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眞を求めたる結果

 或倫理学者が言つた。後世の史家は現代を以て最も熱心に事物の真相を了解せむとした時代であると言ふであらうと。此言は彼が現実暴露主義の輓近(ばんきん)思潮に不快を感じ(なが)ら、此思潮に同情を以て、否自ら慰めつゝ下した批評である。此語だけに就て云へば自分も全く同感である。事物の真相を知りたがる精神、換言すれば好奇心は近世科学の根本的精神であつて又大体近世的生活と歩調を合して居るものである。第一に科学は、(おなじ)く世界の真相を認識すると云つても哲学のやうに特殊の天才にのみ許されたものではなくて先づ先づ誰にでも分り易い。此事はデモクラチックな近世的精神に合する。第二に科学は直に其原理を実際に応用する事が出来る。之がまた世間的な近世的傾向と一致する。哲学の生噛りは迂儒(うじゆ)たるを免れないが、科学の生噛りは尚時に専売特許品位を発明する奇功を奏する。近世の初に教会が種々の手段を講じて科学の自由討究を抑圧せむとしたのは、教会の立場として至極尤もな事である。然し(つひ)に好奇心が勝利を占めて、吾等も亦一人前の人間の欠く可らざる資格として、所謂普通教育即ち一通りの科学知識を授けられた。吾等の好奇心を挑発したのは主として中学校の先生である。(さて)(その)普通教育の普及、少くとも科学的精神の普及の結果は無論こゝに云ひ尽せるものではないが、()の教育者等が抑圧に腐心しつゝある自然主義文学の勃興も、亦其一つに(ちがひ)ない事は明かである。余の見解によれば、自然主義とは科学的精神が文学の範囲に侵入した事実に過ぎない。自然主義の勃興には其他の社会的政治的事情も助けて居るのであらうし、クラシシズムやロマンチシズムに対する反動も(あづか)つて居るであらうが、若し科学的精神即ち好奇心が社会に瀰漫(びまん)してゐなければ、到底今日のやうな色を帯びて現れなかつたらうと思ふ。好奇心が無ければ現実暴露も何も無い。極どい描写などは一方に社会的事情からも説明しなければならぬが好奇心の手伝つてゐる事は明かである。次に自然主義者の或者が無解決と叫び、懐疑と呼び、理想を仮面だと罵るが是も科学的である。無解決は科学的精神と全然相容れぬやうに見え易いが、実はさうでない。科学者の中から幾多の敬虔な人物をも出したに(かかわ)らず、科学者は概して唯物論に傾いてゐる。其唯物論は一種の解決と見れば見られぬ事もないが、其機械論たる限り人生の意義目的に対して無解決たるべきは当然である。自然主義が人生に触れた痛切な問題を取扱ふと云ふ以上、解決にせよ無解決にせよ冷やかな認識上の閑葛藤を離れて、生存の意義そのものを指さゝなければならないのは明かである。而して唯物論が人間を動物と見做(みな)して、其生存を全部本能と衝動とに帰せねば()まない傾向を有してゐる事も亦明かである。之が十九世紀以来の社会状態と合して感覚主義本能満足主義に走る事は別問題とするも、兎に角科学的精神は唯物的精神で、唯物論は人生を無目的とし、其意義を無解決とする点に於て自然主義と歩趨(ほすう)を一にしてゐる。かゝる人に(また)何の理想があり得よう。理想は仮面なりといふ者は此無解決に絶望したか或は之に満足してゐるかで、懐疑を告白する者は左程(さほど)に諦められぬか或は尚他の方面を摸索してゐる者である。自然主義が現実暴露だとか、無解決だとかで尽きるものではないが、其特徴の一部分は(たし)かに(こゝ)に在るだらう。

 して見ると科学の文藝に及ぼした影響は大なりと云はねばならぬ。従つて自然主義の将来が科学的精神の消長にデペンドしてゐる事も甚だ多いのは極めて睹易(みやす)き理である。所が科学的精神は容易に衰微する様にも見えないから、又従つて科学的人生観としての自然主義もまだまだ暫く行はれる事であらうと思はれる。が、後世の史家が、仮に現代を以て最も事物の真相を明かにせむとした時代と云ふとして、其註に「然し彼等の所謂(いはゆる)真は我等の謂ふ所の真ではない」と附言するかも知れない。勿論之は自然主義の耻辱でも又科学の耻辱でも無く、如何なる思想も必ず際会する所の運命であるが、唯虞(おそ)るゝ所は後の史家に依つて、「彼等は真を求めたが徹底しなかつた」と云はれむ事である。

 科学は容易に衰微しさうにも見えぬ。人類は孜々(しゝ)として物質的享楽の実用的設備を()つてゐる。然し科学の覇権はもはや子午線を経過したのではなからうか。形而上学を要求する声には自然主義の衰微が(きざ)して居るのでは無からうか。科学万能論が唯物論となり、唯物論が感覚論快楽論(功利論は近世の民主的傾向を容れた快楽論である)となり、快楽論が厭世論になる径路は近世思想の最も著るしく証明したところである。唯物論の文学たる自然主義が其底に一種の哀調を帯びて居るのは当然の事である。但し同じ事実が思想の激流をして長く茲に留るべからざる事を暗示して居るのも亦当然の事だらう。吾等の精神生活は(つひ)に唯物論の跳梁に任すに堪へ切れなくなつて、遂に之を唾棄するの日が来るだらう。吾等は昔縹渺たる空想を楽んだ。又調和、均斉、韻律等の美に恍惚とした。然も物理や化学や生理や心理を学んだ為に、且新聞と云ふ極めてプロザイックな物の流行を歓迎したゝめに、換言すれば好奇心を以て鑑賞心に換へた為めに、何でもかでも事実を平たく説明したもので無ければ意味も分らず面白くなくなつた。科学が吾等の趣味の意識を破壊し、精神生活を荒廃せしめた事は幾何(いくばく)か分らない。科学は(せん)して事物の真相を究明すると云ふ。(そもそ)も真とは何か。ピラトは此問によつて恥を千載に遺したが、吾等もまた彼の亜流であらう()(かつ)て事実と真とは別であつたが今は一つにせられた。吾等は之に対して深疑無きを得ぬものである。実際吾等は現代人として不幸にも現代的感情に同情し得る者である。故に近代の文藝の切実を愛し乍ら、且其底に響く悲哀を殊更に懐しんで居る。人を牽きつける此哀調は、近代文藝の長所で(やが)て之が破綻の本では無からうか。事象の(あり)の儘の姿を描写する事が何故に悲しい。真を求めて真を得たるが何故に悲しい。人生無意義の発見が悲しいのか。或人が云つた秋の悲哀は明白にあると。自然主義も此類か。恐らくは其真なりとする所が真の真でない為ではない()

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/03/04

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魚住 折蘆

ウオズミ セツロ
うおずみ せつろ 評論家 1883・1~1910・12 兵庫県加古郡に生まれる。牧師宮崎八百吉(湖処子)受洗、また綱島梁川に感化され、東京帝大哲学科でトルストイに親しみ、ケーベル博士に愛された。1909(明治42)年、卒論「カントの宗教哲学」を提出して大学院に進んだ。

掲載作は、1909明(明治42)年11月12日「東京朝日新聞」文藝欄に発表、優れた解析と洞察に富んだ若き哲学者の簡潔な遺文であり、30歳に満たず逝った明治の一英才であった。

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