなこの聖書邑の者を憎んでいる。邪教を信じる白丁の邑に天罰が下った、と思っているから予算なんか百年待っても付くはずがないんだ」

「ここは東鶴寺の土地じゃないのかい? 寺の土地を不法に占拠したと僧侶が言っていたが……」

「あの堕落僧たちが、勝手にここの所有権を書き換えたんだよ。泥棒よりひどいんだ。尊母さまの霊力で、あの寺はきっと一堂残らず焼き払われるよ」

(嫁としてこの毒舌に仕えることがどれほど苦しいことだったことか。吉江はどうして五年間も耐えられたのだろう)

「今のままじゃ、あのつり橋の方を渡らなくちゃ、どんな資材も運べないんだ。家の瓦一枚でもとんでもなく高くつくんだ。流された橋を立派なものに架け替えれば、すぐに、この家も一回りも二回りも大きくできる。そして、この邑の白丁の連中を見返してやりたいんだよ。やつらは本当に卑しい根性なんだ。橋が流されて暮せなくなったのは出エジプト派のせいだと言って、みんな元の儒教に戻っていってしまった。私たちだけがこの尊母さまの生家と教えを守っているんだ」

「それじゃ、橋の向こう側に家を作ればいいじゃないか」

「ヨルダン川の向こうにだと! この約束の地を捨ててか」

(旧約聖書『出エジプト記』の中では、ヨルダン川を渡ってモーゼはイスラエルに入っていったのだが……)

「いったん約束の地に渡った以上、戻ることなんて考えられないんだ」

 憲哲は、金恵花の言葉を聞き流して、家の中を見回していた。台所の隅にキムチの壷が並べられていた。そのあいだに汚れた赤い蒲団が敷かれているのが見えた。

「吉江は、あそこで寝ていたのか!」

「そうだよ。夏は涼しいし、台所仕事にはちょうどいい場所じゃないか」

「ほとんど土間の上じゃないか!」

 あまりの待遇に驚き、吉江の寝床に走りこんでいた。

(人間をこんな状態で働かせるなんて!)

 流しの横には、ひとつの聖句が掲げられていた。

『あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい。ルカによる福音書第六章』

(吉江はどういう気持ちでこの聖句を毎日ながめていたのだろう……あっ!)

 流しの下の薄暗がりのなかに、鞠のように筋の入った白い石を憲哲は見つけていた。忘れもしない、妹の墓石の代わりに母が置いたものだ。

(どうしてこんな所に)

 弱った体でその石をながめていた妹の姿が薄暗い土間に浮かび上がる。それはあばら骨を折って横たわる吉江の姿に重なって見えてきた。

 しかし次の瞬間、その錯覚は消え去った。模様のある丸い石に見えたのは、台所の隅にころがっている白磁のトックリだった。

「どうして嫁を大切に扱おうとは思わなかったんだ。崔外植が嫁を殴っていたのを知っていたんだろ」

「おや、そんなことがあったかね」

「あばら骨を何本も折っているんだぞ。同じ屋根の下にいて気がつかなかったとでも言うのか。出エジプト派教会でまた別の妻を見つけさせて持参金を得ようという目的があるんじゃないのか」

 歯のない口元をゆがませると、金恵花の顔中の皴がよじれていく。そして、ついに本心を出す。

「本当は三か月で日本に逃げ帰るはずだった。あんなにいじめぬいたのに五年も我慢するとは思わなかった。いい迷惑だ。日本人の嫁の持参金は、あと二回分は欲しい、と教団の幹部には言ってあるんだ」

「宗教に名をかりた金儲けじゃないか」

「それのどこが悪いんだい。ふん、困るのは日本人だけじゃないか。私は日本人に復讐したいんだよ」

(出エジプト派という宗教は、日本の女性を洗脳して、韓国の男に奉仕するようにしているんだ。持参金と家族からの送金で、日本の繁栄にも復讐しようとしているんだ。純朴な日本の女性を韓国のどうしようもないだらしのない男と結婚させることですべてはなしとげられるんだ。宗教心を利用していつまでも平然と結婚生活という名の搾取生活を続けさせるんだ。悪魔でさえ考えつかないような冷酷なやり方ではないか)

「日本が犯した過去の歴史上の罪は決して許されるものではない。しかし、それに復讐するということが聖書の教えなのか?」

「あのケダモノたちにどんなにひどい目にあわされたのか、あんたの年ほどの人間ならわかるだろう。日帝時代のことを忘れてしまったのかい?」

「忘れるわけがないじゃないか。でもクリスチャンとして許したいと思う」

 これは憲哲自身でさえ、思いもかけない信仰告白だった。

「許したいだって! きっと、あんたの家は、総督府の役人か憲兵の下働きをして、よっぽど楽な暮らしをしていたんだね。そうでなきゃ、そんな言葉が出るはずないよ」

 まるで憲兵の幻を見たかのように憲哲をにらみつける。

「私の父親は兵隊にとられて硫黄島であやうく玉砕に巻き込まれてしまうところだったんだ。背中の砲弾の傷が死ぬまで癒えなかったんだよ。私と母は父が帰ってくるまでどれほど飢えに苦しんだのか、あんたみたいに楽をした人間にはわかるはずがないよ!」

「私こそ」

(両親の苦労と嘆きを一言で語ることなどとうていできることではないのに)

 そう反論することが、金恵花の思う壺であることを悟って言葉を飲み込んでいた。

 酒の臭いで満たされた部屋で崔外植は横になって寝転んでいた。

 枕代わりにしている聖書には、焼酎とよだれのしみがついている。

「体の具合はいかかですか?」

「ふん、異端の牧師になんか聞かれたくねえよ」

「私は新聞記者です」

「嘘つけ。その言い方は牧師臭いぞ。それもすっかり濁ったプロテスタントの臭いだ」

 右目の眼帯から膿が滲み出ていた。

「医者に行って、目を見てもらわなくてもいいのか?」

「『もう治らない』と言うだけで、金だけはふんだくる病院なんかに行ってたまるか」

「金吉江さんは、もうここには戻らないと言っている」

「あれは、子供を流産してしまったような罪深い女だからな」

「えっ! それはいつのことだ」

「まあ、三か月ぐらい前だったかな。あのなまけ者、それから一か月も寝込みやがった」

「流産したあとだから、それくらいの養生は当たり前じゃないか」

「背中を蹴って、腹も蹴って蹴って蹴りまくって、やっとのろのろと動きだして家の仕事をやりだしやがった。牛や馬の方がよっぽどましなんだ」

(この男は、妊娠中の吉江にも同じことをしていたんだ。きっとそれが流産の理由だったに違いない。アル中の男はそのことに気づかないのだ。それを見ていたはずなのに両親も知らぬふりをしていたんだ)

「子供の墓はあるのかい?」

「墓、そんなものあるわけないじゃないか」

 壁の聖句が目に入った。

『右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい。マタイによる福音書五章』

(この聖句の前で、こいつは、吉江の右のあばら骨も左のあばら骨も蹴り続けていたんだな)

 許せない思いに体がふるえだす憲哲だった。

(もう少し若かったら絶対にこの男を殴っている)

 激しい怒りがわきあがる。

「こんな顔になっても精力は関係ねえんだな。昔はあんなに女にもてたのに、今はこのザマだ。吉江がいなくなってほんとに困っているんだよ。ここが」

 こぼした酒の染みが残る股間に手をやって、にやにやと笑う。

「きみは、出エジプト派を信じているのか!」

「信じているもんか。だがもう信じるふりをするしか、生きるすべがねえんだよ」

(異端であっても宗教心のある人間であれば絶対にできないことだ。この家の人間が信じるのは宗教ではなく現金と労働手段を搾取するためのシステムだけなんだ)

 あらためて出エジプト派に対する激しい怒りがわきおこるのだった。

 

 家の表に出ると、山間の邑の短い日がもうわずかにかげりはじめていた。

 そして初めて、この邑の通りを歩く人間に出会うのだった。

「おじいさん、失礼ですが、この女性をご存知ないですか?」

 老人は取り出された写真を遠くに引き離してじっと目をこらしている。古河雅子が子供に水を飲ませるために台所に立った隙に尊母と尊父の額を撮ったものである。もちろん、その瞬間にカメラが砕けるなどということはなかった。

「ああ、この女か、慰安婦をしていたあの家の娘じゃないか?」

『大尊母生誕地』の尖塔をあごで指す。

「慰安婦というと?」

「日本軍の従軍慰安婦に決まっているじゃないか。もっとも、その前にも娼婦をしていたんだから、だれも同情なんかしないさ。まあ、どこにも嫁の貰い手がなくてアメリカ進駐軍の兵隊と結婚して、アメリカに渡ったんだ。それっきりだ。そうそう子供がひとりいたはずだった」

「その兵隊というのはジェームス・ライスという名前じゃなかったですか?」

「わしは、亭主の名前は全然知らんな」

(尊母と呼ばれている女性も戦争の犠牲者だったんだ)

 老人に礼を言い、複雑な気持ちで歩きだすと、夕暮れが谷間をおおい始めた。

(すっかり暗くなってしまうまでに、タクシーが拾えるような広い道に出ることができるのだろうか)

 ちょうど吊り橋の上を歩いているときに、太陽が真っ赤に染まって山際に消えようとしていた。

「扶余の夕陽をもう一度、見たいよ」

 母の沈んだ声が聞こえてきた。

(今日はこんな錯覚ばかりだ)

 頭を振りながら、橋を渡り終えたとき、夕陽はまさに木々の梢を金色に輝かせて落ちていった。

(吉江は、この邑の夕焼けがきれいだという。夕陽以外には心をなぐさめるものは何一つ見あたらなかったのだろう)

 はるかかなたの谷底から響くのは、ひどく寂寥感に満ちたせせらぎの音だった。

  八

 聖書邑から戻った憲哲は、すぐにも吉江を訪ねたかった。しかし扶余週報の締め切りとソウル日報の地方欄のコラムの仕事が重なってしまっていた。さらに邑を訪ねた疲れもたまり二日間も寝込んでしまい、牧師館に顔を出せたのは、ようやく一週間目のことだった。

「先生、あの異端の女をできるだけ早くここから引き取ってはいただけないでしょうか」

 開口一番、姜娟承は不満をぶつけてきた。女の気まぐれには慣れているつもりの憲哲も牧師夫人の豹変には驚かせられた。

「弁護士がやってきて、夫を告訴すると言っているのです」

「弁護士っていうのは、金博仁という男じゃなかったか?」

「ええ、ご存知でしたか。あんな異端の女のせいで、前途ある夫を前科者にはしなくないんです」

 さらに大きくせりあがってきた腹をさする。

「この教会で私が世話をしたこともある男だったんだよ。その弁護士は」

「そうでしたか。じゃよけい先生には責任があるのですね。どうか今すぐあの女を引き取って……」

「お前、何て失礼なことを言うんだ」

 玄関にかけこんで来た牧師の髪は乱れていた。シャツもズボンから少しはみ出していて普段の朴承武らしくない着こなしだった。

「迷惑だったらカウンセリングは、うちで続ければいい。それよりも彼女は元気かね」

「ええ、ずいぶん顔色もよくなりました。食欲も出てきたみたいです」

 そのとき、ピアノの音色が会堂から響いてきた。

「ほらリストです。この教会のピアノから、あんなすばらしい音色が出るなんて思いも寄りませんでした」

 牧師は自慢気に胸をそらす。

「あなたは、いつも私の言うことを聞いてはくれないのね。あなたのことをこんなに心配しているのに。いつも、いつも自分勝手に物事を決めてしまうんだわ!」

 そう叫ぶと姜娟承は奥に消えてしまうのだった。

「家内は妊娠中で心が不安定なんです。失礼をお許しください」

 久しぶりに憲哲を見た吉江は瞳を輝かせる。

「あっ、先生、ご無事でよかった」

 見違えるほどしなやかになったピアニストの指先が鍵盤の上を動く。

「ここへ来てから、夜中もぐっすりと眠られるようになったのです。そしてイエスさまに抱きしめられて、優しく口づけされている夢も見たのです」

「口づけ?」

「変ですよね」

 吉江が手を休めると、リストは会堂のなかから消えていった。

(聖書にそんな個所があったかな)

 実直な牧師の意見を聞こうとして憲哲が振り返ると、朴承武は真っ赤な顔になっていた。

「私、朴先生のカウンセリングを受けて、やっと目が覚めました。出エジプト派に私は洗脳されていたのですね。でも、もう日本の国籍を捨ててしまって……もう遅すぎますよね」

「いや、洗脳されたことに気がつけば、どんな未来もきみには開けるはずだよ」

「たった一日、純白のウェディングドレスを着ることだけが夢だったのなら、街の写真館に出かけて写真を撮ってもらうだけでよかったのに……」

「何か言い残していることがあったら言ってごらん」

「はい、義父はタバコの吸い過ぎで肺がダメになってしまって、ほとんど寝たきりです。義母は家事も家畜の世話も、そして義父の下の世話さえも私にさせるのです。義父からはいつもハングルの発音がおかしいと叱られます。義母にはキムチひとつ満足に漬けられない恥ずかしい嫁と言われます。そして夫は……」

 憲哲の言葉を受けるように、吉江の口からは、この五年間に対する不満が奔流のようにあふれ出した。夫と、その両親から受けたすさまじいばかりの虐待の数々には牧師も言葉をなくすほどだった。

「崔外植は、どうしてそんなにきみを殴ったんだ?」

「夫は、扶余に住めなくなったことを私のせいだと恨んでいるのです」

「目が不自由だと言っていたが……」

「夫は、いいえあの男は、ある事件を起こして片目をつぶされてしまったのです。左目は義眼なのです。ところがこのごろ残った右目も見えにくくなって失明するのではないかと怯えているのです。本当の信仰さえあれば何でもないことなのですが……もちろん、そんな信仰心のない人間ですから、失明の恐れを私への怒りにすりかえているのです」

「やっぱり、そんな事情だったのか」

「いっそのこと、失明してくれればとも思うのです。そうすれば、殴られなくなりますし、少しは夫に優しくしてやれたのですけど」

(あの男と言ってみたり、夫と言ってみたり、吉江の心はここまで来ても、まだ揺らいでいるんだ)

 憲哲は崔外植に軽い嫉妬の気持ちをいだくのだった。

「尊母さま尊父さまが本当に愛の方なら、あんな男とカップリングをして、私をこんなに苦しめるはずがないってことに気づきました」

 うなずく憲哲と牧師は、次の瞬間信じられない言葉を聞くことになる。

「私、プロテスタントの洗礼を受けたいのです」

 牧師は、まばたきもしないで吉江の顔を見つめる。

「朴くん、きみのやったことは素晴らしいことだ。たった二週間でひとりの女性をカルトから解放したのだから」

「いや、彼女の心のなかには、崔外植と結婚した日から少しずつ出エジプト派に対する疑いが芽生えていたはずなんです。それを無理やり押さえつけていたんですよ。そうでなければこんな簡単に、脱カルトなどできるわけはないのです。すべては彼女自身とイエスさまの力なのです」

「この教会で本当の洗礼を受けたいのです」

 吉江は、驚くほど澄んだ瞳で牧師を見上げていた。

「なんと素晴らしいことだ。主よ、感謝します。吉江さんが、私の手から洗礼を授けて欲しいと言ってくれました。感謝します。この教会に来て、十年近く、三百人の信徒に洗礼を授けましたが、彼女に授けることができることこそ最上の喜びです。感謝します」

