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スウィス日記(抄)

 忘却は人間の有する最大の幸福である。私達の目まぐるしい生活が、あらゆる感情の綯い交じったその日その日が、有りの儘に私達の在る限り、胸の中にたたまれてあるとしたら、それを負うて歩まねばならぬ人の運命はいかに悲惨なものだろうか。

 雑然たる生活の断片を紙に残すのは、この意味に於て明らかに矛盾である。しかもそれを敢えてするのは私の過去に於てアルプスの雪の間に送った月日が、そのいずれの瞬間を思い出しても何の悔ゆることのない、白日に露すとも何等不安を感じない生活であったのを確かめているからである。

 山に対する時私は云い知らぬ喜びを覚える。しかし読者はこの日記によって同じ感じを得ることが無いかも知れない、がそれはあながち私の負うべき責ではあるまい。何となれば、山のささやくは自然の声であって、言葉は竟に人の心に過ぎないからである。私は明らかにその声を聴く、しかしそれを表わす言葉の無いのを如何にしよう。只この日記が、偉大なる山岳を汚損する如き傾向を、僅かなりとも読者の心に与えなければ、私はそれを以て充分に満足する。

 

 大正十一年七月

                                   著 者

     

     

    リヨン─シェネーフ(ジュネーブ)Lyon─Genève

     ローンを右に見る汽車の窓に、むら消えの雪の間に、霜げたがさすが若草か緑の牧も見えて、丘は赤瓦の百姓屋、川やなぎ、ポプラ、背戸に積んだ刈り草の、空はやわらかにうすら霞んで、南欧らしい気分は、急行の汽車の中までただようている。ふりかえるとリヨンの街は、どんよりともう立ちこめた烟の中に隠れて、今となれば、さすがもの悲しいフールヴィエの丘の雪も、岸のポプラのむら立ちも、あわただしく別れては来たがこの都も、

       別れ路にまた降りそめし川岸のポプラの群のかおる朝雨。

     それもよし、今宵は雪のスウィスである。室にかけたシャモニーの広告もうれしかった。

     私は窓ぎはのテーブルに、スウィスの地図を拡げる、もう一人のお客さんは、入口の方に倚りかかってこくりこくりやって御座ったが、やがて、アヴァランシュのような大鼾をかき初めた。汽車は鼾を物ともせず、同じような響をたてて、丘の間を走ってゆく。折り折りテレースの上に小さな村が表われる、南表は雪解けの赤屋根であった。

     川をはなれると、雪はだんだん深くなって、露わなポプラの木立、遠い丘の、これも真白に包まれた上に、尖塔の夕日に閃くのが、何とも云えず美しかった。が、それも暫し、日の沈む頃には、やや谷合いの雪が深くなったと思えば、さらさらと窓に散る、汽車は粉雪に包まれてゆく。アヴァランシュはそのうちふと眼を覚まして、しばらくもじもじしていたが、烟むそうな顔をして出てしまった。あとは一人で気楽である。

     とある停車場でガルソンを呼んで、御茶を運ばせる。空はいつの間にやら暗くなって、雪明りか、うっすらと谷水の見えると思ったのは、あらずそは夕月の光りであった。窓の露をふいて外をのぞくと、狭い谷の空にアクアマリンの夕星を見る。粉雪はやんで、谷の雪は尺をたしかに超えていたろう。又一人の男がやって来て、同じ入り口の席によりかかった、こいつもアヴァランシュかなと横目で見ると、声も立てず、ぐっすりと、彼れは穴籠りの羆熊のように眠っている、元より赤鬚の荒くれ男で。

     食堂へ出るまでもない、八時には湖に沿うた街の灯がちらちらして、汽車はシェネーフの停車場に着いた。税関の検査も一寸聞くだけで、荷物を自動車にのせて宿に行く、通りの名はリユー・ドゥ・モン・ブロン Rue de Mt Blanc、ホテル・ドゥ・ジュネーヴと云う家の名も気に入った。何も自動車を雇うまでもない、停車場からは五分ばかり。

     

     

