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『マイライフ』(抄)

6.25 sat コペルニクス的転換

 僕は、ほとんどの家事を代行サービスに頼っている。衣類全般はホテルОのランドリーサービスに出す。下着の洗濯と掃除は、週一回の家事代行とハウスクリーニングのスタッフにお願いする。一応、洗濯機の動かし方とかは、リエがこの家を出て行ったときに全部事細かにメモしてくれたから、自分で洗濯機をまわすこともある。

 今日は午前中、比較的時間があったし、テレビまわりのごちゃごちゃが気になったので、片付けを始めた。一番多いのが、僕が出た番組を録画したビデオ。いつも、マネージャーのNが届けてくれるのだが、自分の番組をチェックすることはほとんどない。

 棚の奥に落ちていたビデオを取り出すと、背表紙には『ズバリ言うわよ! 二月放送分』とある。細木数子さんの番組に僕がゲスト出演したときのものだ。考えすぎかもしれないが、細木さんの番組だけに、僕が普段しない掃除を始めたのも、何かのお告げ? と敏感になってしまう。

 僕がリエと別れたことを検証する内容だった。年末の同じ番組で、細木さんに、彼女と別れると断言されたうえ、「あなた、結婚はできないわよ」とまで言われた。結局、リエと破局ということになって、またも、僕がゲストとして呼ばれたのだ。

「お告げ」によれば、僕が離婚してひとりでいることで、壱成に影響を与えているらしい。彼は先祖との縁が薄くなり、いわば根無し草のようになってしまいそうだから、壱成の母親と復縁しなさいというのだ。「女の子と遊びたければ、籍を戻した後に、ちゃっかり遊べばいいじゃない」って、そう簡単にいうけれど、こっちにも事情というものが……。

 壱成の母親の名はまき。僕の最初の奥さんだ。奥さんといっても、いっしょに暮らしたことがほとんどない。付き合って一年もした頃、「あなたの子どもが欲しい」と言われて、経済的な基盤もできないうちに学生結婚。まもなく壱成が生まれた。芝居の世界に憧れていた僕は、演劇アカデミーに入るために、単身渡米し、「私たちは、あとから行くからね」というまきちゃんの言葉を励みに、アルバイトと語学の勉強に明け暮れていたが、実際には来なかった。ま、とどのつまり、僕はフラれたんだ。僕は家族を失い、後に、休学していた早稲田大学を退学することにもなる。寄る辺なく、孤独なアメリカ修業だった。

 まきちゃんは小学校から成城で育った、正真正銘のお嬢さんだ。おしゃれで個性的で、僕の一目ぼれだった。

 インド哲学をはじめ、僕をスピリチュアルな世界に開眼させてくれたのは、まきちゃんだ。世界的な神秘思想運動に影響を与えたインドの思想家、バグワン・シュリ・ラジニーシ(和尚)の存在を本で知ったのは、まきちゃんと出会った十九歳の時だった。彼女のお兄さんは、作家で翻訳家の星川淳さんで、二十代の頃、ラジニーシに弟子入りしている。まきちゃんを知る以前と以後とでは、僕の精神性はコペルニクス的に変わった。それまでの僕は、商学部で実学を学んでいたこともあり、どちらかというと現実主義、物質主義で、いわゆる目に見えるものしか信じないタイプだった。

 まきちゃんは、いわば「遅れてきたヒッピー」。ギンズバークやシュナイダーなど、ビート詩人にわざわざ会いに行くほどの傾倒ぶりで、インドなどの精神世界にも精通していた。独自の世界観を持つ彼女にリードされる形で、僕は詩を読み、朗読会にも参加するようになった。芝居という肉体表現に目覚めたのも、この頃の経験が大きい。

 僕から離れても、まきちゃんは、まきちゃんだった。彼女は非常にモテたので、パートナーに困ることもなく、自然と一体になる生活を実践していった。その中ですくすくと成長した壱成は、通常ではなかなか経験できないような幼年時代を送ったようだ。屋久島、八ヶ岳、オレゴン州、西荻窪……とコミューンを移り住み、なんと引っ連し歴は四十回を超すという。電気もガスもなく、自給自足で暮らす、原初的な生活も経験したと聞く。十代半ばでオーストラリアに単独で渡り、平和活動にも参加した壱成のたくましさは、母親の教育の賜物だろう。ちなみに壱成の本名は一星。まきちゃんが言うには、彼が生まれたとき、一番星が見えて、この名を思いついたらしい。

 彼女を語るうえで、お兄さんの存在は欠かせないだろう。星川淳さんは、現在、屋久島在住。一貫して、自然と人間のよりよい関係を探る活動を続けてきた。『地球交響曲』にも出演し、ジェームス・ラブロックのガイア理論を日本に紹介した人でもある。

