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争 点

 あれは何年前のことであっただろうか? 自分の記憶から遠ざけたい気持ちがあるからあえて思い出そうともしない。

 しかし、自分自身の心から分離することは、私がぼけるか私の自然の死を待つしかないのだろうか。自らの生を断つことも大袈裟すぎて…というよりも自分に負けることの悔しさが私にはまだあるからできない。

 他人にいわなければ、取りあえずはわからないから、しぜんに任せて、数十年が過ぎ去った。

 いまさら打ち明ける勇気というよりも馬鹿馬鹿しさ、あるいは、職責上から恥をさらすこと、そして賠償問題を恐れているのだろうか。

 ある一点のあやまちに、私は「点」を見るたび、数十年前の鮮明な映像が脳にうかびあがってくる。

 あやまちを犯してからの数か月間は毎夜うなされることが多かった。それは忘却の念があまりに強いがため、潜在意識に入りこんで、強迫観念がそうさせたのかもしれない。金縛りにあいつづけた気分であった。

 私の仕事の責任は時効というものがないが、時がたつことによって少しでも自分の気持ちをやわらげることができる。しかし、弱気な気分になった時期とか、「点」をいくつもたてつづけにみるとデジタル回線のごとく当時の記憶が脳裏に完璧によみがえってくる。

 ある一点の恐ろしさ、数百メートル離れたところに的があるとして、なん重もの円の中心に入らないといけない精度を要求される。それがそれた場合は重大な過失になる。鉄砲の玉も数を撃てば的を射るといわれるが、一発で正確に決めないと素人とおなじだ。

 土地の境界杭も同様で、打つまでに何回かのシミュレーションはある程度は許されるが敏速果敢におこなわないと専門家としての資質はないだろう。打ってしまったらそれでお終いといっても過言ではなかろう。

 腕のいいプロなら撤回もいいわけもしてはならない。的をはずすさまになったら、資格を剥奪されても文句はいえない。

 私は土地家屋調査士の補助者として約五年仕えたが、新人として開業二年後にあやまちを犯してしまった。

 ちょうど慣れた頃で、気がゆるんでいたのだろうか、いやそれはちがうかもしれない。ある一種のプレッシャーに押しつぶされたのかもしれない。いや、もしかしたらそれもちがうかも…?

 以前から知っている吉田さんから、自宅がある立町の土地を二つに分けたいので、測量をして、分筆登記をしてくれないかと電話で依頼された。

開業してから二年がたっていたが、都心一等地の実測は、いままで二回ほどしか経験がなかったので、少々ためらい、以前のことが脳裏をよぎった。

 それは、過去二回都心の土地を測量したときに、まったく境界杭がなく、相当な労力を必要とした記憶があったからである。また土地の価格が高いため、隣接地権者との境界線のトラブルも多く、割にあわない。また、建物が密集していて、境界点のところへ行けない場合も多いからだ。

吉田さんは田舎にも土地を持っており、一年前に三つに分ける分筆登記を頼まれ、わりと難なく終ったから、また簡単に依頼してきた。しかしこんどは少し事情がちがう。それがわかっているのだろうかと思った。

 依頼者の吉田さんは、体が大きく、顔つきもふっくらとしていて、一見おおらかにみえるが、神経質な面も田舎の土地を測ったときに感じられたので、少し不安があった。だが、私は吉田さんに借りがあった。それは、よく飲みに連れていってもらったことである。そんなこともあって断ることもできなかった。

 もっとも相手が誰であっても調査士は、正当な事由がある場合でなければ、依頼を拒んではならないのである。

 ある日下見をしてみようと吉田さんに電話で了解を求めたら、「家のまわりは静かに歩いてくれ」と告げられた。ふと、なぜだろうかと一瞬言葉がでなかった。それでは明後日行きますからよろしくお願いしますといって受話器をおいた。

 現地に補助者と二人で出向いて、三八九・○○平方メートルの前後左右の境界杭があるか見てまわろうとしたが、吉田さんは家の中にいて外に出てこなかった。関心がないのかと思った。

 狭い隣地とのあいだを体は建物の壁をこすりながら杭を手探りで見てまわった。

 向かって右側の二本はあったし、後側もあった。私の気持ちは少々楽になった。あと、左側の道路に面する一本を残すのみである。

 道路に面するところにでてきて、よごれた体のごみを払いおとし、一息いれ、しげしげと杭があるかどうか見たが、見つからなかった。そこで私は、ピンポールを持ってきて土になん度もさしてみたが、手ごたえがなく、やはり杭はなかった。

