最初へ

紙を汚して五十年

 臼井でございます。まず、こういう機会を与えて頂いたことを皆様に御礼申し上げます。私のような者の話ですから、いわゆるアカデミックな話でないことは先にお断りしておきたいと思います。

 最初に話の題名ですが、もうちょっと文学的なものの方がいいかとも思ったんですが、根っからの田舎者でございまして、畑から大根引き抜いてそのままというような者ですので、その点どうぞお許しのほどお願い致します。眠くなったらどうぞご自由に(笑い)寝て頂いて結構ですので。

「懺悔」などと言う言葉は今時流行(はや)らないのですが、テレビなどでは土下座をしたり号泣したりするのがひとつの映像美学になっているのが昨今でございます。山一の元社長の号泣、選挙で票をもらうための老醜をさらけ出しての土下座、それにマスコミを賑わす「十七歳事件」の残酷を日々に深める続発、「環境問題や自然災害」で「もうこのようなことは繰り返しません」というようなことが新聞に出ない日はございません。

 まさかこんな事件が起きるとは……と、他人の事のように驚いて一列に並んで深々とお辞儀をしているニュース画面の次は、またかまたかの大事件のお詫びの連続、昨今のニュースのわびしさは、かつての「一億総懺悔の哲学」と何処かで似ているようにも思えます。

 このような「懺悔」の言葉があふれているのが現代社会の様相のようですが、そんなことを考えつつ、私は一編集者の懺悔の言葉を述べさせて頂きます。

 

 ◎爆撃機乗りの八月十五日

 紙を汚すということは余りいい言葉ではありません、まして日本・紙アカデミーでは手漉きで美しい紙を作る人も大勢いらっしゃる。それこそ真っさらな紙なら値打ちもあるのに、わざわざインクで汚してそれが売れないと断裁して捨ててしまう。このような仕事を五十年も続けてきたがこれはいったい何だったのか、ということを最近考えております。

 昨日六月二十三日という日は、先の戦争で沖縄が完全に占領された日でございます。その時私はセレベスのアンボン、いま内乱状態になっているいわゆるチモール地域におりました。爆撃機に乗っておりましてインドネシアやスマトラなど南方海域を転戦していたわけです。あの残酷な沖縄戦、大勢の人が死にました。私は航空隊で搭乗員でしたから、地上兵よりはましな待遇を受けていたのですが、活字への飢えというのが激しくて、たまたま届いた慰問袋の中味の包み紙の新聞の切れ端があれば、それが誰のものであれ取り合いをして何度繰り返し読んだかわからない、そんな生活でした。

 ともかく八月十五日が来て、あれは終戦というようなものでなく、完全な敗戦でしたが、私は翌昭和二十一年ようやく帰ってきました。ご年配の方はよくご存じのことですか、敗戦後の日本、価値観が根底から変化する中、ともかく生きるために何かしなければならない。私は僧籍にありましたので、その縁から鹿ヶ谷(ししがたに)の法然院(京都市左京区)にお世話になりまして、マラリアの治療で田舎の病院通いをしたりしていました。郷里は岐阜の大垣なもんですから幸い食料には不自由しなかったのですが、米の買い出しに大垣へ帰り、ヤミ米を担いで殺人的な満員列車にすし詰めになりながら京都に帰るという生活でした。

 

 ◎弘文堂時代

 私は大学は大谷大学で、鈴木大拙先生(註1)の宗教哲学の教室にいたものですから、早くマラリアを治して教室に戻りたいという思いが強かったのです。しかし生きるためには何かしなければいけない。そんな時、弘文堂(明治三十二年京都で創業時の名称は弘文堂書房)と縁ができるわけです。

 縁というものは不思議なもので、私は最初からジャーナリズムとか出版に志しがあったわけではなく、先ほど申しましたように法然院で修行生活をしていたわけです。この寺はいわゆる浄土宗捨世派でして非常に厳しい修行をする。当時は葷辛酒肉厳禁、朝は四時半起床、十一時半就寝、という生活でした。それがやっと復員して帰った時は、惨憺たる状態でした。住職が境内で炭を焼いてそれをヤミで売るというようなこともありました。

 しかし私は僧になりたいわけでなく、大学に戻るつもりでおりましたから、生活を立てるために弘文堂に人りました。私の前に富士正晴(後に作家)(註2)が居まして彼も兵隊から帰ってきて直ぐここにきたんです。彼はご存じのように天才的に自由な天真爛漫な文学青年でした。四、五年もしてやや世間が落ち着いた頃になると一時間も二時間も電話をかけてくるという人でしたが、ある事情で退社することになり、その後に私が入ったというわけです。