 彼が手がけた代表的な翻訳本に、ラジニーシの『存在の(うた)』がある。この本に題名をつける際、実は僕の案が採用されたことは誰も知らない。当時、彼が軽井沢に(こも)って翻訳しているのをそばで見ていて、「この本の題名、どういう言い回しがいいかな」なんて、気軽に聞いてきたものだから、僕も軽いノリで、「『存在の詩』っていうのはどうですか」と思いつきで言った。それが彼の感性にぴったりきたみたいだ。ピエロ・パウロ・パゾリーニの映画(当時、僕は映画オタクだった)に出てくる、『千夜一夜物語』の「真実は一つの大きな夢にあるのではなく、多くの存在のなかにある」という一文をヒントにして、僕の心にひっかかっていた言葉をふいに口走ったにすぎない。あれだけのロングセラーに一役買えて、幸運だったなと思う。

 まきちゃんとは、別れた後も、お互いの動向はだいたい摑んでいた。用事が重なって、わりと頻繁に会うこともあったが、ここ二、三年は会っていない。

 

7.3 sun ドラマの撮影

 八月上旬にテレビ東京で放映される予定のドラマ『約束~いつか、虹の向こうへ』の撮影が佳境に入ってきた。僕にとっては、六年ぶりのドラマ主演で、気合いが入る。

 角川書店の横溝正史ミステリ大賞をとった、すごくいい本(著者は伊岡瞬さん)があって、それをドラマ化したものだ。僕は、尾木遼平という刑事役。刑事といっても、勇ましい感じじゃなくて、暴力団幹部に襲われてもみ合ううちに、逆に人殺しをしてしまい、職も妻も失った、ボロボロの「元」刑事、つまり前科者だ。五年ぐらい刑務所に入って出所したら、またもやひょんなことに巻き込まれて、かつて自分が関わった事件の真相を追っていくというストーリー。

 僕を追い詰めた犯人(元上司という設定)役が、平泉成さん。渋い俳優さんで、六十代に突入しちゃったよと笑っていたけれど、なかなかのマッチョ。外からは見えないけど、相当、体を鍛えているらしい。クライマックスには、平泉さんとの格闘シーンがある。

「なんでなんだよー。なんで俺のことを……」

 と、なぜ自分を麻薬の組織に売り、(おとし)めたのかと上司だった彼を責める僕。

「俺みたいにプライドを持てない者にとっては、お前みたいにプライドを持って生きているやつは、とくに嫌いなんだ」(うろ覚えだけれど、確かこんな感じのセリフだったと思う)

 と心の闇を打ち明ける平泉さん。

 いいシーンだけれど、このセリフに至るまでのもみ合いは、体力的には少々キツかった。ガッシリした平泉さんを、僕が捕まえて殴り倒す。二人とも泥んこになって、転がりながら、最後はガンガンにやり合う。普段走っている僕でさえ、息切れ気味だった。

 このシーンは、セットじゃなく、横浜市の水道局の地下の迷路での撮影だった。休みの日ということもあるが、最近欧米並みに「行政」が映画やドラマの撮影なら協力しようという姿勢を打ち出してくれている。今日は、横浜市が開放してくれた。しかも、水道局だから、そこにある水もふんだんに使わせてくれるという、気風(きつぷ)のよさ。

 そんなわけで、僕らは水をジャブジャブかぶりながら、取っ組み合いをすることになった。迫力は出せるんだろうけれど、僕の場合は、もともと少なくなってきた髪の毛をなんとかフワッとさせようと、いつもヘアメイクさんが苦労してくれているのに、水をかぶったら、ただのヘロヘロオヤジになっちゃって……。枯れた刑事の役だから、ある意味、すごくリアルで、いいんだけれど。俳優としてはレアな体をさらけ出して味も出したいが、タレントとしては若々しくフレッシュなイメージを追いたいという、トレードオフのバランス加減が難しい。

 今回の撮影で初めて知ったが、最近、自治体もようやく変わってきたということ。特に横浜市は他にも撮影場所の提供で協力してくれて、中田宏市長の改革路線が、こんなところにも表れているのかと感心してしまった。いわゆるうす汚い地下水路のはずなのにあんなにキレイな所だったので、僕自身は大変助かった。こんな本格的な地下水道でロケをしたのは初めてで、今までにない醍醐味(だいごみ)を味わえた。逆に演出のために、汚しをかけたぐらいだった。近々、埼玉県も、県庁の一区画をロケハンに貸してくれるらしい。どうもありがとうございます。

 アメリカでは、ずいぶん前から、映画のカーチェイスのシーンなんかを撮影するのに、州警察等が全面的に支援をする態勢ができていた。たとえ警察がバカにされるような表現が含まれていたとしても、それがユーモアだというのがちゃんとわかっている。アメリカは映画文化に対する理解があるんだなと、僕はうらやましく思っていた。日本の場合、昔は道路の使用許可を取るだけでも大変で、お役所の気分次第という感じだったけれど、いまは日本もアメリカに近づいてきたのかもしれない。こっちの方面なら大いに結構ですよね。

