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梢の月

「おにぎり、交換しようよ」チカコがコンビニのおにぎりをさし出した。

「どうぞ」絹絵は竹皮の包みに四つ並んだ持参のそれを、草に敷いたシートに滑らせた。おっ、美味そう、チカコの手が伸びた。

 薄着でも汗ばむほどで、丘をわたる風が心地よい。チカコが淹れたダージリンの温みが喉にほわっと滑っていく。それを言うと、あら、先にカップをほめてほしいな、とそれでなくてもよく動くチカコの目が忙しい瞬きをした。

「見て、カップにエンブレムが打たれているでしょ」

 なるほど。大きめなぐい飲みほどの銀製のカップの側面に、ていねいに鷲を象った刻印が鮮明に押されている。

「ほんと、これ、英国の十九世紀かしら………凝るわね、チカコさん」

「そうでもないよ。あたしの場合、凝っても紅茶だけっていうのが情けない」

 風が草の香を抱いて吹いてくる。口をもぐもぐさせながら、しばらく手製とコンビニのおにぎりの姿と味の差違について喋りあった。つい今しがた、エイ、ヤッの掛声とともに見事なバック転をみせたチカコの脚の先に、収穫した玉ねぎの山ができている。インゲンとこれが最終の茄子も少々。ぬぎ捨てた軍手と、本職の農家のおかみさん用の日焼け防ぎのつば広ろ帽子。

 あいつったら、チカコが二つめを頬張りながら言った。

「信じられる………、今朝あたしがとびきりのアッサムを淹れたのに、うちのは茶葉の沈むのが待てないで、片っ端からボールペンでつつくのよ。自分の無神経には平気なくせに、カップに葉が入ったりしたら大変。………そんなのって、ゆるせる」

「この紅茶が、それ」

「ちがいますよ。葉もダージリンだったでしょ」

 そういえばこの頃何度か、チカコが夫の一太郎のことでボヤキを言った。始めの頃はけっこうお惚気を聞かされた気もするが。つまらない男にならないで、チカコが節をつけて言いながら、コンビニのおにぎりでお手玉をはじめた。お手玉の高さがたちまち高くなる。絹絵はチカコの夫の一太郎を思い浮かべた。彼には二度、出会っただけだ。一度目はチカコをはじめて見掛けたあの寸劇でだったし、二度目はこの丘。どちらの一太郎も目一杯に気張っていて、およそ絹絵の周囲では見かけない種類の男とみえた。

 海苔むすびがチカコの掌から放れては戻る。二個の海苔むすびが、南北にひらけた街を左右に裁ちながら追い掛けあっている。このおむすびに分断される景色が、何十万人もの人間を呑み込んでいるとはとても見えない。ビルが午後の陽を浴び満遍なく散らばる様は、無数の小魚が白い腹を上向きにいっせいに浮かび上がったような眺めだ。そして南側に本物の海が、黒紐になった松原の向うで玉虫色の銀紙になっている。

 絹絵は目の前のチカコとその後ろの百八十度をこす眺望をいっしょに見ながら、自分が微笑んでいるのを感じた。そして、あの日のチカコたちの『おむすび劇』を思い出し、あやうく口の中のご飯粒を吹き出しそうになった。

 駐車場の炎天下に、「はやく芽をだせ柿の種」と書いた縦長の旗を持った女性が立っていた。絹絵の目に出会ったとたん女性がにこっとした。笑った目が、たじろぎたいほど心に染みた。それまで、口が半開きのちょっとボケッとした娘だなあ、と眺めていたのだった。それがチカコだった。柿の種、の横に「劇団 ゲン」と書いてあった。

 県内にチェーン店を展開するうどんレストランの、本店のオープンだった。ビル前の駐車場にテントが二張り張られている。絹絵は今となっては、自分がなぜそこに行ったのかよく分からない。京一も一緒だったから、彼と別居する少し前で、たぶん銀行員の彼が取引先から招待券をもらったのだろう。百人以上もの人が紙のコップや皿を持ち、赤い顔で立っていた。酒樽が抜かれ、社長の胸をそり返らせた挨拶があった。誰もが二間間口のおにぎり屋からスタートした成功者をほめちぎった。ざわめきを破って、ポン、ポポンと尖った鼓の音がした。人だかりがして、中に奇妙な衣装、というより躯の薄い起伏にそって布を垂らした二人の若い女の子がいた。旗持ちの子は頼りなげで、いかにも途方に暮れた顔に見えた。そして片方の手を目にあて泣く仕草をした。

 鼓の子の「はじまりはじまり………。おや、あんた泣いてんのね」のせりふで始まった猿蟹合戦と思える寸劇は、ほとんど筋立がなかった。場ふさぎの余興で、筋など邪魔なのだろう。二人はおどけた身振りで動き出し、駐車場のかんかん照りからテントに歩み入ると、あっと叫んで天井を指さした。頭上から大声の笑いが降ってきた。男がテントの骨組みの隅に忍者もどきに張りつき、ワッハハハと笑い声をあげている。そして「おれは………、黄金バットじゃない、ただの猿だ」とか何とか言い、骨組みをゆさゆさ揺すり、手にしたザルの中のものを投げはじめた。人々は半ばあっけにとられ、どことなく力のこもらない笑声をあげた。男は「青柿、渋柿、それっ喰いかけ柿だ」と言い、手にしたものを次々に投げた。下でそれを掌に受けた二人が、「皆さん、おむすびですよ」と叫んだ。人々はどよめき、何本もの手を宙にのばし触覚みたいに揺すった。絹絵も落ちてくるものを受けた。「ナイスキャッチ」男の声がした。

 男が弾んで地上に降り立った。猿のメイクで笑った男は、つまりチカコの夫の一太郎だったが、くぼんだ眼窩につよく光る眼を埋めた男だった。小柄な躯に精気が納まりきらない感じがある。眼が合いかけたとき、その如意棒みたいな視線に絹絵はつよく気圧された。

 それで終ったなら、おむすび劇も一場のなぐさめで日々の塵にまぎれ入ったにちがいない。記憶されるものと忘れられるものは、どこでどう仕分けられるのだろう。忘却におし流される夥しい細部から、記憶に掬いあげられるほんの一握りのことがある。絹絵は自分のいとなむ小商いになぞらえ、複雑な文様がいりくみもつれるアジアの古い更紗裂れをみるようだと思う。一期のままに裂かれ失せていくものも、続き柄として幾重の縁をむすぶものもある。

チカコにはその数ヶ月後に出会った。

 あれはほかの意味でも忘れがたい日だ。あの日を境に結婚指輪が見えなくなった。指輪を失くしたのはあの場所らしいが、ふだん外すこともない十八金指輪が、よりによってあんなところで抜け落ちるものか、という気がしないでもない。その時、これが区切りというものかな、とは思った。