 入社する機縁となったのは、私が編集者として能力があったとかいうことではなかったんです。実は当時の出版にとって一番大切なことは紙の手配でした。物資不足、紙不足の当時、紙をいかに手配するかは、まさに経営の眼目だった。一方で思想統制というものが非常に厳しく、いわゆる「京都学派」は一斉に追放されますし、粛正委員会というものがありまして委員長は末広厳太郎でしたが、左翼の中野重治(註3)が牛耳る、というように離合集散、追放分裂、対立抗争というような時代だったわけです。プロレタリア思想革命主導型と言ってもいい状態でした。

 弘文堂書房創業者の八坂浅次郎という人は元々寺町二条(京都市中京区)で古本屋をやっていたんです。ところが河上肇(註4)の『貧乏物語』を出版する(大正五年大阪朝日新聞連載、同六年刊行)と、それがあたりにあたって巨万の富を作った。現在、北白川(京都市左京区)に京都造形芸術大学がキャンパスの大拡張をやってますが、あの敷地になっているいわゆる瓜生(うりゅう)山はほとんど八坂氏の所有だったほどです。この八坂浅次郎氏の墓が私のやっかいになっていた法然院にできることになっていたんです。当時私は別の縁で王子製紙に関係者をもっており、それを聞きつけた弘文堂二代目社長の八坂浅太郎が、紙を手配できるということで、すぐに私を雇うことにしたんだか…。

 要するに私に能力が有るとか無いとかじゃないんです、すぐ金になるかならんか(笑い)、という判断だったんですね。この二代目は私を採用した後、すぐに追放処分にあって会社を去ることになります。

 ともかく私は弘文堂で仕事を始め、まず京大の狩野直喜先生(東方文化学院京都研究所初代所長、号君山)、鈴木虎雄先生などいわゆる東方学研究ですね。北白川にあります京大の人文科学研究所(註5)(現在は同研究所附属東洋学文献センター)、これは「北清事変」の賠償金で建設されたものです。ここの先生方の筆耕ですね、今のように簡単にコピー機で取るわけにいきませんから、書写浄書するような仕事をしました。一方ではノーベル賞の湯川秀樹先生の量子力学の原稿の校正を届けたり、もらいに行ったり、こちらは記号もろくに読めないような状態ですから、そういう編集小僧見習いのような仕事からやらされました。

 こういう仕事のもとになるものが紙なんです。しからばこの紙をどういう風に手に入れたかということです。私に多少の腕があったのか、あると認められたのか、そこら辺りはわかりません。まあ要するに紙のヤミ買いをやらされてたというわけです。当時、紙を入手するにはGHQ(註6)の検閲を受けて通って初めて紙がもらえる。ところが世の中うまくできたもので、戦争中軍部が軍需物資としてたくさん紙をもっていた。この紙が隠匿紙として闇から闇へといろんな流れ方をしていた。そういう紙を手に入れるために狂奔していたんです。

 とくに興味深いのは、現在ならお話ししてもいいと思うのですが、京都の新聞社から出る印刷用巻き取り紙。印刷の刷り始めの部分と終りの部分に白紙が出る。こういう白紙をですね、書籍用紙としてまたうまく横流しするわけです。こういう紙をもってくる商売があった。真夜中に男衆(おとこし)というんですか、そういう人にリヤカーを引かせてもってくる。そういう闇の紙流通と先生方の原稿の筆耕、そんな仕事を続けていたわけです。

 

 ◎京都学派とドブロク

 先ほど申しました京都学派(註7)ですが、これは西田幾太郎博士を中心として、博士は昭和二十年六月に亡くなりますが、そのあと田辺元先生や高坂正顕、この方は先頃亡くなった高坂正尭氏のお父さんですが、鈴木成高、木村素衛、西谷啓治、途中から共産党に傾斜する柳田謙十郎といった錚々たる哲学者がいました。戦前が京都学派の全盛時代ですから、東の岩波・西の弘文堂と言われたほど沢山の本を出させてもらった。そういうご恩がありますから、先生方が戦後すぐすべて公職追放で首になった後も、生活品や闇物資を配ってまわる、そういう役もやってました。