 

7.4 tue 渋谷のメガネ屋に出かけたら……

 ドラマの衣装に合うメガネを探そうと、空き時間に、渋谷のメガネ屋さんに出かけた。せっかくの機会だからと、個人用に、派手なフレームのものから、シックなものまで、鏡に向かって交互に試していたのだが、ざわざわして、鏡越しに人の視線を感じて振り向いたら、黒山の人だかりができていた。大半が興味本位なのかもしれないが、この年のオジサンに注目してもらえるのだから、感謝、感謝!

 僕は、出演する連続ドラマが次々とヒットした頃のことを思い出した。道端で「あ、石田純一だ!」と声がかかり始めたとき、注目されて、こんなに嬉しいことはないと思った。その頃は、ドラマのイメージで、得をすることもあった。女の子と話すと「意外と気さくなのね」なんて言われて、「気さくなのは、もともとのキャラクターなんだけど……」と心の中で思いつつ、「意外性」は恋愛のスパイスでもあるから、悪くない勘違いだなと思った。

 だが、程よい人気を楽しめるのは、一瞬だけだった。その後は、ちょっと街に出るだけで大騒ぎになり、渋谷をぷらっと歩くなんて、とてもできない雰囲気になった。さらに、「旬の人」としてもてはやされるようになると、今度は飽きられるのが怖くなる。すると、急に手綱を締めるようになり、自分で自分が窮屈になる。

 芸能人は浮き沈みがあるものだが、僕の場合はその落差が極端に激しい。

 演劇集団「円」にいた頃は、年収が七万円。月六千~七千円で暮らしていたわけだ。ところが翌年の年収が七十万円になり、また翌年は七百万円(なぜか七並びだったから覚えている)。さらにその翌年は一千四百万円と、毎年桁があがっていった。ドラマ『抱きしめたい!』がヒットした頃は、一気に二千万を超え、ピーク時には二億五千万円ぐらいになった。

 よりによって、不倫報道で叩かれたのが、まさにピークの年収をマークしたその翌年だった。税金は前年の年収で計算されるから、その年は一億円近く払わなければならず、お金のやりくりだけを考えれば、首をくくりでもしない限り無埋っていうところまで追い詰められた。天国から地獄へ突き落とされたような気分だった。結局、その時の税金を完済するのに八年を要した。

 その時は、わりと高価なマンションに住んでいたのだが、悲しいかな、引っ越し代さえ払えなかった。皮肉なことに、お金がすっからかんなのに、高級マンションに住み続けざるを得なかった。いま考えると、もう笑うしかない。当然、大家さんからは矢の催促。「今は本当に申し訳ないけれど、自分ではどうにもできない状況に追い込まれている。でも絶対に逃げないし、いつかは必ず返すから、もう少し待ってください」と何度も頭を下げて説得した。結局、滞納した家賃はゴルフの会員権を売って支払った。

 停滞、絶頂、そして急激な下降と一連の経験を通してわかったことは、ベストポジションを長期にわたってキープしようとしたって、所詮はうまくいかないものだということだ。だから、波に乗るときは、下手に制限をかけたりせず、思い切り乗っちゃったほうがいいというのが、いまの僕の持論だ。

 そしてもうひとつ。人間は手に入れたものを失うときが、一番怖いもの。反対に何かをとりにいっているときは、何も怖くない。だから挑戦し続けることは大切だ。新しいことにチャレンジしていれば怖いことなんてないし、生き生きとのびやかな気持ちでいられる、ということ。

 これが、僕の人生に対する実感だ。

 

7.30 sat モテる秘訣は、読書

 ハワイからの帰路、飛行機の中でこれを書いている。さっきまで読んでいたエリック・シュローサーの 『巨大化するアメリカの地下経済』が思ったよりも早く読み終わって、ちょっと退屈していたから、何となく、自分の読書生活のことでも書いてみようと思ったのだ。

 僕は、走るのも、本を読むことも、食事を摂るのと同じくらい大切な、生きる(かて)だと思っている。仕事をしているとつい油断して、毎日目の前のことに追われるだけで終わっちゃうものだけど、僕は常に、意識を高く持って、食事、運動、読書を生活のリズムに組み入れていこうと思っている。

 一週間に二冊は読んでいるから、単純計算をすると一年に百冊以上は読んでいることになる。今、すごい勢いで本棚が足りなくなっていて、床にも置き始めた。読んだ分、自分の血肉になっているという実感はある。仕事にももちろん役立つし、自信にもつながる。教養やセンスをそこはかとなくレベルアップするという意味でも、本は欠かせない。