 あまりにうれしくて、牧師としては禁じられていることを朴承武は口走っていた。

(信徒のあいだを差別してはいけないのに)

 しかし憲哲も、吉江の心がカルトの呪縛から解放されるのは大きな喜びであった。

「うん、そうだ。プロテスタントの洗礼さえ受ければ、きみは元の自分に戻ることができるはずだ。日本に帰国する手段も、きっと見つかることだろう」

 牧師はその言葉には首を振る。

「まだ帰国のことは考えないほうがいいと思います。この地で信仰を深めさせ、日本から渡ってきた友達もみな出エジプト派から辞めさせてからでも遅くないのではないでしょうか」

「いや、私はそうは思わない。一刻も早く、この地から離れることこそ、彼女を立ち直らせる最善の策なんだよ」

「先生のお言葉に逆らうわけではありませんが、この教会の信者たちは、彼女のために先週金曜日には、徹夜の祈祷会まで開いてくれたんですよ。この教会で立ち直らせ、正しい信仰生活に導いてやりたいのです」

(夫人と違って、朴承武は吉江を手放したくはないんだ)

 憲哲には、そう聞こえる一途さであった。

 

 翌日、陽が昇ったばかりのころ扶余週報の電話のベルがなった。

「先生、お願いです。あの異端の女を引き取ってください。また、あのピアノの音を聞いくことになるかと思うだけで頭が痛くなるのです」

 追い詰められたような姜娟承の声であった。時計を見るとまだ午前五時である。

 昼食後、編集を一段落した憲哲は扶余福音教会に吉江を迎えに行った。

「あの女には私がうまく言い含めましたから、お願いします」

 牧師夫人は懇願するような目になっていた。

「うん、わかった」

 身の回りの品と、吉江が何よりも大切にしていた楽譜を紙袋に詰め込みだしたとき、朴承武が現れる。

「あと一週間。もう一週間、ここにいれば完全にカルトから解放できるのに」

 ひどく取り乱したようすである。

「奥さんは、そうは思っていないようだ」

「牧師の妻として失格だ。お前は」

「あなたこそ、あんなことをして……」

「あんなこと、とは?」

「いいえ、何でもないのです。妻の錯覚なのですから。今、ここを出てしまえば、またどんなふうにサタンの誘惑に引っかかるかわかったものではないのに」

「私の所にはサタンの誘惑などないよ」

 そのとき吉江が部屋に入ってきた。気のせいか、やや蒼白な顔色に見える。

「この教会にご迷惑をかけてしまっているようなので……。私も、李先生の所でカウンセリングの続きしていただければ十分立ち直れます。朴承武先生、二週間もの長いあいだ、本当にありがとうございました。姜娟承先生のお食事も本当においしかった」

「さあ、帰ろうか。妻のピアノの調律も直してもらったんだ。思う存分弾くといいよ」

「わっ、ありがとうございます」

 バラ色の頬になった吉江は、牧師夫妻に深く礼をする。

「アンニョンヒ カセヨ(さようなら)」とも言えずに、朴承武は、不思議な表情で玄関に立ちつくすのだった。

 

「ご両親には、まだ電話をしていないのかい」

「まだ、そうする勇気がありません。きっと探知されてしまいますから」

 唇をかみしめる。

(あの荒唐無稽な交換機の話だけは、まだ信じているのだ)

 これほどまでに、吉江の心の奥底まで洗脳してしまったカルトに対する憎しみがわく。

「これから、ちょっと扶蘇山に登ってみようか」

 石畳で覆われた、おだやかな登り坂の途中には発掘調査の跡が残っていた。

「ここからは蓮の花弁の瓦が出てくるんだ」

「こんな山のなかに家が建っていたのですか?」

「ここは百済の都の中心地でこの山全体が王宮だったんだよ。このあいだは修学旅行の中学生が崖に埋もれた金の弥勒菩薩の小仏像を見つけたんだ」

「金の仏像? ロマンチックですね」

「そうだね。百済が滅びてから千三百年もたって、やっとその仏像は地面に顔を出したんだからね」

 そのとき目の前の空き地からカササギが飛び立っていった。

「あそこも王宮の跡なんだよ」

「カササギって、日本にいないでしょ。初めて見たとき、何てきれいで、何て優雅な飛び方をする鳥なのだろうって思ったものです」

「日本では、真っ黒いカラスばかりが飛んでいたな」

(母は、夕陽だけでなく、死ぬまでにカササギもきっともう一度、見たかったのだろう)

 山頂近くの望楼から、ふたりは錦江をのぞきこむ。

「唐と新羅の連合軍に滅ぼされたときに、ここに追いつめられた王宮の女性がひとり、またひとりと、この断崖から身を投げたんだよ。チマチョゴリは芙蓉の花のように広がって川面に落ちていったんだ」

「そんな悲しい話があったのですか」

「ここは、それ以来、『落花岩(らっかがん)』と呼ばれているんだよ」

「扶余の歴史を初めて知りました」

「五年もこの近くに住んでいて、誰も教えてくれなかったのかね」

「ええ、聖書の話はしてくれましたが……出エジプト派ではここをヨルダン川と呼んでいたのです」

(やっと出エジプト派を客観的に見られるようになったのだ。それにしても、またもヨルダン川か。聖書のなかでは恵みの川とされている。確かに、錦江こそ、この扶余の町にとってはヨルダン川なのかもしれない)

 陽が傾きだした。扶余の都の甍を輝かせたのと同じ太陽が沈みはじめた。

(あんなに長くこの町で暮らしていたのに、妻とふたりで散歩した記憶はなかった。川風が嫌いだと言って、ここに登ろうとしなかったからだ)

 憲哲は若いころから、錦江のほとりから夕陽を見るのが好きだった。

 さわやかな風が川面を渡って、吉江の長い髪を揺らす。ふいにその何本かが憲哲の顔にかかって、やわらかな薫りを鼻腔に満たしていた。

(吉江を引きとるために出かけたときは、太陽がまぶしく輝く昼間だった。人生と同じだな。あっという間に夕暮れがやってくる)

「先生が、副牧師をしていらしたのは、あの福音教会だったのですよね」

「朴牧師から聞いたのかい」

「はい。どちらの神学校に行かれたのですか?」

「いいや、今から四十年も前のことだ。朝鮮戦争の混乱のあとで、就職したくてもどんな仕事もなかった。毎日、お腹をすかせていたときに牧師に誘われたんだ。その牧師の開いた日曜学校に子供のころ通っていた縁でね。まあ、旧約と新約聖書の区別もつかないような人間を副牧師にするようないいかげんな時代だったんだよ」

(広島の診療所にいたときキリスト教の信徒たちに心から親切に看護してもらった。あのとき本当は命を落としていたはずなのに。いつか、あの恩返しをしなくてはいけないと思いながら扶余に戻ってきたんだ)

 日本から引き上げてきたときは、まだ十七歳だった。不浪児のように野宿して扶余の町をさ迷っている憲哲は、ようやく探し当てた親戚にひきとられ、大田で暮らすことになった。そこである新聞社の雑用係として働いたのだ。ところが朝鮮戦争が勃発し、北朝鮮軍に徴用されて記者がひとりもいなくなってしまった。しかたなく、戦況をまとめて本社に送ったのが憲哲の記者生活の始まりだった。その後、あまりに社会が混乱し失業した憲哲は扶余に戻り、副牧師になったのだ。

(悩みを持って苦しんでいる人、心の貧しい人たちを救いたい、という情熱があのころ確かにあった)

 結婚するまでは収入があまりにも少なかったことなど少しも気にならなかった。副牧師を辞める最後の引き金となったのは、ライバルの教団をすべて異端、異端とばかり指弾する牧師がいやになってしまったことだった。教会の礼拝に、ときどき顔を出すようになったのも、その牧師が亡くなってからだ。

「自然はこんなにも優しくて、こんなにも美しい。自然界には正当も異端も存在しないんだ。みんな、それぞれ互いを批難することもなく懸命に生きているだけだ。そして悲しいほど調和がとれているんだ。人間の作り出した宗教の世界にそんな優しさがあっただろうか?」

 足元からは錦江のせせらぎの音が聞こえる。憲哲の言葉が聞こえなかったのだろうか、返事を忘れてしまったかのように、吉江は沈む夕陽をながめているのだった。

「私、このまま人生を終わりたくないのです」

 素直な言葉がまだ明るさの残る空に響く。そして、ふたりの眼の前で自然は思う存分の色使いで一日の終わりを描き続けていた。

(神さま、あなたはなぜこんなにも人生を……)

「短く作られてしまったのですか」

「えっ? 何ですって」

「いや、何でもない。独り言だよ」

「そうですか。私も昔から独り言が多いって、よく言われていたのです。先生と私、似ていますね」

「さあ行こうか?」

「はい」

 そのとき、夕暮れの迫る扶蘇山の林の奥から誰かがじっと、こちらをうかがっていることに憲哲は気づいた。

(出エジプト派の連中だろうか)

 そこに思いもかけない顔を見つけた憲哲は、あわてて吉江に語りかける。

「さあ、もうじき暗くなる。その前に町に降りようか」

 

 市場を通り抜けるとき、吉江は、アジュモニ(おばさん)たちと生き生きと会話をして買物をした。耳で聞くだけならほとんど韓国人と変わりないほど流暢な韓国語だった。  

 魚とモツそれに野菜を使って吉江がソッコチゲ(鍋料理)を作った。

「先生、生卵で鍋を食べますか?」

「いや」

「やっぱり」

 初めて見せる吉江のいたずらっぽい表情だった。

「先生は生卵が嫌いなのですね」

「なぜそう思うのかね?」

「だって、ここに来てから一度も生卵が出てきませんでしたから? いつか、ビピンパに入れてくださったのもゆで卵でしたよ」

「ああ、そうか。そうだったな」

「どうしてですか?」

「それは……」

 腕を組み、大げさに考えこむ仕草になる憲哲を吉江は笑顔で見つめる。

「ふっ、本当に先生と私って似ていますね。私も生卵はだめなのです。あのヌルヌルとした感じが……。日本にいたときは、生卵を食べないのは珍しいってよく言われました。あの歯のあいだをぬるっと通るでしょ。あの感覚がダメなのです。それに唇について少したつとカサカサになるでしょ。あれも好きになれない理由なのです。わがままですよね、私」

「そうかい」

 つややかな吉江の唇を見つめていた。

「ひとつだけでいいですから、父と母のために生卵をください」

 そのとき突然、十五歳の少年・憲哲自身の声が頭のなかに響く。

(生卵か……。そうだ。広島の山奥の小さな小屋で毎日、生卵のことだけを考えていた日々があったんだ。そのひとつで家族みんなの命が助かったはずだったのに)

「確かに、喉ごしもヌルヌルするね、生卵は。それに手につくとベタベタするしね」

(半島に戻ってから、五十年以上たつが、一度も生卵は食べていなかった。あの農家の主婦への憎しみのせいなのだろうか? いいや、たったひとつの生卵を食べることさえできずに亡くなってしまった妹と両親への供養のため?)

 いままで考えてみたこともないことに気づかされる憲哲だった。

「さあ、先生、煮えすぎる前に食べてくださいね」

 箸をつけると甘い香りが鼻腔に広がる。

「こんなにおいしいソッコチゲを食べるのは久しぶりだ」

 憲哲のコップに吉江は焼酎を注いだ。

「先生、私これでも五年も主婦をしていたのですよ」

(崔外植は、なんとうらやましい男なんだろう。吉江と五年も食卓を共にできたというだけでも)

 喉ごしの焼酎は、いつになく憲哲を酔わせるようだった。

  九

 久しぶりの一家団欒だった。父も母もおいしそうにテンジャンチゲ(味噌鍋)をつついている。妹は器に生卵を何個も割って、それにモツを入れて食べだした。日本のスキヤキ風に食べようとして、父も母も、次々と生卵を割る。憲哲はそれをうらやましそうに眺めていた。

 湯気を顔に感じるほどの鮮明な夢は、階下の不審な物音で終わった。

 時計を見ると午前二時である。すぐに起き上がって階段を走り降り、ドアをこじ開けて忍び込もうとした男をにらみつける。

「扶蘇山で私たちの後をつけてきたのは、やっぱりきみだったのか」

 きらめく星空の下、新聞社の表に立っていたのは朴承武だった。

「きみはそこで何をしているんだ」

 若い牧師は無言のまま、ドアが開くのを待ちかねたように編集室に入ってきた。

「吉江さんは、二階にいるのですね」

「そうだが……」

「彼女のために徹夜の祈祷をしていました。すると急に、カルトを解く手段を思いついたのです。素晴らしい方法なんです。いますぐ彼女にカウンセリングをさせてください」

 思いつめたような目の輝きに、異常なものを感じた憲哲は、いまにも階段をかけあがりそうな朴承武の体をさえぎるように立つ。

「きみは嘘をついている。こんな深夜に、ここに来た本当の理由を話すんだ」

 暗い電球の下で朴承武の顔は青ざめている。

「正直に言います。夕焼けの扶蘇山で、あなたたちふたりがキスするのではないか、と私は恐れていました。先生は、そんなことをなさいませんでした」

 朴承武の言っていることは、憲哲には、すぐには理解できない。

「今夜も先生と彼女が同じベッドで寝ているのではないかと思うと、もう家にじっとしていることなどできませんでした」

(ひょっとして朴承武は金吉江に恋をしたということか)

「これは、これは……」

 あまりのことに呆然となる憲哲であった。

「彼女は、あまりに熱心に先生のことを慕っています。きっと先生と肉体関係があったに違いないと思い込んでいました。先生、そんなことはないですよね」

「当たり前じゃないか! どうしたんだね。きみほどの人物が……」

(プロテスタントの牧師が、妻子ある身で若い女に恋をするとは。『淫行する牧師などひとりもいない』と、金恵花にいったことが嘘になってしまうじゃないか!)