 たとえば深瀬基寛さんという英文学の先生の奥さんが土佐の出身で、どろどろの液状砂糖を土佐からもってくるルートがあった。それを換金してまた先生の方へ渡すというようなことをやりました。実にこう、生きるために様々なことをやりました。そういう中で、先生達としても貰うだけではいけないと思われる、人間関係というものができていますから、先生としても何かで返さなければと考えられる。

 そこでこういう方々に来ていただいて勉強するサロンを開くことになったのです。どうするかというとドブロクを買いに行くわけです。それが私の役目でした。会社は左京区の田中西浦町にあり、印刷工場や製本工場まで一連の工程が揃っていたんですが、その近所に秘かにドブロクを作っているところがあった。私はそういうところに嗅覚が発達しているんですね(笑い)、それから百万遍(京都市左京区)に神戸屋という中国人がやっている店があってシナ饅頭を売っていました。この饅頭でドブロクを飲むとお腹がふくれるんです。それを失礼ながら餌に先生方を招待する。飢えている時代ですから結構喜ばれました。

 先生方としてもただ酒、饅頭食い放題というわけにいかないから、何か書かなければという気持ちが出てくる。そこで生まれましたのが、ポケット判の「アテネ文庫」でした。

 仙花紙であれ紙さえあれば誰でも出版社が作れた時代のことです。一枚の全紙を次々畳んでいくと、32頁になり64頁になる。これで一冊できるじゃないかというアイデアです。

 この重さを量りますとおよそ25から30グラムになるんですが、このアテネ文庫の第一号として出たのが『茶の精神』久松眞一著/昭利23年)です。これは非常によく売れまして、今古本でも千円します。このアテネ文庫の刊行のことばを鈴木成高先生が書いてくれまして、これがなかなかの名文です。ちょっとご紹介しますと、

 

 ◎アテネ文庫刊行のことば

 昔アテネは方一里に満たない小国であった。しかもその中にプラトン、アリストテレスの哲学を生み、フィヂアス、プラクシティレスの芸術を、またソフォクレス、ユウリピデスの悲劇を生んで、人類文化永遠の礎石を置いた。明日の日本もまたたとえ小さくかつ貧しくとも高き芸術と深き学問とをもって世界に誇る国たらしめなければならぬ。「暮らしは低く思いは高く」のワーズワースの詩句のごとく、最低の生活の中にも最高の精神が宿されていなければならぬ。云々

 

 と、こういう風な刊行の言葉を書いています。この第二号が寿岳文章さん(寿岳章子さんの父君)の『河上肇博士のこと』や深田康算博士の『美しき魂』と、どんどん出ましてね、一回に十点も出ました。市電に中吊り広告を出しましたら、もう爆発的に売れたもんです。それで段々に編集という仕事の面白さがわかってきた。この仕事はちょっと言葉が悪いですがギャンブル性もあるんですね。

『茶の精神』がですね、あの時代に文庫第一号で出して、それがベストセラー、ロングセラーになるなんてことは予測できないことですね。けれどあえて出す、出したらあたった。この後、猪木正道先生(元防衛大学長)の『ドイツ共産党史』も出しましてこれもあたりました。こういうギャンブル性、またアイデアを考えて当たるようにもっていかなければいかん。そこらあたりが出版の面白さであり、危険なところでもあるんです。

 そういうことをしながら昭和二十五年になるんですけれども、今度は旧支配階級、戦前の経営者(ほとんど公職追放されていた)が全部復活することになった。そうすると、それまで苦労して会社を建て直した連中が追放され、旧支配階級が復活してくることになるのです。

 この昭和二十五年「朝鮮動乱」(註8)の年に、「赤狩り」と称して左翼系の学者が一斉に検挙される。そういう中で弘文堂の中も大混乱になり、それぞれ独立する人が出てくる。筆頭の久保井氏は創文社を起こし、未来社を起こした西谷氏は当時私の上の編集長でしたし、弘文堂に残る人もいれば他職に転ずる者と、四散分裂したわけです。そうこうしているうち私は手づるがあって、アメリカヘ渡ることになったのです。

 

 ◎渡米を経て淡交社へ

 そこでアメリカのロサンゼルスヘ渡って何をしたかということは極秘中の極秘(笑い)でございますので、申しませんが、それじゃなぜ今度は淡交社へ入ったのか、奇縁って言いましょうか不思議な運命だなと思います。