 よく街を歩いていて、あるいはエレベーターに乗っているときとか美容院にいるときに、「お、石田純一!」と若い男の子に声をかけられ、そばに寄ってきて、「石田さんすいません、どうやったらモテるんですか?」などと聞かれることがあるが、僕はそういうときに、「本を読むことだよ」と話すことにしている。それは別に、蘊蓄(うんちく)が多いほうがいいということじゃない。僕が言いたいのは、言葉の端々に表れるセンスや、ユーモア、何かの決断をするときの判断材料など、自分の幹の部分をがっちりと形作ってくれるのが読書だということなんだ。

 僕が好きな言葉に、「(わか)くして学べば壮にして為すあり、壮にして学べば老いて衰えず。老いて学べば死して朽ちず」という一節がある。これは佐藤一斎という儒学者の言葉で、『言志四録』の一説にある。若いうちに学べば、大人になってから、世のため、人のために役に立つ人間になるし、壮年になって学べば、年をとっても、いつまでも生き生きしていられる。年をとって学べば、死んでも朽ちることなく評判は生き続ける。つまり、その精神は永遠に残るという意味だ。

 

8.7 sun 素足の事情

 今日の番組収録は二本()り(放送二回分の収録)で、ほとんど六時間ぶっ通しだった。本番では、ライトをガンガン当てられているし、ある程度、ハイな状態でいるためか、収録後は、体じゅうにどっと汗をかいていることが多い。当然、靴の中もびっしょり(なんといっても、僕は靴下を履かないわけだし)。

 でも、入念に消臭スプレーをかけておけば、大丈夫。もちろん、靴の中で細菌が繁殖しないように、除菌効果のあるスプレーを選ぶ。パウダータイプを使っているから、次に履くときもサラサラだ。特に夏場は、小まめにスプレーをかける。僕の手がまわらないときは、マネージャーのNが、シュッシュ、シュッシュやってくれている。

 僕の場合、靴選びのポイントとして、品質のよさやデザインのほかに、「通気性」が加わる。もっとも、きっちり作ってある上質なものならば、通気性もちゃんと考えてあるので、裸足(はだし)で履いても()れたりはしない。一足あたり平均で十万円ぐらいの靴を買うようにしているのは、そうした機能を重視しているからだ。高いものでは、八十万円以上するものも持っている。ジョン・ロブみたいな老舗のいい靴は、革が呼吸をしていて汗もちゃんと吸ってくれるから、履いていて気持ちいいし、裸足で履くにはピッタリ。そんなわけで、靴のコストは結構かかっていて、持っている靴の総額はぎっと五百万円ぐらいにはなると思う。

「革靴に素足」は、いつの間にか、僕のトレードマークになってしまった。昔、イタリアのミラノで流行(はや)った、「ローファーに素足」に憧れて真似してみたのだが、日本では、一、二月の厳寒期は冷える。その時期だけは、薄手の靴下か、足先だけの靴下を履いていた。

 ところが、二年ぐらい前、フジテレビの『笑っていいとも!』に出演したとき、ガレッジセールのゴリさんが、いきなり僕のズボンをめくってこう言った。

「あれっ、石田さんが靴下履いてる! いやぁ、ある意味ショックだなあ~」

 逆に僕は、この言葉にショックを受けて、「ああ、そんなふうに思ってる人がいるなら、このスタイルを貫こう」と、それからは一年じゅう、靴下を一切履かないことに決めた。

 それからしばらくしてゴリさんに会ったときに、そのことを打ち明けたら、「あぁ、そうだったんだ。俺がきっかけになったんだなあ」と、あのホンワカした笑顔で喜んでくれた。

 次に、『笑っていいとも!』に出たとき、彼は、〝素足ネタ〟をさらにバージョンアップさせて、「技あり」なトークを展開した。

「あ、石田純一さんですね」

「はい、石田です」

「本物ですね?」

「本物ですよ。何言ってんですか?」

「すいません。改めさせていただきます」

(僕のズボンの据をペラッとめくって素足であることを確かめ)

「あ、ノーソックス。やっぱり石田純一さん、ご自身でらっしゃいますね」

 ここで、観客がドッと笑う。

 ゲストをフィーチャーしながら笑わせるセンスのよさは、もうお見事としかいいようがない。彼は、若手芸人の三本の指に入るんじゃないかと僕は思う。

 

8.26 fri ちょっと、それはないでしょ!