「みんな僕の情欲が描いた幻想だったんですね。安心しました」

 牧師は荒い呼吸を必死で整えようとしているようだった。

「きみの情欲だと?」

「今、僕はどんな罪に落ちてもいいのです、彼女と抱き合えるのなら。この世にあれほど優しい魂があるのでしょうか」

「多くの聴衆に『汝、姦淫するなかれ』と説いていたのは誰なんだね」

「私はもう人を導くことはできません。教会の役員会に辞表を提出します」

「奥さんはどうするんだね。子供たちは?」

「あんなつつしみのない妻とは別れます。子供には養育費を払います」

「バカなことを言っちゃいかんよ。きみ」

「どうか、そこの階段を昇らせてください。いますぐに吉江さんに恋を打ち明けます」

「ああ、なんと嘆かわしいことだ」

「彼女が信仰を捨てられないのなら、僕が信仰を捨てて出エジプト派に入ってもいい。生まれて初めての恋なんです」

「韓国のキリスト教界の未来を担うはずの牧師が異端の徒になり下がるというのかね。きみは忘れたのかね。二十五歳のとき、医者になるというエリートコースを捨ててまで福音のために働くと決心したときのことを。あんなに悩んで、そして祈って、神に導かれて決めたことじゃないのか。それを一時の迷いで……」

「迷いなんかじゃありません。もう決めたことなのです」

「祈って、神に許されて人は始めて決断できるはずじゃないのか?」

「先生だって、結局はご自分で決断されて副牧師を辞められているではないですか? もう彼女なしでは生きてはいけないのです。イエスさまも、いつか、きっと許してくださるでしょう」

「いや、姦淫の罪は許されることはない。彼女のことをあきらめるのだ」

「いいえ、絶対にあきらめられません。彼女がヨルダン川を渡ってこちら側に来られないのなら、僕が泳いでいくしかないではないですか。ふたりが心も体も一つになるためには」

 体全体から情熱がほとばしるような激しさである。

「いまきみは何歳なんだ」

「三十五です」

「私はきみの人生の倍を生きてきた。人には言えないような欲情を抱いたことも一度や二度ではない。しかし、いま振り返ってみると、その欲情のままに行動しなくてよかったと思うことばかりだ」

「先生は若いときに吉江ほどの素晴らしい女性に会われなかったからです。もし会ったならそんなことは言っていられなくなるはずです」

「その若さなら一時の情欲に流されて、そのような妄想を抱いてしまうのも仕方がないだろう。今夜のことは、私は誰にも言わない。だから、ここから去りなさい」

「いいえ、できません。先生、お願いです。いますぐその階段を上らせてください。彼女の部屋に忍び込ませてください」

 憲哲を押しのけてでも駆け上がりそうな勢いである。

「サタンよ、退け!」

 憲哲の口からは思わず朴承武の口癖が飛び出す。

「僕をサタンと呼ばれるのですか」

「そうだ。きみの心は、もうすっかりサタンに支配されてしまっているんだ。恥ずかしくはないのか」

「妻と別れ、彼女と結婚してふたりで教会を始めます」

「姦通で結ばれたような夫婦の教会にどんな信者が通うのかね」

「じゃ僕は医者に戻ります」

「姦通するような人間を誰が精神科医と認めて、カウンセリングを受けるかね」

「ええ、もうどう思われようと結構です。彼女の部屋に入らせてください。そうでないとこの苦しみから逃れることなどできません」

 若い体の中で荒れ狂う欲望のはけ口を求めて牧師の体は震えだす。

「サタンよ、退け!」

「お願いです。もし部屋に入られないのなら、ドアの手前まで行かせてください。彼女の寝息の聞こえる場所で自慰をさせてください。そうでないと気が狂うしかありません」

「サタンよ、退け!」

「先生、告白します。カウンセリングが終わったあと、僕は毎晩、彼女の部屋に忍び込んで、あの柔らかな唇に口づけしていました。もし今夜、それが出来なければ、僕の魂はこの世から消えてしまいます。この身も心もこの場所で溶けだしてしまいます。どうか、この愚かな男のために、彼女の部屋に入ることを許してください」

「アイゴー」

 そのとき突然のドアの向こうから叫び声があがった。

「奥さん、やっぱり来てくれていましたか」

 髪を振り乱し、泣き濡れた顔で姜娟承が入ってきた。

「きみには言っていなかったが扶蘇山でもうひとり、私たちの後をつけてきている人物がいたんだよ。それが奥さんだった。奥さんは、きみのことが心配でずっとあとをつけてきていたんだよ」

 朴承武は怒りを含んだ目で妻をにらみつけると、プイと横を向く。

「李憲哲先生、あの異端の女は私の夫をたぶらかしていたのです。すぐにこの扶余の町から追い払ってください」

「ふん、つつましさのないお前のような女に、そんなことを言う資格があるのか」

「あなた、三人の子供のことも考えて。このお腹のなかにいる四人目の坊やのことも考えて!」

「その子もきっとまた女だ」

 暗い顔になった姜娟承にたたみかけるように朴承武は言う。

「父親失格と言われてもいい。家族を捨てることは、もう決めたことだ」

「まあ、私たちを捨てるの! あの子たちが牧師の父親をどれほど誇りに思っているのか。あなた、どうか目覚めて」

「そうだ。あのかわいい盛りの素直なお嬢さんたちをきみは本当に忘れられるのか?」

 朴承武は雄弁さを誇った唇を固く閉じる。

「邪悪な心を捨て去ってと何度言っても、この人は聞いてくれません」

(邪悪な心か……それほどまでに言わなくても)

 憲哲の思いが行き詰まるのに合わせるように、それから三人とも、まったく身も心も金縛りにあったように動けない。息をすることもできないほどの緊張に包まれる。それは一分間だったのか、十分間だったのか。

(タイムマシンか)

 目の前でまさに、時間の流れが止まってしまったようである。

「いや違う。金吉江が悪いのでも、朴承武が悪いのでもない」

 憲哲の言葉に、牧師夫妻はようやく大きく息を吸う。

「サタンが心優しいふたりを罠にかけたんだよ。出エジプト派という重いカルトから逃れるためには、カウンセリングの場でふたりが親しくなるのは仕方がなかった。しかし、そこにサタンが待ちかまえていたんだ。要するに出エジプト派こそ、この不倫の根源にあるものなんだよ」

 硬直した牧師の体から力が抜ける。

「先生、今夜は牧師館に戻ります」

 うなだれて答える声はあまりに小さかった。

「やっと気がついてくれたのね、あなたは」

 姜娟承は、にっこりと笑う。

「うん、サタンの誘惑に負けて、こんな罪を犯してしまって……さらに、もっと大きな罪を重ねるところでした」

「いや、きみには理性があった。だから吉江さんの体を奪うことはしなかった。サタンは今夜、最後で最大の攻撃をきみに仕掛けたんだ。そして奥さんの愛の力がそれを打ち破ったんだよ」

「娟承、僕を許してくれるのかい」

「許せるか、どうかわからない。でも『人間にはできないことも神にはできる』のですから。きっとイエスさまが許せと言えば、あなたを許せます」

「奥さん、子供のことに世話をやくばかりではなくて、ご主人にも優しくしてあげてください」

「私、優しすぎるくらい十分に優しくしています」

 きっぱりとした言い方に朴承武は、さらに頭をうなだれさせる。

「今夜のことをイエスさまは許してくださるだろうか」

「ええ、許してくれますとも。私が一緒に祈ればきっとあなたは許されるわ」

「わかった。この邪悪な思いを断ち切ろう」

 朴承武は下唇を噛みしめる。

「あなた、やっと目覚めてくれたのね」

 姜娟承は、勝利感に満ち足りた微笑みを浮かべて、太った体を揺するようにドアをしめて出ていった。

 編集室の古い時計が三時を打ったのは、そのすぐ後のことだった。

(朴承武ほどの男が吉江に参ってしまったのも当然だった。あんなに純粋で、あんなにしとやかな女性を見るのは、私も初めてだからなあ)

 安心して階段の途中まで上った憲哲は、はっとして足をとめる。

「ドアの手前まで行かせてください。彼女の寝息の聞こえる場所で……。そうでないと気が狂うしかありません」

 映画俳優にしてもおかしくないような端正な顔をゆがめて朴承武は訴えていた。

(男があそこまで魂をほとばしらせたのである。あれほど信仰の篤い牧師が、神の栄光を称えるその唇から……そう、口にするのさえおぞましい言葉を発したのである。私や姜娟承の説得だけで、それほどの激しい恋心を変えることなどできるのだろうか)

 何かが起こりそうな不安にとらえられるのだった。

  十

 次の日曜日、午前八時から始まる礼拝の演壇に牧師の朴承武は現れなかった。代わりに立ったのは憔悴しきった姜娟承である。伝道師の資格もある牧師夫人は、とつとつと語りだす。

「夫は山にこもりました。サタンの誘惑から逃れるためにイエス・キリストが砂漠の野で四十日四十夜修行したように」

 礼拝のあと、有能でハンサムな牧師の突然の失踪が扶余の町中に知れ渡った。

 批難の声は当然、その原因を作ったとされる日本から来た異端の女に集まる。

「ここにいるんだろ。わかっているんだ。出てきやがれ!」

 通りで絶叫するのは姜娟承である。

「くそジジイ。お前のおかげで私の家族の幸せは、めちゃくちゃにされた」

 道路をはさんで新聞社の反対側には小さな貸し駐車場があった。そこを埋めつくすほどのやじ馬の真ん中に牧師夫人は立っていた。

「いいかい。夫を帰してくれないんだったら、子供と一緒に私は錦江に身を投げるよ。本気だよ」

 二階の窓から憲哲がのぞくと、姜娟承のすぐ横には三人の娘たちが立っていた。みんななぜか、小さなチョゴリの晴れ着姿である。

(祭りでもないのにあんな濃い化粧を子供たちにするなんて。何を勘違いしているんだ、あの女は)

「あーあ、医者の妻としてソウルで安穏に暮せるはずが、こんなくそ田舎で路頭に迷うことになるなんて……この、くたばりぞこないの李憲哲! 夫を帰せ!」

 罵詈雑言をあびせながら泣き叫ぶ。信徒たちはひとりも見当たらないし、役員の姿もない。姜娟承が自分だけの考えでこんな行動をとっているのは明らかだった。

(こんな姿を見れば、朴承武が逃げた本当の理由は誰にでもすぐにわかるじゃないか)

「みんな、よく聞くといいよ。ここの新聞社の社長も、あの淫乱女とできているんだ」

 そして吉江には、とても聞かせられない言葉が長々と続く。

(あの福音教会との長年の縁も、キリスト教団との縁も、これで完全に切れてしまうんだ)

 何かすっきりしたような気分になれるのが不思議だった。

 そのとき憲哲は駐車場の奥に、ある人物が立っているのに気づいた。腕を組み無言で新聞社をにらみつけていた。それは、間違いなく出エジプト派三ツ星教会の入り口で見た人物である。

 一時間もわめきちらし、やがて疲れたように姜娟承が子供たちの手を引いて帰っていった。野次馬と一緒に三ツ星教会の人間も消えていた。

 騒動が治まるのを待っていたように、吉江が市場から戻ってきた。

「今日は、とってもおいしそうなナスを見つけたのです。でもアジュモニは、少しもまけてくれなかった。どうしてかしら?」

「さあな」

「そうそう、変な中年の女の人から唾を吐きかけられたのです。ハルモニ(おばあさん)にも『牧師さんをたぶらかしている日本人の愛人!』とか叫ばれました。きっと誰かと人違いをしているのですよね。口答えしても、仕方がないので黙っていました」

(あの騒ぎのあと、これから外に出かけたりしたら、どんな理不尽な批難を吉江があびることになるかわかったものではない)

「出エジプト派が悪い噂を流しているのかもしれない。当分、この家から一歩も表に出ないほうがいい」

 三ツ星教会の人間がすぐ近くにまで来ていることを憲哲は言えなかった。

「ええ、先生のおっしゃる通りにします」

 吉江は素直にうなずいていた。

 

 そして、また次の日曜日がやってきた。

 午後の暑い日差しにあたったような暗い顔色で韓邦根が訪ねてきた。

「朴承武は、まだ見つからないのか?」

 憲哲の言葉を聞いても、しばらくは腕を組んで天井を見上げるだけだった。

「もう一週間も音信不通だ。警察も全力をあげて探しているのだが……あの牧師の死体だけは見つけたくはない」

「プロテスタントの牧師だ。自殺はしないだろう」

「本当に、そう思うのか? 人間、追い詰められたらどんなことをするか、わかったもんじゃないぞ。悪い噂が流れている。このままでは、この新聞社もたたまなくてはいけなくなるかもしれないぞ」

 そのとき、隣の部屋からピアノの音色が響いてきた。

「そうだろう。購読中止や、宣伝の掲載中止の電話がこの一週間、鳴りっぱなしだ」

 ピアノが響く壁を韓邦根は怒ったようににらみつける。

「おまえの社会的な立場も悪くなる。あの女は聖書邑に戻したほうがいいんじゃないのか」

(あの悲惨な場所に吉江を戻せというのか!)

「あそこに帰すことなどできない。もう少しでカルトが解けるはずなのに」

「市場ではみんな『邪悪な女』と言っている。一歩も表に出られなくて、この町で暮せると思うのか?」

「おまえも、邪悪だと思うのか?」

 ピアノの音色が続く。ふたりの心を吹きぬけていくのは、あまりに清らかなメロディである。

「いいや、あの女は素直すぎるんだ。じゃなければ、あんなひどいカルトに洗脳されるわけがないじゃないか」

 韓邦根から一度も聞いたことのない、哀しさを含んだ口調だった。

「ソウルに知人がいる。その男は、いいカウンセラーを知っている。そこに預けて、しばらくしたら、あの女を日本に帰すようにしてはどうか」

(確かに、この町にいつづけられるのも、そろそろ限界なのかもしれない)

「そうか、やっぱりそれしかないのだろうな」

「うん、そうだ」

 韓邦根はタバコに火をつけた。いつもこれ以上ないというくらいにうまそうにタバコをすうのに、今日は不機嫌なままである。

「どうしたんだ? まだ何か言いたいことがあるのか?」

「カーテンの向こうを見てみろ」

 窓の外、駐車場に立っていたのは、先週の日曜日にいたのと同じ男だった。相変わらず、腕を組み無言のまま新聞社をにらみつけていた。

「三ツ星教会の牧師だぞ、あいつは。呉忠一(ウ・チュンイル)という名前だ」

 先週よりも、ずっと近くから見ると、どんな凶悪犯よりも悪い人相をしている。

「吉江を見張っているのか?」

「そうに決まっている。だが手出しはしないと見ている」

「どうしてだ」

「おれの直感だ。本当の凶悪犯は、みんな仏のような顔をしている」

「どういう意味なんだ」

 憲哲の質問には答えることもなく不思議なほど暗い顔をして、韓邦根は新聞社を出ていった。

「ショパンかね」

 ポロネーズを弾く手を休めた吉江の隣に座る。

「どうして流産したことを黙っていたのかね?」

 吉江は睫のあいだからじわっと染み出すような涙を流しだした。

「身重のまま、毎日、家事と畑仕事と豚の世話をしているうちに出血してしまったのです。病院にも連れていってもらえなかったのです。そして、ついに流産してしまったのです」

「崔外植は、きみの流産のことを申し訳ないとは思っていないのかね」

 吉江は、ゆっくりと首を振る。

「子供は何か月だったんだね」

「八か月です」

「そりゃ、大きいね」

「ええ、男の子でした。台所の隅で急に産まれてしまったのです。私が取り上げたとたん、すぐに息をしなくなって……喉に血がつまってしまっていたのです。両足を持って背中をたたいたのです。でも、いつまでたっても元気な泣き声をあげてはくれなかったのです。とっても大きな瞳を持ったかわいい子でした」

「きみの子供だったら、本当にきれいな赤ん坊だったんだろうね」

 憲哲には、その子のつぶらな瞳が見えるようだった。

「私、きっと男の子だろうと思って名前も考えていたのです。金韓日っていうんです」

 子供には夫の苗字をつけなくてはいけないということを吉江は知らなかった。

「大きないい名前じゃないか」

「ふたつの国のあいだの架け橋となるような、きっといい人間に育つと思ってつけた名前なのです」

 吉江は静かに腹をなぜる仕草をする。

「私、妊娠がわかってから八か月のあいだ、ずっとあの子と話をしていました。だから、どんなにつらい仕打ちにも耐えられたのです。あの子を無事に産めばきっと義理の両親も夫も優しくしてくれるようになるって信じていましたから。それに、あの子は母親のことをとっても気づかって、優しく話しかけてくれていたのです。『お母さん、そんなことで泣かないで』って。お腹のなかから聞こえてくるその声で、何度勇気づけられたのかわかりません。あの子こそ、私の救い主だったのかもしれません」