 これからはある程度真実味を帯びた話をしないと(笑い)講演の趣旨に合いませんので、実はロサンゼルスヘは船で行ったんですよ。昭和二十五年六月二十五日に朝鮮戦争が勃発してG.I.が輸送船で運ばれてくる。輸送船といっても5万トン級の大きなものです。8階建てのビルくらいある。その中に三段ベッドが蚕棚式に何階かにずらりと入っている。兵隊を降ろした帰りの船、帰米二世って言いまして、アメリカから日本へ帰ってきていた日系人の子供たちがアメリカヘ帰る船でプレジデントラインのゴードン号でした。昭和二十七年以降はフルブライトの留学生たちも乗せてもらったはずです。

 向こうで何をしていたかちょっと言わないと話が進みませんが、「浄土ミッション」というものができまして、その "アシスタント・リベレント" こういうと何か良さそうですが、訳せば副住職ですが要するに小僧です。

 それで見たアメリカは何もかも日本と違う。景気はいいし、食べ物はいいし、これは日本が負けるはずだと思いましたね。

 そこでいろいろ事情がありましてカルチャーセンター的なことをやるんですね。向こうの日系二世、三世の人たちは、日本人強制収容所で長い間キャンプ生活をしていましたから、日本へのすごい郷愁をもっている。日本の文化に接したいという人々が私を中心にサークルを作っていた。それでジューイッシュ(ユダヤ人)の教会の二階を借りて「浄土ミッション」を始められたんです。ホワイトという名前の黒人の牧師がいて、それが午前中布教活動する。午後は浄土ミッションで日本の話をする、こういう風にすべてがビジネスライクにやっていくようになっていた。

 そこへ裏千家の若宗匠(前家元・十五代千宗室〈現・玄室〉氏)から、「今ハワイまで来ているけれども、ロスヘ行くから」と葉書が来た。訪問してくるというのでえらいことになったと思いました。それまでお茶にしろ華道にしろ、私は法然院にいましたから、そこで寺のたしなみとして教えて貰った程度の知識で大風呂敷を広げていた。そこへ裏千家の御曹司が来られるというんだから、いよいよ化けの皮がはがれるな(笑い)と驚きました。そんなきっかけから裏千家の海外での支部作りなど全面的に協力したわけです。

 

 ◎茶道文化は出版企画の宝庫

 私はパーマネントレジデンス(永住許可)持ってますからずっと滞在できるんですけど、ある事情で一時帰国しまして、その時にちょうど淡交社ができたところだから協力してほしいということで、この会社に縁を結ぶことになりました。その頃千家の西向いに茶道会館がありまして、真ん中が廊下で片方の部屋で住み込みのお婆ちゃんが機織りしている。その反対側に我々の事務所がある、というような状態でした。そういうような始まりなんですが、その頃は大学へも出たりと自由にしておりまして、いずれは「一時帰国」だから帰らねばならん(笑い)と思いつつ今日まで伝統文化に関わり続け、いつの間にか淡交社に根がはえてしまったというわけです。

 お茶というと何か嫁入りのための教養、お稽古事というイメージがありますが、よく考えてみると、大変面白い伝統文化を包含しているわけです。これは出版のネタの宝庫であると思いました。この茶道、もとは大旦那の教養だったものが、明治末頃から女性の教養になってきた。それでもって茶道人口が増えるわけですが、今度は男性にも広げなければならない。そういうことであらためて茶道を考えると、道具類には伝統工芸技術が、茶室・庭園などは日本固有の伝統建築が、あるいは染織の問題もあり、茶道を中心とした伝統文化の広がりがあるわけです。

 これをいろんな切り口で出版企画としていくうちに力が入るようになって、出版の世界に再びのめり込んで行くことになったわけです。

 それともうひとつ大事なことは、昭和三十年くらいからですね、朝鮮動乱の特需景気が引き金といいますか、だんだん日本が豊かになってきた。そうすると人間が動き始める、旅行し始める。そうすると、日本で焼けてないところに人が集まる。爆撃で焼けてないというと、奈良と京都くらいですね。京都旅行の本を作ると非常によく売れる。東京の出版社から、おまえは「京都屋」かと言われるほどたくさん作りました。それこそ庭園からお寺から路地の話から、言葉、食べ物と、ちょうどお茶からいろんなテーマが引き出せるように、「京都」からもいろんなものが引き出せたわけです。別の言葉でいうと、「京都」というオブラートをかけると何でも出版企画になった。これはひとつの出版戦略としては良かったんじゃないかと考えております。