    シェネーフ Genève

     私が水を見たのは。ただ水と云って置こう、湖から朝靄が立ちこめて、ローエングリンを送り届けた帰り途の、道草は可笑しいが、もとより浮き草もない小波の上に、靄の色の羽づくろいして白鳥が一羽、おつに澄して游いでいたばかり、レマンの岸に人もなく、空も、波も、ただ一色にぼかされた八日の朝の八時頃、朝飯を待ちかねて──敢えて空腹のためではないが、何となく胸さわぎがして、落ち落ち眠れなかった床をはなれると、山が見えるかと、覚束ない心頼みに、街をつきぬけて橋のたもとに来たのである。橋の名はモン・ブロン。ローンの水の落ち口である。

     橋をへだてて、南にはプロムナードからサヴォアの岸のクェイ・デ・ゾウ・ヴィヴ Quai des Eaux Vives 北岸はモン・ブロンの湖岸から、クェイ・ドュ・レマン Quai du Lèman につづいていかめしい宮殿作り、一口に云えば、一寸入り悪くそうなホテルがづづと並んでいて、中から出て来た自動車に、雪のとばっちりをしたたか浴せられたのもいまいましい。彼奴はアメリカ者に相違ない。レマンの岸の朝ぼらけを自動車で、しかも変てこな女づれで、ぶち壊す奴は外にあるまい、がその宿のドゥ・モン・ブロンは気に入った。

     何にしても、スウィスの雪を踏むだけで、胸のうれしさは隠くしきれない。デジューネーの、銀の壷に盛られた魂拍の蜜も、煙草の名のハイライフも、紅のように頬を染めたあの北風も、今はなかなか忘れられない。こうして、八日は湖水のふちをうろうろして、水を見て、橋を見て、また真白な霧を見て、ただにこにこしている中に暮れてしまった。午後は柔かに日はさしたが、湖の靄は、夜明けの窓のとばりのように、夢をつつんで静かに眠った、水鳥の鳴く音をさびしくつたえて。

     次の日も靄が深く、小雨まじりにしっとりして、水の都は名を知られたと云う、紀元の空をそのままに、雪路なれば足音も響かず、静かに明けてまた暮れてゆく。

     ミュゼーにさすが山の画は多い、小路のそこここに、噴水の雪に埋れているのもうれしかった。何だかしんみりして、月夜ではないかと橋まで出たが、雪明りのどことなくうっすらして、ローンの落ち口の水底は、昼よりかえって白く光っている。杭かと見えたのは河波の上に、あわれ浮寝の小鴨である。

     湖ごしに雪の連山を、遠くとも一日見たら引きかえそうと、シェネーフの滞在四日に及んだが、次の日も小雨で、路の雪は解けもやらずそのまま凍って、湖の靄からネーベル・ホルンが、かすかに響くばかり、モン・サレーブの雪の岡はちらっと見たが、その上に表われると云う、モン・ブロンは影も形も見せなかった。

     このままでは義理にも帰れなくなった午後十二時二十分(西欧標準時)、街はづれの停車場 Gare des Eaux Vives から、思い切って汽車に乗った。これからシャモニーへ行くのである。

     ボンヴィュ Bonneville までは平らな路で、堤に紅いウメモドキとも思われるのが、雪をかずいて美しかった。次第に山に近く、右は切っ立ての岩壁に、直下のアルヴ Arve の渓も深く、タンネの林に鵲の飛ぶのも山らしい。が、電車に乗りかえるサン・ジェルヴェ St.Gervais から、初めてアルヴの美しさが眺められる。

     乗りかえて待つ間もなく発車する、シーをかついだ連中が、一所になったのも頼もしい。渓は深く、樅の梢がすくすくと屹えているだけで、高い高い崖の雪路までは見えたが、上は同じく真白な雲にかくれて、日暮れに近い渓合いに、花やかなのは電車の明りばかりで、ボッソンの氷河も知らずに、シャモニーの停車場に着いたのは午後五時。日は暮れて、表に出ると、冷やっとする山の夕靄を震わせて雪車(ソリ)につけたシュネー・ロルレンの、あわれ響のなつかしさ、アルヴは何処、雪の中に埋れて、渓川の響はその夜の夢に通わなかった。

     

     