 新聞の読者広告の欄で「畠を貸します」という記事を見て出かけた丘陵地で、あのカニ役の女性が十人ほどの借り手にまじっているのを見出したのだった。チカコは古い木綿のモンペをはいた上に、即座に作業に掛かれそうに鍬とスコップを下げ、ただ説明を受けにきただけの希望者の中でだんとつに目立っていた。

 しばらく放置されていたらしい畠を、全員で借りることになった。さらりとした耕しやすそうな土だった。地主の小父さんがその場で大雑把な区割りをした。借料もほんの小遣いていどだった。絹絵はチカコのとなりの土地を選んだ。 耕作のことには何も触れない小父さんが、一つ注文をつけた。

「ここからはこういうものが出てくる」小父さんはポケットから何かの欠片をとり出した。

「これが何か分かるかな。大昔の壺だよ。壺の欠片だな。こんなのがどこを掘っても出る。むかし、大甕をそっくり掘り出した者もいる。でも、もし国宝みたいなのが出ても、砕いちまうか内緒のお宝にすること。間違っても、子供の学校になど持って行かないこと」

 大変な場所を借りたらしかった。借り手の十人はいっぺんに興奮してしまった。丘の中腹からはすばらしい眺めが見下ろせる上に、地面は作物と同時に、はるかな古代人のにおいまでプレゼントしてくれるらしい。

「ラッキー、もらっていいんですか、甕が出たら」言ったのはチカコだった。ええよ、貸し主が笑った。何千年前の遺跡、もしかして縄文土器ですか、チカコがすぐにも掘りたそうにスコップで地面を突いたので、みなが笑った。小父さんは眼下の一方向を指さした。街衢の西外れの、川が光りながら海にそそいでいる方向だった。よくは知らんが、あそこの遺跡の頃、弥生じゃなかろうか、小父さんの言い草で借り手は再び歓声をあげ、小学校の教科書にものるその遺跡の営みが何世紀だったか口々に言いあった。

 いいかい、言っとくけど、ここはあんたらが雀の涙金でわしから借りた畠で、間違っても遺跡なんかじゃないからな。変なものが出ると、土地のもん皆んなが迷惑する………。くどくど念を押した貸し主とは、しかしその日以来、出会っていない。地主だけでなく、借り手の中にもその日限り姿を見ない人もいる。区画にはそれぞれの作物が植わり、日を経ると新しい作物も増えていくが。

 丘の畠へは週に一度、軽自動車で出かけた。チカコとは不思議によく出会った。何度めかの時、チカコが麓の白い建物を自分の住むアパートだと指さしたのを機会に、電話で申し合わせて来るようになった。二人で組むのは、作物の種類がふえる上に、連作をきらう作物をかわりばんこに作る利点もあって好都合だった。豆や菜っ葉や根菜類の種をつぎつぎに蒔いた。地力があるというのか、消毒薬を使わずにすむのがうれしい。それより何より、蒔いたものが二葉になって頭をもたげ、見るたびに茎や葉の丈を伸ばすことが驚きであり喜びだった。意気ごんだ大甕こそ出なかったが、土器の破片はいくつも現れた。長い間耕された畠のはずなのに、鍬を入れるたびに甕の一部らしい灰褐色の厚い欠片や、鼠色をした茶碗の底みたいなのが現れた。それらが鍬先にカチッと当たり火花を散らす音は、絹絵にも思わぬときめきを呼び起こした。

 チカコの夫、というより『おむすび劇』のお猿が丘の畠に現れたのは、作物をつくりはじめて半年ばかりしたころだった。

 チカコへの興味は、彼女の背後のお猿も込みのところがあったから、しょうじき絹絵の心はすこし騒いだ。その頃はもう絹絵は京一と別居していたが、かと言ってお猿への興味は男性の彼というよりは始めてみた珍奇な動物への驚きに似ていた。

 その日は春に蒔いた大根を収穫した。大根については、自分用には一、二本もあれば十分で、知り合いにくばる面倒も持ち帰る必要もある。その外に、いんげんや里芋、布目やロクロ目のチカコ用の破片少々。

 昼を済ませたあたりから、空模様がかわった。肌にしみる風が変に手荒く吹きはじめたと思ったら、土の深みから現れ……この土がどんな力を蓄め込んでいても不思議はない……腹の底に響くような音が聞こえてきた。

大粒の雨に二の腕を打たれたと思ったら、すぐ二粒目が首筋にきた。大慌てで近くの柏の木の下に逃げた。明るかった街の顔色がにわかに変ってしまった。雨の縞目が濃くなった。一望だった街が狭まり、みるみる水に漬かった廃市の眺めに変わっていく。遠くで雷鳴がしていた。暗くなった街を縁取って雷光も浮かぶ。雷鳴が近寄ってくる。音に尾っぽが生え、その長い尾をひきずりひきずり動いてくる。こわいよう、チカコが言った。柏の木の粗い樹皮に躯を擦りつけているのだが、頭上の葉群からもれる粒はとうに雨垂れの域を越えている。遠いと思った雷が、大股にぐんぐん近寄ってくる。宙に光が射すと、雲が入り乱れる様が浮かぶ。一瞬、絹絵はこんな柄の古布をどこかで見た、と場違いに思った。水底に沈んでいた街がズボッと浮かび上がった。チカコがしゃがみこみ、両腕で絹絵の濡れた脚に抱きついた。宙が鉤裂に裂けた。街が砕ける。裂け目に音の柱が立った。丘の上を向き銀のまなこをらんらんと開くものが見えた。

 お猿はそこに現れた。脚にかじりついたチカコが絹絵を揺すった。うちのだ、チカコが言った。あのいかれたクラクション………。

「洗え、洗え、町の汚れを流してやれ。でも、この雷公はすぐ通りすぎる」

お猿は二人が逃げ込んだライトバンをすぐに出そうとしなかった。道具も収穫も畠に放り出したまま、胸も腹も裸同然に透け出した女が濡れ鼠で震えている。はやく車を出してほしいのに、彼はいうところの雷公の暴れぶりに見入り、フロントガラスに額をつけたままだ。無神経なやつ、絹絵は背中を這う悪寒の中で思った。はやく出してよう、それにヒーターも、チカコが言った。

「見なよ、すごい眺めだぞ」

「もう散々見たよ。それより、人のことも思って。きっと風邪をひくよ」

 車の屋根をたたく雨で声が聞きにくいほどだった。照明が失せた街の上のあちこち、稲妻が走りまわり、そのたび巨大な岩石がかち割られるような音が響く。水底の何かが次々にうち砕かれる。