 ところで図書の「十進法分類」でいいますと、総記・哲学・宗教から歴史・美術・工芸と並べるわけですが、この分類で「お茶」がどこにあるかというと「スポーツ用品」の隣り(笑い)なんです。銀行の融資ランクでみると「水商売」で一番下になっている。戦後すぐの茶道界はこういう状態でした、しかしだからこそ開拓できる余地があったといえます。

 さきほどお話しましたアテネ文庫の時は、アリストテレスだ、ギリシア哲学だ、中世哲学だとそればかりやってたのがですよ、淡交社というところに入って何をやり出したんだと、淡交社って聞いたことないが何をやる会社だと聞かれる。それでこういう字を書くんだというと、「淡く交わる」ああ「結婚紹介雑誌」(笑い)かと言われたんです。実際は「君子の交わりは淡きこと水の如し」という言葉、「荘子」にある言葉「淡交如水」ですね、東京には如水会館というのがありますが、この言葉から採ったものです。ある時私、萩の方へ何かシンポジウムのようなものに招待されて行ったんです。そうすると名札に「淡口」と書いてある、これじゃ淡口醤油だ(笑い)、うちは濃い口やでと言ってやりました。まあ、そんなこともありましたが、段々知名度も上がって評価いただけることにもなってきたわけです。

 

 ◎茶の湯と掛けもの

 そうこうしながら茶道文化に関するありとあらゆるもの、京都に関するものといろいろ出して来たのですが、私、かねがね「書」に関するものを出したいと思ってました。なぜかと言いますと、ひとつはお茶席で床の間のない席はございませんわね。床の間というものを失ってから日本は秩序がなくなったという説もありますが、昔の日本家屋は、床の間があって神棚があって仏壇がある。私の田舎なんかは、とくに真宗信仰の篤い地域ですから、きちっとそういう形が残っています。ところが現代の家屋では、床の間にテレビが鎮座し、応接間には昔は本がたくさんあったのですが、代わりに情報機器で占められてしまっている。そんな中でかろうじて茶道は床の間の文化というものをきちっと守っている。

 この床の間の中心には、例えば掛け物に禅の一行書などが掛けられる。私ある茶席に招かれました時、禅僧の一行もので「水に入れて長人を見る」というのが掛けてあったのです。これは中国の故事でして、唐の有名な女帝則天武后が高名な禅僧の神秀ともう一人慧安を宮廷へ招いたのです。長い修行で汚れていますから、まずお風呂へ入れて大勢の美女に体を洗わせる。神秀は女性の前で裸になると煩悩が起きるからと固辞した。もう一人の慧安は悠々と官女のサービスを受け平然としていたと。その詳細を聞いて女帝は「入水見長人」初めて僧の優劣、器量がわかると言ったという話なんです。

 ところがその席主の言葉の説明がずいぶん猥雑といいますか、変だった。これはいかんと、そういうものをきちんと理解できるものを出版したいと思ったわけです。そこで「無」とか「夢」などの一字語から始めて十字語まで出しましたが、正、続、続々、又続、又々続と五巻も出たんです。こういうちょっとした言葉も知っていると話がうまくいくし、また知らないと恥をかくこともあるというので、需要があったんですね、これもよく売れました。

 

 ◎古筆、手鑑

 こういうものをやっておりますと、いよいよ古筆(こひつ)の方に関心が強くなってくる。そこで国宝になっているものを全部出そうと考えた。出版復刻をするなら国宝からやらなければ…と京都国立博物館蔵の「藻塩草(もしおぐさ)」から始めようと決心しました。それらの中で文字通りいちばん大きいものは近衛家の「大手鑑(おおてかがみ)」です。これも国宝になっていまして、本当に大きい。当時近衛さんはまだ東大の史料編纂所の助教授でしたが、お願いしまして、あの陽明文庫(註9)ですね、「こんな大きなもの大丈夫か」と言われて「まあ大丈夫でしょう」と、出来上がったら、ちょうど三十キロの重さになりました。

 話は少し前後しますが、古筆手鑑(こひつてかがみ)(註10)で国宝はこの京博蔵の「藻塩草」とMOA美術館蔵の「翰墨城(かんぼくじょう)」、そして陽明文庫の「大手鑑」です。これらは古筆最高の名品が収載された三大手鑑と言われ、これを拝見することはなかなか難しいものです。しかし書家や専門の研究者はどうしても見なければならないとされているものなのです。