    シャモニー Chamonix

     雪車(ソリ)に曳かれて着いた宿は、停車場から程遠からぬカルトン・ホテル Carlton Hôtel で、まだ新築の奇麗な家であった。北向きのヴェランダからは、右にエギュイユが渓の東を東北へ走って、そのはずれのモンタンヴェル Montanver の蔭から、メル・ドゥ・グラス Mer de Glace がのぞまれる。日あたりの南はモン・ブロンの頂よりも、エギュイユ・ドュ・グゥテー Aiguille du Goûter とドーム Dôme du Goûter の氷が眉にせまる。が、着いたのは黄昏過ぎ、次の日は曇り、その翌けの日は大雪で、シャモニーの渓をまのあたり見たのは正月十三日の、それも昼まぢかになってのこと、此宵はサロンのピヤノと、二重窓をあけては、かすかに響くアルヴの水音に耳をかたむけたのである。

     さて翌けの日、山村の日曜を想像して見たまえ。眠っているような小村の靄に、鳴りわたる会堂の鐘の音、アルヴの水も夢からさめたか、雪をもれて、かすかにそれとうなずかれる朝まだき。あすこに、この雪の下に、彼のウィムパーが眠っていると、朝飯もそこそこに、杖一つぶら下げた身軽にぶらり、その鐘の鳴る方へ雪路を分けてゆく、教会は停車場前、私の室のヴェランダからは、斜めに見える尖塔がそれで、墓は雪の中ながら、誰のわざかしおらしい花束も、雪をかずいて美しかった。どんよりと曇り日の空には、そこここと晴れ晴しい朝空が仰がれたが、山は深い雲の中で、只ほの白い渓の中に、鐘のねばかり鳴りわたる。朝空の雲の窓は、その鐘にさそわれて、南に動き西に揺れて、ある時は、その陰欝な扉の奥に、ああボッソンの蒼白い氷河をさえ仰ぐことができた! ただ思いがけない雲の真中に、これが私の初めて見た氷河であった。

     たまらなくなって、深い雪の中をあたふたと、たとえば一尺でも山に近づこうとするように、ホテルの前は素通りにして、アルヴの橋を、水には眼をくれる暇もなく、つき当りを左に曲ってボッソンの方へかけつけた。村の奴等は変な顔をして見送っている。漸やく村はずれに来た頃は、もういつの間にか見えなくなって、恨めしそうに、ふり仰ぐ空は、おなじ灰色の密雲である。

     村はずれにも教会がある。女まじりにそろそろ坂道を下りて来るのは、野良着をつけた屈強な大男、夏はガイド、陽気はずれの寒空には、杣か、大工の手つだいもして、こうした日曜には、やさしくも神の御前にぬかずくと見える。山の名は、後の日この手合いに聞いて知った。

     山は見えず、それでも雲の上には、薄日でもほんのりとさしているようなのに我慢がならず、アルヴをさしはさむ二筋の山脈の、西はフレジェール Flègère、東にはメル・ドゥ・グラスの南なるモンタンヴェル Montanvert と、二千米に足らぬ山ながら、夏場には開けるとあるホテルも見えて、せめてあすこまでと、例の屈強に伺えば、それはシャモニー村の御百姓、かんらかんらと打ち笑い、旦那、なにョ云うだよ、この大雪のあとだってにねッと、ただ一言に打ち消された。フランスだけに、田舎ながら言葉づかいはおとなしい、旦那はモッシュールの訳と知るべし。ここに述ぶ、フランスなれどサヴォアに税関は置いてない、無税とは云えロンドンから、遥る遥る携えたシガーは、曽り日でもカサカサに乾き切って、葉の破れを両手に、尺八を吹くような始末でなければ、煙はなかなか口には来ない。

     午後は氷雨、ヴェランダからやや右よりに、メル・ドゥ・グラスの雲に見えかくれするのを眺めて、ぼんやりしながら暮らしてしまった。山里なれば日の暮れやすく、夜は薄月に小雨して、サロンのピヤノは今宵も枕にひびいて来る。

     夜の小雨は、いつのまにやら今朝の粉雪に変っていた、私が二度目に眼をさました、それは八時半頃であったろう、窓をあけてヴェランダに出ると、山脚の樹氷、樅、白樺の小枝小枝は、美しくも飾られて、しんしんと、なお降りつもる雪の中に、朝出されたサヴォアの蜜は凍っていた。