 いつのまにか左側の地権者近藤さんらしい人が庭にでていた。五十五歳ぐらいで、吉田さんと同年配に見え、きりっと締まったような精悍な顔つきをしていて目は鋭く、体は中肉で、背は一メートル九十ぐらいあるように見えた。私の身長は一メートル六十八だが、私はまるで子供のような感じがして、圧倒された。

 ふと、その人が私を見つけ、向かってきた。

「何をしているんだ?」

「あ、すみません。吉田さんの土地の…」

 私は、次の言葉が出なくて、戸惑った。

「土地が、どうした?」

 その人が、にこにこして訊いた。私は胸をなでおろした。少し落ち着いたので、もう一度こんどは、はっきりといった。

「吉田さんから土地の測量を依頼されまして、この土地のまわりの境界を見させてもらっていました。申しおくれました。町田といいます。すみませんが近藤さんですか?」

「そうだよ。そこには杭はないだろう」

 と、近藤さんがいった。私は改めて、また立会をして下さいと申し出た。

 近藤さんは前もって電話をしてきてくれといって、家の中へ入りメモを持って来た。電話番号が書いてあった。物わかりのいい人だと思い、近藤さんの顔を見て挨拶をして別れた。近藤さんの顔のほおには五センチぐらいの切り傷のあとがあった。

 私は吉田さんに境界杭の状況と近藤さんと出会ったことを報告した。吉田さんは少し頭をひねったが、まあどうせ立会をしなければいけないのだからと、物事が分かったようだった。

 手帳を取りだしてみたら、こんどの土曜日があいていた。私は立会の日を五日後の土曜日に設定し、右側の地権者と後側の人に連絡をして都合が、いいか訊いてみて下さいとお願いした。近藤さんには私からいいますと告げて帰った。

 三日後に吉田さんから電話が入った。皆その日の午前十時半に立会を了解してもらいましたからとの返事であった。

 私はお礼をいって受話器をおいた。そして、その日の夕方近藤さんに電話をし、土曜日の朝十時半に境界立会をお願いしますとつたえ、快く受け入れてもらった。

 当日は補助者と二人で二時間半ほど早く現地に出向いて街区の全体を測量し、三本の杭がたしかであるかどうか確認して見た。間違いはなかった。そして、近藤さんとの道路に面する境界を復元しようと「点」を取りあえず仮に決めて、鋲をさし込んだ。腕時計の針は十時を指していた。

右側の地権者が早目に出てこられたので、吉田さんをまじえて二本の杭を見てもらった。その人が、「あれでいいんですよ」といわれ安心した。

つづいて後側の地権者が出てこられ、二本の杭を見てもらった。「そのとおりで結構ですよ」といわれ、また一安心した。

 やがて十時半になったので、近藤さんを呼びに行った。寝不足のような顔をしていて、不機嫌そうだった。そして、「ちょっとまて、すぐ出るから」と、怒ったような口調でいわれ、少々滅入った。

 しばらくして近藤さんが道路へ出てきた。そして仮の鋲を見て

「そこじゃあないぞ、五センチぐらい吉田側の方へ入る」

 と、いった。

 そこで私は詳しく説明した。しかし、なかなか聞き入れてもらえなかった。それを聞いていた吉田さんが、興奮して、

「いや、そうじゃあない、鋲より七センチぐらい近藤さん側に入る」

 と、いいだして、喧嘩になりだした。私は二人から少し離れて見守った。しかし、収拾がつきそうにもなかった。

 そのうち近藤さんが、

「センセイお前はプロだろう、なんとかせいや」

 と、食ってかかってきた。なぐられそうになったので、私は少し身をさけた。私も元来負けずぎらいのところがあって、二時間ばかり三人が大喧嘩になった。補助者はぼうぜんとして、少し遠くのほうへ離れていた。私は頭をひねって、もう万歳して帰る仕種をした。すると一応静まった。しばらく三人とも沈黙したが、私が切り出して、もう一度詳しく説明した。

 近藤さんが、

「あんたはプロだから信用しよう」

 と、いいだして、しぶしぶ納得し、吉田さんも納得した。

 しばらくして、コンクリート杭を入れる作業に入った。二人の視線が気になり、緊張した。

 しかし、杭は入った。

 その場で間違いがないことを確認した。

 その打った現場で手打ちをし、双方納得し、私も得心して合意の印をもらった。次に分筆する点を正確に決め、吉田さんの土地へ二本杭を入れて、再度計測して作業を終えた。

 しかし、私はある不安めいた気分があった。一週間後に人の気配がないのを見計らって、現場で的を射ているか、補助者を連れて近藤さんと吉田さんとの境界の「点」を確認してみた。その点は、もうコンクリートで固まって微動だにもしない。ふと一瞬冷汗がでてきた。