 腹が立つ出来事があった。あるメーカーの新製品のお披露目イベントに呼ばれ、社長が昔からの知り合いだということもあり、ほんの少し顔を出すつもりで出かけていった。

 あいにく社長の姿はなかった。代わりに出迎えたセールスマンらしき男が、僕を商売のチャンスと見込んだのだろう、会場じゅうを、こっちも、あっちもと連れまわすものだから、結局、僕は会場のお客さんヘサインと写真の対応をするだけで、新製品の説明もろくに聞けずに終わってしまった。もちろん、ノーギャラである。

 僕は、一般の人にサインや写真を希望されたら、絶対に断らない主義だから、サービスをするのは構わない。だが、僕をセールスのネタに使おうとするその男性の姿勢があからさまで、やりすぎなんじゃないのと思った。恐縮して帰ろうとする女性の手を無理やり引いて、僕とのツーショットを強要したりするやり方は、相当ブラックな感じがした。

 おかげでまたも、ごはんを食べそびれた。イライラするけど、こんな時こそ、「加齢臭」には気をつけなければいけない。内臓の疲れが、時として悲鳴となって、口臭に出てくるときがあるが、特にコーヒーは、やはりがまん、がまん。

 

8.28 sun おふくろ

 昨晩からまる一日、ほとんど通しでゲスト出演していた、『24時間テレビ』が終わった。僕は大勢のゲストの一人だが、生放送だけに気が抜けなかった。長丁場だから、髪がくしゃっと落ちてこないよう、CМ中は、ササッとかき上げてしのいだ。

 日中は、『行列~』の番組の仲間とともに、恒例の百キロマラソンの最高齢ランナー、丸山弁護士の応援にまわった。移動続きで、ランナーではない僕までが、いまだにランニングハイみたいな状態だ。

 都内に住む母親にちょっとした用事があったのだが、仕事と重なってしまい、今朝はマネージャーのNに代理を頼んだ。Nによると、おふくろは、僕が深夜に出演していた放送まで()らさず観ていて、結局、眠りについたのは三時過ぎだったらしい。僕がスタジオを出て仮眠を摂ったのも、ちょうどその頃だ。まったく、七十七歳にもなるのに、夜更かししちゃって。いつも、僕が出ているテレビはチェックしてくれている。

 おふくろは「極楽トンボ」といってもいいほど、のんびり、おっとりとした人だ。僕はおふくろに大声で怒られたり、手をあげられたりしたことは一度もない。学生時代、僕が警察に補導されて、おふくろが呼び出しをくらうこともあったが、親父には内緒にしてくれた。

 いわゆる不倫騒動のとき、おふくろには、「レポーターや記者が訪ねてきたとしても、何も話しちゃだめだよ」と念を押していたのに、ある時、テレビをつけたら、他でもないおふくろがバッチリ出ていて、びっくりした。初めは「知りません」とか、おふくろなりに取り(つくろ)っていたのだが、マイクを差し向けられると黙っていられないらしく、「いいえ」とか「そうですね」とか答えている。本人は、それで何も答えていないつもりかもしれないが、巧みな誘導尋問にひっかかって、つい本音をもらしてしまうのだ。これでは、一切何も話さずに通していた、リエやあちらのご両親の努力が水の泡だと思った。

 なんでしゃべったのと、後で聞いたら、

「皆さん、夜中まで家の前で待っていたのよ。何も言わないなんて、お気の毒でね」

 と屈託なく言うものだから、怒る気にもなれなかった。

 結果的には、おふくろの言葉に助けられた部分も大きかった。リエのことを、「とってもいいお嬢さんで」と言ったりして、おふくろが輪郭だけをふわーっと話したことで、それまでマスコミの攻撃の対象でしかなかったリエの印象が温かい感じに伝わったのだ。逆にいまでは感謝している。そのことは、照れくさくて、おふくろにはまだ伝えていないのだが、いずれ機会をつくってありがとうを言いたいと思っている。

 もともと、東京・立川の地主の娘だったおふくろは、お嬢様育ちで、ハイカラな人でもある。NHKのアナウンサーだった父の転勤で、アメリカで暮らしていたとき、我が家では、母の本名の「静江」をアメリカ風に「スージー」で通そうと決めた。いまでもそう呼んでいるが、この愛称がおふくろにはお似合いだと思う。おふくろの味で、僕がまず思いつくのは、「チキンのプロバンス風煮込み」だ。トマトソースやブラウンソースの味が、僕の体に染み込んでいる。

 八九年に父が亡くなってからは、おふくろは一人暮らしをしている。人のよさが災いしてか、最近、いわゆる「振り込め詐欺」に近いような目にも遭い、親父が残してくれたお金を、すっかり取られてしまった。しかも、たちが悪いことに、以前からの知り合いが絡んでいるのだ。

「ある事業に投資すると、何倍にもなって返ってくる。三日に一度、二百万円ずつこの口座に振り込みなさい」などと吹き込まれたらしい。おふくろは昔から、アジアに学校を建てたいとか、いろんなことを考えていたみたいで、そんなささやかな夢を逆手にとられたのかもしれない。