 もちろん豪華なものです。金襴や錦織で装丁された経本仕立の折り本であり、これを通観することはかなり困難です。京博の場合でも、春・秋の好季を選んでその一部が陳列ケースの長さの制限以内に適宜部分的に展観されているという状態で、その時期を逸するととても見られるものではありません。また「藻塩草」の場合は二百四十二点もの経巻・歌集・書状・物語などの断簡が載せられているのですから、そう簡単に扱えるものではないのです。ともかく時代は「長大重厚」ブームでした。

 当時の博物館長の塚本善隆博士は、私の大変な恩師でもありましたので、私の無謀ともいえる、今まで誰もなし得なかったことを、本当に心配しながら許可して頂いたのです。学芸課長にも随分心配をかけました、今は亡き藤岡了一先生です。

 序文は館長の塚本先生で「国宝手鑑『藻塩草』は、現存する数多くの手鑑中、最優品の一つとして名高い。もとは、古筆鑑賞とその鑑定の宗家であった古筆家(こひつけ)に、代々伝わったものであるが、明治時代になって、井上侯爵家の入手するところとなり、大正十四年には古河男爵家の所有するところとなった。終戦後、文化財保護委員会が、この手鑑の文化財としての価値の高いことを認め、これを古河家より購入し、昭和三十六年八月、京都国立博物館に移管した。」とその経緯を書かれていますが、それは昭和四十四年三月十五日と日付されています。

 博士がその末尾に、「古筆手鑑中の至宝ともいうべきこの手鑑『藻塩革』の全貌が複製されることによって、真の芸術鑑賞の一助ともなり、加えて、この手鑑に秘められた、われわれの祖先たちの、古筆に対する愛情を、歴史的に理解するてだてとなることを念願してやまない。」と結んでおられます。

 宣伝がましく、また自慢たらしく聞こえるかも知れませんが、この複製本が大変な反響を呼び、「柳ノ下ニ泥鰌(ドジヨウ)」とばかりに、近衛家の「国宝・大手鑑」を刊行することになったのですよ。

 これは昔の近衛家の当主が、「今日は手鑑を見る、こういうところを見たい」とおっしゃる。すると執事がそれを準備して持ってくる。自分で書庫へ行って探すなどということはしないんですね、台車のようなものに載せて運んでくる。上を羽二重のようなもので覆ってあって、それを取るとちょうどお読みになりたいところが開けてあるんです。お公家(くげ)さんのところではそういう風な鑑賞が行われていたんでしょうね。

 これはなにしろ、あまりに大きいんで私も自分で作りながら、今まで一、二度しか開けたことがないんです(笑い)。出来上がって推薦文をお願いするため運んで行く、それがタクシーの運転手と若い社員の二人がかりでやっと持てた。これが近衛家の大手鑑です。「おおてががみ」ではなくて「おもてえかがみ」だ(笑い)と。

 その解説本をお願いした大和文華館(昭利三十五年開館)の初代館長矢代幸雄氏には、家を壊すような本を作って、「腕力出版はやめとけ」と怒鳴られたりしましたよ(笑い)。それがね、解説本だけは再版してるんです。あの昭和四十年から五十年代はいわゆる長大重厚の時代でしたから、そういう出版も許されたのだと思います。

 またこれを出版して一ヵ月ほどして鎌倉に大佛次郎先生を訪問した際に、近衛さんの話になり、「朱書き番号入り五百部だからちゃんと本屋が持ってきたよ…」、「先生どうでした…」と聞いたんですが先生は「倉庫へ入れさせたよ」と言われ、大笑いしましたよ。

 この手鑑ですが他に「見ぬ世の友」(出光美術館)なども国宝です。

 それから「先哲遺墨」というもの、これは明治天皇に西周(にし・あまね)が献上したもので、宮内庁にお願い書を出して、編集には苦労したものです。これはそれぞれの書に錚々たる執筆者による解題、文言の解説を入れているんですが、中に三箇所未詳というものが出たんです、どうしても読めない。筆者が解らないので未詳として出版したんです。ところが出版後、京都の三条京阪を少し下がったところにある天香堂という古書の専門店のご主人山添治さん(故人)から、はっきりこれは誰のものですという詳細な解説を頂き、学者の世界の外にもすごい人が隠れているものだと思った次第です。