 補助者に命令し、スチールテープでいくども計測してみたところ一センチ四ミリ吉田さん側にずれていることが判明した。

 私の心臓はたか鳴った。誰かコンクリートが固まる前に杭を蹴って動かしたんではないかと思った。しかし証拠がない。

 吉田さんの所は間口が、一九・六二九メートルで奥行が一九・八一八メートルであったが、いまは分筆登記をしているので、近藤さん側から九・五○○メートルなければいけない。しかし、九・四八六メートルしかなかった。

 だが、吉田さん所有の右側の土地の点と点のあいだの距離が違っているのではないかと思い、計測したら一○・二一九メートルちょうどあった。やはり近藤さんと吉田さんとの境界がずれているとわかり、ブラックホールがあれば、吸い込まれて消えてしまいたい衝動にかられた。

 私の口はしびれたようになって言葉をだすことができなかった。しかし、補助者にはプライドをすてて事情を説明しようと思ったが、口を開くことさえできないくらい一気に憔悴していた。

 補助者はなにかを感じているみたいだった。

 その時代は境界点を打つ依頼が多く、すぐに二週間、三週間とまたたくまに日が過ぎ去り、ただちに対処することを怠って倫理を踏みはずしてしまった。

 私はある時期、意を決し双方にあやまちを話し、境界点の修正をしようと思い、現場の地権者吉田さんと近藤さんに取りあえず会おうと車を走らせた。ハンドルを握った手は震え、顔からは汗が滴り、心臓の鼓動は、生きた魚を開いた時の肝が勝手に動いているようで、自分の肉体だとは感じられなかった。

 市の南部宇品の我が事務所から広島の都心一等地の立町まで車で二十分もあれば行けるが、ひどく時間が経過したような感じで、現地に着いたときにはくたくたであった。

 最初は気分がたかぶっていたので、場所を間違えたのかと思い、あたりの街区をさがしまわった。

 脳の神経が混乱していたため、ビルの谷間にポツリポツリと木造の古びた家がある街区と同じ光景に見えた。しかし最初に着いたところで間違いがなかった。

 三八九・○○平方メートルあった土地に二棟建物があって、その中間の約半分を分筆し、片方の建物がとり毀しをされていたため、錯覚が起きたのであろう。

 車から降りて更地に立っている看板を見ると売約済という貼り紙がされていた。それを見て卒倒しそうになった。

 よく見ると近藤さんの土地には、ずれている杭の点に沿って豪華なコンクリート塀が造られていた。何百万円するんだろうかと思い、気が張りさけた。真夏であるにもかかわらず寒さを感じ、心臓は不整脈を打ちつづけていた。

 法務局に永久に図面が残る。どうしよう。このことを近藤さんとこんどの新しい所有者に話したら裁判沙汰になるだろう。

 そうなると銭金の問題ではない。近藤さんと新所有者そして吉田さんが相当に反発するにきまっている。困った事件になったと嘆いた。

 看板に描かれている土地の価格は一八八・二七平方メートルで、二億八千四百七拾五万円と書いてあった。つまりその平方メートルは五十六・九五坪ちょうどで分筆したから、坪当たりの額が五百万円ということになろうか。

 私は、ミスった土地のお金は幾らになるのか、ポケットにあった計算機を手にし、なん度も指が計算機を叩いた。一九・八一八掛け○・○一四メートル、割る二は○・一三八平方メートル、掛け○・三○二五は、○、○四坪。やっとできた。掛け五百万円は二十万円。それにしても銭金の問題ではないと青ざめた。

 私は地権者吉田さんと近藤さんに気付かれぬようにその場所を去り、基町の広島法務局に駆けこんで、五十六・九五坪の土地登記簿謄本を請求した。「現在、権利の登記中につき交付できません」との答えが返ってきた。私はまた慌てた。戸惑うばかりで何をしてよいかわからなかった。

ふと同業の土地家屋調査士が、私に声をかけてきた。

「やあ町田さん久しぶりですね」

「ああ…谷元さん」

 私は空返事しかできなかった。

 谷元が何やらいったが、よく聞こえなかったので訊き返した。谷元はもう一度こんどは大きな声をかけてきた。

「下の喫茶店でコーヒーでも飲みませんか?」

「ああそうしましょうか…」

 私はこの場から素早やく去りたかったのだが、友達でもあったので、むげにも断れず空返事をして付き合う羽目に陥ってしまった。

 喫茶店は大変混雑をしていた。私は知り合いの人がいても愛想ができないので、隅っこの暗いところを見た。空いていたのでそっと行った。あたりを見ると知り合いの不動産屋がいたが、私は俯き加減にして人目を避けた。