「あっ、来たぞ。そら、落ちた。おう、また来る。やあ、とうとう停電しちまった。………きみら、今日も土器を拾ったか。昔の人はな、雷がくると天で戦争が起きたと思ったそうだ。なっ、そういう眺めだろ。地上で見つかる石の矢じりを、天の戦争で兵が射合う流れ矢と考えたんだ。矢じりは空の落し物。それで、村じゅう総出で雨に打たれながら、二手に分かれ天の軍を見上げ西勝て東勝てと声援するんだそうだ、俺たちも外で応援するか」

 あの時、お猿は胸をハンドルにのせ、こころを雨が叩き放題のフロントの外に吸い出されていた。喋ってはいたが、彼のうちにチカコも絹絵も存在しないのは明らかだった。縦横に走りまわるもの。天の兵隊たちがぶつけあう鬨の声。降りしきる戦争の音に聞きほれている。絹絵はお猿の言葉を思い返してみた。とっぴょうしもない想像だ。たしかに今、世界は水と音と薄闇と光に埋めつくされているが、それは天然の現象で、絹絵にはどう逆さになってもお猿の興奮が理解できない。戦というなら、むしろ空の不機嫌が向かうのは地上のあたしたちの放逸かもしれない。

「やあ、幕が下りた」

 雷が遠のき雨が細くなると、お猿は映画でも見終えたように言った。表情に喪心があった。絹絵は見かけによらずという言葉をはぶき、物知りね、と声をかけた。ヒーターが利きだし、乾きかけの髪がかゆくなった。

「過ぎてしまえば、何だってどうということもない」どこへつながるか分からないことを彼が言った。そして、車輪をスリップさせ急発進させた。絹絵とチカコは後部シートでひっくりかえった。もうっ、チカコが喚いた。いつもこれなんだから。

「チカコ、きめたぞ。テレビに出るぞ」

「えっ、だれが」

「おれっち劇団に決まってる。きみも、ケンもヨシコも出してやる」

「また、またあっ………、でも、ほんとにほんとなら、なにをどうするか言ってよ」

「あわてんな。構想がもわもわ湧いてる最中じゃないか」

「座長はいつも尻切れトンボだから」チカコはあんたと言い、即座に座長と言い直しをさせられたのだった。

「あほう。それならあしたからリハーサルだ」

「もしかして、どこからかオファーでも来た」

「まだだ。いつだって世間は、新しくてすぐれたものを認めようとしない」

 絹絵は丘の中腹に作物も何もかも、軽自動車さえ置き去りなのに気付いていた。でも、だまって二人の話を聞いていた。もしかして自分が、彼らのもやっとした話の劇団めいたものに誘われたいのでは、と考え絹絵は頬をそめかけた。

 

 おにぎりと紅茶の昼がすんだ。紅茶は絶妙なはずだったのに絹絵の感心が通り一遍なのが、すこしチカコの気持ちに残った。そういう気持ちをあらわすのが苦手な人らしい。普段からわりと大人しく賢い人だけど、もの静かな人というのは案外、にぶくてデリカシーに欠ける人かもしれない。

 チカコは午後にまく種の袋をやぶり、種の半分を絹絵に渡した。街から立ちのぼるざわめきが静まっていた。丘裾の高架も、昼時で車量がぐっと減っている。その高架をはさんで、自分の住むアパートと歩いて五分の職場の食品会社とが見えている。

 丘に立つたびに思うのだが、自分のアパートは、建物の横に茂る大木の付属物みたいだ。樹の傘が開いて、二階建ての端を隠そうとしている。アパートに限らず周辺に散らばる家々の眺めもいたって心許ない。樹は楠の大木で、謂れ書きの看板まであるほどだから、それも無理ないかもしれない。勤め先の会社が思いがけない近さに見える。さっきは会社の社内放送が聞こえてきた。これには自分の皮膚のどこか柔らかいところを突かれたようで、チカコは一瞬ドキッとした。外部に無関係な伝達が、むきだしで何百メートルも離れた丘まで直線で飛来してしまうなんて、とても恥知らずなことに思える。呼ばれた人の名前のあわれさが、そう思わせるのだろうか。名指しの係長さんはよく働く温厚な人だが、奥さんがチカコも知る総務の社員といい仲だと噂されている。奥さんのことはともかく、面と向かう人に陰でさげすまれながら、それと知らずにいる山田という係長さんの名前が、燦々とした陽の中を羽を剥かれた鳩みたいにあられもなく舞った気がする。

「あなたたち、前にテレビに出るとかいって出なかった話、自主公演だった………あの活動まだ続けているの」

 絹絵はどうも劇団のことに話を持っていきたいらしい。チカコは係長の山田さんに頭から出てもらった。人が集団をつくれば誰かが山田さん役を負う。たとえ盗癖や不倫のようなりっぱな理由でなくても。それが世のならいらしい………自分の身にも覚えはある。バイトの身でなんの口出しもできないけど、仕事の上では僅かでも山田さんのたすけになりたい。風邪を口実に欠勤していて、こんなこと思うのも変だけれど。

 畝のうえに親指でつけた凹みに、小松菜の種をぱらぱらと蒔いていく。絹絵はとなりの畝にたまねぎの苗を挿している。ここにもじきに木枯しや霜がくるだろうが、日溜りの多い斜面には、こまつなやネギや春菊の冬野菜が緑の列をつくる筈だ。種を蒔くだけで幸福な気持ちになる。

「どうなの、あなたたちの演劇」

「あっ、そのこと………、あと二、三回はやったよ」

「おむすびの時みたいにギャラも出たの」

「出るわけない、そんなの」

 実のところ、一太郎が劇団ゲンを立上げた経緯をチカコはよく知らない。もう何年も前、チカコはその頃気に入っていた噴水公園で、吹き上げる水の落ち際でタップダンスをする青年を見かけた。チカコはといえば、持参のビニールのレインコートを着、風下のベンチで飛沫を浴びていた。そのカンカン照りの昼の情景を人に言うとき、チカコは「ほかに誰もいないし、あたしが拍手するしかなかったんだ」と言うことにしている。自分はまあそんなことだけど、ケンやヨシコはどんなキャッチをされたんだろう。一度だけ市民演劇祭に参加したが、えらい人に「漫才コント以下」と言われてしまった。舞台などいらない、が一太郎の口癖だ。不意打ち演劇とも言う。なにもかも説明抜きだが。

 ひところ、「この人、もしかして大化けするかもしれない」と本気でチカコは思った。テレビには出た。正確には「写った」のだろうが。でもそれが彼のプランなら、やはり劇団ゲンはテレビに出たことになる。計算違いは、地元のテレビで放映されなかったことだが。TBSニュースで関東一円にたっぷりオンエアされた、と興奮して電話をくれた友達がいた。一太郎はしてやったりだった。でも出演者は誰も、ブラウン管上の自分を見ることはできなかった。