     時々ピヤノが聞える、風淀ながらヴェランダに、雪はたちまち、寸を超えてしまった。路をへだてて、此の四月に開業と云うシャモニー・パラスで大工がとんとんやってるのが、風につれて響いて来る。私のホテルは、その建物に邪魔されて、渓の正面はかくれてしまう、従って向うからは、モン・ブロンは見えるにしても、少なからずさえぎられることと思う。シャモニーに多い宿の中でも、リュー・ナショナール Rue Nationale の西側、ル・ブレヴァン Le Brèvent の麓に、アルヴを前に見下ろすサヴォイ・パラスか、ホテル・ドゥ・ラ・メル・ドゥ・グラスあたりでなければ、思うような景色は眺められない、然しこれは無精者の、日がな一日、ホテルの窓にかじりついてる連中で、何れにせよ、人口八百の山村と云えば、一足出れば、渓の景色は思うがままに眺められる、谷は東西半哩、長さ十四哩、隅から隅までうろついたところが、足の疲れるおそれはあるまい、雪の日の外、室に拘禁されぬかぎり、展望のきく高い──位置ばかりではない──ホテルに入り込むのは、馬鹿か、貴族か、亜米利加人で、なみの人間は、まず便利な安宿に落ちつくを以て、分を知れりと云うべきだ。

     扨て正午、雪は小やみなく降りしきる山村に、今日は鐘の音もひびかず、給仕はのこらず女中だから、どことなくしとやかで、御客も十四五人、しんみりして、誰れの業か、昼間からサロンのピヤノが聞えなければ、かえって寂しすぎたかも知れない、食堂の庭は、南表に落葉松の、枝はあらわながら雪に飾られて、背景は雲のたえまに、山腹のボッソンの氷河が美しくも物凄い。

     昼過ぎは、雪も小降りになったので、買物がてら村をうろついて見た。通りと云うのは丁字形の二筋で、停車場からホテルの前を西に、アルヴにかけた小さな橋を渡るアヴェニウ・ドゥ・ラ・ガル Avenue de la Gare がリュー・ナショナールにつき当る、これは、アルヴの西側を、南北に延びた街道で、左すれば、私の来た鉄道の線路に沿うて、彼の氷河の麓、レ・ボッソン Les Bossons やタコンナ Taconnaz の村をぬけて、西にレズーシュ Les Houches につづいている。右すればブレヴァンの直下を、アルヴを右に、上流に向ってエギュイユを渓の向うにして、レ・プラ Les Praz de Chamonix レ・ボア Les Bois エギュイユ・ヴェールト Aiguille Verte の北に、グラシエ・ダルジェンティエール Glacier d' Argentière のそそぐ所、同じ名のアルジェンティエールから路は二筋に、いずれもマルティニ Martigny へつづくのである。

     ホテルに近く、アルヴの橋の少し手前を左に曲ると、モン・ブロンの登山者ソウシュール H.B.de Saussure の像がある、モン・ブロンの頂を──今日は見えなかったが──望遠鏡片手に見上げてる、下にはガイド・バルマー Balmat が、これも山頂を望んで、花崗岩の台の上に立って居る。

     村はずれにはスケート場やシーフェルトがあって、此の天気にも、気楽な奴等が、中には覚束ないのも混って騒いでいたが、ジャムプなどは、後の日ノルウェイで見たものにくらべれば、いささか小供だましの感がある。

     かくて日は暮れた。ショムピニョンとフロマージュの味は今に忘れられない。ヴェランダに出ると、アヴェニウに灯された燈火の蔭には人影もなく、なほ降りつもる雪の中に、遠い遠い谷の奥から、折り折りかすかに、しかし底力のあるアヴァランシュを聞くばかりであった、村は、此の大雪に、埋れ尽したと思われて。

     正月十三日、今朝も靄は深かった。何気なく姿見にむかうと、その深い靄が晴れかかって、樹氷に飾られたプレヴァンの山が、くっきりと表われた。大急ぎで櫛を放り出してヴェランダへ出る、靄はまだ思い切り悪く、渓にねばついているが、大空は澄んで、山の、低きは雪に、高きは氷に、そして木と云う木、枝と云う枝、渓を包むすべては真白ろに飾られていた。デジューネーをはこばせて、二重窓を開けひろげてたべる、咽喉にはろくに通らなかった、飛び出すとすぐ、レ・プラの方まで撮影に出かけた。