 谷元は知っている者がいたらしく、途中で誰かと立ち話をしていた。私はそれをよいことに用ができたのでと、告げて帰ろうとしたが、ウェートレスがお冷を持って来たので、帰りづらくなった。

 私は境界のことが気になって俯き加減に考えこんでいた。ウェートレスが、何回か、私に声をかけたのであろうが、私はうわの空であった。「何になさいますか」と怒ったような口調でいわれ、やっと我に返った。

 まわりの連中の視線が私に集中している感じがした。

「コ、コーヒーを下さい」

 谷元が知り合いとの話が終ったらしくやってきた。長話はしたくない気分であった。何をいわれても支離滅裂な話になるのが目に見えていたからだ。

「ゴメン、ゴメンちょっと知り合いがいて…」

「ああ…」

 谷元が私の顔を覗きこんで訊いた。

「何か顔色が悪そうだがどこか具合いが悪いのか?」

 やはり私の顔には歴然として、隠しようのない焦燥感が表われているのだろう。すぐにでも横になって寝てしまいたい。ずっとずっと深くふかく、目が覚めなくてもいい。すっかり忘れ去りたい。

「いやちょっと寝不足で…」

「町田さん、悪いけどさっきの不動産屋の知り合いが立町の境界杭を急いで見てくれというので、またつき合って下さい…」

「え!ちょっと、それは立町のどこですか?」

「あそこの稲荷神社があるところですよ」

 谷元は、私が測った隣りの街区をいった。

 私は少し安心した。

「町田さんは、気が大きくて、よく土地の測量をこなしているからいいですね。都心の土地は難しいですね」

「ああ…」

「建物登記が一番いいですよ。境界争いというものがないから」

「ああ…」

 私の言葉は空返事になっていた。

「じゃあ、またつき合って下さい…」

「ああ…いいですよ」

 私は複雑な気分であった。いま誰とも話がしたくないから都合が良かった。だが、境界と聞いて胸が蹄めつけられる思いであった。

 私はコーヒーも手をつけず、横目も振らずにレジに向かった。

「幾らですか?」

「百五拾円です」

 小銭入れを見たが金がなかったので、五千円札をだした。

 釣をもらうのを忘れたらしく出口のロビーのほうまでウェートレスが私を追い駆けて来た。やっぱりどうかしている。

 また二階の権利係のところへ行って五十六・九五坪の土地がどうなっているか訊いてみた。係の者が機嫌よく応対してくれた。

 係の橫にあった登記運搬車から登記簿を引き出して見てくれていた。

「所有権移転登記と抵当権設定登記が司法書士を代理人として、申請されています」

 と、答えが返ってきた。案の定だと落ち込んだ。だが私はさりげなくさっとお礼をいって事務所に引き上げた。

 その日は疲れがたまっていたので早めに自宅へ帰りくつろぎたいと考えた。だが、境界点のことから逃げることはできなかった。

 所有者が変わってしまったら、話の持って行き方が困難になると一晩中思案した。家族にも心配をかけるから口にだせなかった。

 体は横たわっているが、自分が自分ではない幽体離脱したような気分で、吐きけがした。部屋の中は真っ暗であったが、寝つくことができなかった。

こ の暗闇の中へ溶けこんでしまいたい。

 闇に葬りたい。

 朝がこなければいい。

 それとも一点の明かりでも見つからないだろうかと願った。

 朝飯も食べずに事務所に出勤したらすでに女性事務員がきていた。私の顔を見て朝の挨拶をして何か私にいったが、うわの空で返事をしておいた。

 しかしまた私の顔を覗きこんで、

「目が落ちこんでいますが」

 と、いったが、何でもないよと素知らぬ振りをした。

 便意をもよおしたので、トイレのドアを開けて入ると、つるりっと滑りこけた。そのときドアの取手でしたたかに頭を打った。

 脳しんとう、おこしたのだろう、しばらくのあいだぼうっとした。

 記憶喪失になったと自分自身にいいきかせ、わぁよかったと私はなにか、ふと元気がでてきた。

 しばらくして、不審に思った事務員が、

「なにか音がしましたけど、どうされましたか」

 と、訊いた。

「滑ってころんだ」

 と、いったら、事務員が頭をかしげた。

「大丈夫ですか」

 と、訊いてきた。

 私は我に返り、むかついて事務員に食ってかかった。

 しかし、よく訊いて見るとさっきトイレを掃除したので、滑るかもしれないですよといったらしい。

 頭に手を当てて見ると血が付いた。どうやら少し切れているみたいであった。

 私はそれを理由に病院へ行ってくるからと事務員に告げて事務所をでようとした。そのとき私が過失を犯した土地の地権者吉田さんがやってきて、私に礼をいってふかぶかと頭を下げた。