 首都の私鉄の小駅の前にいた。高速バスと地下鉄を使って、そこへ着いたばかりだった。ここでやる、一太郎が無造作に言った。傍らに地下鉄の出入口があった。五分かそこらで公演を終え、すぐ他所へ移る。

 小さな広場のコーナーにロープを置き、舞台の仕切とした。ロープがたくらみだった。私鉄や地下鉄へ出入りする人が連なり、横目を使いながら通っていく。一太郎がライターをとり出した。ロープが跳ねた。ロープはバチバチと爆ぜながら跳ねていく。硝煙が立ちこめ、通行人は叫びながらとび退った。爆竹のことなど知らされていなかったチカコたちも立ちすくんだ。止めるな続けろ、一太郎が声を投げた。白衣の巫女スタイルのチカコは………劇ではチカコは、ケンとヨシコもだが、傀儡と同じだった。うっかり質問すると、やれば解る、と怒鳴られる………手にした水入りのゴム袋をとり落しそうになった。水が入った二枚重ねのコンドームは、それでなくてもブワブワと手から逃げたがっていた。二人の警官が駈けつけてくるのが見えた。交番の近くというのも、計算だったかどうか。警官につられて野次馬もつめ寄ってきた。来るな、一太郎が警官に向かって叫び、ライターの炎を顔のまえで揺らせた。「袋を捨てろ」。叫びで、チカコは袋を放った。袋はタイルの舗道できみょうにくねり弾み、ブルンと震え、破れた。流れだした水を見て見物が逃げた。チカコは、あっと思った。一太郎のジャンパーで火が走っていた。天に向け両手を上げた胴を巻き、爆竹が螺旋にはぜ飛んでいる。とび散る皮ジャンの皮が一太郎の皮膚みたいだった 場所を変えて行う予定だった次の公演は、一太郎におきた異変で中止になった。交番では散々に油を絞られ、バッグの中の小道具一切を没収された。どう小突かれても、一太郎は「きこえない」の一点張りだった。実際彼の耳の鼓膜がどうにかなったのだが、それも彼流のつっ張りかと、チカコは頼もしく聞いていた。

「もしかして絹絵さん、演劇したいの」

「そうも思わないけど。でも、面白そう」

「そうでもないよ。たいした筋もないし、何の役といった演劇らしい役もないし。筋も出だしだけで、後は自由なんて時もある」

「なんか面白そうじゃない。そういう出まかせなところ」

「そんなことないって。一人だけつっ走って、なぜ従いてこないって怒る人が座長だもの」

「もしかして、じこちゅう」

「じこちゅう、じこちゅう。あたしなんか、犠牲者もいいとこ」

「そうかなあ、たのもしそうな人にみえるけど。男っぽいって、いいじゃない」

「どこ見てんのよ。絹絵さん、男みる目がないとちがう」

「うん、もと旦もペケだし、あるほうじゃない」

「もと旦って、あなた、別居でなく本式に別れちゃったの」

 チカコは絹絵の手もとを見た。絹絵の指にこの畑で失くしたという金の指輪はまだ戻っていなかった。チカコは一太郎と役所に届けを出しただけで、指輪など無縁だったから、絹絵の何もはめていない手が好もしかった。

「まだだけど、そろそろかなと思ってる」

「旦那は合意したの」

 絹絵が横に首を振った。「むこうは別れたがらないけど。優柔不断っていうの、とにかくはっきりしない人。そういうとこなの、嫌なのは」

「へえ、会ったことないけど、温和しい上にやさしけりゃ、オンの字じゃない。ぜいたくだよ、あなた。あたし、そういう人がいいな。人はどうも反対の性格の組合せがいいみたい。絹絵さんは、うちみたいな変なのがいいみたいだし、いっそ交換しちゃうか」

「そうしよう、そうしよう」

 二人、声をあわせて笑った。 笑いながらチカコは、笑えない自分を感じた。絹絵が一太郎を見たのは、うどん屋さんのオープンと雷の日の二度だけの筈だ。絹絵に一太郎はどう写ったのか。自分にてらしても他人の上に勝手な像を描くのが、人というものらしい。時折は自分さえ見失って頭をかかえこむ生き物なのに。人の血管には逆流を防ぐ仕組みがあるというが、チカコは全身の血が仕組みに逆らって流れた記憶がある。血は彼へ彼へと流れた。一太郎に出会ったばかりの頃、チカコは彼の気を引こうと、われながら顔が赤らむ突っ拍子もないことを次々にやった。彼に言われたなら人中でも裸になれただろう。何度目かのデイトで、遅刻の彼を待つうちに、訳のわからない衝動から繁華街の緑色の街灯に登ってしまったこともある。そんなものによじ登ったおかげでスラックスは台無しになったが、作戦は大成功だった。現れた彼の頭上でヤッホーと叫んでやった。仰向きになった彼が目ん玉をぐるぐる回し、通行人と一緒になって大笑いに笑ってくれた。

 あのころ彼がみせた自信にみちた眼差しは、まだ生々しい。自分は見まちがえたのかしら。そんなことは分からない。あの頃はあの頃、今は今というしかない。

 絹絵さんだって、とチカコは思った。

 いつか聞いた絹絵の愚痴話では………チカコはそう思いつつ聞いた………彼女が夫に決定的(絹絵はそう言った)に嫌気を感じたのは、夫が運転する車に乗っていて経験したことによるそうだ。

 用事で夫の実家に向かっていると、ふいに車の前に人影がとび出した。場末の狭い商店通りだった。車が軋んで停ると、見知らぬ男が助手席側の窓を「開けろ」と手のひらで叩いた。男の後ろにも、何かの工事帰りらしい風体の男達がいた。一人が車の行く手を塞いでいる。早くドアロックして、絹絵が言ったが、おろおろしている夫をしりめに男たちがドアを開け、後部座席に五人、加えて車を止めた男まで絹絵の横に押し入った。にいちゃん、街までやってくんな。すまんすまんと口で言いながら、にやにやしている。押し問答をしたが、結局車を来た方向に向けさせられた。横の男の躯、肩や腹、脚や腰が絹絵の躯をあちこち押してくる。こちらにめり込ませたがっているような固い肉のおかしな感じ。肘を張ったら、よけいに妙な触れ方をする。夫に「停めて」と言ったが、「はやく街でこの人たちに下りてもらおう」と小声で言うだけ。こんなやつらを「この人たち」だって。涙が出そうだった。男たちは酒を飲みたいらしいが、行き先が決まらない。たちまち、車じゅう汚れたにおいが充満した。タバコ、にんにく、いま湧いているのや何日も前のすえ臭い汗、土埃や鉄や臓物に似た臭いも………。ハンドルを握る夫は、精ぬけた顔で前方だけを見ている。運転のほか何も考えまいとしている。漠然と逆方角に向かう車は、舵を流した舟にいる気持ちだった。我慢ができず、夫の足を思いきり踏んでやった。車を交番へ付けるか、今ここであたしを下ろして。ようよう、そんなこと言っていいのかよ、それともまた山の工事場へ走ってもらうか、声とともに横合いから腕が肩に回ってきた。太い蛇でも這い込む感じだった。