     エギュイユはまだ雲に包まれて、ただその上に、靄の中をつきぬけているのは、牙のようなドリュー Aiguille du Dru であった。昔から御なじみの山岳が、今そのままに眼の前にそびえているのだから、羚羊のように雪の上を飛びはねて、夢中になってうれしがったのは云うまでもない。メル・ドゥ・グラスの落ち口も、今日は朝靄の上にはっきりと、クレヴァースのぎざぎざに降り置く雪の、上なるは白く、氷は水色に輝いている。

     十時、朝日はモン・ブロンの一角から表われた、それまでも、南の山はまぶしくって、白熱にさえかえった朝空よりもなお白く、雪の輪劃を僅かに認めえたばかりである。

     昼近くなっても、渓間には朝をそのままの靄がたなびいて、ドゥリューの外のエギュイユは、とうとう姿を表わさなかった。宿に着いてものぼせ上って、食事も咽喉へ入らない、ガイドでなくても、山が飯のたしになるとは、さっぱり気がつかなかったが、伝え聞く宝丹満腹も、此の場合には不用と覚えた。

     さて昼過ぎ、日はうららかにプレヴァンの空に輝いて、瀑のごとく、絶崖を這い上る淡い靄の上には彼のモン・ブロンから東北へ、シャモニーの渓を限るエギュイユの、ミディ Aiguille du Midi、プラン Aig. du Plan ブレィシェール Aig. du Blaitière 殊にグラン・シャルモー Grands Charmoz の背ろから、錐のようなエギュイユ・ドゥ・ラ・レピューブリック Aig.de la Rèpublique が物凄かった、その直下にメル・ドゥ・グラスが落ちて、更らに北には、ドゥリューと、千八百六十五年に初めて、ウィンパーが登ったと云う、エギュイユ・ヴェールト Aig. du Dru et Aig. Verte が聳えている。此の氷河のうしろには、モン・マレー Mt. Mallet から北につづく、レ・グランド・ジョラッス Les Grandes Jorasses と、モアン Aig. du Moine が頭を出していた。此等の三千五百米を超えた、ギザギザの西側に比して、渓の東側は余程劣っている、ル・ブレヴァンからエギュイユ・ルージュ Aiguilles Rouges の山脈は三千米を超えず、それでも氷河はあるけれど渓からは、ラ・フレジェールの連脈が近く、タンネやフィヒテの密林に覆われて、三一〇九米突と称するモン・ビュエーMont Buet も、村からは見えなかった。

     渓は平坦で、屏風のように切っ立てのエギュイユまで、余り高低は見られない、そしてアルヴの水も勿論今は少ない冬の最中ではあるが、浅く小く、此の柔かな渓の景色にのしかかる山岳の、余りに凄く恐ろしいのに胸はふるえたのである。

     前に述べた絶崖の間から、たれ下る大小の氷河の、最も盛んなのは、モン・ブロンの頂上から真北に落ちる二条の、近いボッソンとタコンナの氷河であった。

     村はずれに、危険の信号が方々に立ってるので、踏みかためた街道の外は歩けないし、新しい雪でふみ込むから、通路の外に入る事は不可能である、雪の深さは往来でも一米を超えてると思う。私は小さな写真機をぶら下げて街道を南へ行った、村をはずれると、何と云っても、肩のはるほど、渓にのしかかっているのは、彼の四千八百米、アルプスの帝王たるモン・ブロンと、右にエギュイユ・ドュ・グゥテー Aiguille du Goûter ドーム・ドュ・ダゥテー Dôme du Goûter 左にはエギュイユ・ドュ・ミディ Aig. du Midi の大山岳である。これから更に左に走るエギュイユは、もう美しいのは通りこして、恐ろしいと云う方が適当であると思う、然し登山に縁なき衆生には、ははァ中々急さね位で、一寸びっくりして済むことだろう、が、気を沈めて見れば見るほど、先登の登山をやった人達の、度胆のほどが偲ばれる。大抵の山は登り易そうな絶壁が、どことなく見当がつくものだが、殊にエギュイユ・ドゥ・ラ・レビューブリック Aig. de la Rèpublique に至っては、見たところ全く硝子の破片で、触ったら手が切れそうに屹えている。大抵の山は、十九世紀に登山のレコードは残されているのに、この山だけは、千九百四年になってやっと片づけられたのでも、登山の困難なのが想像されよう。