 私は一瞬複雑な気分になった。

 吉田さんは思い通りの価格で売れたといい、測量代金を支払うから幾らかと訊いてきた。

 私は報酬の計算なんかしてもいなかった。

 それどころの話ではなかった。

 だが、取りあえずいっておかないと相手に何か詮索されてはいけないので、

「二十万位でしょう」

 と、いったら地権者の吉田さんはびっくりして、

「そんなに安いんですか」

 と、いった。

 私は、また正式に計算して持って行きますからといって帰ってもらった。

 吉田さんが、何か置いて帰ったと事務員がいって、寸志と書かれた封筒を私に渡した。

 中を開けて見ると一万円の商品券が十枚入っていた。

 困ったことになったもんだと思ったがどうすることもできなかった。

 こんどこられたら返すようにと、事務員にいって、都心の病院へと電車で向かった。車中どこの病院へ行こうかと迷ったが、総合病院なら何でも診てもらえるので、市民病院にした。

 受付で奥歯に物が挟まったようないい方をしたので、はっきりと症状をいって下さいといわれた。

 いいわけのようなことを考えてナースに頭を見せ、

「ドアの取手で頭を打ってどうも切れているみたいらしい。それと、どうも寝られそうにもないので、神経科と外科をお願いします」

 ナースが頭をひねっていたが、受け付けてくれた。

 側で老人が私の話を聞いていたらしく、私の方を向き何かいいたげな風であった。

 私は無意識に睨み返したが、老人は笑顔で声をかけてきた。

「あなたは今日こられてよかったですね。今日は空いてますよ…」

 よくよく話を訊いて見ると、老人は二日おきにきているらしい。

 ふと私は早くこのような老人になってしまいたいと思った。

 しばらくしてナースから、

「町田さん外科の中へ入って待っていて下さい」

 と、声がかかった。

 中に入って順番がきたので診察室の中へと入った。

 先生は女医で、怪訝そうに私の顔を覗き込んだ。

「何か体調が悪いのですか」

 と、訊いた。

 私は頭を二、三度振って後頭部を見せた。女医は髪を分けて傷を診たが、たいしたことはありませんと、一方的に薬を出しておきますからといった。そして次の神経科の方へ入って待っているようにと命じられた。

 神経科は空いていたので、「町田さん入って下さい」とすぐに声がかかった。診察室の中へ入り椅子に座った。

 年配の話の分かりやすいような医師は、しばらく私の顔を覗いて、

「目が落ちこんで、やつれているように見えるが、どうしたのか」

 と、訊いてきた。

 私はこの医者なら全部さらけだして話を聞いてもらおうと思った。

 少々ためらったのち、じっくり話そうと、最初は「どうも眠れなくて」といった。

 医者は

「仕事で疲れているのでしょう」

 と、なにかを察したみたいだった。

 医師は色々と訊いてきたが、どうも核心の境界点のことが話せなかった。

 それでは体重と血圧を計っておこうといって、私の右腕を取り空気を入れる帯(マンシェット)を巻いた。聴診器を当て何やら首をひねって、もう一回やり直した。上が百六十で下が九十だといった。

 私の普段の血圧は上が百十で下が七十ぐらいなので、相当に気分が高ぶっていると私には分かった。

 だが、医者にはこのことはいわなかった。つづいて体重計に上がった。針は五十五を指していた。一週間前に家で計った時は六十であったのにと我ながらびっくりした。

 医者は点滴をして帰れといって、抗うつ剤を出しておくからまた悪いようだったらきなさいと丁寧にいってくれた。一時間ほど点滴を受けたが、点滴の「点」という文字にもこだわりだして、境界点のことが脳裏から取れなかった。苦痛で針を抜いてしまいたい気分になった。

 帰り際にカウンセリングも別にやっているからといわれた。

 しかし核心部分がいえそうにもないので、ああそうですかと軽く返事をし、一礼をして神経科を出て病院を後にした。

 意外と早く治療が終ったので、このまま事務所に帰ろうか、どうしようかと迷った。

 後ろ髪を引かれる思いに、それは何なんだろうと思案したが訳がわからない。

 しぜんと立町の私があやまちを犯した現地に足が向いていた。普通に歩けば病院から十分ばかりで行けるが、歩道を歩く途中の横の街区が気になって、境の点をじっくりと見て歩いていた。私の横を歩いている人達は、それを見て、蔑視した態度を取っているように感じられた。