 総額千五百万円といったら、おふくろの年代ならば、年金も加味して十年は暮らしていける額だ。旧知の仲とはいえ、高齢者から、口約束でそれだけのお金を取る人は、あまりいい人ではない、と考えるのが普通だろう。最初におふくろからその話を聞いたとき、

「そう簡単に人を信じちゃダメだよ。自分の息子とその人と、どっちを信じるの?」

 と釘をさした。だけどおふくろは、

「悪い人じゃないのよ」

 とその人を信用している風なのだ。

 僕に注意されるのを懸念してか、心配をかけまいと思ってか、結局、おふくろは僕に内緒で次々と一千万以上も振り込んでしまった。相手の要求に応えているうちに、とうとう貯蓄を使い果たし、知人に借金までした。息子の僕に、なぜひと言でも相談してくれなかったのか……。

 借金の催促に悩まされ、食べるものに困るほど、ひもじい生活を続けていたという。だがそのことを、僕と会ってもおくびにも出さなかった。僕がおふくろの異変に気づいたのは、比較的最近のことだ。オシャレで年を感じさせない風貌だったのが、急にやつれてしまい、何かあったとピンときたのだ。人生の終盤になり、こんな思いをするために生まれてきたんじゃないだろうにと、未然に食い止められなかったことが、口惜しくて仕方がない。

 この前も、「預けたお金は、絶対返ってくると思うのよ」とまだ言っていたから、おふくろはいまでもダマされたとは思っていないのだろう。老齢の彼女を責めるのは酷だと思い、僕はおふくろには内緒で、相手先の帳簿から一切を、独自のルートを使って調べさせてもらった。案の定、先方が名乗る社長の名は偽名で、実体のない会社であることが判明した。相手にその事実を突きつけ、「今後、一切おふくろには近寄らないでください」と告げると、反論さえしなかった。やはり、初めからおふくろを利用しようとしていたのだろう。

 おふくろが知人に借りたお金は、僕がすべてお返しした。振り込んだ金額の一部を取り返すための手続きもしている。だが、取り返せないものがひとつある。ごく最近、おふくろにガンが発見された。間違いなく、ストレスが原因だろう。

 僕はあらゆるつてを頼り、いい先生を見つけた。先日、治療が始まったところだ。免疫アップにつながる食べ物や漢方を、いろいろ探してきては母の自宅に届けている。

 

8.29 mon 親子そろって……

 昨日はおふくろの話を長々と書いたが、実は僕も、土地絡みで五百万円ほど損をしている。だから、おふくろにエラそうなことはいえない。

 三・五億円で購入した成城の土地は、破局報道で「家を用意したのに、彼女に逃げられた」みたいな尾ひれがついて、すっかり有名になってしまった。もちろん、これも将来設計の一環には違いなかったのだが、自宅兼事務所を建てようと、前々から計画していたもので、たまたま、購入したのがリエと別れた時期と重なってしまったにすぎない。

 成城に決める前には、代官山の土地にも興味があり、迷っていた時期があった。代官山の土地は、さほど広くはなかったが、眺めは最高だし、地の利もよかった。手付け金の前段階の、「真剣に考えてる料」みたいなものとして、五百万円を要求され、支払ったが、一カ月して、手を引くことに決めた。綿密な調査をしたところ、購入をやめるに至る正当な理由を見つけたのだ。

 例の「真剣に考えてる料」は、いまだに返ってこない。連絡しても、平謝りされるばかりで、二年近く放って置かれた。再三迫ると、逆に「一カ月の遅延科として、一千数百万円分の損害が出たから補填してほしい」と法外な額を要求する書類が送られてきた。それ以降は、担当者が電話口に出なくなった。

 弁護士さんによると、先方と取り交わした書類の内容などを(かんが)みて、裁判をすればこちらが有利で、いざとなれば、先方が保有する土地や銀行口座の差し押さえもできるという。

 僕はガードが硬くなさそうだと思われるのか、ダマそうと近寄ってくる人がいたり、実際にダマされたりしたこともあるが、女性で言うと「ナンバされやすいタイプ」なのかもしれない。これまでの教訓で、随分ガードは硬くなったと僕自身は思っているのだが。

 それにしても、親子そろって、痛い勉強をさせてもらっている。

 

10.22 sat モダンガール

 おふくろが僕の舞台を観に来てくれた。楽屋に来て「森さんは歌もうまいのね。でも出演者、みんな演技がうまかったですよ。赤ちゃんまでね」と言っていたのが、おふくろらしいなと思った(赤んぼの声なんて録音されていて、丁度のタイミングで音響さんが出してくれる)。

 おふくろは森光子さんのファンだけど、森さんは舞台でお疲れだろうと、楽屋へ連れていくのは遠慮したのだが、森さんが「石田さん、お母様がいらしているなら、是非お連れになって」と誘ってくださって、おふくろを連れていくと、部屋の外まで出迎えてくれ、「まあ、お母さんったら、モガ(モダンガール)よね。私が大好きなタイプだわ」なんて、ありがたい言葉をかけてくれた。おふくろも大喜びだった。