     アルヴに沿うてレ・プラの村へ行く。彼のエギュイユ・ドゥ・ドゥリューの直下から左に切れて、ラ・フレジェールの真下まで撮影に出かけた。もう四時近く、日はエギュイユの蔭に沈んで、やや風立つと、寒くて寒くてたまったものではない。帰りに、スプレンディッド・ホテルに飛び込んで御茶を飲む、山の景色や村の様子は、かえってシャモニーよりもいいと思われる。南の窓からは、谷にもうたなびき初めた夕靄の上に、モン・ブロンが屹えている。

         Power dwells apart in its tranquility

        Remote, serene, and inaccessible:

     日の沈みかけて夕空の、灰色に、すっきりぬけ出た氷の山を仰いで、ぼんやり村へ帰って来た。

         Mount Blanc yet glams on high : the power is there,

        The still and solemn power of many sights,

         and many souuds.and much of life and death.

     

     正月十四日は曇ってしまった。ブレヴァンは靄の上に見えたが、折り折り粉雪が散って、名残惜しさに村をうろついても、昨日の壮観は得られない。私は最初、マルティニーへ出るつもりであったが、冬の間は電車が通わないので、巳むを得ず、またシュネーフヘ逆もどりすることになった。午後三時五分シャモニー発、サン・ジェルヴェイの乗りかえが四時十分、もう暗くなって来て窓には、息が凍りついて、スティンド・グラスのようになっている。

     真っ黒な夜を、汽車にゆられて、再びシェネーフに着いたのは八時過ぎ、湖の湿り気が多いせいか、シャモニーよりかえって寒く感ぜられた。馬車を雇って例のホテルに入る、主人夫婦に喜んで迎えられた。

     

     

    レマンの湖岸

     山を出たせいでもあるまいが、此の間と同じ角の座敷に、昨夜は落らついてゆっくり休んだ。眼のさめたのが朝の十時、靄は依然として晴れず、クェイ・ドュ・モン・ブロンをうろついても、ネーベル・ホルンがかすかに響くばかりで、真白な靄と小波と、そこに浮く幾群の水鳥を見て、あきらめなければならなかった。ローンの落ち口の碧い水に、ポプラの茂った小さな中の島がある、所在なさに橋を渡って、そこにあるルーソーの像などを見た、島は名によってイル・ルーソー Ile Rousseau と呼ばれる。流れをさしはさんだ商店や、名物の時計の工場、山を見た後では、何の興をもひかなかった。

     午後二時十分発車、モントルーへ向かう。右の窓から湖水を見下ろすと、テレースは一面の葡萄畑である。スウィスの酒で第一にあげられるのは、無論ニューシャテル Neuchâtel の赤酒であるが、このレマンの湖辺のも、決して悪い方ではない。ヴィルニューヴ Vileneuve、イヴォルン Yvorne なども、ヴァレイの酒に比して、劣っているとは思わない。東スウィス、殊にツューリッヒ附近のは、彼のライン酒のような酸味があって、決して上等とは云われない。汽車はベルン行の急行で、私達はロサンヌ Lausanne で乗りかえなければならなかった、停車場のビュフェーで休む。

     天気は余り思わしくないが、西の空はほんのりと夕映がして、乗りかえの汽車に入った頃は、もう薄ぐらくなっていた。右はだんだんの丘が例の葡萄畑で、小奇麗なシャレーや、冬枯れのポプラのはずれは、広々とした湖のむこうに、サヴォイの山を仰ぐ筈だが、今は太洋かと思われる湖をただ見渡すばかり。そして、それもいつの間にか、汽車の灯火に消されてしまって、二度、三度窓をのぞいても、もう私の旅姿が映つるばかりであった。私は地図をひろげて旅程を考えはじめた。