(尊母さま尊父さまがイエス・キリストから生まれ、そのふたりが、またイエス・キリストを生んだって、いつかきみは話していたね。救い主を生んだのは聖母マリアのはずだったのに。きみのおなかのなかにきみの救い主がいたただなんて……)

 あの奇妙な理論を思い出し、胸がつぶれそうな思いになる。

「その子を私は守りきることができなかったのです。あんな未熟なときに、あんな土間の上に産んでしまって……でも、それを夫は……夫は……」

「崔外植はどうしたんだね」

「夫は……」

 グアーン。

 ピアノが濁った不協和音を響かせる。吉江が怒りをぶつけるように鍵盤の上に手を打ちおろしたからだ。

「流産した子を豚に食べさせてしまったのです」

「そんなひどいことを! あの男はしたのか」

「それだけじゃないのです。義母も義父も流産した私が悪い。そんな不器用な女は離縁だ、離縁だって毎日責めたてるのです」

(吉江があの家を出る決心をしたのは、きっとその時だったに違いない。子供の墓がない、と崔外植が言っていたのも当然だったのだ)

「あの子に申し訳なくて……」

 憲哲の胸に頭をうずめるようにしてそれから十分間も嗚咽しつづけるのだった。

「日本のお父さん、お母さんにも申し訳なくて」

(卑父や卑母じゃないんだね)

「お話を聞いていただいて目が覚めました。私、すっかりだまされていたのですね。日本はエジプトなんかじゃありません。日本は日本です。私の両親が私を大切に育ててくれた故郷なのです」

「日本の自宅の電話番号を教えてくれるね」

 軽くうなずくと、吉江は素直にその番号を口に出した。

(きっと何度も何度も電話しようとして心の中で繰り返して覚えていたのだろう)

 憲哲は、すぐに吉江の両親と連絡をとることにした。

 

「もしもし、新井さんですか? 今、こちらで娘さんを預かっています」

 自己紹介したあと、なるべくさり気ない調子で切り出した。

「出エジプト派の人でしょう。もう出すお金は一銭もないんだ!」

 電話口に出た父親は、怯えと怒りの入り混じった口調でまくしたてる。

「私は、以前は教会に通っていたこともありますが、いまは無宗教です。韓国の扶余から本当に国際電話をかけているんですよ」

「扶余から!」

「お父さんは、出エジプト派教団の東京本部に、今までどれくらいのお金を払いこんだのですか?」

「娘は人質なんです。私は毎年、百万円ずつ払っています。今年からそれを倍額にしろと言ってきたんです」

「毎年、二百万円ですか」

「ええ年金暮らしの年寄りには、とても無理な額です。でもいやなら、韓国の信者から別れさせて、ボツワナの信者と一緒にさせると言われているんです」

「ボツワナというと南アフリカの近くの?」

「はい、娘をアフリカ大陸にやりたくないのなら、家を売ってでも金を作れ、と脅かされています」

「そんなことをしたら、住むところをなくしてしまうじゃないですか」

「全財産を寄進するのなら一時的に、娘を日本に戻してもよいと言うのですが……」

「お父さん、キリスト教では離婚は絶対に許されていません。出エジプト派も同じ戒律です。それに夫になる人物の国籍は韓国だけです。アフリカに信者がいるということなど聞いたこともありません。お父さんからお金をまきあげるための手段としか思えません。片道の航空券の代金だけを送っていただければ、私がなんとか日本に戻ることができるようにがんばってみたいと思います。娘さんも、心の底ではそれを強く希望していることでしょうから」

 そのとき吉江は、なぜか力なく笑った。

「私には、もう、貯金はほとんど残っていません。でも、航空券の代金だけで娘が帰ってくるのなら、こんなうれしいことはありません」

「お嬢さんは、ここにいます。声をお聞きになりますか?」

「そ、それは、もう……」

 あまりのことに返事は途絶えた。

 吉江は、激しく首を振る。

(まだ直接会話するだけの勇気はないのだろう)

「お父さん、こちらに来ることはできませんか?」

「いま、腰を痛めているんです。ヘルニアで、すぐに入院しなくてはいけない状況ですので韓国に行くことはできません。吉江の声を聞かせていただけますか?」

「娘さんは、まだお父さんと話し合える自信がないと言って……」

 そのとき、吉江は受話器をひったくるように取った。

「お父さん! お金を送ってください。私、日本に帰ります」

 息せききった叫びが憲哲の鼓膜に響く。

「私、すっかりだまされていたのです。もう出エジプト派はやめるって、お母さんに言って……。えっ?」

 それから、受話器を持ったままの吉江の瞳からは、大粒の涙が流れだすのだった。

 驚いたことに母親はすでに亡くなっていたのだ。

「お母さん、ごめんなさい。お母さん、お母さん」

 吉江は、それから半日以上も嘆き続けるのだった。

  十一

 白い舗道の上に描かれた水墨画のようなやわらかな木陰が、急に濃くなってきた。八月の厳しい日差しを避けるように道を歩く人も急ぎ足になる。楷書のハングル文字のように、くっきりとした硬い人影が歩道の上を動く。

 暑い夏の午後、扶余週報の前に黒塗りの高級車が止まった。

「やりにくいなあ、やっぱりここだったか」

 ぽつりと独り言をもらすと、男はゆっくりとドアをあけた。

 降りてきた男は、銀縁の眼鏡をかけて大きな黒いカバンを持っている。仕立てのよい高級な背広が、いかにも弁護士だと思わせる恰幅のよい体を包んでいた。

 車のなかからは続いて、男がもうひとり降りてきた。あの三ツ星教会の牧師の呉忠一である。 

 玄関の前で深呼吸すると、金博仁は人懐っこい笑顔を作る。連れの男をともなって新聞社に入ってきた。

「李憲哲先生、お久しぶりです」

「おお、何年ぶりになるかな」

 あらかじめ電話を受けていた憲哲は厳重に鍵をかけた部屋に吉江を隠していた。

「二十年ぶりです」

「そうだな。ソウル大学に行くきみを扶余のバスターミナルで見送ったとき以来だ。なつかしいなあ。あのときはまだターミナルは木造だったな」

「ええ、まあ」

 あいまいな答えをして、大きな体をソファーに埋めた。

「そちらの牧師さんも、どうぞ遠慮なく、こちらに腰掛けてください」

 ソファーに手をさしのべても呉忠一は無言のままたたずんでいる。

「熱い人参茶でもいかがかな」

 精一杯の憲哲の愛想笑いを無視して、二階への階段をにらみつけているだけである。

(まるで新聞社の間取りを見るためだけに入ってきたようではないか)

「本日は、どういうご用件ですかな?」

 カルト教団の牧師は自己紹介もしない。まるで、それが癖であるかのように腕を組んで立ったままである。

「ひょっとして、あなたは金華姫さんとジェームス・ライスさんの間にできた子供じゃないですか?」

 それまで塑像のようにどっしりと構えていた呉忠一は、突然、壊れたロボットのように手足をバラバラに動かし始めた。

「くっ、くっ、くっ、あっ! あっ! あー」

 意味不明の音を発し、髪の毛をかきむしる。最後は悲鳴のような声を出すと、すさまじい勢いで玄関から飛び出していってしまうのだった。バタンと閉まるドアの音に弁護士も、やや面食らっているようすである。

「博仁君、きみは不思議な人物と知り合いなんだね」

「あまり気になさらないでください。変わり者ですが、信仰心のある人間です。悪いことはしませんよ」

「信仰心か? ひさしぶりに聞く言葉だな。小学校のころのきみは信仰心があったなあ」

「先生、今日はゆっくりと昔話もしたいのですが、仕事の話もしなくてはいけないのです」

 眼鏡の奥の瞳は突き刺すような鋭さを帯びる。

「きみは出エジプト派の顧問弁護士になったらしいね」

「ご存知でしたか。それでは話が早く済みます。いまこの家に住んでいる女性を夫の崔外植の元に返してやってください。用件はそれだけです」

 金博仁は冷たく言い放つ。その言葉が聞こえなかったふりをして、憲哲は穏やかに話し出す。

「彼女を昔のように日本で暮せるようにするには、どういう方法があるだろう?」

「それは難しいですね。結婚によって、いったん日本国籍を離脱した人間が、再び日本国籍を回復することはほとんど例がないですから」

「そうか、弁護士のきみなら、何かいい考えを持っていると思ったのだがね」

「先生、話をはぐらかさないでください。先生が匿っておられる女性は、まもなく重罪で刑事告訴されますよ」

 ドスの利いた低い声になる。

「どんな罪になるというのだね」

「窃盗と両親への暴行です。崔家のお金を持ち逃げしているのです。犯罪者を匿うと先生のへの告訴も免れませんよ」

(暴行を受けていたのは彼女のほうで、大金をまきあげられていたのも彼女じゃないか)

「きみは牧師夫人を、そういう言葉で脅したんだね」

「脅しだなんて、失礼な。弁護士としての当然の任務を行なっているだけなのですから。法律違反の行為を指摘しただけなのですよ。先生が、あくまであの女性を匿うということになりますと、このままでは非常に残念なことですが、先生自身も婦女暴行および誘拐で告訴されることになってしまいます。金吉江を我々の側に引き渡してください。そうすれば、私の力で、すべてはなかったことになりますから」

「私が婦女暴行と誘拐で! そんなことを誰が信じるんだ」

「扶余の住民です。かなり悪い噂が流れているというじゃありませんか」

「さっきここから出ていった三ツ星教会の牧師を初めとする、出エジプト派の連中が流したんだ」

「いいえ、違います。町中そう言いふらして歩いているのは扶余福音教会の牧師夫人です。もし、この告訴が受理されたら、先生の大切に育ててきたこの扶余週報社は潰れてしまうことになってしまいますよ。それに彼女も永遠に日本に帰ることなんてできません。犯罪者の国外逃亡となりますからね」

(きみこそ、恐喝の罪で告訴してやる! 弁護士資格を剥奪されてもいいのか!)

 そう叫びそうになって、博仁の瞳をにらみかえそうとしたときだった。銀縁の眼鏡ごしに、幼かったときの輝く瞳が重なって見えてきた。

「きみが十歳のときだった」

 憲哲はおだやかな口調できりだした。

「ふん、ソウルでも大田(タデン)でも公州(コンジュ)でも、どこでも年寄りは昔話ばっかりだ」

「きみのお父さんが亡くなった」

「ふん、酒飲みのろくでなしだ」

「いや実にいい仕事をする大工だった。この家もお父さんが建てたものだ。三十年たってもびくともしない」

 憲哲が天井の梁を見上げると、博仁もつられるようにどっしりとした造りの新聞社を見回す。

「私の大切な飲み友達だった。肝臓を悪くしたと聞いたときにも、かまわずに焼酎を毎日のように飲み明かしていた。お父さんがあんなに若くして亡くなってしまった責任は、私にもあったんだ。お母さんが新聞配達をやりたいと言ってきたのは、葬式が終わってすぐのことだった。ソウル日報を百部配りたいと」

「百部でも大した金にはならなかった」

「お母さんは、昼間は電機会社の下請けの工場で働いていた。あの体力では百部を配るのは、とっても無理だった。私は近所の五十部だけお願いした」

「おかしいな? 毎月、毎月、百部分のお金をもらっていたはずだった。私が高校を卒業するまで、ずっと」

「五十部は私が配った。深酒もやめて、朝型の暮らしをするようになった。おかげで今も足腰が丈夫だ」

 両足をたたく憲哲の仕草を驚きの目で見る弁護士である。

「冬の朝、お母さんは四時に起きて新聞店に行って、重い新聞を自転車に乗せて配っていたんだ。凍っている道の上をお母さんが走る姿は危なっかしくて見ていられなかった。本当は、五十部も私が配ってあげればよかったんだ」

「僕も新聞配達を手伝いたかった。でも母は絶対に配達をさせてくれなかった。勉強だけしろと言って」

「そうだろうな。そうそう梅雨時に新聞を濡らしてしまって泣きそうになって私のところにかけこんできたこともあった。そのときは、私も一緒になって、一軒一軒謝って歩いたんだ。お母さんの悪口をいう購読客はひとりもいなかった。お母さんは、みんなに好かれていたからね」

「その話は始めて聞くけど……。先生が新聞を配ってくれていたことを、母はなぜ、ずっと黙っていたのだろう」

「私がお願いした。聖書にこうあるだろう『右手のすることを左手に知らせない』って」

「マタイの福音書六章か」

 弁護士はふいに遠くを見る目になる。

(『あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの神は、報いてくださるであろう』思ったとおり、金博仁は、この聖句を覚えていた)

「そうだ、博仁。きみは本当に素直で頭のいい子だった。日曜学校でも聖句を覚えるのが一番早かった。学者になってお母さんに楽をさせてあげたいって、よく言っていたね」

「やめてください」

「きみがソウル大学に受かってから、きみのお母さんは、この扶余の町を出ていってしまった。公州(コンジュ)にある本社直轄の工場で正社員として働くためだった。私は、新聞百部全部を配ってもいいって言ったんだ。でも『どうしてもこれ以上迷惑をかけたくない』とこの町から出て行った」

「……」

「あのバスターミナルからバスに乗って出かけていってしまったときのことが昨日のことのようだ。『これで博仁には、もっともっとたくさん送金ができるようになる』って、にこにこしていた顔が忘れられないよ。でも、あのときどんなことをしてでも引き止めておけばよかった。厳しい競争社会で生きていけるような人じゃなかったんだ」

「あんな虐待企業に行くことはなかったのに……」

「その通りだった。お母さんは、残念だったね。きみが司法試験に合格する前に亡くなってしまった。でも、もし今のきみの姿を見ることができたなら、どれほど喜んでいることだろう。立派な弁護士になって社会に役立つ人間になったのだからね。私も本当にうれしいよ」

「やめてください」

「そうだ。きみがまだ五歳のころだった。お父さんが仕事でけがをして、お母さんが一か月ほど病院に泊り込まなくてはいけなくなったことがあった。そのとき牧師館に泊まったことを覚えているかい」

 博仁は小さくうなずく。

「『お母さんがいない! お母さんがいないって』毎日、泣いてばかりだった。まだ元気だった妻がどんなにおいしいお菓子を作っても泣きやまなかった」

「やめてくれ! やめろ、昔話は」

 金博仁は、目を真っ赤にして飛びだしていくのだった。

 

 翌日、吉江の父親から国際郵便が届いた。

 サインのまったく入っていないUSドルのトラベラーズ・チェックで四千ドルが入っていた。ウォンにすると四百万ウォンである。

(日本への片道の航空券なら四十万ウォンもあれば十分なのに)

 娘を取り戻したいという父親の必死の思いが伝わってくるようだった。

「どうやってパスポートを手に入れればいいんだろう」

 憲哲は韓邦根を新聞社に呼んでいた。

「何しろ、身分を証明する書類がひとつも無いんだからな。すぐに住民登録証をとりよせなくてはいけないな。それは何とかおれが動いてみよう」

「助かるよ」

「それよりも、もし告訴されてしまったら出国は百パーセント無理だ」

「告訴をさせないような手段はないのだろうか?」

「それはないな」

「事実無根なのだから、裁判になっても、すぐに決着はつくんじゃないのかね」

「相手があの金博仁だと話は違う。辣腕の弁護士なら、どれだけでも引き伸ばす手段はあるんだ。裁判が何年かかるかは、やってみなくてはわからない」

「こちらも弁護士をたてるしかないのかね」

「そうだ。百万や二百万ウォンでは済まないぞ。それより少なくても一桁上の金がかかる」

(吉江の父親が送ってきてくれたお金はみんな裁判費用に消えてしまうじゃないか。それに、あと何年も時間がかかるなんて……)