私は境界線を見て、そして次の境界線までの物体もしげしげと眺めつづけた。ふと三三歩進むと、お地蔵さんがいた。私はしばらくそれを直視して、無意識のうちに手を合わせていた。この土地に霊や蛇がいるのだろうかと、じっと私は考え込んだ。深くふかく地の世界へと足を引っぱられる感じがし、しばらくのあいだの記憶が私にはなかった。

 私はふと我に返り、あたりを見まわしたら、原爆ドームが幽かに見えた。足はドームの方へと進路が変わって行った。この痛々しい姿。ボロボロになった姿。荊(いばら)のように見えるが、嘆いているのだろうか? この姿になったのは、あれは昭和二十年八月六日朝八時十五分。

 原爆の投下で、広島市は一瞬のうちに灰燼に帰し、約二十万人が亡くなった。

 そして四年後の昭和二十四年八月六日にわが国最初の特別法「広島平和記念都市建設法」が公布され、広島市の復興が一段と加速され、この市街地の街区が決められていったのだと、改めて感慨した。

 そうだ土地は生きているのだ。霊や蛇がいるのだと思いながら立町の方へと足が向いて境界線を見ながら歩いた。境界標があるのもあれば、ない所も多く見受けられた。

 その種類はさまざまな物があった。それは石杭、コンクリート杭、金属標のプレート、金属鋲、刻み等であった。古い時期に設置された物もあれば、最近に埋設した物もあった。

 時計を覗くと針は三時半を指していた。

 昼食を摂(と)ることも忘れ、「一点」の世界へと足を踏み入れて歩きつづけていたのだ。

 いや私ではない肉体だけが彷徨っていたのかもしれない。

 私は足を早めようとしたが、足が思うように進まない。地に足を取られるような思いで歩いた。

 電車がゴトゴトと音を立てて走り去って行った。私の体は、土地と共に少し揺れた。

 戦後市街地が復興事業によって街区の区割がされ、さらに細分割をされ、場所によって十五区画ないし三十五区画ぐらいになった。

 戦後すぐといえどもメートル法によってミリ単位までの数値で区割をされている。

 私の職業はその土地の分合筆登記等とその上の建物登記業務等であるが、境界確定作業が重要な職務である。いざ土地の境界となると前後左右の地権者は、相当に神経がピリピリになり、険悪である。

 我らにその重圧が伸しかかる。逃げることもできない。それを押し退けて中立に物事を運ばなくてはいけない。

 深くふかく地に足を踏み入れ、蛇を踏んでも境を探さなくてはならない。自分が所有している枠の中に、いくつもの地番があれば目に見えない筆界線となる。つまり地番と地番を分ける線だ。

 また隣りとの境界線の筆界線もある。筆界線は一度定めると隣り合う土地を合筆しない限り消し去ることはできない。

 やっとの思いで立町の五十六・九五坪の土地へ体が運ばれてきた。見るとアスファルトが撒かれ、ローラーが前後左右に動いていた。

 私の体は土地と共に震動した。アスファルトの熱いあつい熱射が体に浴びせられた。ローラーの運転手が「危ないからどけ!どけ!」と叫んだ。私の体は少しバックして境界標を見つづけた。

 私が五十六・九五坪の土地へ入れた境界標は三本で、すべてコンクリート杭であったが、微動もしていなかった。穴を六○センチばかり掘ってジャリを敷き、コンクリート杭を入れ、下に練った生コンクリートを入れて、根巻をし、そして中ほどまで土を入れ、また生コンクリートを入れて固めているのだ。

 豪華な塀は道路から一メートルほどさがった所から境界杭の点にピッタリと沿って奥まであった。

 ローラーが境界線ぎりぎりまで動いてきた。私があやまちを犯した杭に打ち当たりそうになった。

 ふと私の脳は葛藤を起こした。杭を打ち壊してくれと。それとも左隣へ一センチ四ミリ傾けてくれと念じていた。

 ローラーを操る運転手は慣れた操作で杭に打ち当たりそうになん度もローラーを動かした。おもわず当たる、あたる、と思ったが、へまはやらなかった。

 やがて西日が射す時間になったので、事務所へ帰ろうと電停まで歩き始めた。足が重く、体がふらふらと揺れて倒れそうになったが、なんとか辿り着いた。

 電車に乗って吊革を持ったら汗が腕をとおって上半身から下半身へと流れたような気がした。ズボンとシャシを見ると湯を浴びたように濡れて湯気が立っているように感じられた。電車に乗っている人の目が私に浴びせられた。