 はしゃぐおふくろを見ていると、この体のどこにガンがあるのだろうと、不思議な気がする。まだ、おふくろがガンであることは、本人には言っていない。告知の時は、姉の桃子と二人で聞いて、しばらくは黙っていようと決めたからだ。けれど、本人はもう、わかっていると思う。最近は、おふくろが検査に行ったりするときには、僕と姉と交代で付き添っているんだけど、おふくろの表情を見ていると、「自分の体に怪しいところがあるみたいだけれど、あまり気にしないで生きていこう」とする意志のようなものが感じられる。あくまでも前向きだし、強い人だとあらためて思う。

 昔の典型的な専業主婦で世間知らずだけど、「これをやる」と決めたことは、やり通す芯の強さを持っている。七十歳から始めた習い事も多く、英語もそのひとつ。いまでもあいかわらず続けている。「七十歳を過ぎてから英語を覚えてどうする?」なんてことは考えない。人間の限界とか、人生の終わりとかを設定して、ある程度の年齢に達したら閉店の準備をするのではなく、やりたいことは、いくつになっても挑戦するし、いつも通りの生活をいつも通りに淡々と続ける。これがおふくろの生き方。見習うべき理想的な年の重ね方だ。

 僕はつねづね、「才は父から、心は母から」もらったと思っている。うちの親父は、かなりの勉強家で、英語もペラペラだった。NHKのアナウンサーとして、オリンピックの中継などで活躍した後に、報道局へ異動し、衛星中継(親父は当時、「宇宙中継」という言い方をしていた)を企画して推進するなど、とにかくよく働く人だった。仕事はできたけれど、不器用。馬鹿がつくほど正直でまじめだった。神経質なところもあった。おふくろは反対で、極楽トンボ。もしトンボが天国にもいたら、こんなトンボなんじゃないかなと思えるような、ふわふわした感じ。僕も見かけによらずのんびりしているところは、おふくろの気質からもらったのかなと、勝手に思っている。

 昨今は、仕事も家庭も抜かりのない、バリバリできる女が持てはやされるけれど、「おっとりしている」というのは、女性の最高級の資質だと僕は思う。

 

10.29 sat 文化勲章

 森さんが文化勲章を受章された。昨日そのニュースが流れるや、楽屋は一気にお祝いムードになった。今日の夜の公演では、カーテンコールの時に、「文化勲章受章おめでとうございます」の看板が用意されていたし、ヒガシが舞台上で森さんを抱き上げたりして、出演者も観客も一体になって祝福している感じだった。

 森さんと舞台をごいっしょさせてもらって驚くのは、彼女の小さいお顔の中に、希望や喜び、無邪気さ、切なさ、絶望……といった表現が全部詰まっていて、場面ごとに自在に変化させながら表現を楽しんでいるように見えることだ。やはり名優中の名優だと思う。

 一方で、チャーミングなところもある。細かいところでミスしても、その後のセリフをうまくつないで、それどころか、いつもより楽しい場面に仕立てたり、対処の仕方が絶妙だ。

 森さんとヒガシとのコンビネーションははたで見てても見事で、森さんがどんな球を投げても、ヒガシはさらりと受け止める。今回、ヒガシは森さんの弟役で、クライマックスに姉役の森さんと二人っきりで会話を交わす、ちょっと泣かせるシーン(この直後にヒガシが殺されてしまう設定で、別れを予感させる場面)があるのだが、森さんが、タンゴを勉強しにアルゼンチンに渡るというヒガシに、「あなたもついにアルゼンチンに行ってしまうのね」と言うところを、「あなたもとうとうブラジルに行くのね」と言ってしまったことがあった(恒例の森さんの部屋での朝のお茶会で、昨日放映されていた橋田壽賀子さん脚本のNHKドラマ 『ハルとナツ』があまりに素晴らしいため、ブラジル移民の話をみんなでワイワイしていたせいかもしれない……)。

 僕は裏で聞いていて、椅子からひっくり返るぐらいびっくりしたけれど、舞台上のヒガシは声色ひとつ変えずに「アルゼンチンだろ」とフォローし、森さんも平然と、「あ、そうそう」。二人は正真正銘のゴールデンコンビだと感じた瞬間だった。

 

11.1 tue 庭で感じるアポトーシス

 いまは次の名古屋公演までの、ほんのひとときの中休み。といっても、その間はテレビのまとめ()りなどで息をつく暇もなかった。今朝は出発前に家のソファーで新聞を読んでいて、ふと庭に目をやったら、しみじみと秋を感じて、しばし物思いに(ふけ)っていた。