     気まぐれにリヨンを出てシュネーフに来たが、旅行の目的は南欧の海岸を廻って、スペインからアフリカに渡るつもりである、ラック・レマンからモン・ブロンが見えなかったので、シャモニーへ行ったのは、そのままマルティニーから、ブリーク、シンプロンを越えて、イタリヤへ入る予定であった、とかく迷いがちな旅烏で、今はローンのヴァレイ Valais を遡って、ブリークからミラノへ行くつもりになった。然し幸か不幸か、今年はレョッチベルクの鉄道 Lötschberg Bahn が、冬も通っていると聞いて、昔から想像ばかりして居たラウテルブルンネンの冬景色、今は午前十一時過ぎなければ、日の光を仰ぎ得ないと云う、深い深い谷底のことを考えると、矢も楯もたまらなくなって、ロサンヌからの汽車の中で、急にイタリヤ行をのばしてしまった。旅程変更の大原因はシェネーフで買った地図である、殊に水色に画かれた氷河である。スウィスの地図の中で一番いいのは、測量部出版五万分ノ一(平地は二万五千分ノ一)地形図、トポグラフィッシェル・アトラス Topographischer Atlas der Schweiz で、一般にはジークフリート・アトラス Siegfried Atlas と呼ばれている、全国で五百九十三枚、各葉一フランづつであるが、折り本にしたのや、布の裏うちしたのもある、殊に此のシートの数葉をつづけて、特種の登山用に便利なのがある、たとえば、フィンシュテラールホルン附近の如きは、約九枚を合せて折本としてあるし、ユンクフラウの如きは、此の折本中に含まれているが、その外、シャィデック Scheidegg 又はインテルラーケン、ミュルレン、マイリンゲン Interlaken, Mürren, Meiringen 等の折本にものせられてある。山岳党にはこれ等の地図が便利で、山岳湖水などの有名な所はほぼまとまっている。

     ベルネル・オーベルランドでは、此等のほかにフライで出版されたレリーフ・カルテがある、これは千九百十三年の出版で、その当時、スウィス山岳会の年報に附録となっていたのを、諸君も記憶せられている事と思う、七万五千分ノ一で、ローン、ヴァレイ以北、トゥーン、ブリエンツ以南の山岳の大部分を含んでいる、然し実用上の価値は、前者の精密なのに劣っているのは勿論である、地図の名は Ubersichtskarte der Berner-Alpenbahn 又は Relief-karte Berner Oberlandes und Oberwallis と称せられる、これには特にシーの通路を示したウィンタースポート用のもあった。

     又二十万分ノ一、ベルネル・オーベルランドの地形図 Leuzinger und Kutter:-Karte des Berneroberlandes は、等高線のかわりに鬚線を用いたので、余りいいとは思われない。

     十万分ノ一スウィス地形図に、ドゥフール・カルテ Dufour Karte と云うのがあるが、私は好まない。シャモニー附近のはフレイ出版の十五万分で、オー・サボォア J.Frey:─Haute-Savoie。北イタリヤのは同じ様なレリーフ・マップ J.Frey:─Reliefkarte der Oberitalianischen Seen があるが、余りいい地図ではないが、外には見当らない。次にスウィス全国のでは、キュンメルリーの四十万分ノ一 Kümmerly:─Gesamtkarte der Schweiz がある、これには別冊の索引もついていた。

    此等のうち、単に地図としては、無論ジークフリート・カルテが一番であるが、登山用には、シュペック・ヨストで出版されたシュネーフーン・カルテ G. Speck-Jost:─Schneehuhnkarte という小冊である、これは、一つ一つの山を主にしたむしろ案内記で、その山の地図(ジークフリート・カルテの一部分に登路に赤線を付したるものをそえ、且つ山のスケッチに登路を示し、又簡単な解説を付けてある)全部で六十余冊(干九百十四年夏)、ワリーゼル・アルペン、及びベルネル・アルペン Walliser Alpen und Berner Alpen の三十七冊は仏文で出版されたものもある、各冊一法半であった。

    扨て、くらやみの間を走って、モントルー Montreux へ着いたのは午後六時、ホテル・ドゥ・ラ・ペイ Hôtel de la Paix と云う停車場近くの宿についた、余り奇麗な家ではないが居心地はよかった。荷物を置くとすぐに街に出て、七時の晩餐まで散歩して来た。靄の深い闇の中でも、湖辺と云う感じは充分に味わわれた。

     

     

    モントル― Montreux

     南の窓に、ほかほかと朝日がさし込んで、緑いろのカーティンをあけると、や、寝すごした、南は広々と、レマンの湖の朝もやのたなびいた上に、高く高くグラモン Grammont の雪が仰がれる。