 それで、と聞いたが、彼らは繁華街の辻で下りたようだ。むしろ呆気なく、という感じにチカコは聞いた。

「よかったじゃない。それだけで」

「それだけって………、冗談じゃないわよ。暴力と、夫の意気地なしをダブルで味わされたのよ」

 絹絵はチカコの反応がいまいちなのに、不満そうだった。そうどころでなく、めずらしく感情がむきだしの顔だった。

 十分間か二十分間か知らないが、何か流にいえばそれは絹絵の『一番長い時間』だったかもしれないが、だからといって一生の分岐点とするほどのことだろうか。ピンチに際して断固とした態度をとれない人に長い一生を託すことはできない、と言うのだろうが、この賢く慎重そうな人がこのことでは判断を早まっているように思えてならない。一つ一つ思い出せないが、こうしたことに自分は何度も出会ってきた気がする。

 絹絵の畝へほうれん草の種を蒔きおえ、あとは自分の区画の蕪を抜けば、今日の作業は終了だった。

 腰を伸ばすと、自分のアパートと勤め先が否応ない感じに目に入る。楠の横のアパートはいつに変わらぬ冴えない眺めなのに、バイパス向うの会社は、おなじ二階建てでもごたついた周囲に紛れず、自分を保障してくれる証拠物件みたいに目に入ってくる。なぜ逆でないのかしら。会社の仕事を特に気に入っているわけではない。建物の内にはモーター音が充ち、加工途中の素材やパッケージに向かう食品がコンベアに乗りひたすらに動いている。いつもならこの時間は、ゴム長をはきこま鼠みたいに動き回っている。………みなさん、ご苦労さま、気の合いにくい何人かのパート仲間の顔を思いペロッと舌を出す………。二つの建物がチカコにすこしの安心と不安を与えている。

「見て、この蕪。こんなに元気」絹絵が言った。

「わっ、大きい」

「あなたも抜きなさいよ………いいじゃない、こういうの」

「えっ、なにが」

「うん………、思いついたんだけど、今度の日曜、大通り公園に出店するけど、あなたもおいでよ」

 チカコは土から蕪を抜き、その丸みにそって掌を滑らせて土を落した。引き抜く際のずっしりした手応えが手に残った。絹絵のいう「こういうの」って、この感じを言ったのかしら。抜き上げるには脚を踏んばったが、蕪もへんに頑固を通さず、小さな子供を自分に引き寄せるような感じだった。

「どうして食べよう。漬物しか思い浮かばないね」

「蕪蒸しがあるじゃない」

「それ、どういうの。あたし、食べたことないなあ、………へえ、さすがだね、つくったらあたしに食べさせて。ふうん、蕪鮨なんてのもあるんだ。何んにも知らないなあ。子供の頃から大したもの食べた記憶はないし、だいいち家族の団欒って、あたし知らないんだよね」

 絹絵の目がふいに静かさを湛えたように見えた。チカコは軽くしまったと思ったが、絹絵がそこをすっと通り抜けた。それでチカコは、野菜は青空市にも似合うよ、と話を戻した。

「名案。実はあたしもそう思ったんだ」

「ようし、趣味と実益を兼ねるぞ。たくさん穫れるから、漬物にもして売っちゃおう」

「漬物ならできるかもね。でも、複雑。本業の古着より売れるに決まってるもの」

 チカコはブラウスの袖で額の汗をぬぐった。こういうのっていいね、そう言ってやろうと思ったら笑いがこみ上げてきた。その時、絹絵が「あっ」と声をあげた。絹絵が手にした蕪をじっと見ていた。

「嘘みたい………」

「どうかした、もしかしてケラどんに挟まれた………」

 チカコは「ケラどんケラどん、おまえのチンチンどれくらい」と、ケラと呼ぶ土中の小昆虫を見つけたときにする言葉を囃して笑った。

「女の人は挟まれませんよぅだ」

 絹絵がはしゃいだ声を出し、躯をくの字にして笑った。そして躯を起し、蕪を差し出した。光沢にみちたなめらかな球と、それをはち切れそうに肥えさせた力強い葉とを、両手で捧げ物のようにした。

「見て、………玉のほう」

 言われるまでもなくチカコは、白く光る楕円の玉を見ていた。玉から二手に分かれた根が出ている。その一方の付け根ちかいくびれに黄色いものがはまっている。それが、こびり付いた湿った土に紛れず、日光を眩しがりながらつよい光を放っている。

「もしかして」

「もしかしたのよ」

 二人声を揃えて笑った。あたしの指輪、と絹絵が言った。チカコには笑う絹絵が目に泪を浮かべかけているように見えた。絹絵が、こいつめ、と指輪をした洒落者に頬を当てた。

 

 あの日畠で、「折角預かってもらったけど、これ不用品なんだ」と、大きなモーションで下界に放るふりをしたが、絹絵は実際には指輪をパンツのポケットにしまった。だからといって、それで思いを覆したことにはならないが。

 マーケットで古着と野菜を並べたのは大成功だった。馴染み客からもアンコールの声が掛かったので、その後、年が変わってもう一度、残り少ない冬野菜を並べた。値段が安いし、畠から抜いたままの土つきというのも、古着によく似合う。でも野菜が売れても、古着の買い手が増えるわけではない。もともと絹絵は古着で喰べようなどと思っていない。チカコは流行りの古裂に本腰を入れたらと言うが、木綿の格子縞こそいくらか集めたが、所詮それも遊びのうちだ。もう雇用保険の給付も打切られたので、そろそろ職さがしを始めなくてはならない。こんな二月の寒空の下では、露天のマーケットも楽でないが、客と駄弁りながら足下の七輪で餅や芋をあぶる安気さも捨てたものではない。数年前では考えられないことだが、この気楽な………言いたくないが、いくらか自堕落な………暮しに自分はすっかり馴染んだ。交流する露天仲間の顔もいくつか浮かぶ。この暮しを出て、以前のお堅い銀行ほどでなくても、会社勤めの緊張感を思うだけで、躯が引き吊りそうな感覚も起きかねない。

 その日のマーケットの帰り、野菜係をしてくれたチカコを家まで送った。丘からの眺めではお馴染みだが、彼女のアパートに寄るのは始めてだった。

 車はアパートへの曲り角の神社に入れた。神社といっても、奥の隅にプレハブ物置ほどの祠があるだけで、ちょっと見には放置された小公園そのものだ。ただ中央に大木がデーンと生え、敷地の大半はその樹の陰になっている。こんな大木、見たのも間違いなく始めてだ。手をつないで囲ったら、大人でも十人は要りそうだ。しばらく、自分がぼうっとしたようだった。葉や枝のこすれあう音がしきりにしている。音が目にみえる蘂みたいに降っている。