「あの金博仁から、こんな仕打ちを受けるようになるとは思わなかった。子供のころから、キリスト教の愛と許しを教えたつもりだったのに」

「ふん『愛と許し』だなんて、そんなものがどれだけ、ちょっとしかないものか。人の心なんてものが、どれだけどろどろとした汚物で満たされているか。むきだしの現実に向き合ったときの人間の汚さを、警察の現場でいやっていうくらい見てきたんだ。だからおれは宗教なんて信じないんだ」

 投げやりな言葉とは裏腹に、韓邦根の瞳には哀しい陰が広がっていた。

「ひとつ、いい知らせがある。いや悪い知らせかな?」

「何だ、変な言い方をして」

「警察署にいって聞いてきたんだが、あの教会には、二十人ぐらいの男の信者がいる。その連中が宣教活動をしているんだが、いまはどこかに出かけていて、牧師以外は誰もいなくなってしまったらしい」

「じゃ、いまは彼女が拉致される心配はないんだな」

「まあ、そうだが、いつ戻ってくるかわかったもんじゃない。おまえ二十人の若者と闘えるのか?」

「無理に決まっている」

「そうだろう。金吉江が拉致される日は刻々と近づいていると見たほうがいいんじゃないか」

「やつらは、どこに行ったんだ」

「連中は、みんな日本にリクルートに行っているようだ」

「リクルートというと?」

「第二、第三の金吉江を探しに行ったんだ。ひとりが必ずひとり以上の日本女性を入信させるまで帰国できないらしい」

(ひとりの女性を救っている間に、また不幸な女性が二十人も増えるというのか。すべて日本という国が悪いんだ。あんなカルト教団の力を借りなくては、若者に戦争責任を教えることができないだなんて)

 憲哲は、思わずこぶしをにぎりしめていた。

 

 数日後、黒塗りの車が再び新聞社の前に止まった。

「先生、家内です」

 小柄で人のよさそうな女性が礼をする。

「こちらが息子です」

 金博仁は家族を連れてやってきたのである。

「そうか、いい子だ。お父さんの小さいときに、そっくりだ」

 穏やかな笑顔を作りながら、憲哲は弁護士の来訪の真意をさぐる目になっていた。

「いいか、おまえたち、この李憲哲先生こそ、私と亡くなった母のふたりにとっての大恩人なのだ」

 法廷で弁論する姿を彷彿とさせるような、よく通る声で妻子に語るのだった。

(どうやら敵意を持った訪問ではないらしい)

 新聞社に招き入れると、緑茶を飲むのも早々にせきこむように話しだした。

「先生、日本国籍の離脱が本人の意思ではなく詐欺的な手段、あるいは違法な手段によるものだったら、金吉江の国籍回復の可能性は十分にあります」

「出エジプト派に洗脳されて国籍離脱したことだと証明できるかね」

「一般人を洗脳し、信者にするためのノウハウを綴った教団の内部文書のコピーがあります。これは証拠になると思います」

「いいのかね、雇い主を裏切るようなことをして」

「先生、大田で彼女のパスポート発行の手続きをしてきました。あとは彼女が役所に出頭すれば手続きは終わります」

「彼女の住民登録証はどうしたんだね?」

「告訴に必要だといって、教団が保管していたものを取り寄せました。ここに持ってきました」

 弁護士がアタッシュケースから取り出したのは、韓国人なら誰もが持っている紙にビニールコーティングされた登録証である。

「いいのかい。雇い主をだますようなことをして」

「かまいません。事務所に戻ったら、すぐに出エジプト派教団の顧問契約の破棄を通告するつもりです。あんなカルト集団のために働いていただなんて……私は、母があれほどまでに苦労して取らせてくれた弁護士資格を、あやうくなくしてしまうところでした」

 少年の笑顔になっていた。

「金博仁は百済の男だ」

「先生、お願いです。ソウルまで、いや空港でチェックインするまで彼女と一緒についていてやってください」

「もちろん、そうするつもりだが」

「ソウルに泊まるときも目立たない小さなホテルか旅館に泊まってください。彼女は韓国に渡って、初めて日本に戻る女性になるのです。『出エジプト派』流にいえば教えを捨ててエジプトに戻る初めての信徒となるのです。あの牧師は臆病者ですから、大胆なことはしないでしょうが、三ツ星教会の若い連中が途中で拉致することは十分にありえますから」

「ありがとう。きみこそ百済の都、扶余の男だ」

 過分な誉め言葉に照れくさそうに笑った金博仁は、帰り際に車のトランクから赤い旅行カバンを取り出していた。

「これは妻が選んでくれたものです。金吉江さんへのプレゼントです」

 吉江の白い肌に似合ういい色だと憲哲は思った。

  十二

 太陽が沈むのを確かめるようにして、憲哲と吉江は新聞社を出た。

 まだ明るさの残る西の空、扶余三山のひとつ浮山の上に大きな星が光りだした。

「金星だね」

「先生、あれは惑星じゃなくて、恒星のシリウスですよ」

「宵の明星かと思ったけれど、違うんだね」

「ええ、シリウスは金星より青白くて、しかもずっと遠くにあるのですよ。金星から出た光は四分で地球に届くのですけれど、シリウスから出た光は八年もかかって地球に着くのです」

「きみは星空に詳しいんだね」

「ええ、ピアニストにならなかったら、きっと天文学者になっていたと思います」

 吉江の瞳は、サファイアのような一番星の輝きを追う。

「東京で星空なんか見えるのかね」

「あれっ、先生にはまだ話していませんでした? 私、十二歳まで長野で育ったのです。父がそこで銀行の支店長をしていたのですが、急に東京に転勤になってしまって……。星空がまったく見えなくなったころから天文学者になる夢も消えていってしまったのです」

「いつかきみはオリオン大星雲の話をしてくれたよね。冬になるたびに扶蘇山の上に出るあの三ツ星を見るのが好きだった。小学校のころからずっとね」

「不思議ですね。私もあの三ツ星が大好きだったのです。あの星にもピアニストはいるのかしら? そしてこんなに厳しいレッスンを受けているのかしら? 小学校のころピアノ教室からの帰り道に、木枯らしに吹かれながらそう思って歩いていたのですよ。三ツ星教団に興味をいだいたのも、そのせいだったのかもしれません」

「そうかロマンチストだね。きみは」

 憲哲も同じように星空をながめていたことがあった。

(あの星雲にも、戦争があるのだろうか? 人種差別はあるのだろうか? きっとあるに違いない。悲惨なことだが、どんな宇宙のどんな世界にも必ずあることだから。しかし『創氏改名』はどうだろう? 被占領地の住民を厳密に区別し、統治するのがこの宇宙の法則なのではないだろうか? 名前を同じようにしてしまったら統治の基本が崩れるではないか? どんな宇宙でも、そしてあのオリオン大星雲でも『創氏改名』だけは絶対にないはずだ)

 いくつもの星座をながめまわし、どの星座、どの星雲の独裁者であっても、『創氏改名』だけは、なしえないことだと信じていたものだった。

 最初に会った日、吉江がこう言っていた。

「どんな刑罰よりも人の心を切り裂く残酷なことだったんですよね」

 たとえ、カルト教団の教育の結果であったとしても、『創氏改名』のことを同じように思ってくれていたことがうれしかった。

 

「おーい、ここだ。高速バスの乗り場は」

 早めについた街灯に浮かび上がるバスターミナルでは、韓邦根が待っていた。

 目立たないように夕暮れ時のバスを選んだのも、この元警察官だった。

「さあ、バスのチケットだ」

 吉江は、うなずきながら受け取る。

「ここに航空券もある。明日の午後三時の便だ。割引航空券だから、絶対に便の変更はできない。わかっているね」

(こんなマメな男だったんだろうか?)

 親友の意外な一面に少し驚いた憲哲も、吉江に声をかける。

「さあ、それで東京に戻られるんだね。パスポートは忘れていないよね?」

 返事の代わりに、吉江は赤い旅行カバンを強く握りしめていた。

「これで美しい天女ともお別れだ」

 韓邦根は皺だらけの顔に涙を流す。

「韓先生もお元気で」

 答えの代わりに韓邦根が大きくうなずくと、自慢の白い髭にも涙の粒が落ちた。

(この男がこんな風に別れを惜しんで泣くなんてこと一度もなかった。六十年以上の付き合いのなかでも)

「さあ、バスに乗り込もうか」

 吉江に声をかけながら憲哲はふと空を見上げた。

「ありがとうございました。おふたりのご恩は決して忘れません」

 そのとき雲間に残っていた最後の残照も消えていた。

 

 扶余の山河は闇のなかに沈もうとしていた。

 バスに揺られじっと外をながめている吉江の横に憲哲は座っていた。出エジプト派の誰かがこの同じバスに乗っていて吉江を拉致してしまうのではないか、と恐れながら。街灯に照らされた橋の上を崔外植そっくりの男が歩いていた。

(あの酒臭い暗い部屋にずっと寝そべっているはずの男がここにいるはずはないのに)

 自分の錯覚に驚く憲哲だった。

「朴先生にも奥様にも挨拶したかった」

 ぽつりと吉江がもらす。

(姜娟承の言葉を聞かなかったのだろうか? あの罵詈雑言を。だから、こんな言葉が出てくるのだ。ひょっとして、カウンセリングした牧師の失踪も、まだ知らないのかもしれない)

「そうだ! 朴承武だ」

 憲哲の叫びにバス中の乗客が振り返る。

(あの男こそ、吉江のあとをつけてどこまでもどこまでもやってくるだろう。社会的地位も捨て、家族も捨て、信仰も捨ててしまったのだ。未来を支えるはずの何もかも捨ててしまった三十五歳の男には、もはや怖いものなど一つもないではないか)

 ソウルが近づくにつれ、かえって出エジプト派の拠点に近づくように身構える憲哲であった。

 

 バスがソウルの南部(ナンプ)ターミナルに着いたのは夜の十時過ぎだった。

 人ごみに押されるように地下鉄の南部ターミナル駅に降りていった。自動販売機の前でとまどう憲哲の横で、吉江は手際よく二枚の切符を買っていた。

「宿は仁寺洞(インサドン)にとってある。どちらに行けばいいか、わかるかな?」

「ええ、このまま三号線で行って鐘路三街の駅で降りれば、あとは歩いていけるはずです」

「ずいぶん慣れているんだね。ここは五年ぶりじゃないのかい?」

「ええ、でも東京の地下鉄の複雑さに比べたら何でもないですわ。さあ先生行きましょう」

 地下鉄は思ったよりも混んでいた。そして列車が漢江の長大な鉄橋を渡っているときである。

「あっ!」

 憲哲は小さな叫び声をあげる。

(こんな所に三ツ星教会の牧師がいるだなんて)

 すぐ近くの席で呉忠一が川面をながめていたのだ。列車と並行して走る道路を車が通るたびに、無表情だった顔がヘッドライトの反射をあびて、不気味に笑うように見えた。

「朴承武だ!」

 これは誰にも聞こえる大きな声になった。

 次に降りる駅の名前を探そうとして、路線図に近づこうとした憲哲の目の前に、瞳をぎらぎらと輝かせる男がいた。

(こんな所に扶余福音教会の牧師がいるなんて)

 食い入るように吉江を見つめ、荒い呼吸を必死で整えようとしているようだった。

 ふたりの牧師に挟まれて憲哲は身動きできなくなる。吉江に声をかける暇もなく、鉄橋を渡ってすぐに止まった玉水の駅では、多くの客が乗り込んできた。金湖の駅では、吉江に近づくのでせいいっぱいである。

「いいか、少しずつ出口に方に行くんだ」

 吉江にかけた声は地下鉄のトンネルに反射する列車の音にまぎれてしまう。

 薬水の駅で吉江の腕を強引にひっぱってふたりの牧師から離れた出口に向かう。

 東大入口の駅では、たくさんの学生が乗りこんできた。牧師たちは、ようやく憲哲の意図を見抜いたようだ。あわてて吉江の体に近づこうとするが学生たちに阻まれている。心臓の鼓動が高まる。

「いまだ!」

 忠武路駅について、ドアが閉まる瞬間に、吉江を引きずるようにしてホームに飛び降りたのだった。

「先生どうかしたのですか?」

「いや、ちょっと目まいが……」

「大丈夫ですか?」

「乗りなれない地下鉄に乗ったからだろう」

 ホームで五分ほど休むと動悸もおさまってきた。

(あのふたりは、ただ姿が似ていただけなのだろうか?)

 そのとき低い地鳴りと生暖かい風が反対側のホームから響いてきた。すぐに列車が入ってくる案内が流れた。

(牧師たちが引き返してくる!)

 ふたたび動悸の高まる憲哲に吉江が声をかけてきた。

「先生、東大門市場(トンデモンシジャン)に行ってみたいのですが、いいでしょうか?」

「それはどこにあるんだ?」

「この駅から四号線に乗り換えて行けばすぐなのですけれど」

(牧師たちを巻くのにはちょうどいいじゃないか)

 憲哲は、そこに行くことを決めるのだった。

 朝鮮王朝時代の首都の東を守る興仁之門は、通称として東大門と呼ばれていた。その西側は大きなショッピングセンターになっていたのだ。

「でも、こんな夜中に市場が開いているのかい?」

 それは憲哲の誤解だった。

 

 四号線の東大門運動場の駅を降りると、夜の十一時過ぎにもかかわらず、驚くべき数の人間がソウル中から、いやこの首都圏全体から集まってきていた。そして、狭い歩道は髪を染めた若者であふれかえっている。

 扶余の市場などとは比べ物にならないほどの近代的で巨大なビルも建ち並んでいた。

(今までの人生で出会ったすべての人間の数もこれほどまで多くはない) 

 立ちすくむ憲哲に声がかかる。

「お孫さんと買物かね。まだまだ空いている時間でよかったよ。二時、三時には、もっともっと人ごみになって歩けなくなるからね」

 屋台のアジュモニは人の良さそうな笑顔である。

「ソウルにいたころには外出禁止令がまだ出ていて、こんな深夜に出歩くなんて、とても考えられなかった」

 語りかける言葉も吉江の耳に届かないほどの雑踏である。

 何度か起きた軍事クーデターの度に取材応援のため、憲哲はソウル日報の本社につめていたものだった。戒厳令も出され、北からの攻撃があるということで街には灯火管制も敷かれていたんだ。今は見違えるほどの光の海である。若い男女が元気に歩き回る姿は、まったく信じられない。

(早く宿に入って休みたいものだ)

 七十歳の老人の望みはたった一つである。

(でも、これが吉江にとって韓国最後の夜なんだ。唯一の楽しい思い出にしてやりたい)