 やっとの思いで事務所に帰ると女性事務員がいた。私の姿を見てびっくりしたような顔をして、

「大丈夫ですか」

 と、たずねた。

 私は頭を縦に振って、

「少し歩いたので汗をかいてしまった」

 といってさりげなく机の椅子に腰をかけた。

 私は改めて机を見た。この机の主である以上、一人で誰にもいえない負い目を背負って行かなければならないと。

 四、五日はまったく寝られず、ノイローゼになったかと思案した。

 そのうち仕事の忙しさで体を酷使したため、夜は体がつぶれたようになって寝ていたらしい。

 ある日私の事務所に調査士会から電話が入った。事務局長からであった。何事であろうかと、どきどきしたが、世間話が長く、各論までが長かった。

 やっと切り出した事務局長の言葉は、「あなたの事務所で補助者が要らないか」といった。私は内容を訊いて見ると、測量士の資格は持っているが、土地家屋調査士の資格も取りたいので、実務を勉強したい者がいるとのことだった。

 私は二、三日考えさせてくれといって電話を切った。

 私は人を指導する資格があるのだろうかと自問自答した。

 そして家族の者と事務所の補助者に話をしてみたら、

「所長は疲れているみたいだから」と賛成してくれた。

 面接をして真面目そうな男だったので雇うことにした。私の体は楽になったが、色々と考えることが多くなってきた。体を余り使わないかわりに神経を余計に使うはめなった。

 来る日もくる日も境界点のことが頭から離れなかった。この仕事をしている限り、脳裏に敷き詰られて、深くふかく刻まれて行く。止めることはできない。人生の終点まで、それとも無限に暗闇の中へと追い詰められて行くのであろうか。しかし私はいま敗北する訳にはいかない。深淵に臨むがごとくつづけなくてはならない。

 あの暗闇の中へと滑り込んだ日から三か月ばかりたったであろうか、五十六・九五坪の土地の左隣り、近藤さんの隣りから私の事務所へ電話が入ったと、夕方事務員から聞いた。私は事務員に、もう一度名前を確かめた。高山さんだといった。これは間違いなくあそこだとわかったので動悸がしてきた。バレしてしまうことにはならないだろうかと、ふと頭の中に何かがよぎった。

 事務員が、言った。

「電話をすぐ下さいということでした」

「まて、いま帰ったばかりじゃないか」

 と、怒鳴った。

 そのうち補助者二人が帰って来た。

 今日は残業しないと内業が消化できそうにもなかった。時計を見ると七時をまわっていたので、どうしようかと思案した。落ち着かないので、三人とも帰らせた。

 私は一時間ばかり、ぼうっとして、なになんだろうかと考え倦んだ。しかしここにいても埒があかないので私は都心の歓楽の巷、飲食街流川へ出て、行き付けの店に入り自棄酒を食らった。

 スタンドのママが町田さんえらく荒れているみたいだけど、どうしたのかと訊いてきたが、ぶっきらぼうになんでもないよといって店を出て、家に帰ってきた。時計を見ると一時をまわっていた。テーブルの上にメモがあった。高山さんから電話下さいと書いてあった。

 私は三時間ばかり寝ることができなかったが、いつのまにか寝ていたようだ。朝八時頃まで寝てしまったので、朝食も摂らずに事務所へと急いだ。皆もうすでにきていて、ゆったりしているように見えたので腹が立ってきた。

 私は荒々しく事務所の中をうろついて受話器をぶっきらぼうに取りダイヤルをまわした。奥さんが出て、「ちょっと待って下さい」といい、二分ぐらい待たされてイライラしていた。

 高山さんが電話にでてきた。町田さんうちの土地がといって咳きこんでいるみたいだった。しばらくして、

「うちの土地の裏の電車側の土地の人がビルを建てるんで、境界立会いをして欲しいといっている。すまんが町田さんが、うちの隣りの近藤さんの隣りを測量されているから、事情がよく判っていると思うので、境界杭を入れて測量してもらえませんか」

 といった。

 私は一瞬言葉が出なかった。

 なん回か咳き込んだ。私の言葉が出ないので、高山さんが私に、

「忙しくてできませんか」

 といった。「いえいえ」と返事ができた。

「段取りを見て日にちを決めますので、また電話をします」

 といって切った。

 事務所の三人の視線が私に向けられていた。

 今日一日は取りあえず残業をしてでも片付けて方策を検討しようと私は思案した。しばらくのあいだ心臓がたか鳴っていた。いろいろとどうするか自分で検討してみたが、当たり前のことをするしかないと結論がでた。