 案内された居間のソファで、キッチンに引っ込んだチカコを待った。室内がよく片付いているのは意外なほどだ。何のためか床に畳が一畳ぶん二枚重ねで敷いてある。壁際にコンポと健康用具のランナーが並べて置かれ、その上手の帽子掛けにハンチングと野球帽と、例のものらしい破れた皮ジャンが掛かっている。

 着物姿に早替りしたチカコが現れた。絹絵から買った、よくドラマで大正期のカフェの女給さんが着ている、紫地に矢飛白の決まりもののあれだ。長めのハッピ丈に仕立てたそれから、細いGパンの脚が出ている。いいでしょ、つくって見せた科が結構決まって、思わず笑った。

「あんた、お茶を入れたわよ」チカコが続きの部屋に声をかけたが、テレビの音声が漏れてくるだけで、一太郎は出てこなかった。

 絹絵が部屋に上がったとき、彼はソファに寝そべっていた。そして絹絵には挨拶もかえさず、ボクサーが着そうなガウンを抱え奥の部屋へ行ってしまった。絹絵の知るお猿らしい精悍さは失せ、冬眠中の毛物がうっそり動いたような感じだった。

「どうしちゃったの」

 絹絵は小声で聞いた。傾向はチカコに聞かされていたが、これほどとは思わなかった。絹絵は雷雨の日からの月数を追ってみた。

「………いつも、こんな」

「そう、困っちゃう」あそこと、とチカコが顎を動かし床の畳を示した。「ソファとあそこが定位置」

この間までは舞台、今はゴロ寝の床。声は困ったふうでもなかったが、眼の中を雲みたいな複雑な影が過ぎた。

 その日はお茶をご馳走になっただけで帰った。車までチカコに送られながら、一太郎の経緯を聞いた。

 去年の街頭劇から何か月も経って、勤め先に警察が来た。一太郎は解雇された。それまでの、自分から言い出て電子部品の生産技術の仕事から資材の倉庫番の係にドロップした、やる気のない社員という評価も響いただろうか。劇は『駅前爆薬事件』で、それは服務規定の懲罰の項の『不穏の行動』に当たる。職さがしの日々となったが、アルバイトで交通量調査の腰掛け仕事を得て、今日はここ明日はあすこと場所を変え、道路端のパイプ椅子でひねもす行き来する車を睨んでいた。寝ていても頭の中を車が通る、と言った。明けても暮れても続いたその仕事が終わり、十日目の夕方、鼻の穴を黒くして帰って来ると、それきりものを言わなくなった。

 昼間もソファで寝ているか、テレビをつけキッチンのテーブルに凭れぼんやりしているのだそうだ。テントの高みからとび降り、歯をむき出して笑った猿の隈取りの顔が思い出された。絹絵の頭は痺れたようになった。遠くで金属板が震えるような音が聞こえた。チカコが絹絵の顔をのぞいた。

「なんだか信じられない」

「でしょ、おどろきもものきよ、………男って、弱いね。これまでおれは逆境をはね退けてきた人間だ、といばってたくせに」

 ふいに樹のさわぐ音が降ってきた。四方八方に伸びた先々で葉が身をよじっている。人間の気持って変なもんね、というチカコに絹絵も同感だった。しばらくして金属音は頭から出ていった。絹絵は葉音のシャワーを意識した。空が枝の間で赤く染まっている。また来るね、チカコさん、と言って別れた。

 夢にあの樹が訪れた。一面に白い花をつけて変装していたが、あの樹だと絹絵はすぐに見破った。でも樹の名が思い出せない。杉、松、檜、楓………知っている種類をあげていったが、そのどれでもないのは確かだ。上空で大人の胴ほどもある枝が縦横に、大蛇の家族みたいにくねり合っている。おーい、おーい、絹絵は大声で呼んでいた。高い木の股でチカコが知らんぷりをしている。この木なんの木、気になる木〜、テレビコマーシャルの唄をうたったりして、一向にこちらを見てくれない。そのうちにチカコが鉄棒をはじめた。何抱えもある枝の太さもものかは、大車輪の要領でぐるんぐるん、躯をめりはりつけ廻していく。枝がゆさゆさして白い花が零れる。

 それだけの夢だったが、思い立って樹を見に出掛けた。この間チカコの家に寄ってから三日が経っていた。

 説明板によると、樹はすでに徳川時代から名木と知られた古木で、今は見る影もないこの丘裾一帯が広大な神域だったらしい。太さは目通りで十メートル、高さ二十メートル余、枝のさし渡しは最大三十メートル以上だという。

 簡単な柵で囲った根の廻りを、ゆっくり三廻りした。 始めは驚嘆が、歩を運ぶにつれて痛ましさのようなものが絹絵に訪れた。夢みたいに白い花を咲かせてやりたいと思った。

 樹皮に苔や草が生え放題で、ある所ではその樹皮もはがれ疲れきった灰色の膚を曝している。裏に回ると岩の裂け目みたいに洞がぽっかり開いている。枯死が間近に迫っているのかと思ったが、樹がこれ以上もなく生き続けているのは紛れもないことだ。何かで見た古代の神殿の基壇みたいな根幹から分かれ、外側へ伸び出ていく何本もの幹の太さ。幾重にも分け開いていく夥しい枝や葉の重なり。絹絵は根もとのベンチに坐り、やがて、無性にそうしたくなり躯を横たえた。首もとからもスカートからも風が入ってとても寒いが、そうやって樹を見上げていた。

 首が坐らない赤子に戻ったような不安な気持が湧いた。何かに呼ばれた気がして、絹絵は首をねじった。見えたのは月だった。昼月が、そこまで降りてきたかのように梢に懸かっている。重なる葉群れの裾ちかく、一齢なのか二齢なのか紙ほどに薄い月が傾き、葉のさざ波にゆれている。こんにちは、挨拶がすらりと出た。月は傾ぎ、弓張りの内に薄青く影の円を抱いている。昼ともなく青い空にある、暗月を抱いた新しい月。

 躯を起してもまだ、葉擦れの音にゆすられていた。繭の中のようなこれまで覚えのない時間に自分が籠もった気がした。それと同時に目覚めに似た感じもある。どうしてか、年寄った自分がこうしてベンチで放心している、という感じがした。わずかな時の間に、時間のながい旅を経てしまったのだろうか。心細く、とても寂しい気持ちだった。

