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民撰議院設立建白書<1874年>

 某等(それがしら)別紙奉建言(けんげんしたてまつり)候次第、平生ノ持論ニシテ、某等在官中(しばしば)及建言(けんげんにおよび)侯者モ有之(これあり)候処、欧米同盟各国へ大使御派出ノ上、実地ノ景況ヲモ御目撃ニ相成(あひなり)其上(そのうへ)事宜斟酌施設可相成(あひなるべし)トノ御評議モ有之(これあり)。然ルニ最早(もはや)大使御帰朝以来既ニ数月ヲ(けみ)侯得共(さふらへども)、何等ノ御施設モ拝承不仕(つかまつらず)、昨今民心洶々(きようきよう)上下相疑(あひうたがひ)(ややも)スレバ土崩瓦解ノ兆無之(これなし)トモ難申(まうしがたき)勢ニ立至(たちいたり)侯義、畢竟天下輿論公議ノ壅塞(ようそく)スル故卜実以(じつもつて)残念ノ(いたり)奉存(ぞんじたてまつり)侯。此段宜敷御評議ヲ可被遂(とげらるべく)侯也。

   明治七年第一月十七日

    高智県貫属士族 古沢 迂郎

    高智県貫属士族 岡本健三郎

    名東県貫属士族 小室 信夫

    敦賀県貫属士族 由利 公正

    佐賀県貫属士族 江藤 新平

    高智県貫属士族 板垣 退助

    東京府貫属士族 後藤象次郎

    佐賀県貫属士族 副島 種臣

  左 院 御中

 

臣等(しんら)伏シテ方今(はうこん)政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、(かみ)帝室ニ在ラズ、(しも)人民ニ在ラズ、(しかして)(ひとり)有司(=維新政府顕官)ニ帰ス。(それ)有司、上帝室ヲ尊ブト(いは)ザルニハ(あら)ズ、(しかして)帝室漸(やうや)ク其尊栄ヲ失フ、下人民ヲ保ツト(いは)ザルニハ非ラズ、(しかして)政令百端、朝出暮改、(まつりごと)情実ニ成リ、賞罰愛憎ニ出ヅ、言路壅蔽(ようへい)、困苦(つぐ)ルナシ。夫如是(それかくのごとく)ニシテ天下ノ治安ナラン事ヲ(ほつ)ス、三尺ノ童子モ猶其不可ナルヲ知ル。因仍(いんぢやう)改メズ、(おそら)クハ国家土崩ノ勢ヲ致サン。臣等愛国ノ情(おのづか)()(あた)ハズ、乃チ之ヲ振救スルノ道ヲ講求スルニ、唯天下ノ公議ヲ張ルニ在ル而已(のみ)。天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル而已。(すなはち)有司ノ(けん)限ル所アツテ、(しかして)上下(その)安全幸福ヲ(うく)ル者アラン。(こふ)、遂ニ之ヲ陳ゼン。

 (それ)人民、政府ニ対シテ租税ヲ払フノ義務アル者ハ、(すなは)チ其政府ノ事ヲ与知可否スルノ権理ヲ有ス。(これ)天下ノ通論ニシテ、(また)喋々(てふてふ)臣等ノ之ヲ贅言(ぜいげん)スルヲ(また)ザル者ナリ。故ニ臣等(ひそか)ニ願フ、有司亦是(またこの)大理ニ抗抵セザラン事ヲ。今民撰議院ヲ(たつ)ルノ議ヲ(こば)ム者(いはく)我民(わがたみ)不学無智、(いま)ダ開明ノ域ニ進マズ、故〔ニ〕今日民撰議院ヲ立ル尚応(なほま)サニ早カル可シト。臣等以(おもへ)ラク、(もし)果シテ真ニ其謂フ所ノ如キ()(すなはち)之ヲシテ学(かつ)(しかして)急ニ開明ノ域ニ進マシムルノ道、(すなはち)民撰議院ヲ立ルニ在リ。何トナレバ(すなはち)今日我人民ヲシテ学且智ニ開明ノ域ニ進マシメントス、(まづ)(その)通義権理ヲ保護セシメ、之ヲシテ自尊自重、天下ト憂楽ヲ共ニスルノ気象ヲ起サシメズンバアル可カラズ。自尊自重、天下ト憂楽ヲ共ニスルノ気象ヲ起サシメントスルハ、之ヲシテ天下ノ事ニ(あづか)ラシムルニ在リ。如是(かくのごとく)シテ、人民(その)固陋(ころう)(やすん)ジ、不学無智自ラ甘ンズル者未ダ(これ)有ラザルナリ。而シテ今其(みづか)ラ学且智ニシテ(みづから)其開明ノ域ニ入ルヲ待ツ。是殆ド百年河清ヲ待ツノ(たぐひ)ナリ。甚シキハ則、今(には)カニ議院ヲ立ルハ是レ天下ノ愚ヲ集ムルニ過ザルノミト(いふ)ニ至ル。(ああ)(なんぞ)自傲(じがう)ノ太(はなはだ)シク、(しかして)其人民ヲ視ルノ蔑如(べつじよ)タルヤ。有司中智巧(もとよ)り人ニ過グル者アラン。然レ共(いづく)ンゾ学問有識ノ人世復(よよまた)諸人ニ過グル者アラザルヲ知ランヤ。(けだ)シ天下ノ人如是(かくのごとく)蔑視ス可ラザルナリ。()()タ蔑視ス可キ者トセバ、有司(また)其中ノ一人ナラズヤ。然ラバ(すなはち)均シク是不学無識ナリ。僅々有司ノ専裁ト人民ノ輿論公議ヲ張ルト、其賢愚不肖果シテ如何(いかん)ゾヤ。臣等(おも)フ、有司ノ智(また)之ヲ維新以前ニ視ル、必ラズ其(すすみ)シ者アラン。何トナレバ(すなはち)、人間ノ智識ナル者ハ必ラズ其之(そのこれ)ヲ用ルニ従テ進ム者ナレバナリ。故ニ曰ク、民撰議院ヲ立ツ、是即チ人民ヲシテ学且智ニ、而シテ急ニ開明ノ域ニ進マシムルノ道也。