 うちの庭には、常緑樹に混じって、なぜか手前に一本だけ落葉樹(たぶんハナミズキ)がある。真っ赤に色づく落葉樹が緑の背景色とコントラストになっていて、より一層赤々と燃えているように見えた。

 日本の秋の物悲しさは、一文字で表すならば「悲」よりは「哀」という字のほうがぴったりくる気がする。日本語だと、「哀」も「愛」も、音読みで「あい」と読むけれど、二つはよく似ている言葉だなと思う。相手を心から「愛する」からこそ、「(かな)しい」思いもするし、そのはかなさがまた愛おしくもある。季節のうつろいは、人間の日々の営みを鏡のように映し出して見せてくれる。

 ふと、緑の芝に落ちた枯れ葉を眺めていると、生物の細胞レベルで起こる現象のひとつである「アポトーシス」(死ぬことをプログラミングされた細胞)と同じだなと思った。例えば赤ん坊の手は、母の胎内で最初は「球」の形だったのが、なぜ五本の指に分かれるかというと、指の間の部分の細胞が自然に死んで削れていくから。生命が全体として生きていくために、初めからプログラムされた「死」がアポトーシスであり、それがあるからこそ新しい「生」を獲得できる。枯れ葉もこうやって次の代の「生」に備える準備をしているかと思うと、自然のすごさに驚きを感じる。

 詩のひとつも書けそうなほどいい景色なのに、残念ながらひとつだけ邪魔な人工物が視界に入る。僕が「庭で湯に浸かるのもいいかな」と思って取り寄せたジャグジーセットで、使えない状態のまま放置してある。発注してしまってから、念のためオーナーに確認したら、ジャグジーの設置は認められなかったというわけ。仕方なく、業者が引き取りに来るのを待っている。当然のごとく、人工物にはアポトーシスのような自然の素晴らしいシステムが組み込まれていないから、ひとつひとつのモノの存在意義を見極めるのは人間の役割ということになる。

 でもジャグジーはやっばりあきらめないぞ。粘り強く交渉していこう。世の中には、できない理由を考える人とできる方法を考える人がいるが、僕は断然後者でありたい、と思っている。

 

12.11 sun 空き巣

 昨日、自宅が空き巣に狙われて、大変な目にあった。あわてて帰宅すると、そこらじゅうにガラスの破片が飛び散っていて、悲惨な状況になっていた。いまもまだ、引っ掻き回された部屋を片付けたり、警察やマスコミに対応したり、なにかとせわしない。

 犯人が侵入したのは、僕が番組の収録で外出しているときだった。セット替えで中休みになり、スタジオを出ると、マネージャーがあわてた様子で、「石田さん、大変です! 空き巣にやられたそうです」と駆け寄ってきて、初めて事態を知った。

 警備会社の人は、五分強で到着していたのだが、すでに犯行後で、現金百五十万円とあわせて数百万円相当の腕時計が盗まれていた。

 普段は自宅に現金を置くことはまずないのだが、事務所のスタッフに手渡ししようと用意していたボーナスをほんの三日ぐらい置いていたところを、ピンポイントで狙われてしまった。やはり向こうもプロ。お金のにおいを嗅ぎつける喚覚は並みじゃない。

 奪われた時計の中には、「盗んだはいいけど、足がつかずに転売できるの?」と逆に心配しちゃうぐらい希少な品もあった。いろんなところで思い出を刻んできた愛着のあるものばかりで、時計好きとしては残念でならない。ほんと、買い戻してでもいいから、返してほしい!

 庭に面した窓は、特殊な二重ガラスで、簡単には割れないはずだ。それなのに、犯人はやすやすと穴を開けて侵入してきている。小さな子どもしか出入りできないんじゃないかと思うような穴だったから、たぶん、そんなに大柄な人ではないのだろう。引き出しという引き出し全部を開けられ、台所から衣装部屋に至るまで物色された形跡が残っていて、それが誰だか知らない人による行為だと思うと、背筋がゾーッとする。しかも、隠していたところだけが派手にひっくり返されていて、ほかの部分はあまり手をつけられていない。プライベートをいつも観察されているんじゃないかと、薄気味悪さを感じてしまう。

 犯人というものは成功体験が忘れられず、また同じ家に必ず来るという。警察や警備会社と話し合って、今度来たらどんな風につかまえるかが課題だ。

 考えてみれば、とられたのはお金と時計。夢と希望をとられたわけじゃないから、よしとしなければ。誰かの命が奪われなかっただけでもよかったと思う。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2018/12/25

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石田 純一

イシダ ジュンイチ
いしだ じゅんいち 俳優、タレント。1954年、東京都目黒区生まれ。著書に『落ちこぼれのススメ』(2000年、光進社刊)、『マイライフ』(2006年、幻冬舎刊)がある。

掲載作は『マイライフ』(2006年、幻冬舎刊)より編輯部で抄録した。

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