 普段の自分が戻っても、心につかえがあった。樹にコドクを貰ってしまったのかしら、と絹絵は思った。つよい畏怖だった。そして唐突に、自分は一人きりだ、と思った。親許を離れてこの地で学び暮し、今は一度縁付いた人と別れ、どことも知らない場所に踏みだそうとしている。

 月の声がして、絹絵は顔を上げた。ふいに、子供の頃に死んだ祖父の顔がありありと浮かんだ。写真で見たことはあっても普段はどうしても思い出すことのできない顔。それが太い眉の下のギョロ眼が今にも動きそうに浮かんでいる。おじいさんは何をした人ですか、と問いかけたかった。自分には何んにもわからない。解ることは、この世で一瞬すれ違った祖父と行き会えずにしまった祖母は、生きて父を生み母とめあわせ、私をこの世に送り出した。そしてどこか、月ほどの遠くへ行ってしまった。郷里の父も母も、この自分もまた同じ道をたどる。こうして見えている世も、生きた跡も分からないものになる。月の言い草はずいぶん残酷だ。まだ生き方も定まらない人間に、そんなことを気付かせる。でも、その同じ道で人はなぜ行き惑うのだろう。自分たちに訪れる失意や希望って何なのか………人はすでに失われている前途へ、足を踏みだす。

「絹絵さん」チカコの声だった。繁りの隙間に見えた窓で手を振った声の主が、サンダル下駄の音をさせて現れた。

「来てくれたの。うちのに出会ったでしょ」

 絹絵は曖昧に笑い、ここへ来たの、と聞いた。チカコが昼月を仰ぐような仕種をした。

「樹にいるのよ」チカコが謎かけのように笑った。

紅茶に誘われたが、そのまま帰ることにした。背筋に寒さがとり付いていた。チカコが車の窓から首を差し入れ、樹に登った夫の話をした。

 昨日、チカコがパートの仕事から帰ると、一太郎が洋服箪笥に入っていたのだそうだ。中にあるべき服やズボンが放り出されていた。チカコは縮こまっていた夫をタンスから引っ張りだし、「こんな狭いところにいないで、どこかせいせいした場所を探しな」と叱った。反対に頬の一つも張られるかと思ったが、一太郎は黙ってソファへ行き丸くなってしまった。そして夕方、コンビニに煙草を買いに出たまま、戻ってこなかった。近所じゅう捜したが、どこにも見えない。一太郎が戻ったのは、夜の八時過ぎだった。蜘蛛の巣のネットをかぶっていた。どこに行ってたのよ、と聞くと、とぼけ顔で窓を見た。チカコも首を回した。えっ、樹がどうかしたの、まさか………樹っ、あそこなの。樹が、葉先でガラス窓を掃いていた。

 樹の廻りなら何べんも名を呼んで歩いた。あすこのベンチをホームにしている時田さんという人に、ここで誰か見なかったと聞いたけど、その人は「ご免な、ちょっと俺外出してたもんで」と答えた。

 ………そんな話だった。やってくれますね、一太郎さん、絹絵はアクセルを踏みながら思った。話では、根元の洞から通じる、どの幹かの土管みたいな穴に這入ったらしい。冬眠中の蛇でも出くわしたらどうするのかしら、と考えると、可笑しみに恐さも加わる。

 

 一太郎は今日も樹上の人だ。木登りはもう一週間続いている。二、三日前からはおむすび持参で、チカコがパートに出て戻る九時から三時すぎまで登りづめらしい。それはあのベンチの時田さんに聞いた。粋な旦那さんだなあ、と時田さんは言う。変な話だがトイレはどうするのか心配だが、チカコは何も聞かないことにしている。だんまりの人は、好きなようにしているのが一番らしい。だいいち、洋服ダンスより樹のほうがいいに決まってる。チカコが仕事から帰るころ一度家に戻るが、気がつくとまた樹に行っている。

 樹の上が気分いいのは、昨日知った。

 樹に登るつもりなどなかった。昨日が会社の創立記念の休日だったので、係長の山田さんの病気見舞にゆき、戻ってから樹の下に行ってみた。登らないよ、あたしは覗くだけ、自分に封をして樹の洞にもぐりこんだ。それというのも、洞の内の地面に土器の欠片が敷きつめられているのを見たからだ。自分が拾ってきたものだから見逃すわけがない。欠片に押された布目やギザギザの線が何かの文字に見えた。一太郎はこれを何のつもりで敷きつめたのか。洞は樹の太さのほんの一部を占めるだけだが、それでも大人の三四人なら楽に入る広さだ。内側が茶色の塗料で固められている。弱った樹木には栄養を与え樹脂で補強する、と何かで読んだことがある。

 樹は背丈の三、四倍くらいまでがいわば基幹で、そこから何本もの幹が……それだって二抱え三抱えはある……枝分かれしている。見上げると枝分かれの場所が踊り場で、洞がさらにその先の幹にあいた穴に連なるのが見える。ヤッホーと呼んでみた。邪魔は禁物だが、好奇心には勝てない。チカコは踊り場までよじ登ってしまった。六本の幹がそこをベースに分かれ出て、そのうちの隣り合った二本に根もとの洞に繋がる穴がある。一方は抜けた筒先に空の色がみえ、他方には闇が詰まっている。

 子供でも潜りこむのだろうか、くもの巣も切れ端が顔をくすぐったくらいで意外な登りやすさだった。チカコがもぐった幹は短く、二三メートルも進めば穴の先端に出る。筒の先から首を出すと、隔たった位置の高みで口を明けている隣の幹が見える。一太郎はあっちに潜ったにちがいない。むこうの幹のほうが立派で、丈長な上に途中でくの字に上向きに曲っていく。ゆるい勾配が長居に向いていそうだ。

 長い時間を過ごしたと思ったが、後で時間を見たらほんの十分ほどだった。耳元で葉擦れの音がし、鵯らしい体の大きな鳥が二羽、次いでつがいらしい雉鳩がしばらく遊んでいった。そのうち真下に見えるベンチに、時田さんが不自由な足を引きずって帰ってきて、屈伸運動をした後オナニーするのまで見てしまった。時田さんゴメン、と思ったけど、なんだか面白くて終りまで見学させてもらった。時田さん、本当にゴメン、忘れなかったらこんど焼芋か何か差し入れするから。

 絹絵が来たのは、そろそろ降りようかと思った時だった。

 腕と脚で壁をつっ張りぎみにしていたから、いくらか疲れてもいた。そうしながら、その日見舞った係長さんのことを、考えるともなく考えていた。つくづくむくわれない人だと思う。無口で人の倍も躯を動かしているのに、表で係長と呼びながら陰で能なしのように言う人がいる。会社の若い人と奥さんの浮気の噂……出所は当の相手かららしい……に加え、今度は会社の検診で内臓の腫瘍がみつかってしまった。病院では検査の日々らしいが、見舞の人が訪れると、そのたびに自分でお茶の給仕をする。チカコもふるまいを受けた。病はもう一年と後がないという囁きも会社で聞いた。急な入院だったが、山田さんが居なくても仕事は何事もなかったように廻っていく。人がある場所に居る意味って何だろう。あながち他人事とも思えない。あれもこれもかげろうみたい、チカコは柄になく感傷的になった。