「荷物はみんな、私が持ってあげるから、気ままに買物をするんだね」

 吉江はものおじもせずに、『MIGLIORE』(ミグリオレ)という名前のビルに入っていった。

「ちょっと化粧品とティシュを買ってきます」

 歩き初めてすぐの一階のフロアのドラッグストアで、まるで前から決めていたように口紅を買い求める吉江だった。

 そしてビルの二階では淡いピンクのワンピースを買った。

「東京に帰られるのなら、こんな色の服で帰りたかったのです」

「とっても似合うよ。もう一軒回ろうか」

 軽くうなずくと吉江は、エスカレーターを降りて、『DOOTA』(ドゥータ)という名前の隣のビルに軽い足取りで向かうのだった。ふたつのビルとも、その名前がどういう由来で付けられたのかは、憲哲にはわからない。

 そして、その建物こそ、まさに田舎町に住む人間には、想像もできないほどの混雑であった。広いフロアを歩き回るうちに、赤いカバンを持つ手が痙攣してきた。耳をつんざく音量のロックの音色に、負けないほどの大きな声を若いデザイナーたちが張り上げる。吉江は、ここでは子供服のフロアで何度も立ち止まっていた。何軒もの店の前で食いいるように小さな服を眺めるのだった。

「親戚に小さな子供でもいるのかい?」

 憲哲の問いかけにはっとしたように我に帰ると、すぐにあわててエスカレーターに向かうのだった。足の筋肉も痛み始める。一階上がるたびに憲哲は、もう限界だと弱音を吐きたくなった。やがてビルの最上階の七階にたどりついた。そこには不思議なほどの静寂が広がっていた。ウェディングドレスのフロアだった。そこでも吉江は何度も立ち止まる。

 純白のシルクが青白い蛍光灯の下で冷たく輝く。

「お孫さんには、このウェディングドレスが似合うよ」

 手持ちぶさたにしていた店員が声をかける。

 吉江は洋風のドレスではなく伝統的な婚礼衣装の店の前で立ち止まった。

「その真っ白なチマチョゴリは、いくらかしら?」

 流暢な韓国語に店員は最後まで吉江のことを日本人とは気づかなかったようである。結局、かなり値切って、とても小さなサイズの真っ白なチマチョゴリを買うのだった。

「親戚の子供へのおみやげかね?」

「はい」

(韓国そのものには悪意を持ってはいないんだね)

「あっ、それから、あれも買いたいのです」

 指さしたのは、同じ店に並ぶ民族的な色使いのセットンチョゴリだった。普通のチマチョゴリよりも、格段に華やかな印象を与えるものである。

「先生、似合うでしょうか?」

 試着室から出てきて、ゆっくりと一回転する。

 その華やかな色彩でピアノを弾いたら、コンサート会場でも、とってもよく似合いそうだった。そして、それは思い切ったように、少しも値切らずに店員の言い値で買うのだった。

「これで金博仁先生に買っていただいた旅行カバンもいっぱいになりますね」

 時刻はいつしか一時を過ぎていた。

 

 寒冷前線が通過したのだろうか、地面には濡れた跡が残る。気温は急激に下がっていた。八月といってもソウルの夜には涼しい風が吹きだしていた。混雑する通りで、ようやく拾えたタクシーに乗って、ふたりは仁寺洞(インサドン)の近くの旅館街にある小さな宿に着いた。

「あんたたち夫婦じゃないだろ」

 予約していたふたりを旅館の女主人は疑わしげな目で見つめる。

「いや、知り合いだが……」

「うちは共同風呂だよ。連れ込み宿じゃないからね」

「なんて失礼なことを言うんだ」

 もう少し立派なホテルにすればよかった、と憲哲は思う。

 吉江は、はにかんだような笑いを見せるだけだった。

 部屋にはオンドルが入っていた。

 吉江は、憲哲のために、いちばん暖かいところに薄い蒲団を並べてひきはじめた。

「奥さんは何年前に亡くなったのですか?」

「うん、妻はもう十年も前に亡くなった」

(聖書を開かなくなったのは、その日からだった)

「先生の奥さんって優しい人だったのでしょうね」

(本当に気の強い女だった。一度も謝るということをしなかった)

「まあね」

「先生みたいな人の奥さんになりたかった」

(私の仕事を誉めることも一度もなかった。副牧師の安月給を攻め続けられ、それに耐え切れずに新聞記者になった。でも、こんどは世間体が悪いと罵られた。新聞社の給料日にもいつも、怒りの言葉が飛んできていた。それは、まだ我慢ができたのだが……)

「先生、先に失礼してシャワーをあびてきていいでしょうか」

 白いタオルをやわらかく握って吉江は部屋を出て行った。

(もっとひどいことがあった。子供ができなかったことだ。全部、私のせいにされていた。『ふん、種なし男。あんたのおかけで私は女として一生辱めを受けて暮らすことになった』と何度責められたことだろう)

 その妻が回復しようもない病にかかったと知ったとき、世間の夫たちがそうであるように、やはり、あわれな気持ちを持った憲哲だった。

(しかし、そのとき……)

 もう、すっかり忘れてしまったはずの苦い思い出がよみがえる。

 いよいよ臨終の時を迎えようとした妻はこの世に残した最後の言葉である。

「あんたのおかげで私は一生、恥をかかされた」

 末期ガンのため恐ろしいほどの形相の中、瞳だけがぎらぎらと輝いていた。

(妻は最後まで抗癌剤の副作用で精神錯乱することもなかった。あの言葉は子供がいないことを言いたかったのだろうか。貧しい暮らしを続けなくてはいけないことを言いたかったのだろうか。いずれにしても、長年連れ添った人間に対する最後の言葉として、そんな言葉がありえるのだろうか。

 男とか女とかの問題ではない。もはや死を迎えようとするときには損も得も、恥も誉れもないではないか。生命の終わりを迎えるときには、あらゆるものへの許しの心がわき起こるものだ。どんな生物でも、犬猫でさえ、その臨終の瞬間には荘厳な命の営みの終わりを伝える感動があった。それなのに妻の臨終の言葉は……)

 人間としてあまりに大きな欠陥をもった怪物のような女と長年過ごしていたことに驚いたのだった。

 

『種なし』という言葉が嘘だということも知っていた。

 朝鮮戦争の混乱のさなか、大田の街で釜山日報の仕事を手伝っていたことがある。そこで憲哲は若い女事務員を身ごもらせていたのだ。

「あなたの子供を産みたいんです。どうしても」

「だめだ! 生きていくだけで精一杯なんだぞ」

 激しくののしりあって喧嘩をした翌朝に、突然、乾いた銃声が空に響き、砲弾の雨が降ってきて、北朝鮮軍が大田を占領したんだ。避難している最中に、はぐれてしまった女が北の兵士に拉致されていることを知ったのは翌日の晩のことだ。

 大田川の鉄橋の西側には数十両のソ連製の戦車を擁する北朝鮮軍の機甲師団が駐屯してきていた。勇敢にも憲哲はそこにもぐりこんで、女を助け出すことを決意したのだ。封鎖されている大田川の鉄橋を東岸から渡ろうとすると、いきなり胸元に銃を突きつけられた。

「朝鮮軍の兵士として雇ってください」

「今日は、もう遅い。明日の朝、身分を証明できるものを持ってここに来い」

 銃剣に追い立てられた憲哲は、装甲車や補給車両など百台を越える対岸の車両を見て、武者震いをしていた。

「明日、きっと助けるからな。おれの子供を産んでくれ!」

 堤防のすぐ下に生える葦原のあいだにうずくまりながら、そう叫んでいた。

 夜明けとともに空一面に爆音がとどろいた。編隊を組んだ百機を越えるB二九が次々と飛来して、ありったけの五〇〇キロ爆弾を西岸に落とし始めたのだ。二時間ほどで空襲は終わった。そのあとに残ったのは、かつては機甲師団だったはずの鉄くずと、かつては鉄橋だったはずの鉄くずだけだった。広島のように無残な死体を見ることはなかった。生き物は草木一本、野ねずみ一匹たりとも、その痕跡さえ残っていなかったのだから。

 それっきり今日まで、女の消息は不明なままだ。

(ひょっとすると、吉江に似ていたのかもしれない)

 もう五十年も前のことである。憲哲は女の顔もすっかり忘れてしまっていた。

 

 ずっと暖かいはずの部屋の空気の底に、冷たさが広がりだしていた。あの女主人がオンドルのスイッチを切ってしまっていたのだった。

(何を誤解しているんだ、あの女は!)

 吉江が寒さで目を覚ますようだったら、すぐにでも怒鳴り込んでいくところだった。しかし、熟睡している吉江の頬には、わずかに微笑みが浮かんでいる。

(東大門市場のことを夢の中で思い出しているのかもしれない)

 そして、日ごとに美しくなっていく吉江に、憲哲は驚いていた。

「先生は若いときに吉江ほどの素晴らしい女性に会われなかったからです。もし会ったならそんなことは言っていられなくなるはずです」

 搾り出すような朴承武の言葉が耳元によみがえる。

 そして、三十五歳という若さで吉江に出会えた朴承武のことを心底、うらやましく思うのだった。

(人生の夕暮れがこんなに早くやって来ることは知らなかった。この私にも三十代のころがあったことを伝えたい。言葉ではなく、もっともっとはっきりとしたもので……。あと二十年いや十年若かったら……)

 六十歳の男を、今晩、心の底からうらやましいと思った。

(そうだ、もう十年若かったら、この女を誰かほかの日本人の男の手に渡そうなどと思うはずがなかった。このたおやかな国で、私の力で十分過ぎるほど吉江を幸せにすることができたはずだったのに……)

「彼女が信仰を捨てられないのなら、僕が信仰を捨てて出エジプト派に入ってもいい……彼女がヨルダン川を渡ってこちら側に来られないのなら、僕が泳いでいくしかないではないですか。ふたりが心も体も一つになるためには」

 朴承武が魂を吐き出すように語った言葉が、今、心の中をかけめぐる。

(あの日、あのまま、あの男に階段をかけあがらせたなら……)

 牧師の情熱が乗り移ったかのように、憲哲は美しい天女の寝姿に近づいていた。

(吉江がこんなにもきれいでなければ、はたしてこんなにも努力したのだろうか? 私は、この女をどうしようとしているのだろうか)

 吉江と結婚したいという、突然わきおこった思いに動揺する憲哲であった。

 硬い床からは冷たさがわきあがる。

 しかし、憲哲は、夜がさらに深まるまで吉江の寝顔をじっと見つめる続けるのだった。

  十三

 夏ひばりのさえずり声もすがすがしい。さわやかなソウルの朝が明けた。小さな旅館にはビジネス客が多かったのだろう。声高に仕事の話をしながら宿を出て行く廊下の足音が響いていた。

 喧騒のなかでも吉江は、おだやかな寝顔を見せている。

「美しい天使ともお別れだ」

 皺だらけの顔に涙をいっぱいためた韓邦根の別れの言葉が耳ともに響く。

 憲哲の心には、かきむしられるような思いがわきあがる。

(吉江は、やっぱり、あのとき別れた女に似ていたんだ)

 明け方に見た夢の中で、ソウルの町には北からの砲弾が降り注いでいた。青瓦台の上には原爆のきのこ雲が立ち上る。町に充満する北朝鮮軍から逃れるために、吉江の手を引いて憲哲は東大門をくぐりぬけていた。

「先生の子供を産みたいんです。どうしても」

 そう叫びながら憲哲の手を握りしめる吉江は鮮やかなチョットン・チョゴリを着ていた。

(タイムマシンか……過去に戻ることができたなら)

 そのとき吉江の瞳がぱっと開いた。

 

「先生、茶房(サバン)(喫茶店)に行きませんか」

 軽い朝食をとったあと、吉江は憲哲をさわやかな笑顔で誘うのだった。

 ソウルに来るのは退職の挨拶に本社を訪れて以来のことだ。まだオリンピックの前のことだ。明るい光の中で見るソウルは、この十年のあいだにすっかり変わってしまっていた。

「ビルがたくさん建っていて、東京と少しも変わりはないですね」

 旅館を出て、仁寺洞(インサドン)を通る。

「こんなすてきな通りを歩くのは何年ぶりかしら。ここ東京の代官山みたいでしょ?」

「代官山?」

「すいません。ご存知ないですよね」

 十五分ほどのゆっくりとした散歩だった。道はやがて鐘路(チュンロ)にぶつかる。幅広い道路を横切って細い道に入ると、両側に赤レンガの壁が続く。所々に伸びている蔦の深緑が吉江のピンクのワンピースに映えた。通りが少し登り坂になり、しばらく行くと壁に無造作に壊されたような大きな穴があけられていた。そこをくぐると白いバラで造られたアーチ型の門が見えてきた。そこが茶房の入り口だった。

「あっ、やっぱりまだあった」

 ケヤキ造りの階段を上って出た二階のベランダにはキスゲが可憐な花を咲かせていた。

「ここは?」

「日本大使館に出さなくてはいけない国籍関係の書類があったので、秋山さん古河さんとソウルの街に滞在していたときに、毎日のように寄っていた店なのです。扶余に向かう前のことですけど」

「五年前のことかね」

「もう、そんな昔になるのですね。あのときのわくわくした気分は、昨日のことのようです」

「わくわく?」

 憲哲には、あまりに明るく響く日本語だった。

「私、曇り空が好きなのです」

 長い髪をピアニストの指でかきわけて空を見上げる。

「うん、一面の曇り空は私も好きだ」

(特に八月は。青空のもと、山の上に真っ白い雲が浮かんでいるのを見るたびに、あの日の広島の空を思い出してしまうのだから)

 ソウルの短い夏の空は淡い色彩の雲で隙間なく覆われていた。

「あまり晴れた日は、私には合わないのです。子供のころから、そうだったのです」

(吉江は何を言いたいんだろう?)