     モントルーのホテルから、南表の湖につづく、だらだら路の左には、花園とそのプロムナードに、ひたひたと寄る小さい波の向うには、彼のグラモンの山々や、ローンの渓の西につづく、ダン・ドュ・ミディ Dent du Midi,3260m. の雪が望まれる。この丘のテレースに飾られた家が、恰も南欧のニスやカンを想わせるよう、その広い窓からは、小波の寄る湖と、こう晴れた朝は、ひろびろと東へ廻るうみ岸のヴィルニューヴ、シィョンのシャトウも、あれあそこにと指さされる。

     私はシャモニーで撮したフィルムを現像にやったが、それはツァイスのベベーでとったので、あまりちいさくって物たりないから、ついでに、ビー・テッサーのついた、カード形の写真機を買って、そこの娘に教えられた路を東へ、ほかほかさす朝日に、また眠くなって来たレマンの湖を右に見ながら、うすらがすんだなか空にぬけいでて、霞よりはやや白い雪の峯の、眉にせまるテリテーの岸をぶらぶらと、ヴェイトウの麓、シィヨンの城跡にやって来た。

     水は碧玉の、岬の上に聳えている塔の枯蔦には、折りから、そよとの風も吹かぬ。七百年の永い間の物語りは、私達の知るところではない、ウシーの宿で書いたと云う、彼のバイロンの一節と、湖の空にグラモンの雪を仰げば、歴史は私にとっては、何の感興をも与えない。

      Lake Leman lies by Chillon's walls:

     A thousand feet in depth below

     Its massy waters meet and fiow;

     Thus much the fathom-line was sent

     From Chillon's snow-white battlement,

      Which round about the wave inthrals:

     A double dungeon wall and wave

     Have made and like a living grave.

     古き香とでも云うのかも知れない、かび臭い広間をいくつも通りぬけて、高塔の石の窓から湖にのぞむ。晴れも晴れた、大空をそのままのレマンの水に眠るバルクの、あらずそはシィヨンの沖遠く

     A Small green isle, it seem'd no more,

     Scarce broader than my dungeon floor.

     But in it there were three tall trees,

     And o'er it blew the mountain breeze,

     And by it there were waters flowing,

    And on it there were young flowers growing,

      of gentle breath and hue.

     と、イル・ドゥ・ペイ Ile de Paix の小島である。この倚りかかった小さな窓の、空はサヴォイの雪の山、なつかしくふりかえる右手の丘の、それも雪の中なる樅の林の麓には、朝日をまともに受けた家つづきがきらきらして、湖に近い幾村の、そこは小波と鴎の寄るスウィス・リヴィエラ、西から数てクララン Clarens、シェルネー Chernex、ヴェルネー Verunex、グリヨン Glion、コロン Colonges、テリテー Territet、ヴェイトウ Veytaux の七つを合わせてモントルーと呼ぶ、私の泊っているのは、モントルー・ヴェルネー Montreux-Vernex である。

     昼過ぎは、湖水のふちのプロムナードを、クラランの方へ歩いて行った。岸には鴎が群れて騒いでいる。夕日がグラモンの峯つづきに沈んで、ヴェイトウの街の灯がキラキラ光り初めるまで、船つきの太い杭に腰を下ろして、何を思うともなく、ぼんやりしていた、夕暮はさすがに寒い。

     

     

    小田原文学館

     

     

    日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
    This page was created on 2017/05/26

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    辻村 伊助

    ツジムラ イスケ
    つじむら いすけ 登山家、園芸家。1886(明治19)年~1923(大正12)年。小田原生まれ。一高在学中に山岳会に入会。国内外の諸峰を踏破しスイス山岳会にも入会。1913(大正2)年8月、スイス、グロース・シュレックホルン下山中に雪崩に遭い重症を負う。入院中に看護師と恋愛、結婚して帰国。小田原で農園を経営し3児をもうけるが1923(大正12)年の関東大震災で一家全滅となる。

    掲載作は1913(大正2)年、スイス遠征時の日記の冒頭部分。初出は『山岳』1915(大正4)年~1916(大正5)年に分載された。底本は日本岳人全集『スウイス日記』(1968年、日本文芸社刊)に拠る。 本文中に現在では差別語となる言葉が含まれますが、原作を尊重しママとしてあります。

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