 且夫(かつそれ)政府ノ職、其宜シク奉ジテ以テ目的トナス可キ者、人民ヲシテ進歩スルヲ得セシムルニ在り。故ニ草昧(さうまい)ノ世、野蛮ノ俗、其民(そのたみ)勇猛暴悍、而シテ従フ所ヲ知ラズ。是時ニ(あた)ツテ、政府ノ職(もとよ)リ之ヲシテ従フ所ヲ知ラシムルニ在リ。今我国既ニ草昧(さうまい)ニ非ラズ、而シテ我人民ノ従馴(じゆうじゆん)ナル者既ニ過甚(くわじん)トス。然ラバ則、今日我政府ノ宜シク以テ其目的トナス可キ者、則民撰議院ヲ立テ、我人民ヲシテ其敢為(かんゐ)ノ気ヲ起シ、天下ヲ分任スルノ義務ヲ弁知シ、天下ノ事ニ参与シ得セシムルニ在リ。則闔国(がふこく)ノ人皆同心ナリ。

 (それ)政府ノ強キ者、何ヲ以テ之ヲ致スヤ。天下人民皆同心ナレバ也。臣等必ラズ遠ク旧事ヲ引イテ之ヲ証セズ、(しばらく)昨十月政府ノ変革ニ就イテ之ヲ験ス。岌々乎(きふきふこ)其危哉(それあやふいかな)。我政府ノ孤立スルヤ何ゾヤ。昨十月政府ノ変革、天下人民ノ之ガ為メニ喜戚(きせき)セシ者(いくばく)カアル。(ただ)之ガ為メニ喜戚セザルノミナラズ、天下人民ノ茫トシテ之ヲ知ラザル者十ニシテ八九ニ居ル。唯兵隊ノ解散ニ驚ク而已(のみ)。今民撰議院ヲ(たつ)ルハ(すなはち)政府人民ノ間、情実融通、(しかして)相共(あひとも)(がつし)テ一体トナリ、国始メテ可以強(もつてつよかるべく)、政府始メテ可以強(もつてつよかるべ)キナリ。

 臣等既ニ天下ノ大理ニ就イテ之ヲ究メ、我国今日ノ勢ニ就イテ之ヲ実ニシ、政府ノ職ニ就イテ之ヲ論ジ、(および)昨十月政府ノ変革ニ就イテ之ヲ験ス。(しかして)臣等ノ自ラ臣等ノ説ヲ信ズルコト(いよいよ)篤ク、切ニ謂フ、今日天下ヲ維持振起スルノ道、唯民撰議院ヲ(たて)而シテ天下ノ公議ヲ張ルニ在ル而已(のみ)。其方法等ノ議ノ如キ、臣等必ラズ之ヲ(ここ)ニ言ハズ。(けだ)シ十数枚紙ノ能ク之ヲ尽ス者ニアラザレバ也。但臣等(ひそか)ニ聞ク、今日有司持重(じちよう)ノ説ニ()リ、事多ク因循ヲ務メ、世ノ改革ヲ言フ者ヲ(もく)シテ軽々進歩トシ、而シテ之ヲ拒ムニ(なほ)早キノ二字ヲ以テスト。臣等(こふ)亦弁之(またこれをべん)ゼン。