「ピアノも少し曇った日のほうがよく鳴るのです」

(もうじきソウルには抜けるような青空が広がる短い秋がやってくる。そして、そのあとには筆舌につくしがたい厳しい冬が来る。確かに、この曇り空を楽しめるあいだが一番いい季節なのかもしれない)

「うん、そうだろう。ショパン・コンクールのことを少し調べてみた。二次予選を通るということは世界で十二人のなかに入るという、すごいことじゃないか。この国だったら、きっと一番うまいピアニストになるんじゃないのかい」

 韓国一のピアニストという言葉に透明な微笑みで答える吉江は、癖であるかのように、また雲を見上げる。

「李先生、私、日本に戻って何をしたいのでしょう」

「また一日中ピアノを弾けるようになりたいんじゃないのかい」

「一日中?」

 吉江は、なぜか眉根をくもらせる。

「今日の晩には、もう私、日本にいるのですね」

「そうだ。さあ少し早いけれど空港に行ってみようか。久しぶりに会うお父さんのために、みやげでも買うといいよ」

 憲哲の言葉に吉江の瞳は、左右に揺れる。

「空港で出国を止められるということはないのですか?」

「大丈夫だよ。パスポートは有効だ」

「日本から強制的に送還されることもないのですよね」

「絶対にそんなことはないはずだ。大使館の人にも実情をしっかり説明してあるんだ。金博仁は日本国籍を回復する手段もあると言ってくれている。東京でもお父さんが外務省に働きかけてくださっている。さあきみさえ帰れば、これから何人もの日本人が出エジプト派の地獄から抜け出せるようになるんだ」

「地獄?」

「そうだよ。秋山さんや古河さんたちも、きっと日本に戻られるようになるんだ」

 吉江は、決心したように、やっと赤いカバンに手をかける。

「さあパスポートと航空券を確認して。東京に着いたら電話を入れてくれるね」

「東京?」 

 不思議なことに、あの日、ずぶぬれの雨のなかにいたときよりも、もっともっと悲しい目になっている。

「そうだよ」

「あの……」

「何だい?」

「私……鶏竜山の聖書邑へ戻ります」

「えっ!」

「私、やっぱり、あの人を放って逃げられません」

「あの崔外植がどんな男か、あの男の両親がどんな人間か忘れてしまったのか? きみは逃げるんじゃない。きみの本当の人生の場に戻るためじゃないか。きみはもう日本に帰ると決心したんじゃないのかい」

「ありがとうございます。でも私はイエスさまが十字架の(くびき)を喜んで受けたように、この軛を受けていきたいのです」

「十字架の軛は全人類を救うために必要だったんだよ。でもいまきみが助けようとしているのはどうしようもなくだらしない男と、強欲なだけのその両親たちじゃないか。きみがすることは人類のためなんかじゃない。出エジプト派教団の一握りの幹部を豊かにするためだけなんだよ」

「私にはエジプトの軛もあります。イスラエルの人々の幸福を踏みにじった代償として私は遣わされたのですから。私の苦しみなどこの国の人が受けた苦しみに比べれは何でもないことだったのです」

「きみは、過去に日本人が犯した罪をつぐなうために、これからも不幸を受け入れ続けるというのかね」

「はい、でも、不幸なんかじゃありません。私が受け入れるのは、もっと崇高なものです」

「あの暮らしが不幸じゃないって……」

 憲哲は続ける言葉を失ってしまう。

「私、やっと決心がついたのです。いいえ、イスラエルに向かうあの船に乗るときに決心がついていたはずなのに……。私の不安は吊り橋の真ん中にいる不安だったのです。邑の入り口の吊り橋は真ん中が一番よく揺れるのです。後ろに戻るか、前に進むかどちらもできるのでふと立ち止まったら、あんまり深い谷底が見えるのでおじけづいちゃったのです。先生にふいに『エジプトに戻られる』って呼びかけられて立ち止まってしまったのです」

「私がいけなかったと言うのかい?」

「いいえ、立ち止まったのは私の責任です。でも、いまやっとわかったのです。私にとって一番いけないことは、揺れる橋の上に立ったままでいることだって。そして次にいけないことは戻ること。私はやっぱり約束の地に向かって進むべきなのです」

 うらぶれた邑の様子を思い浮かべる。

「あそこが約束の地だって!」

 うす汚れた家の耐えがたい臭気が鼻先に甦る。

「どんな悪い冗談でも、そんなことは通らない。さあ、きみはその航空券で自分自身を取り戻すんだ」

 憲哲は、ここであることに気づいて息をのむ。

「きみはきのう東大門市場で白いチマチョゴリを買ったね。ずいぶん小さいのを買うんだな、と思っていたけれど、あれは金恵花のために買ったのかね」

「お義母さんは、真っ白いチョゴリを着るのが大好きなのです」

「あのとき、もう邑に戻ることにしていたんだね。どうして打ち明けてくれなかったんだね、私に。いつ、決心したんだい、東京へは戻らないことを!」

 憲哲の口調には怒りの感情が含まれてしまう。

「いつ?」

 再び曇り空を見上げるしぐさをする。白いうなじがはっとするほど美しい。

「もう、五年も前のことです」

(タイムマシンにでも乗らないかぎり、ありえないことではないか! こんなに人をバカにした話があってたまるか!)

 数年前までの憲哲なら怒って、すぐに席を立ち上がるところだった。

(吉江はまだ何かを隠しているんだ。それは何だろう?)

「心のすべてを私に打ち明けてくれとは言わない。人生というものは秘密なしに生きられるものでもない。心の中の最も奥にしまっておきたいことを隠し続けることができなれば、私だって、七十年も生きてはこられなかった。

 でも、今度のきみのやり方には、私はとても傷ついた。きみのために徹夜の祈祷会さえ開いてくれた教会の人も、きっと何人も傷つくことだろう。顧客からの信頼という弁護士としてもっとも大切なものも投げ打ってきみの帰国のために努力した金博仁は、ひどく悲しむことだろう。バスターミナルまで送ってくれて、あんなに涙を流していた韓邦根に私はどう説明したらいいんだ。そのほかにも、きみの心の底から湧き出してきた人間としての希望のともし火を大きくして、きみに本当の幸せをつかんで欲しいと願った多くの人を裏切ってしまうことになるんだよ」

「先生が今おっしゃった方たちにも、朴承武先生にも、本当に申し訳なく思います」

 ふいに出てきた行方不明の牧師の名前に憲哲は動揺する。

「きみの帰国を待ち望んでいるお父さんの気持ちはどうなるのかい? ずっときみに会えるのを待ち望んでいたお母さんの墓参りをしなくてもいいのかい」

「だめなのです」

「どうしてなんだ」

「赤ちゃんができました」

「えっ!」

 ベランダのキスゲの花さえ驚いて振り返るようだった。

 憲哲は思わず吉江の下半身に目を落とした。

「子供さえできれば、私は夫のもとに帰ることができるのです」

 青白い頬に微笑みを浮かべるのだった。

  十四

 どこまでも続くうす曇りの空の下、四車線の高速道路をバスは南に向かって走っていた。軽快なスピードでバスを追い抜いていく何台もの乗用車を憲哲は力なく見つめていた。

(もう一生、ソウルの街に行くことはないだろう)

 老人にとってあまりに華やかすぎる街だった。そしてそこで起こったことは……。

 憲哲の全身を包む無力感をいたわるように吉江はときどきやさしい笑顔を見せる。そしてほとんど無言のままバスの前方に広がる景色に視線を注いでいた。

(あのみじめな場所に戻ってどのような未来があるというのだろう)

 乾いたタイヤの音と湿気の多くなった空気を切り裂く風切り音が心の中にまで吹きぬけてくるようだった。

 

 午後三時、本来なら東京に向けて飛行機が飛び立つ時間に、扶余週報の食堂でふたりは向かい合って座っていた。この夏初めてつけるエアコンの冷たい響きの向こうから、鳴きだしたセミの声が聞こえてくる。

「本当に聖書邑に戻るのかね?」

 何十回も繰り返される質問に、笑顔だけで答える吉江だった。

「しばらくここに泊って、もう一度冷静な気持ちになって考え直すこともできるんだよ」

 首を振る姿は風に揺れる芙蓉の花びらのようだった。

 憲哲は鍵盤の蓋をゆっくりと開けた。

「帰る前に、もう一度ショパンを弾いてみないかね」

 ピアノを弾きだせば、きっとあの邑には戻りたくなくなるはずだ。それは憲哲にとって最後の手段だった。

 そのとき玄関のドアをノックする音が聞こえてきた。

(誰だろう? 韓邦根にだけは会いたくないものだ)

「いいかい、この部屋を出てはいけないよ」

 素直にうなずく姿に憲哲は涙を流しそうになっていた。

 食堂のドアを閉めて編集室に出ると、全身が蒸し暑い空気に包まれる。

 ノックは執拗に続いていた。

「どなたかな?」

「先生、いらっしゃるのですね。ここを開けてください」

 忘れもしない朴承武の声である。ノブにかけた手が麻痺したように動かなくなった。

「ぜひお話したいことがあるのです」

 ドアを揺する響きは、あの晩に聞いたのとまったく同じである。

(こんな昼間に、またあのおぞましい言葉を聞かされることになるとは!)

「すぐに帰るんだ!」

 まさに、そう言い出そうしたときだ。

「先生、夫が今朝、ようやく戻ってきてくれました。どうか私たちふたりの懺悔を、お聞きになってください」

 ドア越しに、甲高い姜娟承の声も響いてきたのだった。

「私は懺悔を聞く資格などない。まして牧師夫妻の懺悔など……」

「先生は清く正しいお方です」

 朴承武は大声で叫ぶ。

「表の車に子供たちを待たせているので、長居することはできませんが、どうか事情を聞いてください」

 振り絞るような姜娟承の声を聞いたらドアをあけないわけにはいかなかった。

 

 まるで取り調べを受ける容疑者のように、ふたりは編集室のソファに畏まって座っていた。緊張のせいか、暑さのせいか朴承武の額にも姜娟承の首すじにも、うっすらと汗が浮かんでいる。

「この十日間、教会を放ったらかしにして君はどこに行っていたのかね?」

 朴承武に対して、憲哲は検事のような言葉使いになっていた。

光州(コンジュ )にいました」

「光州に?」

「ええ、神学校時代の同級生の教会にこもって罪を懺悔していました。私自身もカウンセリングを受けていたのです」

「どうして奥さんにも知らせなかったんだね」

「妻との心の絆はあのとき、すっかり断ち切られてしまっていましたから」

「カウンセリングでどういうことがわかったのかね?」

「普通、精神科医が患者をカウンセリングする場合に一番気をつけなくてはいけないことは、治療中に患者が精神科医に好意を持ってしまうことです。この好意は容易に恋愛感情になってしまいます。意識するにしろ、無意識にしろ、この仮想恋愛で患者は医者が心の深いところに入ってくることを防ごうとするのです。その結果、カウンセリングは目的を達することができなくなります。重いカルトに洗脳されている吉江のカウンセリングで最も私が気をつけていた点です」

 朴承武は、一瞬遠くを見つめるような目になった。

「ところが驚いたことに彼女は、まったくそういうそぶりを見せません。あまりに澄んだ瞳で私の話を素直に聞くばかりです。どうしてなんだろうと心理的に探っていくうちに、気がついたら私の方が彼女の虜になってしまっていたのです」

 姜娟承は夫の姿をやさしく見守っている。

(頭のいい、この男は恋というものも、こういうふうに理詰めで説明したいんだろう。でも本当の恋というものは、突然、頭の上に落ちてくる雷のようなものだ。理屈などでは説明できない。まして、それから逃げることなどできないものだ)

 男の情熱というものを言葉だけで説明しようとする牧師に疑念をいだく。

「とにかく、いまは金吉江への恋心はなくなったのだね」

「はい、先生のおっしゃった通り、サタンがあのカウンセリングの場に罠を仕掛けたのです」

「そうか、じゃ、もし万が一、彼女が姿を現すようなことがあっても大丈夫なんだね」

 憲哲にとって極めて切実な質問だった。

「はい」

「自信を持って答えられるのかね。神の前で誓えるのかね?」

(神の前で誓う? 私はすっかり牧師に戻ってしまっている。こんな言葉を口に出す資格は私にはないはずなのに)

 本物の牧師に説教する自分自身の姿に、なにか滑稽なものを見るようだった。

「はい」

 日曜学校の生徒だったときのように素直にうなずく。

「これで安心したよ。今後のことはどうするつもりかね?」

「光州の病院には大学時代の親友もひとりいて、そのコネで精神科医としての働き口を、ひとつ見つけてきました。今度のことで私はあまりにわがままで弱い人間だということに気がつきました。牧師として人を導く資格などありません。精神科医に戻るつもりです」

「そんなことはないわ。あなたほど立派な牧師はどこにもいないはずよ。先生もそうおっしゃっていらっしゃいましたよね」

 憲哲の目を見つめて、訴えかける姜娟承である。

「あの晩までは私もそう信じていた。ところできみは金吉江の悪口を町中に言いふらして、歩き疲れなかったのかね?」

 やや皮肉をこめた言葉に、姜娟承は真っ赤な顔になる。

「私、いくら謝っても許されないことを先生にしてしまいました。あんな恥ずかしいことをしてしまって、あのとき私はどうかしてしまっていたんです」

 消え入りそうな声である。

「あの日、私は、ここの駐車場から、まっすぐに錦江のほとりまで歩きました。本当にあの子たちを連れて川に飛び込むつもりだったのです。でも、そのときお腹で四人目のこの子が足をバタバタと動かしたんです。泳げるはずのない子供が助かりたいと体を動かしているのです。私、はっとしました。そして、そこから牧師館に戻ったのです」

 姜娟承の語りかける姿を、じっと見つめる朴承武である。

「でも私はまだ、夫のことを少しも許せませんでした。そして三日三晩泣き暮らしました。吉江さんを恨み、先生を恨み、教会の信徒も恨みました。三人の娘たちさえ恨んだのです。そして最後にお腹のなかにいる子供を恨もうとしたときに、イエスさまの声が聞こえたのです。『父よ、彼らを許してください。彼らは何をしているのかわからないのです』」

「ルカによる福音書二十三章だね」

 憲哲はすかさず答える。

 十字架の上に釘付けにされ、いよいよ最期の時を迎えたイエス・キリストは、全世界の人々の罪の救済を宣言したのである。まさにキリスト教の原点ともいえる言葉であった。

「ええ、いままで夫の説教の中で何回も聞いたはずだったのに。あんなに心に響いてきたのは始めてでした。罪もない我が娘を恨むなんて私はいったい何をやっているのだろう。それから考え始めたんです。夫がどうしてこの子たちを手放してもいいとまで言い出したのかを。そこまで大きなストレスにさらされていた夫の心を私は知らなさすぎたのです。本当に私は牧師夫人失格でした」

「きみには苦労ばかりをかけていた。教会の都合ばかりを優先して、子供の世話もまかせっぱなしだった」

 錦江を渡ってきた川風がカーテンをゆっくりと揺すり部屋を通り過ぎていく。

「いいえ、私の方がもっと悪かったのです。子供のことばかり考えて、毎日毎日、三百人の信徒の悩みひとつひとつを解決しなければいけない、あなたのことなど少しも考えていなかったのですから。あなたがいなくなって初めて、私は自分がどんなにわがままにのん気に暮らしていたのかわかったの」

 憑き物が落ちたような清らげな表情である。

「妻と私は今朝からずっと話し合いました。そして、今後どのような道に進むにしても、どうしてもまず先生と金吉江さんに謝らなくてはいけないと思って、ここにやってきたのです」

「でも韓邦根さんから聞きましたけれど、金吉江さんは今日の便で日本に飛び立ってしまったのですよね」

「韓邦根に会ったのかね」

 憲哲にとって、最も聞きたくない名前だった。

「はい」

「この近くにいたのか?」

 恐る恐る尋ねる憲哲に、姜娟承はうきうきとした声で答える。

「先生、夫を見つけてくれたのは韓邦根さんだったのです。今朝、六時前に夫は皆白(ケーペク)将軍の銅像を見上げていたそうなんです。韓先生は、それを見つけて、教会に連れてきてくださったのです」

 扶余の町の中心、郡庁舎の前のロータリーにその銅像は建っていた。百済滅亡のさいに最後まで戦った将軍の銅像である。

「そんな朝早くに、なぜそんな物を見ていたのかね?」

「皆白将軍は、妻子をみな殺してから百済が滅亡する最後の戦いに臨んだのです。愛する妻子を殺してまで闘うということがずっと理解できませんでした。でも今度のことで人間が追い詰められということがどういうことか、ようやく私にも、わかるようになったのです」

「そうか、韓邦根はいま、どこにいるんだね?」

「これから、全羅南道の寺めぐりをするとかでバスターミナルに行かれました」

「うん、そうか」

(吉江が戻ってきていることが、すぐには知られることはないんだ)