 絹絵が現れた。今は新聞紙で顔を覆いベンチで静まった時田さんを尻込みするふうに見やり、それから樹を見上げながらゆっくり一巡した。むろん、顔が出合わぬよう首は引っ込めた。絹絵が二周目に掛かっとき、おや、と思った。このひとはつい先日もここへ来た。絹絵さん、こっそり帰っちゃうの、声を掛けたら顔を赤らめた。まさか………、この人、もしかして一太郎に気が、なんちゃって。チカコは真下にさしかかった絹絵にねらいをつけ、殻つき落花生を二つぶ落してやった。

 その夜、電話で明日、つまり今日という訳だが、この楠でデートしようと伝えた。なんで、と絹絵がこちらを窺うような声を出すので、「きょう樹を見に行ったでしょ。その時、上から木の実が落ちてこなかった」と落花生の種明しをした。変だと思った、そうかあなたも登っちゃったんだ。むちゃくちゃ夫婦ね、と一も二もなく絹絵はデートに賛成した。

 風の強い日だったが、楠の踊り場はこんな日にはうってつけな陽溜りだった。一太郎はいつもの洞だろう。樹に呑みつくされコトリとも音をたてない。ジーンズ姿の絹絵が現れたので、チカコは「ヤッホー」と小声に呼んだ。絹絵は髪を押さえながら周囲をきょろきょろ見回した。隠れてないでよ、絹絵が心細げに呼びながら樹の裏側に廻っていく。

 見えた、チカコさん丸見えだよ、真下から声が吹き上がった。頭隠してかな、と思わず根元をのぞいてしまった。かまを掛けた絹絵が大声で笑った。

 始めは渋った絹絵を木に登らせてしまった。

 一太郎さんはと聞くから、人差指で唇に封をし、躯を倒して一太郎の洞をのぞいた。ふうん、この中なの、と絹絵はさも感心したふうに呟き、仲よく同じ穴に入るんだ、と言う。

「やだ、ひとをムジナにしないで」

「いいじゃない。いいコンビよ。カイロウドウケツってどういう意味だっけ。ふたり仲よく年をとることではなかった」

「絹絵さん、もの知りなんだ。でも、それっておとぎ話みたい。二三年したらどうなってるかな、あたしたち。ねえ、木の上で、あいつ何を考えてると思う。いつか穴から出てくるかしら」

「人に見つかると具合わるいけど、ここ気持ちいいな。これなら、大丈夫そう」

 だといいけど、とチカコは一太郎に隣り合ういつもの穴に入った。

「絹絵さん」

 チカコは洞の先から絹絵を呼んだ。絹絵が踊り場に躯を横たえている。幹の股に頭をおき、そこに馴染みきったような姿をしている。

「あらチカコさん、高みの見物でいいね」

「そちらこそ気持ちよさそうで」

「本を持ってくればよかった。そこから丘の畠は見えますか」

「葉っぱがじゃまで見えない」

「中に入っちゃうと逆に見えないんだ。向こうから見えても」

 無防備に寝た人を上手から見るのは、自分の裸を真上から見ているような変な気分だった。しばらくふわふわと言葉を交わした。間にチャイムが鳴り、どこかのアナウンスが、出掛けたきり家路を忘れた老人のことを告げたりした。

 おい,お前ら、男の声で首が反射的に引っこんだ。

「どこかで声がするかと思ったら。とんでもない。ご神木だぞこの樹は。子供かと思えばいい大人じゃないか」

 すみません、絹絵の謝りが聞こえた。

「ほかにも聞こえたように思ったが、独り言か。すぐ降りなさい」

 かしこまる絹絵と腰に手を当てて仰向く年寄のお見合いが見えるようで、チカコは穴の中で笑いを噛み殺した。まったくなにを考えてるのか、いい年をして、声を残して足音が去っていった。

 降りますよ、絹絵の声がした。

「まだですよ」チカコは答えた。答えながら、やりとりを聞いている一太郎のことを思った。そしてふっと、最初に彼を引っぱり上げた樹の腕を思い描いた。その腕が今も一太郎を抱えている。何かの物音がした。耳を澄ませたが、物音はそのまま絶えた。

「チカコさん」

 筒を通って絹絵の声が上がってきた。子供の頃の糸電話たいな遠いくせに耳元で囁く声だった。

「トビがきたよ。すぐ近く。すごく大きなトビ」

「トビって、空で輪を描く………」

「その鳶………羽根がすり切れている。横向きで恐い目をしている。一太郎さんの幹に止まっている」

「絹絵さん、動かないほうがいいよ。………あたしも覗いていいかな」

「覗いてみて、ちょうどそっち向きだよ」

 一太郎の幹でこっち向き、とチカコは思った。尖った嘴をもち黄色い見開いた目で真正面から睨んでいると思うと、出しかけた首が竦んだ。

「まだ、いる」

「いますよ。堂々としてる。でも、ずいぶん年とった鳶。羽がぼろぼろ」

 そんなおそろしいことを嬉しそうに言わないで、チカコはつぶやいた。鼻を樟脳のにおいがツンと抜けていった。ふいに躯が揺らいだ。壁につっ張った肘が滑りかけた。ごおっ、と音が鳴っていた。地震だ、とっさにそう思った。見上げた穴の先で、葉という葉が騒がしく揺れている。音はごうっごうっと三度四度繰り返した。

「今の、なに………地震」

「風よ、突風だった。あら、ビクついてるの。案外こわがり屋さんね。鳶も驚いて逃げた。………風の中にとびたつ羽撃きが聞こえたよ。鳶はいなくなったけど、枝だけでなく太い幹もゆっさり揺れて、樹皮って鳶色なのね、樹が羽撃いているようよ」

「ふうん」

 チカコは絹絵の言い草になんだか感心してしまった。

 もう降りましょうよ、絹絵がふたたび言った。チカコを促して洞の端をたたく音が響いてくる。チカコは生返事をした。もうじき、ここの主みたいな時田さんも戻ってきそうに思える。この前時田さんに聞いた、あの人の娑婆の頃の生き方を絹絵に言ってみたい気もしていた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/02/12

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岩崎 芳生

イワサキ ホウセイ
いわさき ほうせい 小説家 1936年 静岡市に生まれる。静岡県文化奨励賞受賞。

掲載作は、同人誌「燔」2002(平成14)年12月号に初出。

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