 (それ)軽々進歩卜云フ者、(もとよ)リ臣等ノ所不解(かいせざるところ)(もし)果シテ(こと)倉猝(さうそつ)(いづ)ル者ヲ以テ軽々進歩トスル()、民撰議院ナル者ハ以テ事ヲ鄭重ニスル所ノ者ナリ。各省不和(しかして)変更ノ際、事本末緩急ノ序ヲ失シ、彼此(ひし)ノ施設相視ザル者ヲ以テ軽々進歩トスル()、是国ニ定律ナク、有司任意放行スレバナリ。是二者アラバ、則(まさ)(それ)民撰議院ノ(たた)ズンバアル可カラザルノ所以(ゆゑん)ヲ証スルヲ見ルノミ。(それ)進歩ナル者ハ天下ノ至美ナリ、事々物々進歩セズンバアル可カラズ。然ラバ則、有司必ラズ進歩ノ二字ヲ罪スル能ハズ。其罪スル所、必ラズ軽々ノ二字ニ(とどま)ラン。軽々ノ二字、民撰議院卜(かつ)テ相関渉セザル也。

 尚早キノ二字ノ民撰議院ヲ立ルニ於ケル、臣等(ただ)ニ之ヲ解セザル而已(のみ)ナラズ、臣等ノ(けん)正ニ之卜相反ス。如何(いかん)トナレバ、今日民撰議院ヲ立ツモ、尚(おそら)クハ歳月ノ久シキヲ待チ而後(しかしてのち)始メテ其十分完備ヲ期スルニ至ラン。故ニ臣等一日モ唯其立ツコトノ(おそ)カランコトヲ(おそ)ル。故ニ(いふ)、臣等唯其反対ヲ見ル而已(のみ)

 有司ノ説又謂フ、欧米各国今日ノ議院ナル者ハ一朝一夕ニ設立セシノ議院ニ非ラズ、其進歩ノ(ぜん)ヲ以テ之ヲ致セシ者ノミ故、我今日(にはか)ニ之ヲ模スルヲ得ズト。夫レ進歩ノ漸ヲ以テ之ヲ致セシ者、(あに)独リ議院ノミナランヤ、凡百学問技術機械皆然ルナリ。(しかる)ニ彼レ数百年ノ久シキヲ積ンデ之ヲ致セシ者ハ、(けだ)シ前ニ成規ナク皆自ラ之ヲ経験発明セシナレバナリ。今我其成規ヲ(えら)ンデ之ヲ取ラバ、(なんぞ)企テ及ブ可カラザランヤ。(もし)我自ラ蒸気ノ理ヲ発明スルヲ待チ然後(しかるのち)我始メテ蒸気機械ヲ用ルヲ得可ク、電気ノ理ヲ発明スルヲ待チ然後我始メテ電信ノ線ヲ架スルヲ得可キトスル()、政府ハ(まさ)ニ手ヲ下スノ事ナカル可シ。

 臣等既ニ(すで)ニ今日我国民撰議院ヲ立テズンバアル可カラザルノ所以(ゆゑん)(および)今日我国人民進歩ノ度()(この)議院ヲ立ルニ(たふ)ルコトヲ弁論スル者ハ、則有司ノ之ヲ拒ム者ヲシテ口ニ()スル所ナカラシメントスルニハ非ラズ。斯議院ヲ(たて)、天下ノ公論ヲ伸張シ、人民ノ通義権理ヲ立テ、天下ノ元気ヲ鼓舞シ、以テ上下親近シ、君臣相愛シ、我帝国ヲ維持振起シ、幸福安全ヲ保護センコトヲ(ほつ)シテ也。(こふ)(さいはひ)ニ之ヲ択ビ(たまは)ンコトヲ。

 

〔国立公文書館蔵「諸建白書 明治七年従一月至四月」〕

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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愛国公党の議会開設建議

アイコクコウトウ ノ ギカイカイセツケンギ


1874(明治7)年1月、板垣退助ら八名が「愛国公党」の決議に基づき左院に提出した建白。原文に標題はない。草案は、英国留学帰りの古澤迂郎(滋)とみられる。国会開設を、人民の「通義権利」と租税共議権に根拠を求め、閉塞状況の明治国家を救う道は、新政府の有司独善専制を改めて速やかに「民撰」議院を設立することにあると主張。この建白書は、国政参加権をさしあたり維新の功臣を出した「士族および豪家の農商」に限定するような明白な限界を抱え持つ思想上の制約をもつものの、「日新真事誌」(明治7年1月18日)に掲載されることにより世論を大いに刺戟、自由民権運動の歴史的原点となった。

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