 思わず安堵のため息をもらしていた。

「いずれにしても、牧師の仕事で私は妻に負担をかけすぎていました。娟承、いままですまなかった。光州に行けば、もう、こんな苦労をすることはないんだ」

 姜娟承は目頭にハンカチを当てる。

「先生の前で、はっきり言おうと思って、あなたにはさっきは黙っていたけれど、私この扶余の町が好きなんです。あなたが大きくしたあの教会でこれからも暮らしたいんです」

「本当なのか」

「ええ、役員会の人も今度のことは不問にしてくれると言ってくれています。これからもずっとあの福音教会の牧師でいてください。わがままで迷惑ばかりをかけるかもしれませんけれど私を牧師夫人のままにしておいてください。そして、また元気な声で信徒たちに『サタンよ、退け』と言ってください」

「いいのか、あんなに望んでいた医者の妻としての暮らしをしなくても」

「ぜいたくな暮らしをしたいと思っていた私は、おろか者でした」

「いや、おろか者じゃない。すばらしい信仰告白だよ」

 憲哲は心の底からそう言えた。

「先生、日本に戻った吉江さんと連絡がとれたら、どうか、私の気持ちを伝えてください」

「うん」

 憲哲は小さくうなずく。

「それにしても吉江さんのピアノの繊細な響きは素晴らしかった。もう一度聞きたかった」

 朴承武はあの晩とは比べものにならない素直な瞳に戻っていた。

「うん、そうだ」

 憲哲の声はますます小さくなる。

「ショパンのポロネーズもよかったわね、あなた。やっぱり心が清らかな人でないと響かせられない音ってあるんですね」

 姜娟承も瞳を輝かせる。

(頭が痛くなると言っていたのは、どこの誰なんだ。ふたりとも吉江が韓国にはもういないと思い込んでいるから、こんなおだやかな顔をしていられるのだ。もし隣の部屋に座っていることを知ったなら、こんな落ち着いた表情をしていられるものか)

 牧師夫人をにらみつけようとしたとき、隣の食堂で鍵盤の蓋を開けっぱなしにしてきたことを思い出した。

(そうだ。ショパンだ! もしいま、吉江がピアノを弾き始めたら……。あの音色を聞けば吉江がここにいることがすぐにわかってしまうではないか。そうなったら万事休すだ。どんな刃傷沙汰になってもおかしくはない。これこそサタンが仕掛けた罠だったんだ)

 美しいアンダンテが始まることに憲哲は脅える。不意に立ち上がると手足を無意味に動かし始める。髪の毛をかきむしりそうになる気持ちを必死で押さえこんでいたのだ。突然、追い詰められたようになった表情を、牧師夫妻は不思議そうに見上げるのだった。

 まさに、そのときである。ドアをあけて吉江が姿を現わした。

「あっ!」と、声をあげたのは憲哲である。

 姜娟承と朴承武は声をあげることもできないほどの驚きに包まれる。

(もうだめだ! ここは修羅場に変わってしまう)

 だが目を閉じた憲哲の耳に響いてきたのは、やさしい声である。

「よかった。吉江さん、まだ扶余にいらしたのですね。あなたには、いろいろ失礼なことばかり言ってしまって」

 太った体で立ち上がると吉江に近づいて、ピアニストの右手を両手でしっかりとにぎりしめる。

「いいえ、私の方こそ謝らなくてはいけなかったのです。福音教会の二階に住まわせていただいているあいだに私、朴先生のことを少し好きになってしまっていたようなのです。先生のお顔を見ているだけで心がときめいたのです。カウンセリングを熱心にしていらっしゃった朴先生にとっては、本当にご迷惑だったのでしょうね。そのことでご夫婦の仲が壊れてしまってはいけないと思って、ここに戻ってきたのです」

 吉江をのぞく三人にとって、まったく予想外の言葉である。

 朴承武は真っ赤な顔になって立ち上がると、すぐに憲哲を真似するように手足を動かし始める。

「子供たちを車に待たせているので、失礼します」

 さすがに居たたまれなくなったようである。

「吉江さん、あなたは私たち家族にとって本当に大切な人になりました。私たち夫婦の絆がこんなに強くなったのも、あなたのおかげです。そして、もちろん先生にも感謝しなくてはいけません。今度の日曜日には必ずおふたりで教会にいらしてくださいね」

(何歳になっても男はどうしてこういうときにはダメなんだろう。それに比べて女たちはどうしてこんなに胆がすわっているのだろう。それにしても、姜娟承はあんな聖句ひとつだけで、これほどまでに変わってしまったのだろうか?)

 まるで聖女のように輝いて見える姿である。驚くことがあまりに多い牧師夫妻の訪問であった。

 そして憲哲は、とうとう最後まで言い出せなかった。

 吉江がこれから聖書邑に戻ってしまうということを。

  百済の農婦

 午後五時半、本当ならちょうど飛行機が成田空港に着陸していたはず時間に、ふたりはまた扶余のバスターミナルに戻ってきてしまっていた。

 昨日と、まったく同じように空の色がかげりだした。一瞬、これからまたソウルに向かうのではないかと錯覚するほどに。何もかもが昨日と少しも変わりがなかった。ただ吉江のカバンの中の東京行きの航空券だけが、もう無効になっていた。

「最初にきみに会ったのもここだった」

 吉江は、ゆっくりとうなずく。

「あのときには、どうしようもないくらい恥ずかしい姿を先生に、お見せしてしまって……」

 あの雨の日、楽譜をつかんでいたのと同じように、赤いカバンを固く握りしめている。

(ちっとも恥ずかしい姿なんかじゃなかった。自分の心と体を食いちぎろうとするカルトの苦しみから逃れようとする真実の姿だったはずじゃないか)

 そう言うのをなぜかためらう憲哲だった。

「パスポートは預かっておくよ。邑に持って帰れば、きっとまた取り上げられてしまうだろうからね」

 吉江が小さくうなずく。

「さっき、お父さんに電話したら、ひどく落胆なさっていた。『病気が治ったら必ず扶余に行く』と、おっしゃっておられた。そのときは必ず会いに来てくれるね」

「ええ、もちろん。そのまま、この約束の地に留まることができればいいのですけれど……。卑父がそんなことを言っていましたか」

「そうだね」

 答えながら、憲哲は全身の血が引いていくようだった。

(実の父親をまた『卑父』と呼ぶようになってしまっていたとは!)

 そのとき憲哲の目の前に、バスがやってきた。

 

「お金と楽譜はちゃんと、そのカバンに入っているだろうね」

 揺れるバスの中で憲哲は吉江に話しかけた。

 邑の入り口近くまで、東鶴寺行きのローカルバスで送ることにしたのだった。

「さっき先生の家でお茶をいただいたときに、楽譜の入った封筒は、先生の奥様のピアノの上に置いてきました。あの楽譜は先生が預かっていてください。もし迷惑だったら燃やしていただいても結構です」

「迷惑だなんて……きみの命の次に大切なものじゃないか。でも、いいのかい、もう譜面を読むことができなくなっても」

 バスの路線に沿ってゆっくりと流れる錦江の川面が、吉江の背後で銀色に輝いている。

「ええ、私やっと誰の妻だったかに気がついたのです。イエス・キリストの妻なのですから。あの船に乗ったときから、もうひき返せなかったのです。聖書にもこう書かれています『サタンはいつも甘い蜜を含んだ声でささやく』って」

「私の声をサタンのささやきだ、というのかい?」

「ああ、すいません。失礼しました。そんな意味で言ったのではないのです。私自身の心の中での、つぶやきのことを言ったのです」

「きみ自身を救おうとしたきみ自身の良心の声じゃなかったのかい?」

「私の良心?」

 吉江は、少し首をかしげて、あわてて勢いよく首をふる。

「いいえ、やっぱり私、夫のもとに戻ります。そして夫にも、夫の両親にも、心をこめてつくします。それこそイエスさまが私に求めていたことで、それこそ私の本当の心だったのです」

「きみのその優しさを食いつくそうとしているサタンたちにきみの心は伝わるのかね」

「邑の人たちはサタンなんかじゃありません!」

「崔外植はきみに対して悪魔以上にひどいことをしていたじゃないか」

「夫はもうじき失明してしまうかもしれません。いまも何かと不自由していることでしょう。そんな夫を放っておいただなんて……私は何て罪深い女だったのでしょう。私、今までの百倍も千倍も心をこめて夫と両親に尽くします。そうすれば、きっとわかってもらえます。今度のことも、きっと許してもらえますよね」

(許す? きみは少しも悪いことなんかしていないのに)

 そう言おうとしてあまりに澄んだ吉江の瞳に、圧倒されたように言葉をなくす憲哲だった。

「いや、いいのです。許してもらおうとすること自体が私の傲慢だったのです。私、邑に帰ります」

 長い夏の日もようやく暮れようとしていた。薄暗くなっていくバスの中で、吉江の頬には、今朝とは別人のような輝きがよみがえった。

 

 六時半過ぎ、論山の町を通り過ぎて、バスは郊外のさびれたバス停に止まった。赤茶けた大地の上に乾燥した土の匂いが広がる。降りたのは、ふたりだけだった。

「あの日も、ここからバスに乗ったのかね?」

「もう、ひと月以上も前のことです」

 走り去るバスの土煙を見る吉江だった。

「先生、この百ドルを受け取ってください。お礼の印です」

 トラベラーズ・チェックを差し出す。

「お父さんが送ってくれた大切なお金じゃないか。こんな高価なものは受け取れない」

「先生お願いです。受け取ってもらわなくては私の感謝の気持ちがおさまりません」

『感謝』という言葉に憲哲の目頭は熱くなる。

「そうか。ではいつか、扶余の町に戻ってきたときのために預かっておこう。あの楽譜のあいだに挟んでおくよ。パスポートもそこに入れておこう。必要になったらいつでも山を降りてくるんだよ」

 鶏竜山は、はるかかなたに望まれる。

 ゆっくりうなずくと、吉江は意を決したように邑の方向に歩みはじめた。

「待つんだ! きみは何か勘違いしている」

 振り返った吉江は、その頬に微笑をたたえている。

「ええ、きっとそうかもしれません。先生の目には、きっとそのようにしか見えないはずでしょうね。でもイエスさまの目から見ればもっと違うふうに見えると思うのです」

 天使のような、聖母のような微笑みだと思った。

「さようなら」

 鶏竜山の夕陽に染まり吉江の頬はバラ色になっていた。

「また会えるね」

(あの長い坂道を越え、細い道を通り、長い長い吊り橋を渡って、あの山奥の邑に戻っていくのだ)

「ええ、きっと」

 力なく笑う吉江に憲哲は立ちすくむ。

(「子供ができた」などという嘘までついて、戻っていく邑にはどんなできごとが待っているのだろう)

 昨夜、東大門市場で最初に入ったビルで吉江が買ったものは、実はティシュではなく生理用品だった。お腹に子供がいる女には必要のないもののはずであった。夜中、寒さで鼻水が出そうになった憲哲は、赤い旅行カバンの脇に隠すように置いてあったティシュを借りようとして、自分の勘違いに顔を赤くしていたのだが……。

 田舎の空気をなつかしむように吉江の歩みは軽やかである。

「アンニョンヒ カセヨ(さようなら)

 憲哲は韓国語で叫ぶ。そして激しく手を振って別れを惜しみたかった。でも老人の腕の筋肉は、もう若者のようには動かない。

(昨夜、重いカバンを持って、長い時間歩きまわったせいなのだろう。筋肉も関節もこんなに痛い)

「アンニョンヒ ケセヨ(さようなら)

 きれいな発音の韓国語が憲哲の耳元にとどく。

 両手を前に組んでていねいに会釈をする。やがて遠くの夕陽を目指すようにして吉江は歩きだしていた。

(力ずくで引き止めることもできたはずだ。いや、いまでもまだ間に合うはず。でもそのあと吉江とどうやって暮らしていけるのだろう)

 コンサートホールの真ん中に置かれたピカピカに磨かれたスタンウェイのグランドピアノ。優雅なドレスを着て、そこに向かって歩いていくような落ち着いた足取りに心が締め付けられるような思いになる。

 吉江の持つ赤い旅行カバンが頭を垂れ始めた緑の稲穂をこすっていく。何度も振り返り、ピアニストのしなやかな腕で憲哲に別れの合図を送ってくる。

(昨日の今ごろ、私は『六十歳の若者』だった。ところが今は八十歳、九十歳の本当の老人になってしまっている)

 憲哲も軽く手を振ってから、一面に皺の広がる自分の手の甲を見た。そして、ゆっくりと裏返して、罪深い手のひらをにらみつける。指先には昨夜触れた吉江の唇の柔らかさが、まだ残っている。

(そして、吉江に口づけしようとしたんだ。こんな年になって、欲情にかられて……どうしてあんなひどいことをしてしまったのだろう。自分を信頼しきって熟睡している女性の体に触ろうとするなんて……)

 深い後悔の念が憲哲の心の隅々にまで広がる。

「崔外植はきみに対して悪魔以上にひどいことをしていたじゃないか」

 先ほどの自分自身の声が鼓膜の奥にこだまする。

(悪魔以上にひどいことをしていたのは、この私自身じゃないか)

 高鳴る心臓の音以外のすべての音はこの世から消えてしまっていた。吉江の吐息を上唇に感じるほど顔を近づけたときだ。

「朴承武先生」

 吉江の唇から突然、吐き出されてきた名前の空気が憲哲の唇を振るわせた。

 そして、部屋全体を振るわせるほどの音量で朴承武の声が響いたのだ。

「サタンよ、退け!」

 憲哲にとって、これこそ初めて聞くイエス・キリストの生の声であった。

 四十日四十夜、荒野で断食した後のふりしぼるような叫びに聞こえたのである。

(吉江は、本当に眠っていたのだろうか? それとも私の唇を感じて、わざと牧師の名前を呼んだのだろうか? あれは本当に寝言だったのだろうか? 私の指の動きにも気がつかないふりをしていただけなのではないのだろうか?)

 そのことを考えただけで気が狂いそうになる憲哲だった。

(日本に戻って新しい生活を始めたいという、心の底からわきあがってきた吉江の希望は、あの邑に戻ることで朽ち果てていく。あの赤いカバンの中のトラベラーズ・チェックや紙幣は、みんな、あの姑に奪われてしまうことだろう)

「赤ちゃんができました」という言葉を聞いたとき、その嘘を責める資格は憲哲にはなかった。

(吉江のことを誰が愚かと言えるのだろう?)

「ピアノの楽譜は先生が預かっていてください」

 いまさっき聞いたばかりの吉江のきっぱりとした言い方が耳に残る。

(『先生』と呼んで信頼してくれた若い女性に対して抱いたこの老人の心の奥底にうごめく悪魔たち。吉江はそれを見通したんだ。きっとそうだったに違いない)

 楽譜に染み付いたキムチの臭いがふいに鼻先によみがえる。

(彼女は、もう二度とあの楽譜を読むことはないのだろう。扶余の町にも戻ってはこないのだ。私のところに連絡してくることもない。そして……)

 

 夕暮れの畑の中の細い道を、吉江はゆっくりと去っていく。おおらかにうねる大地を照らす空の輝きもしだいに薄暗くなっていく。憲哲の人生の最後を照らすことになったかもしれない輝きも遠ざかる。

 暗くなっていく視界のなかでぴんと伸びたピアニストの背中は少しずつ曲がっていく。

 そのシルエットは、いつか疲れ果てた百済の農婦の姿に戻っていた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/10/06

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宇田 伸夫

ウダ ノブオ
うだ のぶお 小説家。1952(昭和27)年 岐阜県生まれ。

掲載作は、韓国で出版された小説「天女の赤い雨」(2003年7月「韓日文化交流センター」刊)の原作で、独自の邦題を付した。

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