 今日の話の参考になればと考えて「野邊(のべ)のみどり」を持って来ましたが、これは現在、尊経閣文庫(註11)に収蔵されていますが、加賀の前田侯が収蔵の多くの古筆の中から選び抜かれて作られた逸品中の逸品ばかりの手鑑(てかがみ)です。題簽(だいせん)は尾上柴舟が書いており、代表的な筆者は、紀貫之、小野道風、藤原行成、藤原公任、藤原定家等十五名、全部合わせて二十八葉あり、もう国宝になっているはずです。

 

 ◎これからの出版

 その他建築・庭園関係から哲学、懐石料理までさまざまな分野の本を作って来たのですが、結局はわずか30グラムのアテネ文庫からこの30キロの「大手鑑」まで(笑い)作って店仕舞したというわけです。

 私、どうもいままでの出版界には「驕り」があったのではないかと思っています。これは現在(平成十二年=2000現在)日本には5000社ほどの出版社がありますが、そのうち500社ほどが書協(日本書籍出版協会)に入っています。京都ではわずか28社しか入っておりません。それほど零細な業界なんです。昨年の書籍販売総額は2兆2500億くらいで、どんどん減っているんです。

 全体で2兆円程度の売り上げというのは、トヨタとか大企業と比較すればどうにもならない小企業ですよ。しかもこの業界を牛耳っているのはですね、音羽族(講談社グループ)と一橋(小学館グループ)、それから岩波くらいなんです。そんな小さな業界が日本の思想や文化をリードしてきた。そういうアンバランスな状態、歪みのようなものから、今本が売れない、出版不況が起こって来ているのではないかとも思うのです。「IT革命」ということが言われますが、これで紙の消費量は減るどころかかえって増えた。紙の使用量を見ますと、書籍用紙の消費量はガタ落ちになっているんですが、段ボールや事務関連用紙の使用量は飛躍的に伸びている。

 この時代、もとを考えると敗戦の貧乏状態から、高度成長でもって急に金持ちになった、そのひずみが今いろんなところで吹き出しているように思えます。茶道にしましても、もとは清貧の思想であったものが、今、しつらえでも何でも虚構の美学になりかねなくなっている。出版界も同様でして、「自殺の仕方」だとか「イミダス」とか「ムイミダス」とか、介護だの保険だのというそんな企画ばかりでその結果本が売れない。売れないからまた多種類出す。そんな追いかけっこの状態です。文字通り「軽薄短小」です。売れているのは低俗な週刊誌だけというのは情けないことです。

 そんな中で、出版の未来を考えますと、IT革命などで紙の消費は事実上低下しなかったように、情報の基盤としての紙に印刷された書籍はけっして消えることはない、むしろスイッチを切れば消えてしまう電子情報が増えるほど、書籍の本質的な価値は見直されるのではないかと考えています。そのためにもですね、出版界は心の深いところに根ざした価値ある企画を打ち出して行かねばならない、今そういう時代に来ているのでは、と考えるのです。時間も来たようですので、これで終わらせて頂きます。ありがとうございました。(拍手)

 

 註1  鈴木大拙1870~1966 金沢の医師の家に生まれる。東大選科入学の後、鎌倉円覚寺で参禅修行に熱中。後に渡米して大乗的な仏教思想を平明に説き、欧米への禅思想の普及に努めた。学習院大、東大を経て、1921年より大谷大学教授、本格的な禅研究に取り組む。『禅論』、『日本的霊性』、『禅思想史研究』、「鈴木大拙全集」他。

 註2 富士正晴1913~1987 編集者、作家、詩人。第三高等学校在学中、竹内勝太郎に師事。1944年応召し中国へ渡り、1946年復員。戦中戦後期の民衆のエネルギーを独特の筆致で描いた。代表作に『贋・久坂葉子云』、『帝国軍隊に於ける学習・序』他、同人誌「VIKING」を主宰した。

 註3  中野重治 1902~1979 福井県に生まれる。東大を卒業後、詩人、小説家、評論家として活躍。とくにプロレタリア文学、戦後民主主義の狭間をテーマにした。『中野重治詩集』、『斎藤茂吉ノオト』『むらぎも』他。

 註4  河上肇1879~1946 山口県に生まれる。経済学者、社会思想家。東大卒業後、マルクス主義経済学の研究や普及に努めたが、「危険思想」の持ち主として1928年京大教授の職を追われた。『資本論入門』、『貧乏物語』他。