 皆、残業をしてくれて九時頃一段落したので、三人を帰らせた。

 私は神棚に上げる酒があったから、一杯引っかけたら少々楽になった。高山さんに電話をした。明後日の土曜日が都合が良いので先方に訊いてみて下さい、といって受話器をおいた。

 高山さんから朝十時に電話が入った。明日午前十時にお願いしますとのことである。

 いいですよと開きなおっていって、電話を切った。

 その夜はすぐに眠りにつくことができなかったが、いつの間にか夜が明けた。食事をさっさとすませ、事務所に向かった。八時半に着いた。皆、すでにきていた。三か月前の資料は準備しておいたが、もう一度袋から取り出して、地権者名となん人集まるか数えてみた。六名は最低集まるだろうと踏んだ。

 やがて九時半になった。補助者二名と私の三人が現地へと車を走らせた。着いてみるともうすでに七、八人が集まっていた。

 高山さんが私に近づいてきてよろしくお願いしますといって、まわりの地権者を紹介してくれた。

 私は名刺を交換した。

 電車側のビルを建てる証券会社の重役が私に対してふかぶかと挨拶をした。

 このあたりの地権者は、近藤さんを除いてほとんどの方が協力的であった。

 しかし、近藤さんにはさすがにくたびれた。他にも二人の地権者が少し筆界線のことで揉ましたが、なんとか午後の四時頃には杭を入れて測量を終えることができた。東京証券会社が頼んでいた園田土地家屋調査士が、てきぱきとやってくれたから難なく済んだのかもしれない。

 だが、私の心には暗いものがありつづけた。なぜならば、五十六・九五坪の土地と高山さんの土地との点間距離が一センチ四ミリ長いことには変わりはないからだ。永遠に引きずるのだろうか。

 だが、私はあのでき事以来、長いこと鬱(うつ)で、ノイローゼになっていたが、肝がすわり、最大限の努力をしてきた。毎日疲れることには変わりはない。この仕事をつづけて行くならば…。

 あれから二十年が過ぎ去った。私の心の中には誰にもいえない秘密を持ちつづけた。時効というものがない。もうくたびれた。ここらで現役を引退したい。第二の人生があるのかないのかわからないが…。

 当時の補助者は二名とも独立した。いまは若い二十代の補助者三名と事務員がいる。

 今年もあと、十日ばかりで、大晦日を迎えようとした牡丹雪の降る寒い閑散とした日の午後四時半に電話のベルが鳴った。事務員がでて私に代わった。相手は安友生命保険会社の総務部長からだった。

 立町の五十六・九五坪の土地と隣りの近藤さんの土地を買収したとのことであった。私の心臓はたか鳴った。

 地の神か仏か、それともあの時の地蔵か蛇が私に試練を与えていたのだろうか。それとも味方をしてくれたのだろうか。それとも巻きついていたモノがほどけたのだろうか。運よく、合筆登記をして実測をしてくれという依頼であった。私はすぐに一人で現地に走り、しげしげと様子を見た。

 高山さんも地上げを喰って、もうすでにそこには証券会社のビルが建っていた。

 その元高山さんの所の杭二本と五十六・九五坪の向かって右側の杭二本は雪で埋もれていたが、微動だもせず残っていた。

 要らない杭は抜いた。その下には蝮(マムシ)がとぐろを巻いてぐるぐる回転している。そのうちはちきれんばかりになった。私は目が回りそうだ。いつの間にか私の体に巻きついて、頭の方まで登って来た。私は驚きで卒倒した。

 それから数日して頼まれたことは全部終わらせた。

 その最終日、牡丹雪が降っていたが、一人で現場に出向いた。

 永年の鬱積からやっと解放されて思わず全身の力が抜け、私はその場にへたばってしまった。

 アーアーアー

 私の体は、その雪に埋もれ、地から抜けでることができなくしばらくのあいだ、無意識だったようだ。しかし、一点の世界の大地から、いままで私が注ぎ込んだ活力よりも遥かなエネルギーの源が加えられた気がし、安らかに息が途絶えた。

 あたりはしんしんとして、街燈の幽かなあかりが、雪の舞う光景を照らし、その中にビルが林立していた。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2016/06/01

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中山 孝太郎

ナカヤマ コウタロウ
なかやま こうたろう 作家 1949年 広島に生まれる。コスモス文学新人賞受賞。

掲載作は「安藝文學」(2015〈平成27〉年)84号に初出。

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