 註5  京都大学人文科学研究所1949年、京大内に設立。日本部、東方部、西洋部の三部制で、学部の枠にとらわれない共同研究に特色がある。その前身である東方文化研究所、旧人文科学研究所、西洋文化研究所が統合されてできた。その中一番古い研究所が中国を中心とする東アジア研究を目的として1928年に設置された東方文化学院であり、これは東京と京都におかれた。

 この東方文化学院は「義和団事件」を発端とする「北清事変」の収拾に中国側から支払われた賠償金を主な財源とする「対支文化事業特別会計」(毎年250万円を限度として東京・京都研究所に支出)より支出された。また東方文化学院京都研究所の設立資金は約43万円であった。

 註6  GHQ general headquartersの略。連合国軍総司令部。1945~1952年の間日本占領のため置かれた中央管理機構。アメリカ軍のマッカーサー元帥を頂点に、政治・経済・文化・治安とあらゆる面に絶大な権力をふるった。対日講和条約の発効とともに廃止。

 註7  京都学派 歴史的には昭和十年代の京都帝国大学哲学科に依った西田幾太郎、田辺元を中心とする哲学者のグループを指す。東京帝大のカント哲学に対し、歴史哲学(東洋哲学)の立場を取り対立、戦後、左翼学者から批判を受け追放された。現在一般的には、京大を中心に東京の学風に対しより自由な発想を尊重する京都の大学全体の学風を指す言葉となっている。

 註8  朝鮮動乱(朝鮮戦争) 1950年、朝鮮半島の38度線を挟んで対峙していた北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と大韓民国の武力衝突に、それぞれの背後にいた中華人民共和国・ソ連邦とアメリカを中心とする国連軍が介入した代理戦争。この戦争で日本はアメリカ軍の補給基地の役割を呆たし、その後の経済復興のきっかけとなった。

 註9  陽明文庫 京都市左京区宇多野にある近衛家の別荘内に作られた宝物庫。昭和十三年に設立され、近衛家伝来の古文書、古典籍、古筆等およそ二十万点を所蔵。とくに古書蹟関係に貴重品が多い。そのうち国宝は八点、重文が五十点ある。

 註10  古筆手鑑 主として奈良朝以降室町期までのすぐれた書跡を古筆という。手鑑は古筆切を貼り込んだもので古筆鑑定の標準とされた。転じて書道の手本ともなった。

 註11  尊経閣文庫 加賀藩主前田家が歴代にわたり収蔵した和漢の書籍・文書・稀本・珍籍及び紙・織物などの民俗工芸品を収蔵する。なかでも「百巧比照」は江戸期の地方産紙の蒐集で有名。東京都目黒区。

 

 参考1 ポケット版「アテネ文庫」弘文堂版 B6サイズ No.1 久松真一「茶の精神」他 昭和23年発行 定価15円 翌年に出た第三版は30円。

 参考2  国宝手鑑藻塩草(複製) 淡交社 昭和44年刊 サイズ414×360×69mm 箱入り 18,000円 編集 京都国立博物館 用紙 高野製紙 印刷 日本写真印刷     

 参考3  国宝大手鑑(複製) 淡交社 昭和46年刊 500部 サイズ464×650×38 本冊2 解説1 帙入り 65,000円 監修 近衛通隆 解説 春名好重 表紙裂 京都機業 用紙 高野製紙 印刷 大日本印刷

 参考4  国宝野邊のみどり(複製) 淡交社 昭和47年刊 サイズ340×414×75 本冊1 木箱入り 150,000円 解説 春名好重 表紙裂 京都機業 料紙 福田喜兵衛、森田和紙 印刷 大日本印刷

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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臼井 史朗

ウスイ シロウ
うすい しろう 出版・編集者 1920年 岐阜県大垣市に生まれる。弘文堂時代に「アテネ文庫」の創刊にたずさわり、裏千家麾下の淡交社に転じては日本伝統文化と京都を出版素材に縦横無尽に活躍し編集局長、専務、副社長に至った。多くの知識人を執筆の場に呼び出し、また雑誌「淡交」「なごみ」を本邦屈指の雑誌に押し上げたのも編集者臼井の「運根力(うんこんりき)」であった。

掲載作本文は2000(平成12)年6月24日、京都私学会館の講演に加筆し、同年12月に日本・紙アカデミーニュース刊「KAMI」24号に掲載された。

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